心筋梗塞生還記(2)

心筋梗塞生還記(1)から続く。

2006年5月1日月曜日
 10時前にレンドルミンを飲んで、ベッドを倒して、加賀乙彦の『雲の都』という小説を手にした。ところが薬はすぐに効き始め、たぶん、1ページも読まないうちに寝てしまったようだ。まだ夜半に目が覚める。でも今夜は一度だけだった。目が覚めても不安感はない。ちょうど入院の前日、学校に行く時に田中美知太郎の「死すべきもの」というエッセイを思い出した。今、手元にないので正確な引用はできないが、ヘラクレイトスの言葉を引きながら、夜、動悸がするので目が覚めた時に、自分が死の近くまでいたことを知る、というようなことが書いてあったこと、このエッセイを高校生の時に宗教の教科書で読んだことなどを思い出していた。そのことをふと今思い出した。入院に先立っていつ頃からだろう、何かの病気で徐々に死ぬのではなくて心臓を患って一気に死ぬかもしれない、とたしかに思ったことがあった。
 本物の敵は心臓(こころ)と知らざりし愚かな我は死に邁進せり
 これは入院して数日後に詠んだ歌。
 病棟が変わると看護師さんが全て変わるから、また振り出しに戻ったような気がしないわけではない。朝、尿量のチェックにきた看護師さんは名前を間違う。返事しないで無視しようと思ったが、そのうち気づかれるだろう。若い人だったが、思い込みが強いようだと医療事故に繋がるのではないか、と心配である。
 名前といえば、点滴の交換の際にフルネームで確認を取った看護師は一人だけだった(この人は僕がもっとも苦手とした人だったのは皮肉である)。個室であるという安心感もあるのだろうし、僕もいちいち確認を取られるのも実際には煩わしいと思ったかもしれないのだが、基本は守らないと事故に繋がる。僕の経験では、受付からまわってきたカルテが姓はたしかに同じだが別人のもので、最初しばらく気がつかなかったことがある。
 尿量が少ないことを指摘されたが、別の看護師さんに、きっと昨日部屋を変わった際、昨日の分がカウントされてないのではないか、といったところ、同意見だった。看護師としては尿が少ないと指摘することに何も問題は感じてないと思うのだが、僕などはなぜだろう、と考えこんでしまう。そして今のような状態では大抵悪い方に考えてしまうのである。
 こんなことがあった。24日の夜、突然点滴のアラームが鳴った。何か異常があるとこんなふうになるのは知っていたが、深夜に響くアラームは驚かせるに十分である。ナースコールを押したら深夜勤の看護師さんがすぐにこられたが、この人が口数が少ない人で、「あ、気泡ですね」と一言いい残して、再設定して出ていかれた。言葉の意味はもちろん十分わかるのだが、もう少し言葉を尽くしてなぜアラームが鳴ったかを説明してもらわないと不安をかき立てると思いませんか? その後、昨日載せた歌のとおり、ひどい動悸が始まった。そこへいいタイミングで先とは違う看護師さんがきてくれて、いつまでも側にいて話を聞いてくださった。強い痒みで眠れなかった日もあったが、この夜が入院して以来もっとも危機的な夜だったと思う。常は僕は「どうされましか」と話を聞くほうなので慣れないことだったが、死ぬのが怖いのです、などといってきっとずいぶんと困らせたと思う。
 細かいことだが、朝、部屋にきた看護師さん。「かゆみもおさまってきたようですし」。記録に書いてあるのだろうが、どうしてこの人は本人が目の前にいるのに、かゆみはどうですか、と質問しないのだろう、と思った。記録に頼るにしても、前日の記録であって、今朝はどうなっているかわからないであろうに。
 さて、朝、岡田先生の回診。この先生のスタイルなのだろうが、いつもふらっと一人でこられる。僕としても気が楽なのだが。経過は順調とのこと。うまくいけば今日第七ステージ、明日、第八ステージに進むことになった。「そこで」と先生はいわれる。「一体、今回、何が起こったのか、退院に向けてこれからどうするのか、カテーテル検査のことなどについて、来週の月曜日に説明しましょう」。これからのことは不安だが、先生の口から「退院」という言葉が聞けて嬉しい。
 今日も本に目を止められる。今日はKazuo IshiguroのWhen I was an orphanという小説を手にして、「ほお〜すごいなあ」と。「こんな時しか読めないので、小説を読んでいます」「たしかにそのとおりだなあ…Macがやはりお好きですか?」今度は僕のコンピュータに目をつけられる。「はい、それはもう」「エッジですな」(Air H" )すっかりばれている。「電波が届きにくいです」(昨日、書いたのとは違って、今はベッド上でもなんとか送受信できる)「建物の構造もあるし、ほら、この窓に貼ってあるシールド。これは危険防止のために貼ってあるんだが、これがどうやら電波を遮断しているようだ」。上機嫌で部屋を出ていかれた。北原さんが岡田先生はかなりコンピュータについて詳しい、といっていたのを思い出した。
 今日から水分制限が解除になった。
 昼食時になってやっと心電図の機械を押して部屋にこられる。7ステージに進めるか、まず心電図、脈拍、血圧を測定し、その後、今日は100メートル歩いた。その後、もう一度心電図、脈拍、血圧を測定し医師が判断するのである。
 初めて病室の外に出た。たくさんの患者さん、家族、医師、看護師らがいることに驚く。床にスタート、10メートル、20メートルというふうにテープが貼ってある。それを目印にして、廊下を突き当たりまで25メートルを二往復して部屋に戻る。血圧は上が歩く前は110だったのが130に、脈拍は72だったのが80になった。入院以前は平静時でもいつも血圧は140/90、脈拍は90あったことを思うと信じがたい思いである。

2006年5月2日火曜日
 昨夜は一度左足がかゆくなってかいてしまったようで、目が覚めてしまった。ふと気がつくとベッドサイドにこの病棟での僕の担当である看護師さんが立ってられて驚いた。就寝前に少し話をしたら、僕が教えている学校を「ウン十年前」に卒業したことがわかった。彼女は準夜勤だったから寝ついてからそんなにまだ時間が経ってなかったということだろう。時計は見なかった。「柵をしておきましょうか」とたずねられたということは、輾転反側していたのだろうか。はい、と答えた後、眠れたようで、次は5時半に採血のために起こされた。入院した日の夜などは3時間ごとに採血をしていたから、別になんということもないのだが、一言二言看護師さんと話をした後、僕はまた寝てしまい、次に目が覚めたら、8時だった。病院では8時が朝食の時間である。ゲリラ的な痒みに襲われたものの、8時まで眠ったのは初めてのことである。
 昨日、7ステージのリハビリをしてくださったは、この病棟の主任看護婦さんであることがわかった。救急病棟でのことをいろいろと話したら、少し溜飲が下がった。リハビリの時に今日は清拭の予定が9時と聞いていたのにこられないのはどうしてかたずねたら、「申し訳ありませんねえ(この方は謝ってばかりなのでこちらが恐縮してしまう)どうしても治療の都合などがあって」「僕は一日三回薬を塗ることになっていて、朝こられた看護師さんは9時と21時に薬を塗りにくるといってられました。清拭にも薬を塗りにもこられないようでは僕としては非常に困るのですが」この話をしたのが11時半頃。清拭に主任さん自ら2時頃にこられた。病院では主張的でないとsurviveできない(今日は9時半に清拭にきます、といっていた看護師さんが、9時36分に「すいません、もう少し後になってしまいますがいいでしょうか」と断ってこられた。もちろん、待ちますとも!)
 こういう内容は瑣末的なことで、僕が主任に訴えたのは、救急病棟での心臓リハビリについてであった。「ある看護師さんは5ステージ(ベッドサイド椅子座位のみ)で早くも、『自分でできることは自分でしてくださいね』といわれたのです。この段階では全面清拭となっていて、自分では拭かないことになっているのに、おかしいといったのに受け付けてもらえませんでした。『背中は私が拭きますから後はできるでしょう』といわれる。でも、僕の理解では、心臓リハビリでは、『できる』からといってしてはいけないのではありませんか? もしも『自分でできることは自分でするように』といわれたら、僕だったらしてしまいます。僕とは違って、病識が甘い人なら、もう胸の痛みがないからといってリハビリのステージを無視するかもしれません」。僕の主張は受け入れてもらえた。救急病棟でもめた看護師さんはその後僕の担当になった日、午後から体重測定があるといってられたのにとうとうこられなかったし、他の看護師さんは3時ごろに薬を塗りにこられたのにこられなかったし、その日の夕食時は口腔ケア(要は歯みがき)の水もお膳も誰も下げにこなかった。この時はまだ5ステージだったから、5歩くらいで行ける洗面台にも僕は歩いていくことを許されていなかったのである。そういったことは自分でできるという判断だったのだろうか。病棟から追い出すための陰湿ないじめではないか、とまで思った。
 というのも22日にCCUから個室に移って早くも24日に一般病棟に移るようにこの看護師さんにいわれたのである。僕は拒んだ。その頃は環境の急激な変化は強いストレスになると思ったこともあるが、この人が、この病棟は救急患者を入れないといけないので個室を空けておかないといけないから、と病院の都合を全面に出されるので、それならいい方があるだろう、と僕は反発してしまったのである。「どうしてもいたいといわれるのならいてもいいですが」といういい方は間違っていると思う。こんなことでストレスを増しては何のための入院、リハビリかわからないと思ってこの時のやりとりは考えないようにしたが、そういうわけにはいかなかった。
 夕方、岡田医師がこられる。ノックをしないで入ってこられるのでいつも不意打ちである。「OK」と指でサイン。7ステージクリアである。
 そして、今朝、8ステージに挑戦。結果待ちである。これでOKが出れば明日から一日に三回は病室の外に出てあることができる。今日は200メートル歩いた。しかし、今気づいたが、僕は実際には100メートルしか歩いていないのではないか。昨日の記録を見てわかった。僕も気がつかなかったのだが、看護師さんは勘違いされていた。昨日と同じところを歩いたのだから4往復するはずのところを2往復しかしていない。担当の看護師さんは新人だったので補助(指導)に入っていたもう一人の看護師さんもたしかに2往復といっていた。可能性としては昨日の中西さんがスタートから突き当たりまでの廊下の距離を25メートルといってられたが、実際には50メートルだったということもあるが、僕のすっかり失われてしまった距離感からすると25メートルだと思う。申告したらやり直しになるだろうが、全部やり直しなのでその方が負担になりそうである。
 ともあれ今日も再び外に出られたのはうれしかった。
 神田さんというのが今朝から何度もこられている看護師さんの名前なのだが、清拭の時などに少し話をすることができた。「今朝、寝過ごして遅刻しそうになりました」「近くに住んでるのですか?」「ええ、寮です」「これをたずねると歳を尋ねることになるのですが何年目?」「何年目も何も新卒なんです」「おや、それではひょっとしたら久保田君と同期?」「そうなんです」(救急病棟でのことを話す)「私も先輩に叱られてばかりです。久保田君は名簿が私の前で、卒業式の時、隣だったのですが、泣くんですよ。そんな泣かんときって。こっちで働いてから、一度コンビニで会っただけなんです」
 リハビリが大変だったが、今朝は8時まで寝てたからかもう昼という感じである。
 息子からメール。嬉しい。ゼミの課題に追われているらしい。坪井善明いうベトナム政治が専門の先生で、政治学の基礎文献をひたすら読んで要約・感想を書くという課題が出ている。非常に厳しい先生なので力は確実につきそうだが、課題の量が半端でないとのこと。

2006年5月2日火曜日
 午後から皮膚科の寺前先生に診てもらう。これまで二回は往診だったが、今日は車椅子を押してもらっての受診だった。僕を見て、「降りてこられるようになったのね」と喜んでくださった。ワセリンにアンテベート軟膏をまぜたものを身体に塗っているが、今のがなくなったらアンテべーとの比率が減ったものを使うことになり、回数も日に二回でいいことになった。最近ではこの十年来だがアトピーも気長に治すことにしよう。車椅子の迎えを待つ間に皮膚科の看護師さんと話しこんでしまった。
 診察室には今の病棟から前にいた部屋がある病棟にある。そこに行くにはJRと国道をまたいだ長い通路を渡っていく。久しぶりに外の景色を見たような気がした。山の新緑がきれいだった。ちょうど入院した頃は、桜が満開だったのだが、僕は身動きが取れず生死の境を彷徨っていたから見ることができなかった。退院してもまだまだ通院や、検査入院をしなければならない。来年は今年病室から見ることができなかったこの街の桜を見ることができますように。
 夕方、岡田先生。第8ステージクリア。初めて病室の外を一人で歩いた。まだ怖い気がする。50メートルだけ。200メートルを日に三回という課題はまだ高いように思える。昨日、今日と歩いてみたら、いろいろなものが一気に目に飛び込んできた。岡田先生や看護師さんたちがコンピュータに向かっている姿。この病院は電子カルテを使っている。紙の記録紙を使わなくなったわけではない。こちらの病棟にくる時に、久保田君があまりにたくさんの記録紙を抱えて車椅子を押そうとするものだから、「僕がもってあげよう」と僕の膝に置いた。僕は視覚タイプではないので、あまり映像を覚えられないのだが、狭い部屋にずっといたからか、しばらくぶりで本を読んだ時に活字を貪るという感じだったのと同じで、目に映るものが何もかも新鮮に思えた。看護師さんが多いことは前からも知っていたが、通常、一人ずつしか入ってこられないので、一度にたくさんの人を見て驚いた。ナースステーションで看護師さんの隣で食事をしているおばあさんの姿も印象的だった。
 こうして少しずつ世界を再構築していっている。
 診療費の請求書が届いた。手術代は決して安いというわけではないのだが、命を救ってもらったと思えば安価である、と思った。申請すれば収入にもよるが、市から補助が出ると聞いている。中国では僕が受けた手術を受けようと思ったら、年収ほどの費用がかかる。ということは金持ちしか救われないことになる。この人を救う価値があるかというようなことを考え始めるとずいぶんとめんどうなことになるので、今夜はそろそろ眠ることにしよう。

2006年5月3日水曜日
 一度目が覚めたが、今朝は7時半まで眠ることができた。夜、眠るのが惜しい気がしてならない。
 朝、尿量が少ない、と指摘された。思い当たる理由としては水分の制限解除になってから、いつでも飲めると思えるから次の給水時までにこれだけは飲んでおこうという強迫観念から自由になったということである。結果的に水分の摂取が少なくなったのではないか。
 このことと関連して、朝、清拭中に中西看護師とこんな話をした。彼女は前に書いたように僕が教えている学校の卒業生なのだが、生活指導が厳しかったという。規則がなくてもむちゃなことはしないのに、リボンの色がとか靴下の色とか、うるさかったという。「きっと僕の水分制限と同じなのですよ。制限の範囲まで(1000ml)飲みましたから。でも、普通、そんなに飲まないでしょうし、実際、制限が解除されたらそれほど飲まなくなりました」
 今日も洗髪はなし。一体、何人の看護師に何回訴えたことか。今日の午後になるかもしれないし、明日になるかもしれないと午前中に聞いてしまったものだから期待してしまった。今し方得た情報ではどうやらいつのことになるかわからない様子。
 病棟内を歩く。まだゆっくりしか歩けないが、200メートルくらいの距離を2回歩いた。晴れ渡る空、新緑の山々を見ることができて気持ちがよかった。リハビリのために歩いた時と違って、今日は休みの日なので、ひっそりとしていた。
 夕方、また歩いてみた。病室から見えるわずかな空を見ると日が沈もうとしているように見えた。しかし、ここからは見えないので、夕日を見える場所を探してみようと思ったのである。一ヶ所、見つけることができた。残念ながら既に日没後だったのだが。部屋に帰ると動悸があるわけでも息切れがするわけでもないのに、たいそうな運動をした後のように感じる。
 プルーストの『失われた時を求めて』について、ガリマールが次のようなことをいっている。彼はプルーストが本当は驚くほど健康であり、健啖であることを確信した、という。
「彼が喘息であったのは、それはたしかに事実だろう、だが私は一度もそれに気がつかなかった! 彼はとりつかれていた、その作品にとりつかれていたよ」
(『ガリマールの家』筑摩書房、p.33)
 Je n'ai pas perdu ma vie.
(僕は人生を失ったわけではない)

2006年5月4日木曜日
「あなたがたがあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたが耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(『コリント人への第一の手紙』10.13)
 昨日、「たいそうな運動」と書いたのだが、その後、疲れはなかなか取れなかった。何事もなければ、ただ疲れたな、ちょっと横になる、ですむところが、こんな病気で入院していると弱気になってしまう。
 ナースコールを押したものか、迷ってしまった。今日の準夜勤の看護師さんは誰だったか、と思った。そう思ってしばらくしたら当の田口さんが手袋をはめて「お薬塗っておきましょうか」といいながら入ってこられた。僕が「vital (signs)を計ってほしい」といったら、彼女はすぐに事情を察知してくれた。それからの行動は機敏で、判断は正確だった、と思う。
 道具を持って戻ってきた田口さんは、「モニターでは不整脈は見られなかった」とまず告げ、続いて血圧を測ると上が160あった。熱は36.9度(最近にしては高め)。saturationは99と普段よりも良好だった。氷枕をあててしばらく休むことにした。薬を塗るのは一時間後ということにしてもらった。「モニターで見てるし、何かあっても病院におるんやし」という言葉は僕の気持ちを楽にした。
 その後、9時半に(「忘れてた」と笑われる)薬を塗りにこられていったん、お休み、と挨拶をして横になっていたが、再び10時過ぎに、「やっぱり心配やから心電図取っとくわ」と機械を運んでこられる。電極が僕の身体はつけにくくて皆苦労されるのだが、この若い看護師はあざやかな手つきであっという間に一度で心電図を取られた。「ドクターに診てもらうし。もし何もなければ…いや、やっぱり何もなくても報告にくるしね」と行って部屋を出ていった。11時頃、ノック。「先生、何も問題ないって。ただ疲れてたんだろう、て」。これで安心して眠れたのはいうまでもない。安心はしたけれどあれこれ考えると不安になるので、まだ飲まないでいたレンドルミンを飲んだ。報告があるのを待っていたのである。不安な時はいろいろなことを考えたり、思い出したりするものである。『ヒトラー最期の三日間』という映画の中でゲッペルスの妻が、子どもたちを睡眠薬で眠らせてから、一人ひとりに毒を含ませ殺していく場面などが頭に浮かんだ。薬は幸いすぐに効いたようで入院以来初めて途中で覚醒しないで朝まで眠ることができた。今日は朝食後もしばらく横になっていて、今(17:18)までまだ一度も外に出て歩いていない。
 髪の毛を洗ってもらった。力があれば歩いていけない距離ではなかったが、8ステージであるというと車椅子を用意してもらえた。入院以来初めての洗髪などで気持ちがよかった。
 昼から息子がきてくれた。これについては稿を改めたい。

 4月29日の闘病記3に、夢の中で古くからの友人が現れた話を書いた。
「この四月から哲学の教授になった友人が夢に現れる。「よかったね。おめでとう」というと、いつもクールな彼はこういうのだ。「本当は君はそんなことをいうつもりはないのだろうね」
 そのまさに彼から昨日、着任を知らせる葉書を受けとった。印刷されたフォーマルなもので私信は添えてなかったのだが、メールアドレスが書いてあったので、メールを送ってみることにした。
 ご着任を知らせるはがき、受けとりました。ますますのご活躍期待しています。
 僕の方は先月の19日に急性心筋梗塞で入院しました。早朝に救急車で運ばれ、心臓カテーテルによるPTCA(経皮的冠動脈形成術)を受け、一命をとりとめました。今は一般病棟に移り、心臓リハビリに取り組んでいるところです。どれくらい社会復帰できるのかはまだわからないですが、今は仕事のことなどは考えないで療養するしかありません。
 忙しそうな様子ですが、くれぐれも無理されませんように。
 夜に彼から返事がきた。

2006年5月5日金曜日
 めずらしく少し寝つきがよくなくてレンドルミンを飲んでもすぐには眠れなかったが、その後、7時過ぎまで眠ることができた。「あっち向いたり、こっち向いたり眠ってられましたよ」と笑われた。
 昨日は息子がきてくれた。妻と三人で話をしたのは久しぶりだった。最初、少し、「でしょう?」というので東京で暮らすとこんなことになるのだ、と驚いたが、すぐにいつもの口調に戻った。学校の話などあれこれ聞き、刺激を受けた。毎週たくさん本を読まないといけない、と病室にきた時もマックス・ヴェーバーの本を手にしていた。研究者というのは読みたくない本でも読まないといけないのだという話をしたら、納得していた。「こんなゼミにでも出ていないとこんな本普通読まないものな」と。学生は8人。早稲田大学のような大きな大学としては異例に少ないらしい。読めなかったりすると、厳しく叱責される。ゼミの時間が1時間目に設定してあって、その時点でやる気のない学生を振り落とす意図があるというような先生についている。そんな話をいつまでもいつまでも。次に帰省する夏には元気になっていますように。病気については、「これ以上〔生活は〕悪くなりようがないので、普通の人の生活をしろ」とこれからの生活について息子に注意された。「朝、早く起きて、村上春樹のように午前中に仕事を済まして後は好きなことをしてたらいい」などなど。
 身体が不調だとすぐに心臓と結びつけてしまって弱気になってしまうという話を準夜勤の看護師さんと話していたら(名前はわからなかった)、「もっと強くならなければ」といわれる。それはたしかにそうだと思ったが、そういわれてもな、という思いも強い。
 今日の担当は杉山看護師。清拭の時に今日は初めて脚湯(足湯)。気持ちよかった。杉山さんと長く話す。隣室の患者さんのことが話題になった。大きな声を出して「煙草吸わせろ!」などとよく叫んでられて、毎日、どの看護師さんもかなり困っている様子。廊下に出て大声を出すので響くのかと思っていたら、たしかにそのとおりなのだが、この人は寝たきりで、自分では動けず、車椅子で時折外に出るのが許されているということを聞いて、迷惑だ、と思っていたのに意気消沈してしまった。僕よりもよほど重いではないか。僕の病室のあるこの階の並びは心臓関係の人ばかり入っているので、隣室の方もそうなのだろう。昨晩、僕は看護師さんにこんな声をかけているのを聞いてしまった。「晩、きてや、『どうや』いうて」。僕だって同じ思いである。「どうですか」と看護師さんたちにたずねにきてもらえるのは嬉しいし、「おやすみ」と挨拶を交わすのは嬉しい。要はこの人は、自分の存在に注目してほしいわけで、あるいは、自分が忘れられているわけではないということを実感したいわけだから、煙草を吸わなくてもちゃんとあなたことを見ているということがわかれば、入院規則に抵触することをされなくなるのではないか。強制退院であると脅かすことも、長々となぜ煙草を吸ってはいけないか、話して聞かせることもおそらく逆効果だろう。煙草を吸えば、あるいは吸うといえば、こんなにもかまってもらえると学ばれるだけだからである。こんな話をしてみた。では、このようなことに代わって具体的にどうすればいいか、どんな声をかければいいかということについては話さなかった。話さなくてもわかられるだろう、と思ったし、この後でした別の話と関連付けられたらわかってもらえるだろう、と思った。さて、どうなったか。今のところ、大きな声は聞こえてこない。
 こんなことがあったのを思い出した。前の病棟の僕の担当看護師北原さんが熱烈なMacファンであることは先に書いたが、僕が救急病棟に移った次の日の未明、病院が停電した。たまたま前日だったかにもしも病院が停電になったら医療機器はどうなるのだろう、自家発電に切り替わるのだろうか、というようなことを誰かと話していたので驚いた。僕の点滴の機械はノートパソコンのようにバッテリーがあるので停電しても、バッテリーに切り替わるだけなので、何時間も続く停電なら話は別だが、問題はないようだ、と思った。北原さんはいう。「突然、停電したんですよ。それで、私はまずこの部屋に駆けつけ、パソコンが大丈夫か確かめました」
 杉山看護師は日勤の後、一度帰って、再び深夜勤らしい。こんなシフトが一般的なのかはよく知らないが、帰っても遅刻してはいけないという思いが先に立って眠れないといわれる。「杉山さんが今夜こられる頃にはもう僕は寝てるでしょうね」「えええ、寝ててくださいね、私の分も」。当然、起きてたりはしない(だろう)。