心筋梗塞生還記(4)

心筋梗塞生還記(3)から続く

2006年5月10日水曜日
 昨日からエレベータを使って院内を自由に歩くことを許されたので、朝、3階まで行ってみた。ここまではプログラムの一環なので歩いて階段を昇った。JRの線路や国道、新緑の山々が見える景色のいいところで、もう少し元気になったらこの通路を渡って前にいた病棟にまで行ってみたい。
 5階にある、にじのこ学級も見てきた。ここは病院に入院している子どもたちが勉強しているところである。後で3階に再び行った時に、小さな子どもが母親に連れられて歩いていた。よく見たらその子は点滴をしていて、母親が点滴台を引っ張っていた。この子がにじの子学級に入っているのかはわからなかった。
 前も書いたが、心のコントロールはできるのに、まだ身体をうまくコントロールできない。昨日は、先に書いたくらいしか歩いてないのに、疲れてしまった。5時頃に準夜勤の看護師さんがvitalを取りにこられる。「お変わりありませんか?」とたずねられたので、たしかに大きな変わりはないので「はい」と答えたら、風のようにすばやく帰っていってしまった。また僕が知らない間に、今度はvitalは日に一度でいいことになってしまったようだ。もしもこの時、「どうですか?」とたずねられていたら、身体の疲れのことをいえたかもしれないし、vitalを計ってもらったら異常が出ていたかもしれないのである。
 夜、いよいよ疲れてしまって、ナースコールを押した。朝、病院をめぐっているうちにテレフォンカードの販売機を見つけ、夜、公衆電話に電話をかけに行った。しかし、結局、その目的は達成できなくて、部屋に戻ると、一気に疲れが出てしまったようだ。ナースコールを押すという行為自体にも緊張したようで、詰所のモニターは不整脈は出ていなかったが、脈拍は120を示していた。二人の、幸い、僕が僕の部屋にきてくる看護師さんの中で絶大な信頼を置いている杉山さんと中西さんがこられたので、それだけで安心してしまったが、血圧は150、体温も7.8度まで上がっていて、氷枕をあてて休むことにした。
 僕はこの日、気が弱っていて、こんなふうに今は元気そうに見えても、本当は医師がまだ僕にいっていないことがあるのではないか、そういえば回診の時、僕が疲れて横になっていたら「どうした? 疲れてるのか?」と顔が曇ったし、「いきなり写真を見せたら恐いから、木曜日に説明しましょう」という部屋を出ていき際の言葉を思い出したり、看護師さんたちの対応に強い不満があったり、そんなことが重なっていたのか、夜遅く再び様子を見にこられた中西さん、杉山さんの前で感情的に取り乱してしまった。いつも話を聞くほうなので逆の立場は慣れない。おかげで穏やかな気持ちになり、早めに眠ることができ、朝まで一度も目を覚ますことなく眠れた。

2006年5月11日木曜日
 ここから10日のことを書く。この日は朝、6.2度まで体温は下がったが(朝、氷枕が破れたのではないかと思うほど、汗をかいた)、一日、病室の外を歩くのは自粛。リハビリの10ステージ挑戦(階段昇降二往復)は延期になった。昨日の夜、中西さんが明日は私がくるといってられたのに違う人がvital、清拭にこられたので気にしていたら(日勤なのに9時半くらいまで引き留めてしまったから疲れて休まれたのではないか、と)様子を見にこられたので安心。「急に今日はリーダーをすることになったから」と。昼食前、洗髪。予定していたシャワーは昨日、熱を出したので延期になった。
 毎週、水曜、もしくは木曜日は院長回診。無意味。
 夜、岡田先生が回診にこられた。8時をまわっていた。もう今日はこられないのか、と思っていた。後で看護師さんに聞いたら、オペの後だったらしく、ひどく疲れている様子で心配。
「リハビリも最終ステージに近づいていますし、心電図も安定していますから大丈夫なのですが、さて、これは明日、説明しますが、大体ショックを受けられるのです」
「それは血管が閉塞している写真を見るからということですか?」
「いえ、そうではなくて、煙草を吸うというような危険因子がないのに…」
「なぜ私だけが〔心筋梗塞になったのか〕という、先生がいってられた「被害者意識」のことでしょうか」
「そうです」
「でもそれならきっと僕は大丈夫です」
「デスクワークはできますよ」
「それはよかったです」
「問題は、〔オペで処置できなかった〕残っているところをどうするかということです」
「僕としてはずっと自宅療養になっても、仕事を全部辞めることになっても、本が書けるのであれば…本が書けなかったら僕は生きている意味がないわけで」
 そういうと岡田先生は、「まあ」と苦笑しながら「そんな生きるか死ぬかというような問題ではないから」といわれる。手放しで楽観できる状況ではないし、退院することが無罪放免ではないことはよく承知しているが、この言葉で少し安堵した。今日、説明を受ける。続きはその時に聞くことになるだろう。
 帰りかけようとする先生に、本のゲラを見せたら、またソファに腰を下ろして読み始められる。
「人間は死ぬと決まっているのに、その死を前にどう生きるべきかというような話です」
 ひとしきりあれこれ議論をした後、
「まああまり根を積めんように」
と笑って部屋を出ていかれた。
 さらにその後、ノックがあった。「今、終わったばかり」と中西さんが入ってこられた。今日の様子をたずねにこられたのである。今し方の岡田先生との話を伝えたら、泣きそうになられたので驚いてしまった。少し、話しこむ。

2006年5月11日木曜日
 今日は朝から調子がいいようだ。夜、よく眠れなかったのは昨日あまり運動していないことと関係があるかもしれない。vitalが終わってから、3階の通路まで行って、途中まで行って引き返してきた。

2006年5月12日金曜日
 最初に、昨日の夕方の岡田医師のムンテラのことを書いておく。詳細なメモは立ち会ってくれた妻が書いてくれたが、今、手元にないので、おおざっぱなことだけ。動画でオペの様子が記録されているのに驚いた。「では私がつたない絵を描いてみます」とメモ用紙に心臓と冠状動脈、及び、どの部分が梗塞したかを描きながら説明された。ふと見たら慶子さんも画像と先生のイラストを見ながら、絵を描いて先生の話をメモをしていた。そのことに気がついた先生は「お、その絵、センスありますね」といわれる。「あ、それはもう少し上に描いたほうがいいんです」と指導も受けていた。「このあたりですか?」「そうそう」。岡田先生は教えるのが好きなのだろう。表情が変わる。
 今回、何が起こったか簡単にいえば、冠状動脈の一本が完全に梗塞し、その箇所をバルーンで膨らませてステント(特殊な合金による金属を網の目状にした筒)を入れたというのが今回の手術(経皮的冠動脈ステント留置術、最近はバルーンによる処置だけでなく8割はステントを留置するようだ)である。オペを記録した動画を見るとたしかに処置によって血が流れ出したのがわかる。
「先生は処置中に『自然開通』という言葉を使ってられましたよね。あれはどういう意味だったのですか?」
局部麻酔だったのでわりあいよく覚えている。
「完全に梗塞していたのが、『自然開通』したということです」
これによってわずかな血流が確保できたわけである。バルーンを膨らまし、ステントを留置したのは処置の最終の段階だった記憶がある。どれくらいの時間、完全梗塞していたのかは聞かなかったが、最初の大きな発作からだとするとかなり長時間血液が滞っていたわけである。当然、このことによって心筋が壊死している。
「しかし、壊死したといっても、半分壊死しているというか、マダラ状に壊死した箇所があるということです」
「病理解剖したら、古い病巣が確認できるというわけですね」
「そういうことです。この壊死した箇所が広範であれば、カテーテル治療をしても、10%の方にはいるわけだ〔助からないということ〕。CCUから出てこられず、ジリ貧でだめになる。あなたはこんなにぴんぴんしてるからどう考えても、その10%には入らない」
 問題は、その梗塞した手前の箇所にも狭くなったところがあるということである。そこにもステントを入れればいいではないかと考えられるが、不可能ではないが、ここにステントを留置するのは困難な箇所であるという。その理由も詳細に教えてもらったが図がないと説明は難しい。
「その動脈が硬化したところを運動や食事療法でなくすことはできるのですか」
と妻。
「いえ、それが〔動脈が硬化し、狭窄するということが〕老化ということなのです」
「『不可逆的』(irreversible)ということですね」
 僕が補った。
「薬ができてそういうことができれば、私がしている治療も必要ではなくなりますし、平均寿命も100歳にも120歳にもなるかもしれない」
「いわれること、よくわかります」
「その箇所にステントを入れるオペを私がこれまでしなかったかといえば、そうではない。たしかにあるのです。狭窄した箇所に一度のオペで5個も6個もステントをいれる医者(註:マニアックな医者、といわれたかもしれない)もたしかにいる。しかし、これは患者のためのオペとはいえないと思う」
 先生の口調はいよいよ熱を帯びてきた。
「私は長年、医師をやってきて、もう25年になります、この頃、思うことは寿命だけはなんともできないということです。もしもあなたがそれくらいの歳〔77、8歳〕なら、これ以上のことは考えなくていいのかもしれません。しかし、あなたは40…」
「50歳です」
「だから私はこれから20年、30年先のことを考えてみたいのです」
 なるほど、これが前の晩、先生が僕の部屋にきて「「問題は、〔オペで処置できなかった〕残っているところをどうするかということです」といってられたことの意味なのだ、と思った。この後、冠動脈バイパス術について詳細な説明があった。これについては今すぐというわけではなく、月曜のカテーテル検査の結果を踏まえて、慎重に検討していきたい、ということだった。
「検査結果次第で来週の水、木曜日にでも退院ということになります」と先生から聞かされうれしかった。退院後のことについてはまだ詳しくは聞けてない。「デスクワークは完璧にOKです」とはいってもらえたが、〔駅の〕階段も上り下りできるようになるともいってもらえたが、講義、講演、ことに遠方への出張などについては確答を得られていない。バイパスの手術を受けるということになれば、また長期の入院が必要になってくる。新しい講演はすべて断ってもらっている。迷惑をかけないのであれば教職もすべて辞すべきなのだろう。
 今後の生き方については、『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』(富原眞弓、青土社)を読み、その中に描いてあった、プラトンの洞窟の比喩についての、この34歳で夭折した哲学者の解釈から啓示を得た。これについてはもっと元気になれば書く機会があるだろう。
 昨日も少し昼頃から疲れてしまった。昨日書いたメモを読むと、「昼食後父のところに電話をしようと思って、テレホンカードを探したのになかった。探しているうちにひどく疲れて横になった」とある。考えれば当然のことなのだが、昼食後は消化器に血液がいっているので、安静にしておかないといけないのである。前はこんなことはなかったのに。同じ失敗をしないよう、今日は昼食後じっとしていた。身体の力が抜けてしまうような疲労感を覚えたので、今日こそはためらわずにナースコールを押そうと思ったが、やはりそう思うことで既に緊張してしまった。「どうされましたか?」「中西看護師がおられましたら、お願いしたいのですが」。この日の僕の担当だったのである。他の人なら説明するのが大変なのでわがままをいってしまった。わりあい早く楽になり、vitalも正常であることがわかった。「これから一時間ほど病棟を離れるので(遅い昼休みなのだろう)、その間は杉山さんがきてるし」といって帰られた。幸い、その後は、問題なく過ごせた。
 昼食前に体重測定。52キロ。測定に行くために少しの距離だが、中西さんと並んで歩いたら、意外に小柄なのに驚いた。いつもベッドの高さで人を見る癖がついているから、こんなこともわからないのである。