心筋梗塞生還記(5)

 心筋梗塞生還記(4)から続く。

2006年5月13日土曜日
 雨。ひんやりしている。廊下を娘さんと歩いている母親が「今日は寒いねえ。そんなんじゃ寒くない」とパジャマでいることを心配して声をかけていた。僕も同じかっこうをしているので、「少し」と答えたくなったが、その娘さんはうつむいたまま答えない。
 昨日、そして今朝、今いる病棟と前にいた病棟を繋ぐ廊下を往復してみた。ここに行くには3階なので階段を使わないといけない。昨日は、慎重に一回目は、上りだけエレベータ、二回目は下りだけエレベータを使ったが、今日は上り下りとも歩いた。前にも書いた国道とJRをまたぐ長い廊下は片道100メートルあるから(車椅子を押している看護師さんにたずねた)、往復200メートルということになる。これだけの距離だが今朝、時間を計ったら15分かかった。ゆっくり歩くからで、誰もが後から抜かしていく。患者さんや家族の方と挨拶をしたり、言葉を交わす。母親に連れられ点滴をしたまま歩いている小さな子どもが手を振ってくれる。手を振り返す。この頃、僕は笑えるようになった、とふと思った。エレベータの中で見舞い帰りらしい年輩の女性と話す。病院の外に出るのに三階まで一度上がらないといけないのが不便だといわれる。「これからリハビリのために廊下を歩くのです」「え? どこも悪くないのに」「いえ、心臓が」
 昨日、父に電話をした。ずっと留守だったので心配してしまったが、夕方ようやく繋がった。退院できそうだという話をすると喜んでくれた。退院の日が決まったら教えてほしい、会いたいから、という。バイパス手術のことはいわなかった。
 昨日の担当は神田さん。彼女と同じ看護師一年目の久保田君(救急病棟)は、安定している人しか持たせてもらえない、といってたというと、ちょっとふくれて、「私はそんなことはない。今日は8床担当で、処置が多く、大変よ。明日休みだから終わったら実家に帰ろっ」と。独特の人懐っこさのある彼女は、技術と知識が伴えば、優れた看護師に成長することだろう。「今日は〔運動したけど〕疲れなかったよ」といったら、返事はこうだった。「きっと私がいるからよ」。
 今朝、朝、部屋を出たら、杉山さんが声をかけてくれた。岡田先生のムンテラを受けたこと、バイパス手術を受けることになるかもしれない、ということを話した。「バイパスしたら、最初あっち〔CCU〕にいてこっち〔循環器病棟〕に帰ってくることになるよ」「それは楽しみ(何がだ?)」。軽口をたたいていると思われるかもしれないが、バイパス手術を受けることは怖いので、深刻になってしまっているこんなやりとりでもほっとする。

 見舞いにきた友人と最初に入っていた救急病棟の5階まで「遠征」した(といっても、廊下を渡り切れば後はエレベータに乗ればいいだけなのだが)。僕の姿を最初に久保田君が見つけてくれた。すぐにわかってくれたようで、「北原さんこられてますよ」と教えてくれる。コンピュータに向かっていた北原さんもすぐに廊下に出てこられた。
「挨拶しようと思ったのですけど、急に〔一般病棟に〕部屋を変わることになってしまって」
前の夜、遅くまで北原さんと話しこんだことは前に書いた。
「私も、次の日、ああ、もう部屋、変わられたんだ、と思ってました」
「検査結果次第で来週にでも退院できそうです」
「それはよかった」
「でもね、バイパス手術を受けないといけないかもしれないのです。僕のは6番だったのですけど、その手前にも閉塞しているところがあって」
「すると〔ステントを入れても〕5番にかかちゃうわけね」
 わからない話かもしれないが、僕はこれだけですべて了解してもらえて、なんといえばいいのだろう、嬉しかった。
 北原さんと別れてから、救急病棟から一度も見なかった雨に煙る外の景色をしばらく眺めていた。

2006年5月14日日曜日
 今日は書きたいことがたくさんあるのに、明日のカテーテル検査のことを思うと、不安であまり書けないかもしれない。でも平時はまだ寝るには早すぎる時間なので、よけいなことを考えないために少しだけ書いてみる。
 ここまで書いたところで、中西さんがvitalをとりに。「あのね、この間中西さんの夢を見たよ」「え? どんな夢」…こんな他愛もない話をしていると安心した。明日、昼からある検査の担当が(翌日の朝に安静が解かれるまでにかなり処置の回数が多い)中西さんだったらいいのに、と思ってしまった。日勤の担当の杉山さんが「明日の担当は私が決めた」といわれたこと。「教えてほしい?」「いや、楽しみにするし」といったもののたずねたらよかったと後悔頻り。8時頃に薬を塗りにきてくれた神田さんが、「明日は私、カテ〔心臓カテーテル〕担当っていわれてるんです」という。カテーテルの検査は僕だけではなく、杉山さんが「ベテランの人」とヒントを出されたので、さらに考えこんでしまった。今、気づいたが、検査そのものを不安に思っているのではないのかもしれない。誰であれこの病棟の人とは大丈夫と思っていたところに中西さんがこられ、帰る時、力強く(と僕は感じた)「明日は遅出できます」と。準夜勤の中西さんが明日の担当のはずはない、と実はがっかりしていたのである。さてどうなるか。ともあれ安心したので深夜勤の杉山さんが(日勤の後、一度帰って出勤)「見に行くわ」といってられたが、この三日くらいそうであるように深く眠っていることだろう。
「がんばらないで
たまには人にすべて任せる勇気を出して 」
 宮沢和史が作った歌の一節(「愛(かな)よ 愛よ」)。今はこんな気持ちである。
 朝、杉山さんが清拭にこられる。その後、「今、やっとこうか」と検査に備えての剃毛。不意打ちをくらって動揺してしまった。
 夕方、病棟を少し歩こうと思ってエレベータの方に向かったら、救急病棟の久保田君に会った。僕は偶然かと思ったが、そうではなくて勤務の後に、僕に会いにきてくれたのである。前日、救急病棟を訪ねたら、久保田君が見つけてくれて、北原さんと話をしたことは前に書いた。「〔北原さんだけではなく〕僕も話したかった」という彼と、妻を交えて三人で話をした。「北原さんがあんなふうに長く話しているのを見て驚きました」という久保田君の感想は、ICU、救急病棟の忙しさを物語るだろう。長くといっても、立ち話でほんの数分だったのだが。今の病棟に移る前の夜に、北原さんと話しこんだことなどにわかには信じられないかもしれない。

2006年5月15日 月曜日
「ベテランの人」は主任の中西看護師だった。検査の朝、夜勤明けの杉山さんが顔を出してくれた。「覚悟できた?」と。検査は2時からだった。点滴をして、後はストレッチャーに移るだけという状態で待つことになった。遅出の中西さんが部屋にきてくれた。中西さんが担当でなかったことは残念だったが、検査の前も終わってからも時々顔を出してくれたのはうれしかった。
 前日から体調を整え、昼食を抜く、また検査直前にセルシン(精神安定剤)を飲むなど万全の態勢で今回検査に臨んだが、これを思うと、救急車で運ばれての緊急のオペが、いかに大変なものだったかわかる。オペ中も苦しくて、このまま死ぬかもしれない、と思っていたが、ある意味、覚悟ができていたので、落ち着いていたのかもしれない。というのも、岡田医師とこんなやりとりを処置室で交わしたのである。
「前の時のことは覚えてないでしょう?」
「そうでもないのです」
「こんなところ、前にもきたかな、といわれる人は多いのです」
 たしかに今回は前よりはスタッフの顔がはっきり見える。前は時々を様子を聞く看護師さんの目とまゆげしか覚えていない。
「でも、明らかに今日の方が緊張してますねえ」
と先生に笑われる。
 検査、処置の手順がある程度わかっているからそれがかえってよけいに緊張を増すのかもしれない。
 最初に麻酔の注射を打たれる。その後鼠蹊部からカテーテルを挿入していく。少し痛いと訴えると、「ここは神経があるところですからね、ううむ、どうしようかな」(麻酔の注射量を増やそうとされたのか不明)といわれたが、そのまま続行。後は問題なく順調に検査は進んだ。結果がよかったことは、検査中も先生の様子からわかった。「おお、normalだ、完璧だ」。ステントを留置したところのことであろう。必要があれば風船で治療するという話だったが、治療の必要はなかった。検査の最後の方に「今から身体が熱くなります」といわれ、次の瞬間、体中が一瞬、熱くなった。これが最初の処置の時、バルーンを膨らんだ時に感じたと思った感覚かもしれない。血管を拡張する薬を入れた、と近くにいた若い医師に教えてもらった。
 検査後の止血も今回はそれほど痛くなかった。カテーテルを抜く時、若干の痛みがあったのと、その後20分押さえつけられたが、医師(女性)の力はそれほど強くなく、救急車で運ばれた日の止血の痛みにはるかに及ばなかった。
 三時間で安静は解かれた。その時、点滴が終わっていなくて実際に動けるようになったのはもう少し後になったのだが。6時過ぎ、岡田医師が回診。止血がそれほど今回は痛くなかったといったら「そりゃそうだ。今回は偵察機。最初の時は戦闘機。それだけの違いがある」。カテーテルの太さが今回は4Fr(フレ)という細いものだったということである。「偵察機を飛ばして必要があれば(敵を発見すれば)、戦闘機を飛ばさなければならなかったということですね」「その通りです」。前回の処置がうまくいっていたことが本当に嬉しそうに見えた。
 先生の説明によれば(僕は同席できなかった)、前回処置したところはうまくいっているが、なお50%狭窄の個所が2つある。とりあえず半年後検査入院をして、その時の結果次第でバイバス手術を勧めることになるかもしれないということだった。完治どころではないわけである。しかし、20日に退院が決まったことは嬉しい。デスクワークは完全OKという話は前回聞いたが、それ以外の仕事については聞けてない。

2006年5月16日火曜日
 思いがけずよく眠れず、1時頃にまわってきた清水さんに時間をたずねたのを覚えている。「次は3時にきますが、起こすことになるようだったらやめときますが」「たぶん、その頃には寝てると思うけど、かりに目が覚めても起した、と思わないで」朝、清水さんがvitalにこられる(お迎え、と聞いたが聞き間違いだったろうか)。よく寝ていたとのこと。前日、検査後熱が出たので清水さんが氷枕を持ってきた折りに、「今日は私、夜〔勤〕なんで、朝、お迎えにきます」といっていたのは、このことだったわけである。少し話して帰られる。
 今日は朝、抗生剤の点滴。その後、延期になっていたリハビリの10ステージに挑戦した。階段を一階分2往復。前後にvital。部屋に戻ったら少し息が切れたが、苦しくはなかった。今日の担当は中西さんだった。「〔階段まで〕近道してナースステーションの中を通ろうか」といわれるのでついていったら、いつも外からしか見ないナースステーションの中の通路を歩くことになってどぎまぎした。看護師さんたちが一斉に驚きの表情で僕たちを見た。もちろん、帰りも。そういえば、昨日の夜、9時頃に「今終わりました」と中西さんが部屋にこられた。少し話していたらそこへ準夜の市川さんがvitalを計りに入ってこようとされた。ところが、彼女は中西さんを見て、「あ、後からにするわ」と帰ってしまわれた。大丈夫なのかな、と僕は一瞬心配したけれど、検査の結果や、雑誌の原稿依頼がきたというような仕事の話などをした。遅い時間に話していると、いろいろなことが不安でたまらなかった時に、中西さんに胸につかえていた思いを僕が涙ながらに話し、その話を涙を聞いてくれた夜のことを思い出した。
 退院が20日に決まった。

2006年5月17日水曜日
 今日は、午前に内蔵のエコー。前夜からの絶食飲が厳しかった。検査そのものは経験のある方も多いかと思うが、やたら息を吸え、吐け、お腹を膨らませよ、そこで止めよ、の連続で、それだけが少し苦しい。検査技師さんも同じようにしながら検査したら、「はい、楽にして」というタイミングがより的確にわかるかもしれない。この検査に関連してなのか、月曜の検査の一環なのか朝(5時半)に久しぶりの採血。肝臓の数値が下がっていればいいのに。前にも書いたが、こちらにきてから「くすぶっている」くらいに改善しているようであるが。車室で検査室まで行く。長く待つことになるだろうと思って、須賀敦子のエッセイを持っていったのは正解だった。
 部屋に帰ってきたのが11時前。ようやく遅い昼食。すぐに昼食になることがわかっていたが、バナナ以外は空腹だったので食べてしまい、昼食の時、後悔することになった。12時にきた昼食は当然のことながらあまり食べられなかった。
 昼から入浴を許可された。家庭にあるのと同じ浴室がある。曜日によって男女が違い、おそらく勝手には入れないのだろう。次は金曜日に入れる。シャワーを飛び越していきなりお風呂に入っていいといわれ、少し困惑した。中西さんはシャワーの初回は近くで見張っているといってられたのに、お風呂なのに、今日の担当者は「気分が悪くなったら、このボタンを押してください」といって帰ってしまった。待ってもらっていると思ったらそれはそれであせることになるかもしれないから、それでいいわけだが、「一月ぶりなので緊張する」というような間接的ないい方は通用しなかった。帰ってから、薬を塗ってもらったが、背中だけでいいといってしまった(考えたら、昨日は中西さんに清拭後全身薬を塗ってもらった)。後は、自分で何とか、といったものの入浴自体も、入浴後、薬を塗ることもひどくエネルギーが要って、疲れてしまった。今日は階段二往復は無理だろう。髪の毛を洗ったり、久しぶりなので気持ちがよかったので(8年ぶりの感覚かもしれない)少し時間をかけすぎたのかもしれない。こんなことも退院前にリハーサルしておく必要がある。
 この病室はナースステーションに近い場所にある。後一週間もいれば(いないけど)看護師さんの声も判別できるようになるかもしれない。特徴のある人なら今でもわかる。今日はあまり話せてないと思い(退院したらこれからは昼間は一人なので、こんなふうになるのだろう、看護師さんたちと話せるのは今はありがたい)、耳をすませば杉山看護師の声がした。誰もこられなければこちらから出かけるしかない。ドアを開けたら、杉山さんが見つけてくれた。金曜から月曜まで休みをとるので、退院の日はいない、と。ごく近所に住んでいるので「京都銀行にいってることもあるし、また会うやん」という話を前にしたことがあったが、退院は嬉しいけれど、親しくなった人たちと別れるのは辛い。
 カタリナ高校の先生から電話があった。どんなふうでも僕が望む形で復帰を、ということだったようで嬉しい。やっと現状を報告できたので、学生(二年生)の一人にメールを出してみた。携帯電話は病院では使ってないので、倒れる何日か前にコンピュータの方にメールを送ってくれた学生がいたのである。通勤だけがネックなのでコンピュータを使った遠隔での講義の可能性を探ったりもしているが、非常勤講師なのでそこまでしてもらえるかわからないし、そもそも身分の保障もない。療養が先で仕事のことは考えまいとずっと思ってきたが、時々拭き出すかのように仕事のことが気になっていたのでカタリナ高校からの電話は嬉しい。明治東洋医学院のほうも早く手を打たないと、迷惑をかけてしまっている。いずれの学校も通勤がネックである。

2006年5月17日水曜日
 6時過ぎに突然、いつものようにノックなしに岡田医師が部屋に入ってこられる。胸に聴診器をあてた後、ソファにすわって、「要は…」と話し始められた長い対話の一部を書くと次のようである。
「疲れたら休む、ということですね。元の生活には戻れないが、アンダーグラウンドの仕事ではないんだから大抵のことはできる〔夜中に電話で呼び出されて出かけていくというようなね、と笑われる〕。夜中にトラックを運転する人が復帰しているのです」
「してはいけないことは?」
「これだけのことをいついつまでに必ずやりとげる、そういうのはやめなさい。高校生が何日も徹夜して何かをやりとげ、エンドルフィンが出て達成感があるというような、そんなことも」
「講演とか講義は?」
「それはデスクワークでしょう(註:デスクワークは完全OKとは前からいわれていた)」
「通勤や遠方への出張は?」
「電車に乗ったら心臓に負荷はかかるでしょう。しかし、できないわけではない。ただし、仕事は制限しなければならない。しかし、こういうことはロジカルには決められない。〔どの仕事は引き受け、あるいは引き受けないかは〕自分でしか決められない。本は書くといいです。あれは後に残りますし、達成感もあります。強いメンタルストレスがかかると、閉塞することはありうる。しかし、これは誰も予想できない。締切のある仕事があって、その時、親戚に不幸があって、風邪でも引くと…まあしかし、あなたはそうやってすわってるけど、心臓が悪かったらそもそもすわれないですよ。キーボードを打てるわけもない。(ここからは先週のムンテラの時も聞いたことでもあるが、ジリ貧で悪くなってICUから出られないケースについて話される)あなたの心臓は強いし、今、血も流れているのだから(50%閉塞の個所を二ヶ所残していることには言及されなかった)、まあ、あまり悲観することないですよ」
「心筋梗塞の人は退院後自宅療養するのですか?」
「それは決めてもいいかもしれません。帰られてから、外を歩いてみてごらんなさい。太陽が眩しく、身体が重く感じられます。でも、二、三日したらきっと退屈してくるでしょう。それが復帰できる印です」

2006年5月18日木曜日
 夜、寝つきはあまりよくなかった。朝は6時半頃に起きたが、朝食後うとうとして夢を見ていた。中西さんがこられて今日の清拭は昼からでもいいか、とたずねる。清拭の時間といってもわずかだが、ゆっくり話ができるのはもう最後かもしれない。これだけの用件を伝えにこられただけなのに、復帰の話を伝えた。外に出て行く仕事の最初はカタリナ高校になるだろう。亀岡駅の階段を思うと怯んでしまうのだが、階段の上り下りは心臓リハビリの一環なので体力をつけていけばきっと大丈夫だろう。
 そんなことを思いながら、昨日は歩けなかった病棟を繋ぐ三階の廊下を歩いてみた。行きも帰りも階段を使った。あれだけ長いと思っていた廊下が今日は短く感じられた。
 夜、インターネットで尾池和男氏の心筋梗塞生還記録を入院時から読んでみた。1998年に発症、今も治療中であると冒頭に書いてあった。最初、気づかずに読んでいたのだが、現在、京大総長のはず。医学が日進月歩の世界であることを強く思う。

2006年5月19日金曜日
 入院して以来初めて夜中に一度も目が覚めなかったのではないか。熟睡。
 二度目の入浴。今回は早めに切り上げたので、疲れなかった。
 昼食後、皮膚科受診。寺澤先生が「顔がきれいになったわね」と喜んでくださる。一ヶ月後に受診の予定。それに間に合うように処方してもらえる。今日の担当の中西主任に「歩いて〔外来の診察室に〕行きますよ」といったら、止められてしまった。「せっかく明日が退院なのにここで悪くなってもらったら」と。たしかにいわれるとおりではある。皮膚科で待っていたら久保田君が通りかかる。白衣がよく似合う、と思った。オフの時と表情が違った。
 18:45 岡田医師回診。軽い脂肪肝だが血液のデータには問題がない、と。心臓については一ヶ月後に受診するように、と。今は一ヶ月後は遠い未来のような気がする。この一月があまりに長かったから。「明日退院ですからこれで無罪放免ということで」と心電図モニターを胸から外してくださる。ICUを出てからずっとつけていたので、うれしい。
 書きたいことがたくさんあるはずなのに、明日、退院だと思うと気持ちが散漫になって集中できない。

2006年5月20日土曜日
 朝、部屋の片づけ。救急病棟で二回話をした(名前は知らない)看護助手さんがふいに部屋に入ってこられる。「覚えてます?」とたずねられるので「もちろん」と答えた。「こっちにきたはったんやね」「〔病棟を変わるのは〕突然だったんです」「一月くらいになりますね」。今朝の病棟は忙しかったようで、中西看護師を別にすればこの方以外とはほとんど言葉を交わせなかった。
 やがて妻が迎えにきてくれた。入院費などの支払いを済ませ、ナースステーションに伝えに行く。前日、日勤で昨夜は夜勤だった中西さんが薬のこと、外来受診について詳しく説明してくださる。昨日、5階の売店で便箋と封筒を買って、お礼の手紙を書いた。
 入院中はお世話になりました。僕は常は人前で感情を出したり、本音をいえないのに、中西さんにはすっかり心を許し甘え切ってしまいました。おかげで何度も(精神的な)危機を乗り切れました。本当にありがとう。
 中西さんは僕の担当看護師として僕についてどんなサマリーを書かれるのだろう(カルテに書くまとめ)。そんなことを思いながら病院を後にした。
 病院から家までは思っていたより遠く、ほぼ毎日、通ってきてくれた妻の苦労を思った。娘と一月ぶりに会う。「背が高くなったよね」「そんなことない」「夕食を毎日作ってくれてたと聞いてるよ」「これからも作るしな」
 帰ってから長く眠ったようだ。病院では知らずして緊張していたかもしれない。カーテンがあるとはいえ、部屋にいつなんどき誰が入ってくるかわからないのでそう変な格好でいられない。「すいません、だらしないかっこうしてて」といったら、田口看護師が「入院している人の特権よ」とほほ笑んで出ていったことがあった。うつ伏せになったことも一度もなかったことに気づいた。モニターの電極をつけていたからである。
 外を歩いてみた。病院内の平地歩行とは違って、道には坂道ではなくても勾配があるので上りになるとたちまち歩みが遅くなる。調剤薬局があって、中に入ってみた。次回、受診した時に薬を出してもらわないといけないが、処方箋があればこの薬局で受けとれることがわかった。バーコードのついたカードをもらった。これで病院からファックスをあらかじめ送っておけば、待たなくていい。
「どんな薬でもあるのですか?」
とたずねたものの薬の名前をすぐに思い出せなかったが、心筋梗塞といったらすぐにバイアスピリンとパナルジンですね、といってもらえた。
「心筋梗塞で入院していたのですが今日退院しました」
といったらまるで僕が出所したばかりかのように驚かれ、お大事にしてください、といわれてしまった。たしかに間違ってはいない。