アドラー心理学

2009年12月22日 (火)

ほめることと勇気づけ

ほめることと勇気づけ

 子どもたちが課題を前にしてそれにどのように取り組むかは、本来子どもの課題であって、親の課題ではない。ある課題、たとえば、勉強をしなくても、そのことによって起こる結末は、子ども自身が引き受けなければならないのであり、また、そのことによる責任も、子どもが引き受けるしかないのである。
 とはいえ、親としては、子どもが難儀していたり、手をこまねいていたりしていれば、なんとか援助したいと思うであろうし、そうすることが必要な場合はある。その親による援助が適切なものであれば、成功するかどうかは措いておくとしても、子どもは課題に取り組む気になるだろう。子どもの課題を肩代わりすることはできないが、子どもが自分の課題を自力で解決しうるという自信を持てるように援助することをアドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいる。
 本稿においては、しばしばこの勇気づけとは取り違えられる「ほめること」と「勇気づけ」がどのように異なるかを明らかにすることを通して、本号全体で考察される子どものやる気が育つ援助について考察したい。

やる気を出さない決心

 そもそも、やる気は「育つ」のかどうかというところから考察を始めなければならない。子どもではなく、自分について考えてみるとわかるのだが、やる気が起こるのを待っていてやる気が出たことがあるだろうか。私はない。なぜなら、他ならぬこの自分が、目下取り組まなければならない課題を前にして、それをしないでおこうと決めているからである。したがって、このしないでおこうという決心を解除しない限り、やる気が出てくることはありえない。子どもについても同じことがいえる。
 それでは、なぜ与えられた課題をしないでおこうと決めるというようなことが起こるのだろうか。いくつか理由が考えられる。一つは、子どもが課題を達成できない、と思っているということがある。しかし、とうていできないようなことでなければ、課題を達成するための努力は当然必要であるが、達成できないわけではない。アドラーは、ローマの詩人、ウェルギリウスの言葉を引いて「できると思うがゆえにできる」といっている(1)。これは精神主義ではない。アドラーは、できないという思い込みが、生涯にわたる固定観念になってしまうことに警鐘を鳴らしているのである。この思い込みを解除する必要がある。アドラーの「誰でも何でもなしとげることができる」という言葉は、このような文脈の中で理解されなければならない(2)。
 次に、与えられた課題をしようとしないのは、それをまったく達成できないわけではないのに、自分が望むようには達成できないと思っているということがある。自分が望むようにというのは、たとえば、試験でいい成績を取りたいというようなことである。いい成績を取ること自体には必ずしも問題があるというわけではない。しかし、他者との競争に勝つために、あるいは、勉強以外の面では勝てないと思っている子どもが自分の劣等感を隠すためにいい成績を取ろうとするのであれば、望む結果を得られないことは明らかであると思う時、初めから試験を受けないでおこうと決めることがある。課題に取り組んで結果が明らかになってはいけない。やればできるという可能性を残し、それを決して現実化しないことの方が、たとえ課題に取り組まないことで非難を受けるとしても、はるかに望ましい、と考えるのである。
 以上のような時に「やる気がでない」ということは、課題に取り組まないことのいわば免罪符になる。ある課題をただ「しない」ということは許されないと思う。何か理由が必要である。もちろん、「やる気がでない」といってみても、そのような理由を他の人は認めないだろうが、少なくとも自分だけは納得できる。アドラーであれば、このような納得の仕方を「人生の嘘」というだろうが、課題を達成しないことを正当化しようと自分を欺いていることに本人は気がつかないし、気づきたくもない。一度もいい成績を取ったことがない子どもは、このようにして課題から逃れようとするだろうが、ある時、思いがけずいい成績を取った子どもも、次の試験でも同じ成績を取れるという自信がなければ、課題に取り組もうとはしない。

叱ること

 このように考えてやる気を出さないでおこうと決めている子どもに働きかける時には、慎重になりすぎることはない。多くの親や教師は子どもが勉強をしなければなんとかしようと思うだろうが、アプローチの方法を間違えば、事態は何も働きかけない時よりも悪くなってしまう。どちらのタイプの子どもも、課題を達成できないと思っているという意味で、勇気をくじかれている。そのような子どもが課題に取り組む援助をしたい。子どもが課題に取り組む援助をするのであって、課題に取り組ませるのではない。
 課題の達成そのものは重要ではないという子どももいる。そのような子どもは、親から何かの課題をするように指示されたというだけで、そのことを拒否する。
 このことは、親が子どもを叱る場合に起こりうる。叱られた結果、恐れをなして課題に取り組む子どももいるが、叱られても反発する子どもがいる。子どもは、親がいうことが正論であることを知っているのである。親は子どもにいう。早く宿題をしないと眠くなるというようなことをである。このようないわれなくてもわかりきったことを親からいわれるほど腹立たしいことはない。そう思った子どもは、課題に取り組むことを放棄しかねない。叱ることでは課題に取り組まないでおこうという決心を翻すことはできない。かりに子どもが大人の叱責によって課題に取り組んだように見えても、自発的に決心したのでなければ、いつでも簡単に元に戻るだろう。

ほめること

 それでは、叱らないでほめればいいかといえば、そうではない。叱られる場合と同じく、ほめられた子どもも自発的に行動するのではないからである。ほめられるために何かに取り組む子どもは、もしもほめる人がいなければ何もしない。たとえ誰も見ていなくても、自分の判断で行動できる子どもになってほしいのである。
 このほめることと勇気づけがどの点でもっとも異なるかといえば、ほめることは上から下という対人関係を前提としているということである。ほめられた子どもは少しもうれしくはない。親のカウンセリングに同行した三歳の女の子が、カウンセリングの間おとなしく待てたら、親は「えらいね」とほめるだろうが、夫のカウンセリングに同行した妻が、カウンセリングが終わった時に、夫から「えらいね」といわれてもうれしくはないだろう。むしろばかにされたと思うだろう。子どもも同じである。子どもは喜ぶと思う人は、子どもを大人と対等とは見ていない。そのような人は子どもをおだてるべきだといってはばからない。もちろん、おだてられて動く子どもは、自発的に行動したことにはならない。

勇気づけ

 それではどうすればいいのだろうか。子どもたちが課題に取り組まないでおこうとするのは、課題そのものが困難であるからというよりは、子どもの自分についての評価に問題がある。それが適切なものであれば、取り組む課題がたとえ最終的に達成できないということがあっても、最初から断念することはないだろう。アドラーは、子どもが課題に取り組まないのは、自分に価値がないと考えているからだ、という(3)。子どもの課題を大人が肩代わりすることはできないが、いわば側面から援助することはできる。子どもが自分に価値があると思えるよう援助するということである。
 子どもはどんな時に自分に価値があると思えるだろうか。そして、大人は子どもがそう思えるために、どんな言葉をかけることができるだろうか。自分に価値があると思えるのは、自分が役立たずではなく、人に役立っている、と感じられる時である。カウンセリングの間おとなしく待った子どもには、「えらいね」とほめるのではなく「ありがとう」といいたい。これは子どもが待つことで他者(この場合は親)に貢献できることを伝えることによって貢献感を持つ援助をするのがねらいであって、決して次回も適切な行動をさせるためではない。貢献感を持てる援助をすることで、自分に価値があると思ってほしいのである。自分が何らかの形で貢献できたことを知った子どもは、自分のことに価値があると思え、自分を好きになることができる。課題に取り組める子どもは、このような子どもだけである。
 このような子どもは、自分が優れていることを他者に示すために行動しない。また、他者から評価されるかどうかも問題にしないし、他者から認められることも求めない。他者から認められることはうれしいことであるが、子どもがそれを求め、期待するようであれば、たとえ貢献に注目してもほめることと変わりはないことになる。もしも優れていることを示したり、評価されること、認容されることが行動の動機であれば、そのようなことが達成できないと思えば、課題に取り組もうとはしないだろう。他者に貢献するためには、それによって他者からどう評価されるかは問題にならないし、たとえ課題を完全になしとげることができなくても、最初から課題に取り組まないよりはるかに望ましい。このように考えることができる子どもの関心は、自分ではなく、他者に向けられているのである。他者への貢献が行動の目的であれば、行動しないという選択肢は最初からない。したがって、やる気があるかどうかも問題にならない。やる気がでないと考える子どもは、自分のことしか考えていない。勇気づけは、子どもが自分から他者へと関心を向け変える援助をするというところからしか始められない。叱ったりほめるような即効性のあるように見える子どもへの働きかけは、結局は、回り道になるだろう。
 
【文献】
(1)アドラー、アルフレッド『子どもの教育』岸見一郎訳、一光社、一九九八年
(2)アドラー、アルフレッド『個人心理学講義―生きることの科学』岸見一郎訳、一光社、一九九六年
(3)Stone, Mark and Drescher, Karen, eds. Adler Speaks: The Lectures of Alfred Adler, iUniverse, Inc., 2004.
(『児童心理』2009年12月号)

| | コメント (0)

2009年11月 5日 (木)

失敗を怖れない

失敗を怖れない
 以前、ある大学で古代ギリシア語を教えていました。ギリシア語は難しい言語なので、初学者が間違っても少しも恥ずかしくはないのですが、この大学に入ってくる優秀な学生は、それまでわからないとか、できないという経験をしたことがなかったので、「わかりません」と素直にいえないということがありました。その一言がいえないばかりに、当てられても答えなかったり、講義に出てこなくなるのです。
 自分が他の人よりも劣っているのではないか。このように感じることを、アドラーは劣等感といっていますが、劣等感は、あくまでも自分が劣っているという「感じ」であって、実際に劣っているということではありません。ですから、誰から見ても美人と思える人が、自分の器量について悩んだり、実際には誰よりも勉強がよくできるのに、できないと思っているということがあります。秀才は失敗と、失敗することをことのほか怖れるように見えます。
 勉強については、その責任を取るのは子どもなのですから、親は、本来的には、子どもの勉強に手出しも口出しもできませんが、子どもが誤ること、失敗することを怖れないように援助することはできます。ところが、親は不用意に子どもの勉強に介入して、子どもの意欲をそいでしまいます。
 勉強はただ自分のためではなく、社会の役に立つためにするもので、自己満足のためにするものではありません。ところが、ほめられた子どもは、次もいい成績を取らないといけない、とプレッシャーを感じ、悪い成績を取って叱られた子どもは、次は叱られることがないように、どんな手段を使ってでもいい成績を取ろうとし、ただ結果を出すことに汲々とし、学ぶ喜びはさることながら、そもそも勉強の理解にもほど遠いことになりかねません。勉強することそれ自体よりも、親からどう思われるかばかりを気にする子どもは、結局のところ、自分のことにしか関心がないのであり、思うような成果が出せないのであれば、初めから課題に取り組まなかったり、勉強するとしても、自分のことしか考えていないので、苦しければたちまち勉強を放棄しかねません。
 間違うこと、失敗することは誰にもあります。大切なことは失敗から学ぶことです。失敗することからしか学べないといっていいくらいです。思うような結果を出せなくて落ち込んでいる子どもには不用意に声をかけないのがいいでしょう。落ち込みは子どもが自分で解決するしかないからです。「つらそうだね」と声をかけると、親に慰めてもらわないと立ち直れないと思うようになるかもしれません。もちろん、落ち込んでいる子どもに追い打ちをかけるようなことをいうことは、子どもの勇気をくじくことになり、いよいよ自分に与えられた課題に挑戦しなくなるでしょう。
 たとえ、課題を完全に解決できないとしても、できるところから少しでも取り組んでいける子どもになってほしいからです。そのためには、勇気が要ります。アドラーはその勇気を「不完全である勇気」「失敗する勇気」「誤っていることを認める勇気」と呼びました。このような勇気が必要なのは勉強だけではなく、この人生を生き抜くために必要であることはいうまでもありません。

| | コメント (7)

2009年6月 6日 (土)

勉強は誰のためにするのか?

 勉強は誰のためにするのかとたずねられて、親のためと答える子どもはないでしょう。勉強は他の誰かが代わりにできるわけではありません。勉強をしないことによって成績が下がることがあっても、それによって起こる結末は、子ども自身に降りかかり、その責任は、子ども自身が引き受けるしかありません。勉強が子どもの課題であるというのは、こういう意味です。
 子どもの課題であれば、親は原則的には子どもの課題に介入することはできません。親は子どもがあまり勉強をしていないように見える時に、当然のように「勉強しなさい」というような声をかけるのですが(しかもその言葉には怒りの感情が伴っています)、親がそういった時、子どもの反応が概してよくないのは、自分の課題にいわば土足で踏み込まれたというふうに感じるからです。しかも、親が声をかけるのは、勉強していない時であって、子ども自身も勉強しなくていいとは思っていないでしょうから、痛いところを突かれた子どもは、親に反発します。
 こうして、勉強の問題は、知らないことを学ぶことに喜びを感じ、やがては勉強することによって社会の役に立つという本来的な面から離れてしまい、親子の闘いにすりかわってしまいます。親に強いられて勉強していい成績を取ったことが、親に負けた、と考えて、勉強を放棄する子どもすらいます。
 私自身は子どもに勉強しなさいといったことはありませんが、あまり勉強しているように見えない時に、親として何かできることはないのか、と問われることがあります。できることはあります。勉強は今見たように子どもの課題なので、親が介入することは基本的にはできませんが、もしも子どもが親の声に耳を傾けることに同意するのであれば、勉強について話し合うことはできます。しかし、そのためには、まず勉強について話をしたい、と親が子どもにいい、話をしてもいいという子どもの合意が必要です。子どもが話したくはないといえば、残念ながら話はそこで終わりです。またいつでも相談にのるからその時は話してね、というふうにいうことはできます。
 実際、親子が膝を交えて勉強について話ができればいいのですが、大人が「このままだとどうなると思う?」といういい方をすると、子どもがそれを皮肉や威嚇と取ることはあります。子どもが素直に受け止めるためには、日頃の親子関係のあり方が問題になってきます。
 まず、子どもと親は知識や経験の点では違いはあっても人間としては対等だということをしっかり親が理解していることが必要です。「上から目線」を子どもは嫌います。勉強について子どもと話すために取る手続きが煩瑣であるとか、なぜ子どもにこんな物言いをしなければいけないのか、と思った人は要注意です。この親は本気で自分の人生について考えてくれているのだということが子どもに伝わる気迫は要りますが、熱血の精神主義は無効です。必要なのは、この親なら自分の課題である勉強について相談してみようと思えるような親になることです。そのためには、勉強以外の面で子どもとの良好な関係が築かれている必要があります。どうすればいいか。話は続きます。

| | コメント (0)

2009年4月13日 (月)

親は何ができるか

 もう何年も、もっぱら中学校受験をする子どもの親を対象として短いエッセイを書いているのですが、親が子どもの代わりに受験できませんし、どんなふうに子どもを援助できるかを考えるのは簡単ではありません。受験に限らず、ふだんの勉強も子ども自身が勉強しようという気になるのを待つしかないように思います。しかし、親ができることはありませんではそこで話が終わってしまいますから、ここから話を始めるのは難しく思います。

親は何ができるか?
 受験生も家族の一員であることは間違いありません。ですから、受験生という特権を与えられ、ただ勉強だけしていればいい、と子どもが思い、親もそれを認めているというのであれば、そのことによって問題が起こりうるということもあらかじめ知っておいてもいいかもしれません。もしも勉強しかしない子どもがいるとすれば(実際には受験を控えて勉強しなければいけないのに親が思うほど子どもが勉強しないことの方が問題かもしれませんが)それは、仕事中毒の大人や、恋愛のことばかりがいつも頭を占めている若い人が、それ以外の他のことにはまったく関心がないのと同じです。仕事ばかりしている人は、仕事が忙しいので家に帰ってまで家のことをするエネルギーも時間もないというかもしれませんが、本当のところはそうではありません。むしろ、仕事以外のことをしたくないので、仕事が忙しいことを仕事しかできないことの理由として持ち出すのです。
 子どもたちも、もしも親が受験のためにすべての時間をそれに向けられるような環境を作ると、勉強しないといけないからと、あれもこれもできないというようになるかもしれません。その上、実際には肝心の勉強もできていないということもありえます。これは困ったことではないでしょうか?
 家族の一員として協力できる子どもになることが先決である、と私は考えています。いや、今はいいのだ、と親が思い、子どもが協力することを学ばず、他の人に貢献する機会も与えられなければ、たとえ受験に成功しても、それから先の人生において子どもを待ち受けているであろう様々な―しかもおそらくは受験以上にむずかしい―課題を前にした時に、たちまち、子どもは勇気をくじかれることになってしまいます。人生における課題は協力することによってのみ解決できるからです。
 私はもちろん勉強しないでいいといっているのではありません。むしろ、家庭で受験生だからといって、特別視されるのではなく、親や他のきょうだいと良好な関係を持ち、家庭内で家族の一員として協力できるようになって初めて、勉強も進捗する、といいたいのです。なぜなら、協力することで、自分が他の人に役立てると思えた子どもだけが、自分のことを好きになり、勉強も含め、自分の課題を解決できる自信を持てるようになるからです。しかし、もしも自信を持てなければ、目下、子どもが直面する受験にも最初から挑戦しようとしなくなるかもしれません。そのようなことがないように、親としては何としても子どもの自信を育みたいところですが、そのためには叱咤激励すればいいというような簡単な話ではありません。不用意な親の言葉が、子どもの自信と勇気を容易にくじいてしまうのです。そうならないために、具体的に子どもにどんなふうに声をかけていけばいいかを学ぶ必要があります。それを学ぶことは、子どもに勉強できる環境を整えることと同じくらい、あるいは、それ以上に大切なことといえます。
 今の年齢の子どもはまだまだ親の援助が必要です。しかし、その援助が有効であるためには、つまり子どもが親の援助を拒むようなことにならないためには、一体、親は何ができるかを考えていきましょう。

| | コメント (0)

2009年2月11日 (水)

他者の承認はいるのか

 自分を受け入れ、自尊心を持つためには、他者から承認されることが必要だという人は多いように思います。
 そのようにいわれることは、たしかに嬉しいでしょう。そんなふうに他の人にはいいたいと思います。しかし、自分を受け入れ、好きになれるために、他者からのこのような承認が絶対必要かということになると、違うと思うのです。
 学校から帰ってから、寝たきりの曽祖母の下の世話をする小学生がいました。当然のようにそのようにしていました。私はある日その話を聞いて驚きました。小遣いをもらってもしないかもしれません。そこで、こんな話を聞いた、とそのことを私は親に話しました。すると、親はこういいました。
 「でも、あの子は勉強しません」
 たしかに親が子どもが曾祖母の世話をしていることに注目しないという親の対応は問題だと私は思います。しかし、彼はだからといって、何としても注目、承認されなければならないと思う必要はないのです。乳児は、先に泣くことでしか家族の注目を引くことができませんが、大きくなれば、家族の一員ではあっても、家族の中心でいることはできません。
 私は、注目されたい、承認されたい、と思うようになったのは、子どもの頃から受けた賞罰教育の影響である、と考えています。自分をほめる人がいなければ適切な行動をしない人があります。廊下にゴミが落ちているとします。ほめられたい人はまわりの様子を見ます。あなたなら誰がいなくてもゴミを拾いますか? ほめられたい人はほめる人がいなければ何もしません。これはおかしいでしょう?
 注目されることを行動の目的と見る人は、最初ほめられたいと思ってする行動は表面的には適切なものであっても、期待する注目が得られなければ権力争いになるということは先に見ました。
 ここで注意したいのは、他者からの注目、承認はいらないといっても、他者、あるいは、もっと広く社会との結びつきがない、あるいは、必要がない、ということではないということです。ことさら承認を求めなくても、人は他者との関係の中に生きている限り、承認されているからです。他者からのことさらの承認や、絶え間ない注目がいらないという時、これは行為の次元でのことで、他方、人は他者との関係の中に生きている限り、たとえ何をしなくても他者からの承認を受けているというのは存在の次元でのことなのです。

| | コメント (5)

2009年1月29日 (木)

できると思うがゆえにできる

 たしかに事実としてできないこと、達成がきわめて困難なことはある。それでも多くのことは、最初から、あるいは少し着手した後、これは自分にはできないと思うことはないだろうか。アドラーはウェルギリウスの「できると思うがゆえにできる」という言葉を引いている(『アドラーに学ぶ』p.178)。もちろん、これは精神主義の類ではない。アドラーは自分を過小評価する危険を危険を説いているのである。自分を過小評価すると「もう追いつくことはできない」と信じてしまう。そして、そのことが、生涯にわたる固定観念になってしまって、進歩しなくなることがある。しかし、実際には、追いつけないというのは本当ではない。もしも子どもや生徒が自分について過小評価していれば、そのような評価、判断が誤っていることを指摘し、固定観念になることを阻止したい。
 アドラーは「誰でも何でもなしとげることができる」といっている。アドラーは才能は遺伝ではないと考えているからである。この見解は後に批判されることになったが、今日においても、遺伝や脳などの身体的な要因による説明で、何もかもわかったように考えることが、人の勇気をくじいていることはあるように見える。
 ある時、アドラーの数学教師が一見解けそうにない問題に立ち往生したことがあった。その時、アドラーだけが答えがわかった。この成功によって、アドラーの数学への心構えはすっかり変わってしまった。
 数学が苦手なアドラーの娘、アレクサンドラが、ある時、試験を受けずに家に帰ってしまったことがあった。「どうしたんだ? 君は本当に誰もができるこんなばかばかしいことをできないと思っているのかい? やろうとしたらできるんだ」。アレクサンドラはわずかな期間で数学で一番になった。
 自分の限界についての誤った固定観念を取り去れば、それだけでただちに何でもできるようになるかといえば、もちろんそんなことはない。どんなことも、最初は難しい。自転車に乗ることも泳ぐことも。どんなに難しくても、自分が取り組んでいることは自分でやるしかなく、誰も代わってくれない。しかし、根気よく、我慢して取り組めば、最初はとてもできないと思っていたことも、しばらくすれば、うまくできるようになるというのも本当である。
 それにしても、今こうして書いていると、私自身が大学院生の頃、指導教授に、君は論文を書くのは得意でない、といわれたことがずっと引っかかっていて、その後の人生で、論文を書く時など、その言葉がいつも心から離れず、苦手意識を持ち続けたことを思い出す。
 その後、著書を書くようになり、ある時、その一冊を先生に献本したことがあった。しばらくして思いがけず先生から返事がきた。そこには「いつのまにかこれだけの文章を考え書いて蓄積していたとは驚き感心しました」と書いてあった。不思議なことに、書くことについての苦手意識はこの時からなくなった。

| | コメント (0)

2008年12月15日 (月)

勇気づけられた子どもはどう変わるのか―勇気づけの目標

勇気づけられた子どもはどう変わるのか―勇気づけの目標
岸見一郎(きしみいちろう)
日本アドラー心理学会認定カウンセラー・日本アドラー心理学会顧問

勇気づけとは何か

 子どもたちは生きていくに当たって、人生の様々な課題に直面することを回避することはできない。勇気づけは、子どもが人生の課題を解決しうるという自信を持てるように援助することである。本稿においては、どうすることが勇気づけになるのか、子どもたちがどのように育つことを目標にするのかを具体的にイメージすることで明らかにしたい。

自分の価値を認める

 アドラーは次のようにいっている。
 「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」(1)
 子どもが人生の課題を回避しようとするとすれば、課題そのものが困難であるからというよりも、自分に価値があると思えないということに関係があるということである。いうまでもなく、子どもが直面することになる課題は困難なものであり、時に解決できないことが実際にはあるだろう。それにもかかわらず、解決できる力があると教えることが勇気づけなのではない。解決できない課題はあるからである。アドラーは楽天主義者ではない。楽天主義者は、悪いことは起こらない、何とか「なる」と考え、自分で何をどの程度までできるかという見極めもせず何もしない。常に楽天的な人は悲観主義者である。根拠もない自信を根底から覆すようなことが起これば、たちまち悲観主義者になる。そしてすべてに絶望する。他方、勇気ある楽観主義者は、何とか「する」。無論、すべてが解決できるわけではないが、それにもかかわらず、何もしないのではなく、できることをするのである。勇気を持てる、あるいは、勇気をくじかれることには、課題そのものの難易はさほど関係しない。むしろ、自分に価値があると思えることこそが重要である。
 どうすれば子どもは自分に価値があると思えるようになるか。もしも子どもが自分に価値があると思えなければ、課題に取り組もうとしない。勇気づけは、この線で考えるならば、課題解決の能力を与えるというよりも(アドラー自身は誰でも何でも成し遂げることができる、といっている)、子どもが自分に価値があると思えるように援助することである。

他者の評価にとらわれない

 人からの評価を気にかける子どもがいる。人からよくいわれたら喜び、悪くいわれれば悲しんだり、憤慨する。これはおかしいだろう。人の価値は、他者からの評価に依存しない。悪い人だといわれるからそうなるのでも、よい人だといわれるからそうなるわけでもない。他者の評価を気にかけるというのは、人が自分について持つイメージ、他者の自分への期待に合わせようとすることである。
 そこで勇気づけの目標は、子どもが人からの評価に左右されないように援助することである。勇気づけられた子どもは、他者からの評価にとらわれず、自分を実際よりもよく見せようとはしない。
 これができれば、たしかに大きく変わることが可能だが、しかし、具体的にどう変わるのかを明らかにしなければ無内容であるともいえる。

短所を長所と見る

 人はいきなり変わることはできない。自分の価値を認めることができるためには、短所だと思ってきたことを、長所として認めたい。勇気づけられた子どもは、自分についてそれまでとは違った見方ができるようになる。「暗い」のではなく「やさしい」というふうにである。
 個々の性格について見方を変えていくこともできるが、逆のことがあることも見逃せない。かつては長所だと思われていたことが、短所に見えるということがあるということである。几帳面できちんとしている人だと思っていたのに、細かいことにこだわるうるさい人に思えるというようなことである。好意を持っていれば、どんなことでもよく見える。
 自分についても自分のことを好きにならないでおこうという決心が先行する。そうすることで、積極的に他者との対人関係を築かないでおこうと考えているのである。そこで、自分の価値を認めるべく短所を長所と見るためには、他者との対人関係を積極的に築こうとする決心が必要がある。

自分の価値は貢献感によって得られる

 そのような決心ができるためには、他者との関係を築くことが自分にとって有用であるということがはっきりと理解されなければならない。人は孤立して生きているのではなく、他者と関係の中にある。しかもこの関係は敵対的なものではなく、アドラーのいう共同体感覚の原語(Mitmenschlichkeit)が示しているように、人と人は結びついて(mit)いるのである。
 アドラーは「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」という言葉に続けて次のようにいっている。
 「そして、私が価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」(2)
 共同体にとって有益なことをしている時、そしてそのようにして共同体に貢献している時、自分が人の役に立てていると思え、そのような自分が価値があると思えるのである。アドラー心理学が、ほめるのではなく、勇気づけることを勧め、具体的には「ありがとう」ということを提案するのは、自分が役に立てたと思い、そのことによって自分に価値があると思ってほしいからである。
 ほめられて育った子どもは、適切な行動に気づいてもらえなければ(これも他者の評価を気にすることである)、たちまち適切な行動を止めてしまい、自分をほめない人を敵だと思う。貢献感があれば、他者が認めなくても、自足しているのと対照的である。

他者に期待せず与える

 他者から与えられることを当然だと思い、他者が自分に何をしてくれるかということ(評価を求めることもその一つである)にしか関心がない子どもがいる。このような人にとっては、自分は世界の中心であり、自分のまわりを世界が巡っている。たしかに、人は他者とは離れて生きることはできず、自分がこの世界に所属し、その中に自分の居場所があると感じられることが、人間の基本的な欲求であるというのは本当だが、そのことは自分が世界の「中心」にいるということではない。世界の「中」にいるけれども、「中心」ではないのである。他方、勇気づけられた子どもは、他者が格別の注目を自分にしなくても不平には思わない。貢献感があれば、自分には居場所があると感じられ、自分のことを受け入れることができるからである。
 このように思えるようになるためには、先に見たように、他者を敵ではなく、仲間と見る必要がある。自分のことは好きになれても、他者が仲間とは思えないという人は多い。しかし、一人でもこの世界に自分の仲間がいることを知れば、子どもは必ず変われる。そして、自分の問題だけではなく、他者の問題をも解決するために協力するようになる。自分は自分だけで完結せず、他者に自分の存在を負っているということを知っているからである。
 このように考えられるからこそ、勇気づけられた子どもは、他者を援助する一方で、自分の力だけでは解決できないことがあれば、他者から援助を受けることを恥じたりはしない。甘やかされた子どもには思いもよらないが、何もかも自分一人で背負い込み途方に暮れている子どもはいるのである。

失敗を怖れない

 以上のようであれば、勇気づけられた子どもは、失敗を怖れず、自分の判断で動ける子どもになるだろう。他者へ貢献することを厭わないので、自分のことだけを考え、失敗したらどんな評価がされるかばかりを気にする子どもとは違うのである。
 勇気づけられた子どもは、課題そのものが困難であるということもあるが、課題に取り組むということだけが関心事である。しかし、失敗を怖れる子どもは、最初は課題そのものの困難に端を発したのであっても、課題の解決に関心があるというより、自分のことに目が向いている。他者からの評価を気にするので、よく思われるために課題に取り組むことすらしなくなることもある。勇気づけられた子どもはこんなふうには考えない。どう思われるかということを気にせず、課題を解決することで自分をよく見せようともしない。やればできるのに、というような可能性の中に生きたりはしないし、たとえ課題を達成できなくても、問題行動など誤った仕方で注目を引こうとはしない。
 ともかく課題が与えられれば、できることから少しずつでも始めていくしかない。これは勇気そのものであり、アドラーはこれを「不完全である勇気」「失敗する勇気」と呼ぶ。課題に取り組まないよりはるかに望ましいわけである。
 さらに、もしも子どもが評価されること、失敗することを怖れないのであれば、今日、当たり前のことだと思われる競争からも自由になることができる。

対等であること

 九十三歳のジャーナリスト、むのたけじと話をした中学生がこんなことをいっている(3)。
 「私は生まれてからずっと、大人に会うと上の立場から、下に見られていました。家では親から子どもだと見られ、学校では先生から生徒だと見られ、近所でも子どもだと見られていました。それがむのさんのところに行ったら、私を一人の人間として対等に扱ってくれたので、夢中でしゃべることができました。生まれて初めて子ども扱いされずに、人間扱いされました」
 他方、むのは、これまで想像しなかった若者が出てきたことを知り、このことを知ってから死ぬのと、知らずに死ぬとでは大違いだ、と今の若者が、門地、門閥、家柄、見識、権威にとらわれず、人間としてぶつかってくることに驚いている。このような子どもたちに、叱ったり、ほめたりする従前の教育は必要ではない。何かについておかしいと思った時は、疑問を率直にいえる。大人が空気を読めというようなことをいって異論を持たないように圧力をかけても、それをものともしない。

勇気づけの問題

 今一度確認すると、勇気づけは、子どもたちが自分の人生の課題を解決する能力があるという自信を持てるよう援助をすることである。子ども自身が自分の判断で自分自身の人生の課題に取り組む援助をするのであり、大人は子どもの課題を肩代わりすることもできなければ、子どもを子どもの意志とは何かの別の目標へ向かわせることもできない。本稿では、慣例に従って「勇気づける」とか「勇気づけられる」という言葉を使ってきたけれども、大人の子どもへの働きかけは断じて操作や支配であってはならない。言葉の本当の意味での自立を支援することは、大人の側に忍耐が要求される。何か問題があった時に、子どもを一喝すれば、子どもは問題行動を止めるだろう。しかし、勇気づけは、手間暇がかかるのである。
 勇気づけということを学ぶと、われわれがどうすれば子どもを勇気づけられるか考え、試行錯誤的に子どもに声をかけるという日が始まる。そして、ある日、気がつくのだ。私が子どもを勇気づけているのではないのだ、むしろ、日々の生活においてどれほど子どもに勇気づけられているのだ、と。

【文献】
(1)Stone, Mark and Drescher, Karen, eds. Adler Speaks: The Lectures of Alfred Adler, iUiverse, Inc,, 2004.
(2)ibid.
(3)むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波書店、二〇〇八年
(『児童心理』2008年12月号臨時増刊、金子書房)

| | コメント (0)

2008年11月10日 (月)

自分を好きになる

自分を好きになる
 子どもたちは今はまだ大人からの援助が必要ですが、やがて自立し、この人生で直面する課題を自分の力で解決できるようにならなければなりません。とはいえ、何もかも自力では解決できない時もあるでしょう。そんな時のために、子どもが大人に援助を依頼できるよう親子関係をよくしておきたいのです。
 これまでのところでは、子どもは大人と対等であること、そうであるならば、子どもを叱ることもほめることも本来できないということ、そこで命令しないでお願いし、丁寧に話して「ありがとう」といおうと提案しました。今回は、そのようなことが、子どもの自立、即ち、自分の人生の課題を自力で解決できるようになるために、なぜ必要なのかを考えてみましょう。
 まず、子どもに自分のことを好きになってほしいのです。この自分は他の道具とは違って買い換えることはできませんから、これからもずっとつきあっていくことになります。それなのに、自分を好きになれなければ、幸福になることはできません。では、どんな時に自分のことを好きと思えるかといえば、短所だと思えるような性格でも実は長所であると性格を見直すことも大切なことですが、自分が他者に貢献していると感じられる時であるということを見逃すわけにはいきません。子どもは「ありがとう」といわれれば、自分が他の人の役に立っていると感じることができるのです。
 子どもができる貢献は、最初は些細なことかもしれません。それでも自分が他の人の役に立てると少しでも思えれば、このことは、子どもがやがて直面する人生の課題を解決できるという自信につながっていきます。
 ところで、子どもが他の人に役立とうと思えるためには、その他の人がアドラーが使う言葉でいえば「仲間」、つまり味方であり、必要があれば援助してくれる友人だと思う必要があります。そうでなければ他の人に役に立とうとはそもそも思わないでしょう。それなのに親が子どもを叱ると、親子関係は確実に遠くなり悪くなりますし、親を代表とする大人全般が自分の仲間ではなく「敵」だというふうに子どもが思ってしまうと、子どもはそのような敵である他の人に役立とうとは思わないでしょう。そして、自分が役立っていると感じられなければ、自分のことを好きにはなれないのです。
 子どもに貢献感を持ってほしいもう一つの理由は、他の人からただ受けるだけではなく、自分も他の人に与える人になってほしいからです。子どもはたしかにまわりの大人から援助を受け、実際、知識、経験ともにまだ十分持っているとはいえない子どもにとっては援助を受けることは必要なことです。しかし、人が自分を援助するのはあくまでも好意であって、当然のことではありませんし義務でもありません。子どももまた、このわれわれが生きている共同体の一員として他の人に貢献する人になってほしいのです。そして、そのことを苦痛ではなく、喜びに感じてほしいのです。
 子どもをそのあるがままに受け入れるということは間違いではありませんが、子どもの視点からいえば、何もしなくてもいいわけではありません。与えられるだけはなく、自分も与えられる子どもになってほしいのです。

| | コメント (5)

2008年11月 4日 (火)

子どもが”こころ”を開くとき

子どもが”こころ”を開くとき
別冊PHP1999年11月号
岸見一郎

 いつもわが子と心を通じあっていたいと思っている方は多いと思いますが、接し方によってはこの願いとはほど遠いことになることがあります。子どもが心を開くか、あるいは、閉じるかはひとえに親子の関係の中で子どもが決めることである、と私は考えています。ここでは、子どもはどんなときに心を開くのかを具体的な例で考えていきたいと思います。

◆子どもが決める
 何でも話をしてくれる子どもがいい子である、あるいは、子どものことを何でも知っている親がいい親である、と思っていませんか?
 確かに子どものことを知っていることは大切なことですが、ときにこのように思うことがかえって子どもが心を閉ざすという結果を招いているということがあります。
 そもそも、子どもの心を「開かせる」と考えることに無理があると思います。子どもは親に対して心を開こうと思うかもしれませんし、思わないかもしれません。子どもに心を開いてほしいのであれば、そうお願いするしかありません。子どもが嫌だといえば引き下がるしかないでしょう。子どもは関係がよくなければ心を開かないでしょうが、よい関係だからといってどんなことでも話してくれるかというと、必ずしもそうではありません。

◆「何かできることない?」
 息子が小学校の低学年だった頃、ある日、学校のことをたずねようとしたことがあります。すると彼は、きっぱりとこういいました。
 「何でもかんでも、お父さんに話さなければならない義務はないと思う」
 何もいい返す言葉がなかったことはいうまでもありません。親だからといって、いわば子どもの心に土足で踏み込むようなことをするのは許されないのです。
 私の友人が、ある日、中学生の娘さんが学校からひどく落ち込んだ様子で帰ってきたときのことを話してくれました。すぐに「どうしたの?」と声をかけようとしたのですが、私の助言を思い出して、そのときは「お母さんに何かできることない?」とたずねました。するとその娘さんは答えました。
 「うん、ある……ほっといて!」
 友人は、自分には何もすることがないことに大いに落胆しましたが、次の日、娘さんが晴れ晴れとした表情で帰ってきて、「昨日は友達と喧嘩をして落ち込んだけど、今日は仲直りできた」というのを聞き、「親としては何もできなかったけど、子どもが自分で問題を解決するのを見てうれしかった」と話してくれました。

◆子どもを信頼する
 以前放映していたNHKの連続テレビ小説『あぐり』の中で、淳之介が中学受験に失敗したとき、父親のエイスケは「そう」としかいわないので息子のほうが困惑する場面がありました。「パパなんだから、どうして、とか、ばかだな、とか残念だったな、とか、気にするな、とかそういうことはいえないの?」と問うと、エイスケが、「いやあ、何もいうことはないよ、お前の人生だからなあ。俺にはよくわかんないよ、それじゃいえないのか」
 と答える場面です。エイスケはこのように答えた後、
 「それよりも、どうだい、すごいだろ。これがナイアガラの滝だ」
 といって、旅先で撮ってきた写真のスライドを見せます。このやりとりから二つのことを学ぶことができます。
 まず、勉強は子どもが自分の責任でやり遂げるしかなく、子どもが自らの力でやり遂げなければならないこと、あるいは、やり遂げられることを親が肩代わりしてはいけないということです。そのようなことに手出し、口出しをすることは、子どもを信頼していないことを子どもに伝えていることになります。

◆子どもに協力する
 もちろん人は何もかも自力でできるわけではありませんから、以上のことを踏まえた上で、親が協力することが必要であることは当然あります。しかしそのためには、必ず手続きを踏まなければなりません。
 息子と私がダイニングで、彼は勉強、私は仕事をしていました。ふと息子がこういいました。
 「お父さん、僕はお父さんが頑張れといってくれたらやる気になるので、ときどき頑張れっていってくれない?」
 と。そこで私はときどき息子に頑張れ、と声をかけることにしました。子どもの依頼を引き受けるのが嫌ではありませんでしたし、難しいことでもなかったからです。
 親が子どもの勉強の様子を見ていて、声をかけるということはあります。「最近のあなたの様子を見ているとあまり勉強をしていないようだけど、そのことで話をしたいのだけどいい?」というふうに。それに対して子どもが放っておいてほしい、といえば、それ以上介入することはできません。

◆関係をよくするために
 淳之介とエイスケノの会話のもう一つのポイントは、子どもと遊べているということです。父親は、一緒にスライドを見ようと誘っています。
 子どもと勉強の話をやめたら、親子の会話が一切なくなったという人がいました。勉強は、子どもが責任を取ることであって、親が取ることはできないということを学んだからでした。そこで子どもには勉強の話をしないことにしたのです。勉強のことを話して、子どもが機嫌良くなることはあまりないでしょう。「宿題はもうしたの」とか、「ちゃんと勉強しなさい」と声をかけることをやめ、子どもと遊ぶこと、楽しい時間を過ごすことを考えてみます。その遊びの内容は、親子によって違うでしょう。友人の一人はとっくみあいをして体を動かして子どもと遊ぶ、といっていました。私は息子にコンピュータの操作を教えてもらったり、小学生の娘とファストフードの店でフライドポテトを食べたりします。
 こんなふうにすることで子どもが何でも話してくれるようになるかといえば、それはわからないとしかいえません。しかし、これくらいの距離を置きながら、必要があれば友人として援助しようと決心していれば、心を開いてくれるときは開いてくれるでしょう。いずれにしても、親が決めることではないのです。

【追記 2008年11月4日 上述の記事は、親が子どもに援助ができるために何ができるかということを書いたものです。勉強は子どもの課題だというふうに書くと、子どものことは放っておいていいのだ、と誤解する人が後を絶たず困ります。例えば勉強は、「仲間に対する義務を免れることはできない」というアドラーにとっては、どうでもいいことではありません。人は「全体の一部」として他者から受けるだけでなく与えなければなりません。勉強はそのためにも必要なことです。勉強「だけ」が必要ではないかもしれませんが。課題の分離は協力の前提です。協力しようにも誰の課題かわからなくなってしまっていては協力ができませんから、もつれた糸をほぐすようにこれは親の課題、これは子どもの課題を分けていくのです。そうすると上にも書いたように実は親の課題はあまりないことに気づくことになるでしょうし、親のために勉強させるわけではないこともわかるでしょう。こんなことを思い出しました。ある保育士さんから聞いたのです。あるお母さんは参観日に子どもの様子を見に来てください、といっても、たしかにこられるのですが、教室で本を読まれるのだ、と。こんなことを勧めているわけではありません。子どもが自力で勉強してくれるのがベストです。さもなければ困った時に相談してもらえるような親子関係を作りたいのです。上に「それ以上介入することはできません」と書きましたが、さらに続けると「今の現状はあなたが思っているほど楽観できるものではないけど、いつでも相談にのるからいってくださいね」というようなことになります。介入はできませんが、協力はできます。協力も時に必要な重要な人生の課題はたしかにあります。課題の肩代わりはできないとしてもです】

| | コメント (3)

2008年10月16日 (木)

子どもの自信をはぐくむ(2)

(『みんなおおきくなあれ!じゃんぷ』Benesse、2003年3月号)

Q1
 園で鉄棒をやっているのですが、運動が苦手な娘は「怖い」「どうせできない」と思い込んでしまい、練習をいやがっています。もう少し頑張ればできると思うのですが、どんなふうに励ませばいいのでしょうか?

 「できる」「できない」ではなく、挑戦する姿勢を認める

 娘さんが「どうせできない」と勇気を出せないのは、親や園の先生が望んでいる結果を出せないことが怖いからです。親がいくら「もう少し頑張ればできるから」といっても、本人は「もしできなかったら、自分の評価がもっと低くなる」と感じてしまい、挑戦することを回避しているのです。
 「自分が今持っている力の中で、最善を尽くすことができること」こそが本当の強さであり、それが自信につながるのだと思います。
【付記】「もう少し頑張れば」できるという可能性を残しておきたいのです。結果ができるのは怖いですから。もう少し頑張ったらできるのに、というような言葉は私ならかけません。

Q2
 「小学校入学前には書けるようになってほしい」と思い、ひらがなの練習をさせていますが、やる気を出してくれません。励まし方がわからないので、ついついイライラして「何でできないの!」と叱ってしまい、子どもはすっかり自信をなくしてしまいました。

 自発的な「やる気」が生まれるまで待つ
 親が「ひらがなが書けるようになってほしい」と思っていても、子どもは、まだ「書けるようになりたい」と実感していないのではないでしょうか。まだ、やる気になっていないうちから練習をさせられていると、子どもは勉強が嫌いになってしまうかもしれません。親の焦る気持ちもわかりますが、大人だって誰かに無理矢理やらされる課題は苦痛なものです。
 大切なのは、まず子ども自身が「ひらがなが書けるのって楽しそう」「できるようになると便利かも…」と思う自発的な気持ちです。「書けるようになりたい」という意欲が生まれるまで、待ってみてはいかがでしょうか。
【付記】 いや、待てないという人は多いのです。手遅れになるから、と。そうでしょうか。いやがる子どもにあなたのためを思っていっている、とか、今はつらくても後であの時頑張っておいてよかったと思える日がくる、というようなことをいってないでしょうか。これらは本当は、子どものためではなく、親の(子どものではなく、ということです)焦る】焦る気持ちを解消するために、子どもを強制しているように思えてなりません。
 ある指揮者の書いたエッセイを読んだことがあります。その人は高名な指揮者の子どもだったのですが、中学校三年まで音楽にまったく興味を示さず、楽譜も読めなかったのです。ところが、突然、父親のような指揮者になりたいと思って、担任の先生に芸術系の高校に進学するといいました。先生は一笑に付しました。あの学校は小さい時からピアノを弾けないといけないのだ、君は楽譜も読めないではないか、と。しかし、その言葉にめげることなく、彼は父親の援助も受けて、音楽を一から猛勉強をし、その高校に合格し、後に芸術大学の指揮科に入りました。
 何事も遅すぎるということはありません。

子どもの自信をはぐくむ(3)に続く。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Flickr | Mac/iPhone | アドラー心理学 | エッセイ | 日記 | 読書