エッセイ

2009年6月28日 (日)

理由は要らない

 昨夜は8時頃に寝てしまい、おかげで夜が長いことを実感することができた。常は父のところで思うように仕事ができないので、続きを帰ってからすると寝るのが遅くなってしまうのだが。
 自転車のタイヤに空気が入らなくなってしまい、このところ自転車に乗らずに歩いて父のところにきて帰っていたが、さすがに日中こう暑いと昼間に用事ができて出ていく時に影一つない田んぼの中に通った道を歩くのは危険なので修理を依頼した。電話をすると自転車を取りにきてもらえるので助かった。気をつけていたつもりなのだが、空気があまり入っていない状態で乗っていたので、タイヤの中のチューブが傷だらけになっていたようだ。前の籠に毎日重い荷物(本)を載せるのが問題なのかもしれない。
 学生たちはダイエットの方法をしばしば講義の時に質問するが、僕はといえば、体重が増えることはない。食欲が落ちているというようなことはないのだが。

 目下、金曜日に講義のために出かけている。ヘルパーさんがこられるまでに二時間ほど父は一人でいなければならないが、同じように他の日も過ごせないわけではないはずなのにそうすることができないことにはわけがある。
 要は、仕事があるという理由は、親を一人にすることを正当化するために必要なのである。
 親との関係がうまくいかないと感じること、親を前にするとイライラする、怒ってしまうということも、親から離れることを正当化する感情であろう。親のところへ行くと思うと気が滅入るというのも同じである。そのようなイライラ、怒り、憂鬱などの感情が起こるので、親のところへ行けないというのではない。反対に、親のところへ行きたくないという目的が先にあって、その目的を達成するために、これらの感情を創り出していると考える方が事態をよりよく理解できるように思う。
 どうすればいいのか(もちろん、ここでは離れていることが少しの時間であれば可能な状態に親がいるということを前提とした話である)。親から離れているために、理由は持ち出さなければいい。
 つまり、怒りなどを感じなくても、ただ離れる。仕事を理由にしなくても、ただ離れるということである。
 父がこちらに帰ってからまだ間もない頃に、母の介護を十年続けた絵本作家の言葉を落合恵子が引いているのが目に止まり『母に歌う子守歌』朝日文庫、pp.76-7、日記に引用したことを思い出した。
 「あの夜、わたしは駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだの」
 母親は待っている。でも、このまま帰りたくない、と思った。
 「でも、あの夜のわたしはどうしてもコーヒーを一杯ゆっくり飲んでから、帰りたかったの。どうしてもどうしてもそうしたかったの。あのまま家に直行するのはいやだったの。……まだ帰りたくないという、わたしの気持ちが通じたのかしら、娘をこんなにも疲れさせてはいけないと思ったのかしら、母は翌朝早くに亡くなった…」
 落合はこう語る彼女に「そんなにご自分を責めないで」としかいえなかったという。
 コーヒーを飲み家に直行しなかった翌朝に亡くなられたので、この時のことが強くこの絵本作家の印象に残っているのだろう。先に書いたことと関連していうと、親から離れる時には理由はいらないし、ここでいわれているように家に直行しないでコーヒーを飲むことに特別の思い入れをする必要はないと今は考えている。
 コーヒーを飲んでから帰ったことと翌朝亡くなられたことには因果関係はない。昔、母が死んだ時、病院に寝泊まりしていた。後、こんなことが一週間続いたら、僕の身体がもたないと思った矢先に母は死んだ。そのことで長く自分を責めたが、今はそんなふうに思う必要はまったくないと思えるようになった。

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2009年3月30日 (月)

できないことをできないという

 医院に勤務していた時、足を捻挫したことがあった。医院の勤務を終え、大学の講義に向かおうとしていたのだが急いでいて階段を踏み外したのである。骨折には至らなかったが、思っていた以上に痛みはひどく、全治二週間と診断された。
 私は足を捻挫した時、二週間休むことになった。最初一番困ったのがトイレに行けないことだった。トイレは階下にあるので(今、毎日きている父の家に生まれてから住んでいたのである)階段を降りる時に、どう松葉杖を使っていいかよくわからなかった。その上、激痛があったので、息子の肩を借りなければならなかった。息子は気持ちよく引き受けてくれた。中学生だったはずである。親と子どもの逆転。ありがたかったが、居心地が悪かった。
 堀江敏幸が、息子におんぶされて駅の階段を下りる女性のことを書いている(「流れを押しとどめること」『バン・マリーへの手紙』所収、岩波書店)。その女性は「ちょっと気のつよそうな、攻撃的なところがあるにもかかわらず、ぜんたいとしてはひどく優雅なのだ。庇護される側に立たざるをえないことを認識した瞬間、攻撃性が薄れて、本来の弱さがにじみ出てきたのだろうか」(p.113)
 僕の父にはその認識があるのかないのかわからない。攻撃性は抜けない。感情が全般に平板になったように感じられる今も僕には不快な表情をし、時に声を荒げる。僕が父のところにずっといることの意味がわかっているようには思えない。介護認定の調査員には、僕は日に一回はきている、という。ずっといればたしかに一回だろうが、入院していた時のことを思っていったのではないか、と思う。あの時は「日に一回」着替えを持って行き、様子を見に行っていた。
 自分でできることを他の人に頼るのは依存であり甘えだが、自分ができないことについて他の人の援助を求めることができることは、通常の意味とは違うが、自立である。反対に、できないことでも何でも自分でしようとすることを自立とはいわない。

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2009年1月29日 (木)

できると思うがゆえにできる

 たしかに事実としてできないこと、達成がきわめて困難なことはある。それでも多くのことは、最初から、あるいは少し着手した後、これは自分にはできないと思うことはないだろうか。アドラーはウェルギリウスの「できると思うがゆえにできる」という言葉を引いている(『アドラーに学ぶ』p.178)。もちろん、これは精神主義の類ではない。アドラーは自分を過小評価する危険を危険を説いているのである。自分を過小評価すると「もう追いつくことはできない」と信じてしまう。そして、そのことが、生涯にわたる固定観念になってしまって、進歩しなくなることがある。しかし、実際には、追いつけないというのは本当ではない。もしも子どもや生徒が自分について過小評価していれば、そのような評価、判断が誤っていることを指摘し、固定観念になることを阻止したい。
 アドラーは「誰でも何でもなしとげることができる」といっている。アドラーは才能は遺伝ではないと考えているからである。この見解は後に批判されることになったが、今日においても、遺伝や脳などの身体的な要因による説明で、何もかもわかったように考えることが、人の勇気をくじいていることはあるように見える。
 ある時、アドラーの数学教師が一見解けそうにない問題に立ち往生したことがあった。その時、アドラーだけが答えがわかった。この成功によって、アドラーの数学への心構えはすっかり変わってしまった。
 数学が苦手なアドラーの娘、アレクサンドラが、ある時、試験を受けずに家に帰ってしまったことがあった。「どうしたんだ? 君は本当に誰もができるこんなばかばかしいことをできないと思っているのかい? やろうとしたらできるんだ」。アレクサンドラはわずかな期間で数学で一番になった。
 自分の限界についての誤った固定観念を取り去れば、それだけでただちに何でもできるようになるかといえば、もちろんそんなことはない。どんなことも、最初は難しい。自転車に乗ることも泳ぐことも。どんなに難しくても、自分が取り組んでいることは自分でやるしかなく、誰も代わってくれない。しかし、根気よく、我慢して取り組めば、最初はとてもできないと思っていたことも、しばらくすれば、うまくできるようになるというのも本当である。
 それにしても、今こうして書いていると、私自身が大学院生の頃、指導教授に、君は論文を書くのは得意でない、といわれたことがずっと引っかかっていて、その後の人生で、論文を書く時など、その言葉がいつも心から離れず、苦手意識を持ち続けたことを思い出す。
 その後、著書を書くようになり、ある時、その一冊を先生に献本したことがあった。しばらくして思いがけず先生から返事がきた。そこには「いつのまにかこれだけの文章を考え書いて蓄積していたとは驚き感心しました」と書いてあった。不思議なことに、書くことについての苦手意識はこの時からなくなった。

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2009年1月17日 (土)

安心して、とはいえない

 日野原重明が、医師になって最初に担当した患者は、結核性腹膜炎と診断された十六歳の少女だった(『死をどう生きたか』二頁以下、特に八~一〇頁)。この少女は結核にも罹患していたが、当時は結核に対する有効な治療法はなかった。家族は母親だけで、工場で働く母親は、日曜日にしか見舞いにくることはできなかった。
 ある日曜の朝、容体が急変した。嘔吐が続き、腸閉塞の症状を示し、血圧が下がり、個室の重症室に移された。苦しみを止めるにはモルヒネを注射するしかなかった。日野原は「今日は日曜日だから、お母さんが午後からこられるから頑張りなさいよ」といって励ました。
 モルヒネを注射すると、まもなく苦しみが少し軽くなったようで、大きな眼を見開いてこういった。
「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生にきていただいてすいません。でも今日はすっかりくたびれてしまいました」。しばらく間をあけてこう続けた。「私は、もうこれで死んでいくような気がします。お母さんには会えないと思います。先生、お母さんに、よろしく伝えてください」。そういって、彼女は日野原に向かって合掌した。
 日野原は次のように書いている。
 「私は一方では弱くなってゆく脈を気にしながら、死を受容したこの少女の私への感謝と訣別の言葉に対して、どう答えていいかわからず、『安心して死んでゆきなさい』などとはとてもいえず、『あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい』といった」(九頁)
 日野原がこういった途端、少女の顔色が急に変わったので、看護師に血圧計とカンフル剤を持ってこさせた。血圧を測ろうとしたが、血圧はひどく下がり、血管音はもはや聞くことはできなかった。
 「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」
 日野原は死に逝く少女にこのような言葉をかけながら、自分がいうことが真実ではないことを知っていたはずである。知識からも経験からも見えてしまう。
 この少女の死は日野原にとって最初の経験だった。
 「私は、いまになって思う。なぜ私は、『安心して成仏しなさい』といわなかったのか? 『お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ』となぜいえなかったのか? そして私は脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか?」(同上)
 思うに、「安心して死んでいきなさい、成仏しなさい」ということは、患者に信仰があれば可能だろうが、そうでなければいえない言葉である。また、医師自身が死後のことについて確信を持てないのであれば、「安心して」とはとてもいえないであろう。
 
 日野原が鈴木大拙(1870-1966、仏教学者、思想家)の主治医だった。血圧が異常に高い(180/60-240/80)ことに驚いた日野原はいった。
 「大拙先生の場合、血圧の高いということが、お仕事ができるということなのか。お仕事をされるから高くなるのか、どちらなのか判断しかねます。不思議ですね」(『鈴木大拙とは誰か』上田閑照・岡村美智子編、岩波現代文庫、p.192)
 腸閉塞で九十五歳で亡くなる。救急車で聖路加国際病院に到着した大拙は、意識は鮮明だったが、重篤な状態だった。
 「どんなふうに痛いのですか」
 「どうということはないが、痛いのはかなわんです」
 開腹手術は危険ということで見合わせ、内出血症状に対しては輸血を繰り返したが、血圧はどんどん下がった。
 「病気はずいぶん重いのです」
と日野原が率直にいうと、大拙はうなずき、
 「最善をつくしますよ」
というと、苦しい中にもうなずき、感謝の念を表明した。
 16歳の症状に「あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい」といった時と言葉かけが違うのがわかる。今わの際、「病気はずいぶん重いのです」といわれたら、一体、どう思うのだろう。あるいは、鈴木大拙はこの時自分が死ぬなどとはつゆ疑っていなかったのだろうか。
 亡くなる二時間ほど前に、
 「お寺の要職の方々が心配して部屋の外で待ておられるのですが、お会いなさいますか」
と日野原がたずねると、
 「誰にも会わなくてよい。一人でよい」
と答えた。
 秘書の岡村美保子が、「何かほしいものはありませんか」とたずねたら、No, nothing, thank youと大拙は答えた。そして「そんなに心配しなくていい」と岡村を気遣った。最後の言葉もNo, nothing, thank youだった。
 父の病気は今のところ幸い重篤なものではないが、主治医が僕に病状について話した時、それをそのまま伝えることができるか自信がない。

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2009年1月 1日 (木)

幸福感という力

in spite of resistance ...

 今日が何日なのかもうわからなくなってしまったと笑う父は、2008年最後の日もうつらうつらしていた。8.8度も熱が出たので前日にまして力なく、父を一人残して帰ることがつらかった。
 写真は去年最後に撮ったもの。鳥に抗う空気は、鳥が飛ぶことを妨げるどころかそれを支えるという意味のキャプションを書いたが通じるかわからない。

 年末に青山光二の『われらが風狂の師』(新潮文庫、絶版)を再読した。三高、京都大学講師の肩書きを捨て、東大の大学院に入学、その後、華厳経60巻のドイツ語訳を完成させた哲学者土井虎賀寿をモデルにした(小説の中では土岐数馬)この小説を若い頃読んだが、その時と違って心理学や精神医学を学んでいる今読み直すとまた違ったところに目がいく。躁鬱病という診断が正しいかは難しいところだが、躁病期の常軌を逸した土岐のまわりの人への被害は甚大なものがある。三高で教えを乞うた青山光二(作中では菊本辰夫)もその一人であるが、師の天才を愛して止まない。躁病期の土岐の生活が「虚」の部分であるとすれば、鬱病期は「実」の部分に当たる、と菊本は推測する。「実」は「虚」があって初めて成立し、虚の生活が充実していればいるほど実の生活もまた充実する。鬱病期の土岐の仕事への没入は人間業ではない(pp.637-8)。
 同じ青山が90歳の時に書いた『吾妹子哀し(わぎもこかなし)』(新潮文庫)という作品がある。ここにはアルツハイマー型認知症の妻が描かれている。記憶をなくしたはずの、失禁、徘徊を繰り返す妻が不意打ちのように口にする言葉から夫の杉圭介は二人の若き日の愛の思いを蘇らせる。
「そういえば、わたしの名前、何ていうんだったかしら」
「困りましたねえ。何ていうお名前でしたかねえ」
「でも、名前なんか要らない」
「わたしという人は、杉圭介という人の中に含まれてるんですから」
「哲学者みたいなことを云うね」
「あなた、たしか哲学者だったのよね」(p.214)
 高橋英夫の解説によると青山の『美よ永遠に』という作品に次のような作中人物の言葉がある。
「天才という存在(もの)が人間仲間に与える幸福感という力があるように思う」
 『われらが風狂の師』の土岐数馬も、『吾妹子哀し』の杏子もここでいわれる「天才」であろう。まわりにいるものにとって「幸福感」を持つことは困難なことではあるが、この二月父と暮らして父が僕に与えてくれたのはたしかに「幸福感という力」である。

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2008年12月 6日 (土)

美しい時間

 加藤周一が亡くなった。父が持っていたわずかな本の中に加藤の『読書術』があった(後に、岩波現代文庫として刊行)。何度も繰り返し読んだ。
 高校時代に繰り返し読んだのは『羊の歌』(岩波新書)だった。医学部の学生でありながら文学部の講義を聴いていたという加藤の回想を読み、学問に憧れた。
 僕が書いた本の中でも加藤周一の著書から多く引用している。
 以下、折に触れて書いたものから。

 加藤周一は、南方の島で戦死した友人についてこんなふうに書いている。
 「一人の友人にくらべれば、太平洋の島の全部に何の価値があるだろうか。私は油の浮いた南の海を見た。彼の目が最後に見たでもあろう青い空と太陽を想像した。彼は最後に妹の顔を想いうかべたかもしれないし、母親の顔を想いうかべたのかもしれない。愛したかもしれない女、やりとげたばかりかもしれない仕事、読んだかもしれない詩句、聞いたかもしれない音楽……彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、「だまされて」死を択んだのでさえもない。遂に彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである」(『羊の歌』p.198)

 加藤周一の次の指摘は頷ける。戦争中の私的な会話においてでさえ、戦争に賛成していた人びとの背後には、権力があり、いいたいことを自由にいって周囲を憚る必要がなかったのに対して、戦争に反対する議論は、権力を憚り、多くの禁句を避け、自説を擁護するのに、根拠の半分しか指摘できなかった(『続・羊の歌』p.214)。今は言論の自由が当時に比べればあるはずなのに、権力を傘に暴言を吐く人は多いように思う。

 渡辺一夫の『敗戦日記』の続き。今は日記を読み終え、串田孫一宛の書簡を読んでいる。
 「拝誦、田舎で洋書を開いたり、横文字を書いたりするのがキザ……とはいかにも君らしい感慨だと笑ってしまひましたが、これは重大なことなのです、キザだとて思つてよしたら、君は日本人の一番悪いところに負けるのです」(1945年5月22日)
 電車の中で洋書を読んでいたら憲兵に文句をいわれ、これはドイツ語です、といったら殴られたのは加藤周一ではなかったか。

 加藤周一の『小さな花』(かもがわ出版)。人は誰も「美しい時間」をもっている。加藤の経験はこうだ。

 「細い径の両側に薄の穂がのびて、秋草が咲いていた。雑木林の上に空が拡がり、青い空の奥に小さな雲が動く。風はなく、どこからも音は聞えて来ない。信州の追い分けの村の外れで、高い秋と秋草の径は、そのとき私に限りなく美しく見えた。たとえ私の生涯にそれ以外の何もないとしても、この美しい時間のあるかぎり、ただそのためにだけでも生きてゆきたい…」(「美しい時間」p.9)

 このような「美しい時間」は計画して手に入れることはできない。人生設計には役立たない。しかし何のために人生設計をするのだろうか。加藤はいう。

 「何のために働き、苦労をし、時々気ばらしをしながらでも、生きてゆくのか。美しい時間が人生にどう役立つかではなく、それが私の人生にどんな意味をあたえるかということだけが、根本的な問題であるように私には思われる」(p.11)

 美しい時間は誰でも持つことができる。

 「その人にとっての一つの小さな花の価値は、地上のどんなものとも比較しても測り知ることができない。したがってそういう時間をもつ可能性を破壊すること、殊にそれを物理的に破壊すること、たとえば死刑や戦争に、私は戦争に賛成しないのである」(ibid.)

 どんな花が世界中で一番美しいだろうか。

 「一九六〇年代の後半に、アメリカのヴィエトナム征伐に抗議してワシントンへ集まった「ヒッピーズ」が、武装した並列の一列と相対して、地面に座り込んだとき、そのなかの一人の若い女が、片手を伸ばし、眼のまえの無表情な兵士に向かって差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかっただろう。その花は、サン・テックスSaint-Exの星の王子が愛した小さな薔薇である。また聖書にソロモンの栄華の極みにも匹敵したという野の百合である」(pp.36-7)

 一方で史上空前の武力、他方に、無力な女性。一方に、アメリカ帝国の組織と合理的な計算、他方には無名の個人とその感情の自発性。権力対市民(国民ではないだろう)。自動小銃対小さな花。

 一方を他方を踏みにじることはできない。人は小さな花を愛することはできても、帝国を愛することはできない。「花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである」(p.37)。権力の側につくか、小さな花の側につくのか。選択を迫られることが人生においてはある。ピーター・フォークが日本国の天皇から招待された時のことを加藤は伝えている。その晩は先約がある、と断ったのである。

 「私は先約の相手に、友人か恋人は、一人のアメリカ市民を想像する。もしその想像が正しければ、彼は一国の権力機構の象徴よりも、彼の小さな花を選んだのである」(p.38)

 権力に対して人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、常に限りなく美しく感じるのである、という加藤に同感する。

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2008年11月20日 (木)

「全体」を聴く

2008年11月20日木曜日
winter has come ...

 父の愛犬を連れて散歩している時に撮った。もう少し近づきたいと思うのにもう帰るといって聞かないので困った。ちょっとした気配にも逃げるアオサギが今朝はじっとしていた。

 武満徹があるピアノのコンサートの後でこんな感想を記している。ホールのすみでこんな話を耳にしたという。非常に失望した、ペダルの使い方が下手で、低音が濁って汚い、云々。専門の技術批評も及ばぬほど細を穿つ会話はしかし武満を失望させる。この人たちは高い入場料を払って、いったい何を聴きに来たのだろうか、私は大変楽しく聴いたのに、と。
 「それにしても音楽はその全体が肝心なので、ステレオ・プレイヤーの部品を論ずるような技術批評は好ましくない」
 「技術的な品定めもだいじではあろうが、音楽を聴くことがもっともだいじではないか」(『武満徹 エッセイ選—言葉の海へ』ちくま学芸文庫、p.314)
 武満は別のところでこんな話もしている(pp.180-1)。
 友人の一人が小学校時代鉱石ラジオを作ることに夢中になった。最初に音が出た時、大いに感動した。その時流れていた音楽は大変難しそうなもので驚く。それまで音楽というものを意識して聴いたことはなかったが、すばらしいと感じた。
 その曲がベートーベンの第9交響曲であることがわかったのは、後になってからだった。数年後、その人はカラヤンの指揮するベルリンフィルによる第9の生演奏を聴いた。しかし、彼にとっては、鉱石ラジオの遠くから聞こえてくるような音楽の方がすばらしかった。
 小学校の時、鉱石ラジオを作ろうと思ったが、1000円という当時の雑誌に書いてあった材料費を僕は親にほしいといえず断念したことを思い出すとともに、この人が鉱石ラジオから第9を聴いた時のことが想像できるように思った。どんなすぐれた音響装置にも、生の演奏にもこの時の感動を再現できなかったのはわかる。
 武満がいう音楽で肝心な「全体」を聴くというのはこのような聴き方なのだろう。

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2008年10月31日 (金)

生きぬきたくても

meditative darter ...

 忙しくしていて写真を撮りにも行けてない。昨日の夜、初めて部屋の中にいるのに寒いと感じた。この写真は20日に撮ったが、写真仲間はもう蜻蛉を見かけなくなったという。この日、夏の間蓮が咲いていた池に行くと、たくさんの蜻蛉が蓮の葉や茎に止まってじっとしていた。

 「リハビリをめぐって」の中で診療報酬制度が改定され、リハビリ医療が発症から180日に制限された、社会学者の鶴見和子のことを引いて書いたが、昨夜、鶴見の『遺言 斃れてのち元まる』(藤原書店)を読んだ。この本についてはまた別に書いてみたいと思っているが、その中の「老人リハビリテーションの意味」を読み、胸が痛んだことを書いておきたい。
 鶴見は、1995年に脳出血で倒れ左半身麻痺になった。その後、十年以上、リハビリを続けてきたが、それまで月に二回受けてきたリハビリをまず一回に制限され、その後は打ち切り(自主リハビリテーション)になると宣言された。80歳以上で、大腿骨骨折の手術をした老人は、リハビリテーションをしても回復の見込みはないから、無駄というのが理由である。このエッセイには書かれた日付が記してある。月一回のリハビリテーションが終わるのが2006年6月1日だったが、5月31日に背中に痛みを覚え、起き上がれなくなった。背骨の圧迫骨折だった。
 リハビリテーションによって機能が全面的に回復することは困難である。しかし、リハビリテーションを続けることで現在残っている機能は維持できるが、維持しなければ機能は低下し、やがて寝たきりになる。老人が寝たきりになれば政府が捻出する介護費用は、リハビリテーションを減らして倹約した金額よりもかさむことになる。費用を捻出するつもりが、逆になる。鶴見はいう。
 「戦争が起これば、老人は邪魔者である。だからこれは、費用を倹約することが目的ではなく、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。老人を寝たきりにして、死期を早めようというのだ。したがってこの大きな目標に向かっては、この政策は合理的だといえる」(p.170)
 老いも若きも天寿をまっとうできる社会が平和な社会である。だから生き抜くことが平和につながる。
 「この老人医療改訂は、老人に対する死刑宣告のようなものだと私は考えている」(p.171)
 このエッセイには書かれた日が記されている。2006年6月15日。6月5日に先に紹介した次の歌を詠んでいる。
 政人(まつりごとびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ生きぬく道のありやなしやと
 エッセイを書いた2日後、6月17日に発病。7月31日に亡くなっている。この間のことは内山章子による「姉・鶴見和子の病床日誌」に詳しい(『遺言』所収)。鶴見との往復書簡集の共著(多田富雄、鶴見和子『邂逅』藤原書店)がある多田富雄は「直接の原因は癌であっても、リハビリ制限が死を早めたことは間違いない」といっている。同感である。

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2008年10月30日 (木)

貢献感

flower made out of paper by hand?

 どうしてもコーヒーをの中で介護のことを書いたところコメントをたくさんいただいた。ありがとうございます。
 僕は母が病気で倒れる前ではただただ受けてばかりだったが、病床にいて初めて(少しは)自分が役立てていると思えた。母がまだ元気だった頃、僕は母に自分も習ったばかりのドイツ語やフランス語を教えたことがあった。動けなくなってから、母がドイツ語を教えてほしいといいだしたので、アルファベットから勉強し直したことがあったことは、本にも書いたし、講演などでもよく話した。洗濯をしたり、下の世話をすることは慣れない僕には大変で、またもっぱら深夜についていたので若かったとはいえ体力的にはかなりきつかった。しかし、それでも役に立てているという感覚はたしかにあった。
 僕自身も病気になった。その時、まわりの人の世話になった。できることは自分で、と思っても、寝返りをすることすら、看護師さんの手を煩わせなければならなかった。そんな時に他者の援助を受けてもいいのだと思えるためには勇気がいった。しかし、他者の援助が必要な人には、僕が母によって役に立てていると感じられたように、貢献感を持てる機会を他者に提供していると考えていいのではないだろうか、とその時も思ったし、思わなければあせりばかり感じたと思う。後にこのことは本にも書いた(『アドラーに学ぶ—生きる勇気とは何か』pp.80-1)。
 介護の大変さを少しだけ知っているので安易にいえないのは知っているが、介護、看病する側にある人は病者から得えいるものがあることを伝えてほしい。それが病者の生きる勇気になりうると思うからである。

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2008年10月28日 (火)

どうしてもコーヒーを

go on blooming ...

 夜遅くまで講義の準備をしていた。

 森有正がある本を引いて、大切なことは、デカルトのように生きることであって、デカルトを論じ理解することではないという一文に心打たれたと書いている(『砂漠に向かって』全集2、p.430)
 今日はずっとこの言葉が頭に残っていた。僕の場合は、デカルトではなく、プラトンやアドラーの名前が代わりに入るわけだが。
 今年も増刷になった『アドラー心理学入門』のあとがきにアドラーの友人だった作家のフィリス・ボトムの言葉を引いて、アドラーが、自分が創始した心理学は理論であるばかりでなく「心の態度」である、といっていたことを伝えていることを書いた時に念頭にあった理論と実践の問題は今も考え続けている。ここでアドラーが「理論であるばかりではなく」といっていることは注意したい。理論では<ない>とはいっていない。日常的な意識のあり方と抽象的な思考をする意識のあり方は、両立不可能なところがあるとある哲学者はいっているが、哲学や心理学(少なくともアドラー心理学)は抽象的な思考をしていては学べない。現実の諸条件をすべて考慮に入れなければならないからである。一般的な人について考えても意味はないだろう。高校生の頃、夕食は何にしようと思ったとたん物理の公式が雲散霧消するといっていた先生があったが、生きることの基盤から離れた思考は意味がないだろう、と考えている。昔、野田俊作先生に井戸端会議ができる哲学者になれ、といわれたことをよく覚えている。たしかにソクラテスは井戸端会議ができる哲学者だった。

 母の介護を十年続けた絵本作家の言葉を落合恵子が引いているのが目に止まった(『母に歌う子守歌』朝日文庫、pp.76-7)。
 「あの夜、わたしは駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだの」
 母親は待っている。でも、このまま帰りたくない、と思った。
 「でも、あの夜のわたしはどうしてもコーヒーを一杯ゆっくり飲んでから、帰りたかったの。どうしてもどうしてもそうしたかったの。あのまま家に直行するのはいやだったの。……まだ帰りたくないという、わたしの気持ちが通じたのかしら、娘をこんなにも疲れさせてはいけないと思ったのかしら、母は翌朝早くに亡くなった…」
 落合はこう語る彼女に「そんなにご自分を責めないで」としかいえなかったという。
 母が脳梗塞で入院していた時、週日は家に帰られず、病院で泊まっていた。夕方から深夜までは父や妹らが代わってくれるのでその間、病院の中にあった重症患者の家族用の部屋で寝た。まだ若かったが、次第に力がなくなってくるのは日に日にわかった。ある日、こんなことが後一週間続いたら僕の身が持たないと思った。その矢先母は死んだ。そのことで後々まで自分を責めることになった。
 もしも僕がその時の自分に声をかけられるとしたら、落合と同じようにいっただろう。

 バイパス手術退院後の日々を登録しました。

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