心筋梗塞生還記(1)

 2006年の4月19日に急性心筋梗塞で入院しました。幸い、カテーテルによる治療(冠動脈の閉塞した箇所を風船を使って開通させ、後にステントというメッシュ状の金属の筒を留置する)によって一命を取り留め、その後、一月にわたる入院で、少しずつ心臓リハビリを結果、退院することができました。心筋梗塞の転帰は人によって違いますが、心筋梗塞について、あるいは心筋梗塞の治療について、参考になれば、と思って、入院中に書いたものをほぼそのままの形で公開します。僕の場合は、以下にも書きましたが、なお冠動脈に狭窄箇所を残し、その箇所はカテーテルでは治療できないので、一年後に冠動脈バイパス手術をしました。この手術については、別に公開します。

 寄せられた言葉を何度も何度も読み返しています。本当にありがとう。今のところ仕事のことは何も考えていませんし、考えようもないのですが、世界から隔絶したところで生きているという感じが焦燥感をうんで辛かったので、忘れられていないことを知って、嬉しいです。
 一時は点滴の瓶が三つくらいぶら下がっていましたが、点滴をする必要がなくなってから、少しずつこちらで日々のことを書き始めました。最初の頃は数行書いては休んでいましたが体力が戻ってきたように思います。本もそうですが、無理のしようがないという感じです。休み休み、キーを叩き(手書きよりはるかに楽です)、本を読み、考えごとをして、毎日を過ごしています。

2006年4月25日火曜日
 急性心筋梗塞で19日に入院して、今日で7日目。ようやく昨日、本を読むことを許された。心臓リハビリというプログラムが厳密に組まれていて、最初は当然、絶対安静で数日間、音楽を聴くことすら許されなかった。全部で11ステージあって今の僕の状態ではようやくテレビを見てもいいということなのだが、本を読めないことがいかにストレスかということを訴え続けたところ、看護師さんの一人が直接先生に尋ねてくださった。思いがけず許可が下りた。それが昨日の話。おかげで今日は昨日のような目覚ましい進展がなくて静かで穏やかな日だったが、本を読むことができて嬉しかった。もっとも、エネルギーがあまりないので、長く集中的に読めない。
 4時半頃、突然、主治医の岡田隆先生が回診。昨日から僕もようやくベッドから降りてすわれるようになったソファにカルテを片手にすわった先生は目ざとくエマニュエル・レヴィナスの『全体と無限』を見つけられた。「おや、ちょっと拝見」。レヴィナスが思いがけず、先生と僕とを結びつけたようで、僕の今回の病気のこともさることながら、明日からの韓国への学会出張での発表のことや、韓国、中国でのPTCA(経皮的冠動脈形成術)がどれくらい進んでいるかなどについて結構長い時間話すことになった。

2006年4月26日水曜日
 今し方、点滴が外れた。最初の頃は四種類くらいあった。とうとう最後まで残っていた薬が必要ではなくなったのである。寝ている時も点滴の針を刺したところをかばっていたので、24日に導尿の管を抜いたのに続き、入院8日目にして解放された気がする。今、リハビリの第5ステージなので、ベッドが降りて少し離れたところにある椅子まですわり、一回につき10分すわることしか許されていない。次のステージは28日であることを看護師さんに教えてもらった。
 今回受けた手術は、昨日も書いたように、経皮的冠動脈形成術という。細い管の先に小さな風船のついた管をつまってしまった冠状動脈に入れ、風船を膨らませることで血管も一緒に広げるというもの。
 19日の朝、急に苦しくなって目覚めた。時計を見たら5時14分だったような記憶がある。それまでに同じくらいの苦しさを三回経験していて、その都度何度か元に戻れたので様子を見たが、止まるどころかいよいよ苦しくなって、隣の部屋で寝ていた妻を起こした。どうしたものかしばらく考えた。
 救急車を呼ぶかどうか決断を迫られた。妻が枕元の携帯電話で電話をしてくれた。後で何度も思うのだが、この時、彼女が息子が東京に行って以来何度かしていたように息子が使っていた部屋で寝ていたら、僕の声は届かなかったであろうし、自分で救急車を呼べたかもわからない。
 到着した救急隊員の質問にはわりあいしっかり答えられていたと思う。やがて少し楽になったが、救急車の中でまた苦しくなった。何度も問われる「胸の痛み」というのがわからなかった。胸の痛みというのは、局所的なもので、広い範囲にわたってする重い感じを胸の痛みと呼ぶとは思わなかった。いずれにしても、救急車の中で取った心電図には不整脈が出ていたはずである。
 病院に到着するとすぐに救急室に搬送された。待ち受けていたのは循環器内科の岡田医師で、その日たまたま当直だった(このことがどれだけ幸運なことだったかは後に多くの看護師に教えられる)。看護師の一人は師長だったことを後に教えられた。「最強メンバー」(ある看護師による)だったわけである。僕は終始、意識があったので、やりとりなどすべてが聞こえていた。鼠蹊部からカテーテルを入れるというオペも局所麻酔だった(僕としてはその前の導尿の方が痛くて苦しかった)。岡田医師が心電図を検討する一方で、

2006年4月27日木曜日
 昨日の分は途中で終わってしまっているが、疲れたというわけではない。入院していても、けっこうあれこれ用事があるもので、中断を余儀なくされることがある。昨日は、僕の担当である北原看護師(誰がその日僕の担当かは日によって違う)が入ってこられて、「根を詰めたらだめよ」といわれたのだった。北原看護師は個室に移ってからの担当なのだが、昔からのMacユーザーであり、その時はまだラジオしか聴くことを許されておらず、ラジオではなくてiTunesで音楽を聴くということの意味を他の看護師さんに説明するのに難儀していたので、たちまち解決してくださってありがたかった。

2006年4月28日金曜日
 二度ほど目が覚めたが、6時過ぎに採血に看護師さんがくるまで深く眠れた。プロティノスの研究会で突然進行役をするようにいわれ困っている夢。でも夢の中で懐かしい藤澤令夫先生に会う。自筆の原稿をくださる。病院にいることも忘れていた。
 昨日は入院患者が多く、僕のことは忘れられていたが、おかげでゆっくり過ごすことができた。本を読みながらうつらうつら眠ってしまったが、夜、眠れなくなるので、起きているようにしなければならない。
 26日の「岡田医師が心電図を検討する一方で」の続き、
心臓カテーテル検査の準備がされる。「医師ではなくて看護師を呼べ」と岡田医師が指示を出している。たちまち招集された医師、看護師、検査技師が何人も救急室に集まった。みんな病院の近くに住んでいて24時間態勢だと後で聞いた。まだ6時を少しまわったくらいだった。
 急性心筋梗塞という診断が下された。かなりの組織が壊死しているかもしれない、とか、生存率11%という声が聞こえたが、まちがっているかもしれない。ただ僕への説明としてはPTCA(経皮的冠動脈形成術)しか選択肢はないというものであった。カテーテルを鼠蹊部から入れ、狭窄部をバルーンで膨らませ、ステント(金属の筒)を留置させるという手術が開始された。先に書いたように、局部麻酔なので医師らのやりとりがすべて聞こえるのである。バルーンが膨らまされた時、音がしたような気がしたが、気のせいかもしれない。よし、開通という声が聞こえた。
 医師から心筋梗塞という言葉を聞かされた時、僕は死を覚悟した。やり残したことがまだまだたくさんあるのに残念で悔しくてならなかった。
 死に至る病に倒れ思ふこと死は悲しくつらきものなり
 静謐に死なねばならぬとソクラテス語りし言葉真実(まこと)なりしか
 助かれど失なひしものもあまたあり医師の言葉に再生誓ふ

 昨日、書いた分を掲載します。今日は昼から、父と娘と一緒にくることになっています。急性期の頃も、その後も、人に会いたくないといっていたのですが。父には心配をかけてしまいました。今年になって一度たずねてきてくれたことがあって、その日、僕は父と頑張って話したのですが、疲れてしまって、母の墓参りには同行しなかったのを覚えています。ただ寝不足だったからと思っていましたが、今思えばそうではなかったのかもしれません。
 今は、導尿の管も脱け、おむつ(!)もしてないし、酸素吸入の管も鼻にかけてないし、点滴もなくなっています。少しなら歩くことだってできます。心電図のモニターは外せませんが(ナースステーションに電波で飛ばしている)、浴衣に隠れているので見た目にはそんなに変ではないでしょう。ポータブルトイレも片づけてもらいました(部屋にトイレがあるのです。尿だけはまだ計測中なのでトイレに流してはいけないのですが)。
 問題は退院後の生活にあって、再狭窄が起きることがないように生活を全面的に変えていかなければなりません。死の一歩まで行ってしまった僕は、本を読むな、書くな、といわれない限り、どんなことも守ってストイックに生きていこうと思います。コーヒーを飲みたいと今も時々思いますが、飲まなくても生きていきます。目下、食事や水分摂取が制限されています。そのこともまた書いてみます。
 僕が長年研究しているアルフレッド・アドラーはアバディーンで客死しました。『アドラーの生涯』にどう書いてあったか思い出せないのですが、病院へ運ばれる救急車の中で死んだはずです。今の時代なら助かったもしれません。過酷な講演スケジュールと娘の失踪による心労は相当なストレスであったことを想像するのは難くはありません。

2006年4月28日金曜日
 今日は早朝に採血。朝食後、6ステージに進むための検査。部屋を歩いてみた。まだこんなことすら怖いが、世界が広くなった気がした。体重を量ったら53キロだった。かなり体重が落ちたが、もっと落としてもいいはずである(追記、その後10キロほど体重を落とした)。
 2時前、シーツ交換。昼からはもう何もないと思っていたので、意表をつかれた感じ。ベッドから降りて、作業が終わるのを待つ。
 岡田医師は韓国出張中なので代診の中川医師から室内歩行の許可が出た。室内歩行といっても一日二往復三回なのだが、部屋の洗面台も使えるわけでかなり自由度が増した。少し歩いてみたが、体力が衰えているというか、まったくないので、あせらないで回復に努めたい。今日はこれで二度目の歩行、とカウントしているうちはまだ次のステージには進めないのだろう。
 3時頃、薬を塗りに看護師さんが来室。まだ書いていなかったのだが、今回、入院する直前までアトピーがひどく、17日に皮膚科に受診している。痒みと痛みで夜も寝られず、レンドルミンを処方してもらった。
 入院直後は絶対安静で体位を変えることすら許されなかったわけだが、21日に皮膚科の寺崎医師に診察してもらった。はっきりとしたものいいをされるこの先生は僕の身体を診て、よくなる、といわれた。塗り薬も飲み薬もすっかり変わった。看護師さんたちの手を煩わせることになったのは申し訳ないのだが、劇的によくなった。記録では、23日の夜はまだ痒みのために眠れず、一日監視されている身体に貼ってある心電図モニターの電極を次々に外したりしていたようだ。その日の深夜の看護師さんは、その様子をずっと見ていて、全部を外すことにした、と翌朝聞いた。「息をしていたらいい」という言葉に笑ってしまった。肌が硬化しているためかテープが剥がれてしまうのである。日曜の昼間の看護師さんはずいぶんと熱心に剥がれない工夫をしてくださったが、この日を境に剥がれることは少なくなった。肌の状態がよくなったからだと思う。痒みなどもほとんどなくなり、夜も穏やかに過ごせるようになった。今回のアトピーは1998年の夏以来のものなので、今回の入院をきっかけに完治したら、と思う。
 オペ後の大きな変化は深呼吸ができるようになったことである。僕は前は呼吸が浅く、肩で息をしていた記憶がある。それが今は空気をしっかり吸うことができる。どれくらい酸素を吸収できているかを示す値があるのだが、97~8%である。24日に酸素吸入をやめてからも、問題ないようである。今回の病気は心筋に十分な(というかまったくというべきか)酸素と栄養がいかなくなったからなのだが、心筋のみならず身体の隅々、末端の皮膚にまで酸素が供給されているような気がする。
 さて、話を戻すと、25日に寺崎医師から治りの遅い腰から下については、日に三回薬を塗るようにという指示が出た。僕はもう点滴も外れているわけだから、看護師さんの手を借りないでも自分で塗れるわけで、実際、昨日は忙しいのか、誰も看護師さんが来室しなかったので自分で塗った。自分で塗るほうが気持ちとしては楽ではあるが、身をかがめたりして塗っていると負荷がかかるように思うのである。それと、入院する前に起きた最初の発作時に、僕は強い痒みを感じ、体中が傷だらけになるほど掻いてしまったようなのである。今も薬を塗っているとその時のことがフラッシュバックして怖くなる。これはPTSDであるなどとはアドラー派の僕としては口が裂けてもいえないのだが。
 そんなこともあって、3時に看護師さんがこられた時、僕はひどく困惑した。「お塗りしましょうか?」といわれ、思わず「お願いできますか」といって甘えてしまった。塗りながら「こうしていると楽ですか?」とたずねられると「はい」といってしまう自分が恥ずかしい。
 その看護師さんがいわれる。「ただ助かった、で終わる人もおられるのですけどね。でも、これからのことを考え、ゆっくり休んで、お若いのですから、もう一度生き治すつもりで頑張りましょう」。この人は若い人に見えた。人の賢さは年齢には関係がないことがよくわかる。

 高校の時の恩師も心筋梗塞で亡くなったことを思い出しました。突然襲う病は準備ができていないとパニックを起こします。プラトンは「哲学は死の練習である」といっています。まだまだですね。
 夜、息子からメールがきました。GWに帰省するので見舞いにくると書いてありました。心配したという話に続いてこんなことが書いてあって、息子らしい書き方だと思いました。「正直今まで健康的とはいえない生活を送ってきたことは否めないわけで、これを機に生活習慣全般を見直していったほうがいいと思う。長生きするために」。こんなことしてたら死ぬ、とよく息子にいわれていたのです。


2006年4月29日土曜日
 2004年の2月9日の日記に、僕はこんなことを書いている。「夢の中で足がひどく重くなって歩けなくなることがある」。立ち止まって、一体どうしてしまったのだろうと思う。この時、僕はこの夢は、かつて捻挫したり骨折した足の痛みのことを指しているのだろう、と思った。しかし、今になって振り返ってみると、一種の予知夢なのかもしれない、と思ったりもする。あるいは歩けなくなって蹲った時ふと思い出したという意味では一種のdeja vueといえるかもしれない。
 この四月から哲学の教授になった友人が夢に現れる。「よかったね。おめでとう」というと、いつもクールな彼はこういうのだ。「本当は君はそんなことをいうつもりはないのだろうね」。こちらにきてから時間だけはたっぷりあるので本をあれこれ読んでいるのだが、今読んでいるPaul AusterのThe Invention of Solitudeに彼が研究していたドイツの詩人ヘルダーリンの話が出てきて、朝方の夢を思い出した。一体、僕は何というつもりだったというのか。
 25日夕方の岡田医師との話の続き。「まあとにかく静かにしていてください」という主治医の言葉を僕はかなり厳格に守っていると思う。メンタル・ストレスが一番いけない、といわれる。「でも、先生がこの頃お疲れだと看護師さんたちがいってましたよ。心配だって」。僕よりもう少し年輩に見える岡田医師は瞬間嬉しそうな表情をされた。
 僕も今の仕事をしていていつも感じるのだが、無理をしないで、といっている当の本人が一番無理をしているという現実。岡田先生は、後進を育てたいが、24時間態勢、絶えず待機していなければならないこの仕事を引き継ぐ人が少ないといわれる。
「医師になりたての頃からずっとこのオペをし続けて、私もいつまでも若いと思っていたが、いつのまにか25年が経ってしまった。たしかに学生の頃は、私も哲学の本を読み、興味を持っていたが、そんなこともできなくなってしまった。たしかに大変だが、だからといってしんどいからしないというようでは困るのです」
 僕と話しているはずの先生はいつもどこか遠くの方を眺めて話される。
「心筋梗塞は怖い病気です。愛する人の前で、その場で死亡宣告をしなければならないこともあります。たしかにあなたは助かりましたが、失ったものもたくさんあるのです。
 運命のようなものを感じないわけにはいきません。どこで倒れ、どの病院に運ばれたか、救急車を呼ぶタイミングが遅れたとか、救急車が渋滞に巻き込まれてしまって、そのために治療開始が一時間遅れたとか…そんなことが生死を決めてしまうのです」
 僕はこれまでの人生を振り返って強運だと思ったことはないのだが、心筋梗塞で倒れたことは不幸なことだったとしても、19日の朝に自宅で倒れたことは幸運だったと思う。アドラーの二の舞いを演じることになっていたかもしれないのである。19日以前の日記を読み返していると、今回の「大きな最初の発作」(岡田先生)に先行して何度か発作を起しているのがわかる(4月18日の夜)。下手をすればこのまま死んでいたかもしれないのである)。しかし、その時ではなくて、19日の朝に、今のこの病院に運ばれ、岡田医師にオペを手がけてもらわなければならなかったのである。もちろん、後進の若い医師を先生が育てられていることは知っているが、学会出張で不在で他の先生によるオペであればまた違った結果が出たかもしれない。
 23日くらいからノートにメモや断想を書き留めていたのだが、手書きはたいそう疲れた。読みなおそうにもほとんど判読不可能である。その頃はまだ身体が今ほどには回復していなかったこともあるだろう。その後、キーボードで打てるようになってからはほとんど力が要らないのでありがたい。それでもiTunesで音楽を聴くためにコンピュータを持ち込んだが、最初はキーを叩く気にはなれなかった。Audio Expressというプログラムを持っているので、声を録音したこともあった。三回にわけて30分くらい入院した時のことから始めて話したが、これはだめだった。一つにはその頃は声を出すだけの力が十分なかったということ。そして、まだ入院後日が浅かったので、入院時の話をすると落ち込んでしまったのである。今は、キーボートを叩いていると疲れないわけではないが、もしもそうしていなければ、制限回数を超えて歩いてしまいそうであり、そのことは確実に負担になるのがわかっている。ようやく歩けるようになったので部屋の戸を開けてみたら廊下があった。反対の並びにも病室があるかと思っていたらなくて、窓から遥か遠くの山まで見渡せるのである。早くこの廊下を歩きたい。逸る心を抑えて安静に努め、養生したい。
 岡田先生は続けてこんな話をされた
「なぜ私がという被害者意識が出てくるのです。他の人は呑気にやっているのにというような」
 あの時、死んでいたかもしれないのだから、今こうして生きているだけでありがたいことなのだが、休職を保障されているわけではない自由業の僕としては失ったかもしれない仕事のことを思うと、先生がいわれるような気持ちになることはありうるだろう。いや、最初に書いた四月に教授になった友人の夢を思うと、既にそんなことを思ってしまったのかもしれない。仕事のことは、今は考えないようにしている。
 1時過ぎに父がきた。年老いた父にこんなふうに会うのはなかなか辛いものがある。状態を伝えると、心臓カテーテルの検査、治療経験がある父は「私とは違う。ずいぶんと重い」とうなっていた。昔から心配のかけ通しである。
 ようやく夕食の時間である。空腹でくらくらする。ここでは何事も急いではいけない。わずかな量の食事を一人で黙って食べると10分もかからない。食べたら後はまた長い夜が待っている。一食あたり1600kcal。減塩食(7グラム)である。水分も制限されていて一日1000ml。この分ではこの先、一生外食できないのではないかと思ってしまう。

2006年4月29日土曜日(夜)
 退院後のことについて僕の担当看護師である北原さんとしばらく話しこんだ。ニトロの服用の仕方について教えてもらった。狭心症には効果があるが、心筋梗塞にはさほどではないという考えもあるが、退院時に処方されるようである(追記、僕は処方されなかった)。仕事の復帰の話も少し話題になったが、これについてはまだ考えないでおこう。リハビリのプログラムを律義に守っていることを認めてもらっていてよかった。人によっては胸の痛みがなくなったということで、勝手に出歩いたりするというようなこともあるらしい。「そんなことをいわなくてもわかってられるでしょうからいいませんでしたけど」血管が壊死してもろくなっているので、心臓に負荷をかけると血管が破れることもあるという話は怖い。
 パリとロンドンに行った話は楽しかった。「モナリザの写真、たくさん撮りました」「僕もです。でも、今は規制されているみたいですよ」といった他愛もない話。「また行けますよ」という言葉に励まされた。

2006年4月30日日曜日
 今日は日曜日なので、平穏な日になるだろうと思っていたら突然一般病棟に移るようにいわれた。この数日、もう移ってもいいかなと思っていたから、了承したのだが、せめて午前中にでもいっておいてくれたら、と思わないわけにいかなかった。というのも、今日は妹夫婦が、遅れて妻が見舞いにきてくれたのに、病室を移動する時間は誰もいなくて、僕は荷物を整理して鞄に入れたり、心臓のリハビリ中なのにこんなのいいのだろうかと思いながらも、看護師さんもこないので少しずつ用意していたら、今年看護師一年目の久保田君が、転室はどうやってするんだろうといういささか緊張気味の表情でやってきた(「君」と呼んでしまいたくなる好青年なので久保田君)。

 彼は、昨日、今日と二日続けて僕の担当だった。
「二日〔担当が〕続くことってあまりないですよね」
「僕は新人なので、状態の落ち着いている人しか担当させてもらえないのです」
 なるほどそういうわけか。最初の印象とは違って、少しずつ気を許し始め、なぜ看護師になったか、看護学校時代クラスには男性は三人しかいなかったこと、今でもナースコールを受けるのが怖い、採血は苦手(先輩に任せる)というようなことをぽつりぽつりと話してくれた。
「僕は患者さんと話すのが一番好きです」
 そんなふうには見えなかったな、と思いながら、清拭をしながら話をしていたらもうとっくに作業を終えているのに、いつまでも話し続けるのでさすがに僕はかまわないけれど(僕には時間の制限がない)、大丈夫だろうか、と思っていたら、先輩看護師の声が聞こえてきた。「久保田く〜ん」行方不明の彼を探しにこられたわけだ。
「は、はい」
「久保田君、もう処置は終わったの?」
「はい! 後801号室だけです」
「終わってないじゃない!!」
 部屋に戻ってきた久保田君は、ばつの悪そうな顔で僕を見て「聞こえてました?」と苦笑する。「うん、頑張ってね」。新人看護師は大変。
 今度の部屋はこれまでとは別の棟にある。さぞかし眺望のいい部屋に移れるかと期待していたら、大きなエアコンの外部機械(何というのだろう)があったりしてほとんど何も見えない。拘禁反応が出たらどうする、とつまらない冗談をいったりもしたが、まだ外に出ていけない僕には辛い。部屋が空いたら眺めのいい部屋に移してほしい、といっておく。病棟は新しく設備も整っていて、ホテルのシングルの部屋のように見えないこともない。
 今日は妹夫婦がきてくれた。遅れてやってきた妻を交え、4人で話す。25年前、母が入院していた頃、昨日、きてくれた父とこの4人が主たる介護要員だった。24時間態勢でシフトを組んで僕たちは母のそばにいた。思えば長いつきあいになる。
 息子とのメールのやりとり。
「生活については全面的に変えないとね。仕事もこれからどうなるかわからない。でも、これは当面考えないでおくよ。今は身体を治すのが第一だから」
 こんなふうに書いたら、すぐに返事がきた。
「そう、今は体のことだけを考えといたらいいんだよ」
 昨日、僕の担当の北原さんが消灯前に再びこられ、話しこんで帰っていかれた。話している間に他の準夜勤の看護師さんが部屋の戸を開けられたが、「あ!」といってすぐにいってしまった。彼女はベテランだから久保田君のように叱られたりはしない。今度は僕が彼女の話を聞く番で、看護師という仕事について、今後の生き方、さらには趣味の話まで、いろいろ。退院してもお友達になってくださいね、と今度会ったらいおうと思ったのに、そのチャンスもなく、僕は病棟を変わることになり、担当看護師も変わってしまった。入院して以来30人くらいの看護師さんと話をする機会があった。ICUで二晩一緒だった看護師さんは「明日も深夜ですから、その時会えますね」といってくださったのだが、その前に救急病棟に移ってしまった。「岸見さんの話はおもしろいからもっとこよう」といっていた救急病棟の主任看護師さんとは再び話す機会がなかった。
 妹が持ってきてくれた音楽を聴いている。もうそろそろ寝なくては。明るい読書灯があってうれしい。本を読みながらいつのまにか眠れるのは幸せ。次のような歌を詠んだ苦しかった日々はついこの間のことなのだ。

 時の経つ証(あかし)求めて部屋の中探し当てし点滴の光
 真夜中に心臓の動悸鳴り止まず不安に怯え過ごしけり
 寝ねかての苦しき夜にふと君の気配感じて心安らぐ

 心電図の電極を三ヶ所つけているが、アトピーがひどくてつかないことがあった。一般病棟に移ってきた時、どう止めたらいいかたずねられた。このことについて詳しく知っている人は前の病棟では誰ですか、と問われた時、深夜動悸が止まらず(不整脈が出ていたわけではない)怖くてたまらなかった時、僕はためらうことなくいつまでもベッドサイドにいて、話を聞いてくれた看護師さんの名前をあげた。

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