バイパス手術生還記

【2006年の4月に突然心筋梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれた。カテーテルによる治療で幸い一命を取り留めたが、その際、なお冠動脈にカテーテルでは治療できない狭窄箇所をいくつか残すことになった。主治医との相談の結果、冠動脈バイパス手術を受けることにした。手術は京都第一日赤病院で受けた。以下、病院で書いた日記である。昨年別の箇所に書いたものよりは詳しい。なお未整理で、他日、まとめたいと思っているが、目下、多忙でその時間がないので、不完全ながら公開したい。とはいえ、リアルタイムで書いたものなので、編集がされていない分、その時の感情も正直に表れているのではないか、と思う。なにぶん、手術前後の不安な状態で書いたものなので、尽力してくださった方々には失礼に思えるようなことも書いている。ご寛恕願いたい。今日では医療技術が進み、多くのケースでバイパス手術は必要ではなくなってきているが、心筋梗塞の転帰は人によって違う。バイパス手術を受けることになった方やご家族に参考になりますように。】

2007年5月11日金曜日
 主な検査はすんでいるので、今日は一体何をするのだろうと思っていたが、看護師、医師、薬剤師さんたちと話をしていたらすぐに夕方になってしまった。
 部屋は前回4月の検査入院時と同じ部屋になった。窓からは隣の病棟が見えるだけで、眺望は悪い。部屋に入ると、宮川看護師が丁寧に今回の入院全般についての説明をされる。以前はICUにいたということで手術についても教えてもらった。導尿は麻酔をかけてから行うということがわかった。これで不安材料の一つが消えた。
(2007年5月12日土曜日)
 ここまで書いたら、その後、忙しくなってしまって9時過ぎまで書くことができなくなった。疲れてしまって程なく眠ってしまった。今は1時。深夜の看護師さんの見回りの時間ではないだろうか。
「眠れませんか」という看護師さんに「大丈夫です」といってから再び起き上がる。昨日は思いがけず多くの人と話すことになって少し疲れたようだ。
 麻酔についてはかなり勉強していったので、楽観的な麻酔科の医師の説明はいささか拍子抜けの感がしないわけではなかった。
「大丈夫です、はっきりいって今は、〔手術中の〕麻酔で事故があることはまずありません」
 しかし、たしかにこんなふうにいわれると安心はするのである。「歯が少しぐらついているところがあるのですが」といっても「それくらいなら折れたりはしません」といわれる。
「先生ご自身は全身麻酔の経験はおありですか」
「いえ、ありません」
「そうすると、麻酔にかかった人がどんなふうかはどうしてわかるのですか」
「患者さんから話を聞いてですねえ。同僚に一人全身麻酔を経験したものがいますから、その人から教えてもらったり」
 麻酔についての僕の不安感がこの先生に伝わっているのか、いささか心配になった。
 その後、手術室の山口看護師が来室。手術直前の処置から手術後のことまで詳細に説明される。「ずっと私がいますから」といわれるが、僕はこの人のことを手術の最初にしかわからないだろう。
「山口さんは、もうICUにはこられないのでしょう?」
「そうです」
「なかなかつらい仕事ですねえ」(患者と言葉を交わすことがないという意味である)
「ええ、だからこそこうして術前訪問をしてお話しさせてもらっているのです。今日は、たくさん質問をもらい(いつもはそんなことはないのです)うれしかったです」
 ちょうど話している途中で、執刀医の一人である中島医師(部長で症例が6000あるという)が入室。
「おお、これが何でも書いて発信するというコンピュータだな」
と僕のPowerBookに目をとめられる。
「先生、岡田先生に何か聞かれたのですか」
「聞いた、聞いた。まちがったことをいわないようにしなくてはな。君(と山口看護師に)言葉に気をつけるように。書かれるから。それに写真を撮られるかもしれないな」
 そういって、二人で僕に向かって笑顔でピース。なんだんだ、こののりは。
「先生、説明にこられたのでは?」と話の途中だったので困惑する山口さんに、中島医師は、「説明は、高橋君(副部長)がするから、私はいいのだ」といって部屋を出て行こうとされる。僕はなお先生と話したかったので、「病院の先生のお顔を拝見しましたが」といいかけたら、
「ふふ、星野仙一だろう」
山口看護師は
「先生、そんなこと自分でいってはいけませんよ」
 この人たちはおかしい。いや、僕はそんなことをいおうとしたのではなかったのに、何を話そうとしたのか忘れてしまった。山口看護師によると手術後でもいつもこんなふうにパワフルだという。こんなふうに患者に接する先生は、術前の僕の深刻さをたしかに軽減することに成功したようだ。「今日の患者さんは手術室で抜管できた」とうれしそうだった。もっともこんなことはあまりないようで、心臓の手術の場合は、大抵、挿管したままICUに入り、人工呼吸器に繋がれる。意識が戻った時に、パニックになる人もあるようだ。自発呼吸と人工呼吸器のタイミングがあわなかったらどうなるのかという僕の疑問については、今は自動調整の機能があるという答えを岡本医師、山口看護師の二人から聞き、安心した。管が挿入されている間は話ができないこと、抜管後も喉の異物感がなかなか取れないということも聞いた。
 僕は山口看護師にこんなことを話した。
「僕は手術室では限りなく仮死状態になるわけですが、僕は肉体でもものでもありません。一個の人格としてのこの僕の手術をしてほしいのです。逆に、僕もあなたのことも今こられた中島医師のことも同じように人格として見たいのです」
 手術を前にした心境を僕は話すことになった。「正直、怖い」と。「大丈夫、私がいますから、頑張りましょう」と泣きそうな顔をされる。
【一日目のことについてはなお続く。予告的に書くと、夜、12日のムンテラ(病状、手術などについての説明)に先立って高橋医師から手術方法について一部教えてもらった。井上医師が説明するようだが、先生、大丈夫、初めて聞いたような顔をして聞くから、と話を聞き出してしまった。二人で、病室で立ち話というか、一時間超えの真摯な対話。結論だけ書くと、グラフト血管(バイパスに使う血管)は2本と聞いていたが、3本つなぐ。人工心肺使用】

2007年5月12日土曜日
手術一日目、11日続き
 夜、井上医師来室。翌日のムンテラについて説明。怖い話をすることになるとしきりにいわれるが、今更怖いも何も、手術をしなければ生きていけないのだ。
 高橋医師が来室したのはさらにその後で、予想していなかったので驚いた。それから一時間ほど、ムンテラの内容を先取りする形で話をすることになった。ずっと立ったままで話すことになったのは、先生はすぐに帰られるつもりだったからである。思いがけず、長話になった。結論的には、人工心肺を使い(心臓を止めるということである)、グラフト血管は3本使う。さしあたっての救命のための手術ではないこと、十年、二十年後のことを考えていかなければならないこと、その他、狭窄部位の問題などテクニカルな問題についても教えてもらった後、あなたは81歳だったら手術を受けますかという問いに、僕がその年だったら受けないといったら、「そうでしょうか」と先生が反論。そこからが長かった。この話については、また機会を改めて書くことがあるかもしれない。
手術二日目【1】
 もうすぐムンテラが始まる。午前中、中島医師来室。今日は眼光が鋭かった。「わかってるね」と開口。「はい」。簡略に問題点を指摘される。「3人執刀できる医師がいるから、君が指名しなさい」と行って部屋を後にされる。岡田医師が指摘しなかった狭窄部位があるようで、そこにもバイパスを作るので、三本になった。
 食事後、今度は手術計画を作る場に呼んでもらった。中島医師と一緒に冠動脈造影の動画を見ながら説明を受ける。ブログに載せる時はこう書きなさいと、図示してもらった(「昨日、若い人たちが君のブログが読んでた」と笑われる)。東京女子医大に長くいた中島医師は、一年に1000ケースもこなしていたという。
「その頃の私は自分が一番だと思っていたといた」
「でも、その自信は大切でしょう」
「たしかに、でも、私は、私がこの患者の人生を決めるのだと思っていた。でもそうじゃない。巡り合わせなのです。今も私はテレビに若い人が出てると、けなしてしまう。人間ができてないと思う」

2007年5月13日日曜日
 疲れてしまって、8時半頃には寝てしまった。途中、看護師さんがこられ、おそらく枕元の読書灯を消そうとされたのか入ってこられた時に僕が目を覚ましたのを見て、申し訳なさそうに出て行かれたのを覚えているが、起きられなかった。また今夜も深夜勤の看護師さんと話をすることになりそうである。
手術二日目【2】
 概要は大動脈と右冠動脈の付け根にある75パーセントの狭窄#1(1)、左前下降枝の二箇所の狭窄#5, #6(2)、〔今回新たに指摘された〕対角枝の狭窄D1(3)に対して、3本のグラフト血管によるバイパス手術を行う。その際、グラフト血管として(1)と(3)に大伏在静脈静脈(下肢の静脈)を使い、(2)には右内胸動脈を使う。手術は、人工心肺を使用し、心停止状態で行う。(2)は重要な箇所なので、内胸動脈の一本を使うが、後の一本は将来バイパス手術が必要になった際に残しておきたいので、他のところからとってくるのが望ましい。候補としてあげられる胃大網動脈については、これも将来胃癌などの病気になった時のことを考え残しておいた方が望ましい。焦点は(1)に対して、なぜ大伏在静脈静脈を使うかである。動脈の方が静脈よりも開存率はいいが、まず、橈骨動脈は大伏在静脈と比べて開存率は変わらない。次に、ここに内胸動脈を使うと、冠動脈と競合してしまい、狭窄、もしくは梗塞する。もしも(1)が90〜95パーセントの狭窄であれば、血液はグラフト血管の方に流れるが、75パーセント狭窄では冠動脈の流れの方が強いからである。内胸動脈が太ければいいが、僕の場合細いことが予想されるのと、先に書いたように一本は残しておきたい。そこで太い血管が必要になり、そのために大伏在静脈を使う。人工心肺を使うのは、心停止状態でのていねいな、かつ速い縫合が可能であること、頸動脈や脳血管の状態がいいので合併症の危険が少ないという判断である。
 細かいことは多々あるが(だから3時間かかった)、あらましはこんなところである。先のことを考えない、さしあたっての救命としての手術とは違うので考慮すべき点は多い。ムンテラに際しては妻も臨んだが、僕と井上医師とのやりとりがパワフルなことに驚いていた。相当疲れたようだ。僕もひどく疲れたが、まさに生死がかかっているので、曖昧なところを残しておくわけにはいかない。実のところ、これで完治というわけではなく、なお狭窄部位が残っていること、そもそも冠動脈の硬化がこれほど進行したことが炎症性のものではないかという(膠原病、大動脈炎など)疑いはあり、今後の課題になる。
 今日(11日)はヴァイツゼッカーの研究会の日だった。僕は出られなかったわけだが、帰り去年心筋梗塞で入院したことをメールで知らせたところ、退院後、木村敏先生が参加されているヴァイツゼッカーの研究会に誘ってくれた丸橋君が病院にきてくれた。あれからもう一年経った。
 早期復帰を目指していたが、昨日、ふいに自信が揺らいだ。バストバンドを買うようにといわれ、その後病棟で他の患者さんでこのバンドをしている人を見かけた。手術に際しては骨を切る必要があり、その後、ワイヤーで固定するのだが、術後、三ヶ月はバストバンドをしないといけない。その患者さんはゆっくり、恐る恐る廊下を歩いていた。同じ手術をされたことがわかった。そして思ったのは、僕もすぐにあんなふうになるということだった。このことを高橋医師に話したら「でも一週間であそこまで回復したということでもあるのですよ」と返された。去年の心筋梗塞後のリハビリと同じではないだろうが、プログラムを見ると院内平地歩行などの親しい文字が見え、また振り出しに戻った気がしてしまった。しかも今度は手術による侵襲が甚だしい。
 入院一日目は夕方まで着替えずにいた。しかしその後パジャマに着替え、心電図のモニター発信器の電極を胸につけると一気に病者になった。二日目は、病棟内をほとんど歩かなかった。初日は、麻酔科の対診があったり、輸血のための採血のために、あちらこちらを歩き回ったというのに。

2007年5月13日日曜日
入院三日目【1】
 夜長く起きていたようで、二度目の深夜勤の看護師さんが回ってこられた時は、横にはなっていたが、こられたのがわかっていた。朝、それが4時だったことを教えてもらった。
 今日の担当看護師が日程を説明される。今日は、手術室とICUの看護師がきます、といわれるから、手術室の看護師さんは最初にこられましたよ、記録読んでないのですか、といきなり僕は不機嫌になってしまった。朝食後も眠気が残っていて、何も用事がなかったので横になったらすぐに寝てしまったようで、麻酔科の上林医師が来室された時まで気がつかなかった。12時より少し前くらいだったかと思う。
 見舞い。
【ここで記録は中断、以下、ノートに術前、術後にメモ書きしたものから再現】
 キーボードを使うことを許されたので手書きよりははるかに負担が楽でありがたい。執刀してくださった中島医師は記録を発表することを術前は反対されていたが、今は、書け、書け、といわれる。

5月14日
 朝から手術。今十時。これ以後、水も飲めない。手術については十分聞いたつもりだが、もはや自分では何もできないことが辛い。オペが終わった後、どんなふうになっているのか見当もつかない。考えれば、去年の四月も、その切迫性を十分知らずに死の淵にいたことは疑いない。手術室を出たときに、カタリナ高校で教えていることなどをまわりにいる看護師さんらに話していたほどである。おそらく今その時と同じくらいの危機に直面しているはずである。人生の大きな危機を乗り越えてきたつもりだが、今回のはことのほか自分の力でどうすることもできないが、この一年、この日のために備えて体調をと整えてきたのである。これこそ、あるいは、これだけが僕にしかできないことだったろう。いわばその努力の成果が問われるのである。この一月仕事にて手が着かなかった。やり残していることは多い。必ず術後に継続したい。
 朝、今日の執刀医がそろって部屋にこられる。中島医師は、僕を見て「無理をして笑っていなくていいよ」といわれる。「こわいです」「そりゃあそうだ。(プレッシャーはかかるけど)俺は自信満々だ」。
 病室を出る時、ストレッチャーに乗せられ、前投薬を注射される。これだけで眠ってしまう人もあるようだが、できるだけ意識を保っておきたいと思った。手術室にはいると、術前訪問してくださった上林先生と山口看護師、名前を確認できなかったがもう一人の看護師さんが迎えてくださる。僕の記憶は、ではこれからまず動脈ラインを確保します、という言葉を聞いた時点で途切れてしまっている。以下、妻の記録。

 予定通りでした、と担当の先生がおっしゃって下さいました。8時50分に手術室に入室して連絡を待って病室で待ってました。午後3時半に「終わったよ」と今日の執刀医である中島先生が声をかけてくださいました。突然だったので飛びあがって「どうでしたか」と声をかけそうになりましたが、中島先生がにっこり笑っておられる表情を見て、大丈夫だったんだと安心しました。その後4時半に一度ICUで会えたものの麻酔から覚めず口に挿管されて反応なく眠っていましたが、7時半にもう一度お呼びがあり、話をすることができました。手術前のこともしっかり覚えてましたので意識も大丈夫です。まだ、合併症の危険があるのでICUにおりますが、全て順調で早いスピードでいろんな管がはずれているとのことでした。

 次に僕が気がついた時、まだ挿管されていて、意識が戻ったのと同時に(と思ったということだが)直ちに抜管され、その後吸引された。ひどく苦しかったが、ぼんやりしていたのだろう、予想していたほどではなかった。手術室中の出来事だと思っていたが、上の記述からするとそうではなくて、既に、この時点でICUに入っていたようだ。胸を叩かれても最初は目が覚めなかったようで、意識が戻ったのが7時半頃というのは驚きである。管が抜かれた後は声が出なかった。喉に強い異物感があり、これはその後も長く続くことになる。
 胸の傷が痛く、深く息をすることができない。徐々によくなるということだが、胸骨を切り開いたことの後遺症は想像以上に辛い。岡田医師が9時くらいにこられる。今回、先生と会ったのはこれが初めてだった。僕がいるICUの一角が暗くなっていたからか、まだ麻酔から十分覚めてないと思われたのか「岡田です」と声をかけられる。バイパス手術をした人は長生きをすることが統計的に証明されているということをいわれた。手術時の所見では、心臓の内部はわからないが、外側には梗塞の後がないということだった。「岡田君はよほどうまくやったようだ」といってられたそうだ。先生の手を取ったら握り返された。先生にまた会えてよかったと思った。
 看護師さんが何度も僕の部屋にやってきて僕の後ろにあるモニターの数字を部屋の一角にあるコンピュータに記録される。そのたびに僕の方を見ているような気がするのだが、そうではないのはわかっていたが、ある看護師さんと目が合ってしまって、その時、はっきりと僕に笑顔を返してくださったのは嬉しかった。
 この日のICUは緊急オペの必要な患者が入り、騒然としていた。この手術のために翌日に予定されていた手術が延期になるのだとも聞いた。「これには人道上の問題があって」と話し出された高橋医師は、「でもこの話は元気になったらしましょう。今は、休んでください」と立ち去っていく。
 手術後の興奮はやまず、それに何としても、水分を取らないことには眠れそうにないので、水分摂取が解除になるまで長い時間絶えなければならなかった。水を飲めたので、アタラックスPを側注で入れてもらって、ようやく6時まで眠ることができた。
 ICUにいると幻覚を見てばかりいる。幻覚というよりは、意識の集中が困難であることによるのだろう。例えば、井上医師が尿量をチェックするために、ベッドサイドにかがむ。次の瞬間、僕の意識は飛ぶ。次に、寝息の音が聞こえる。これが井上医師のものに聞こえる。先生は、こんなところで寝てしまうのだ、と思うのだが、もちろん、この寝息は隣の意識のない脳梗塞の患者さんのものに違いない。

2007年5月15日水曜日
 二日目の朝もICUは依然として喧騒していた。中島医師は僕のベッドサイドにきて、看護師たちも交え、軽口を叩いた後(君は生活できているのか、どうやって生計を立てているのかというような話)、「じゃあ手術に行ってくるわ」とICUに後にされる。この日、先生と再び会うのはずいぶん遅い時間になってからのことになる。
 ICUでは僕とは違って意識のない人が多いのか、患者が聞いていることを考えないで話す人が多いように思った。僕のことを独身なのか、と話している声が聞こえたが、たぶんこれは幻聴ではないだろう。看護学生が看護師に指導している様子が聞こえる。看護師の説明は明解なのに、彼女たちは質問をしない。突然、話が理解できなくなった。後で、担当の看護師さんにたずねたら、あれは学生ではなく、研修医なのだそうだ。「それで医師になって二年目がそんなのでどうする」という話になったことがわかった。
 心筋梗塞の時とは違って今回は、手術の際に胸骨を切ったことによる痛みがひどい。麻薬や、後には錠剤による(ロキソニン)による痛みのコントロールはたしかにするのだが、この痛みはなかなか辛い。呼吸が困難で、痰がたまってもそれを取るために咳をすると痛みが走る。日にち薬だとどの人もいわれるのだがいつまでこんなふうであるのかわからない。目下、バストバンドをしているが、これも強く締めるので痛い。退院後も長く使う必要がある。
 経過が順調なので、ICUを二時に出ることになった。居合わせた多くのスタッフが見送ってくださる。ここに運ばれる時に通ったはずの迷路のような廊下のことは僕は当然のことながら全く知らない。元の病棟に帰ると、看護師さんたちが「お帰りなさい」と迎えてくださる。手術一日目(手術をした翌日)に帰るのは早いようである。問題があって、貧血がひどいことである。今回の手術では輸血をしなかった。そのため手術前に比べると赤血球の量が半分近く減っているようだ。心臓に負担がかかるので、輸血をするしないが目下の焦点だが、中島医師は、頑張ってみなさい、といわれる。
 夜、10時半頃に看護師さんにたずねたら緊急手術はまだ続いているようで心配になる。手術後、長く眠ることができない。細切れの、しかし、深い睡眠を繰り返している。1時頃、目が覚めしばらくぼんやりしていたら、手術着の中島医師が部屋にこられる。手術帽が汗でびっしょり濡れていた。この時間にようやく胸を閉めるところになったので私は出てきた、今日は様子を見にこられなくてすいませんでした、といわれる。順調だといって部屋を出て行かれる。

2007年5月16日水曜日
 午前中、ドレーンを抜く(3箇所)。これはこたえる、とあらかじめ井上医師に驚かされていたが)、思いがけず、思っていたほどは痛くはなかった。3本目は油断したら、皮下脂肪が絡んでいたようで、一瞬激痛が走った。その後、導尿の管も抜いてもらう。去年の四月は火花が散ったが、今回はそんなふうではなかった。後は抗生物質の点滴のためのラインが確保してあるだけである。井上先生はいつもふりかえりざまににやっと笑うのがなかなか決まっている。
 貧血がひどい。今回輸血を必要としなかったが、貧血があまりにひどいようだと輸血をしなければ心臓に負担がかかるので、今の時点でどうなるかわからない。手術前よりも体重が増えているので、利尿剤を使う。
 室内歩行は許可にはならなかったが、ベッドサイドに足を降ろしてすわれるようになった。胸の痛みはまだ強く辛い。昼も夜も短いサイクルで寝てしまう。今回のことを記録しようと手書きで16日の夜に書いたものがあるが、朝になってみたら全く読めず、ひどく変なことを書いている。
 ようやく夜の11時半になって頭が正常に戻った。これは何かが特別にあったというわけではないのだが、この後、急に頭がしっかりしてきた。手術による侵襲から少し離脱できたように思う。

2007年5月17日木曜日
 今日は朝から歩くことになった。中島先生に歩いてみなさいよ、と病室から押し出される。詰め所まで行って自分の心拍数を確かめてきた。長い距離ではないのに、すぐに息が上がるようだ。部屋に戻ってもなかなか戻らないが、鍛えていくしかない。胸骨を切った後が痛くて辛く、痛みをこらえながらだが、もう歩けるようになったのだという喜びの方が強い。午前中、井上医師による創部消毒とガーゼ交換。まだ傷口を正視する勇気がない。治りはいいようだ。その後洗髪。こんな時期にもう髪の毛を洗ってもらえることに驚く。昼食から全粥が普通食になった。貧血は改善の兆候あり(17日分は続く)

2007年5月18日金曜日
術後3〜4日
 17日の朝に無理矢理歩かされたことは既に書いたが、もちろん、今の状態も把握されていて、「この病棟だったらうずくまったって看護師が見つけてくれるから大丈夫だ」と中島医師はいう。「このふらふらする感じは、貧血でしょうか」「そうだ。まだ病み上がりではないか。今日は何日目だと思ってる」「はい、三日目です」「三日目からブログを書き出したとかきなさい」早い治癒を誇りたいようである。Flickrの話をしたら、日本の医療は進んでいる、と書きなさい、と。はい、書きますから。
 夕方、岡田医師回診。「これでほんとうによくなりますから」と上機嫌。ベッドまわりに散乱していた僕の本(Lawrence Durrell, The Alexandra Quartet)を手にされる。
 まだ書かないんですか、とせかされたので、昨日は頑張って書いた。朝の回診では、誤りを指摘され、それを井上医師にコメントとして書き込むようにといわれる。井上医師はあまり乗り気ではないようだが、中島医師は、医師と患者のやりとりを乗せることに興味を示される。自分で書けばいいのに、と思うのだが、「君はいい医者ということになっているから」と井上医師をしきりにせっつかれる。
 17日は50メートル歩く。前後に血圧と心電図を測りチェックする。胸の傷が痛く、すぐに息が上がる。部屋に戻ってもなかなか復することなく、身体が波打つほど鼓動が早い。
 その後、洗髪。胸が痛いのでどういう姿勢でするのかと思ったら、車椅子に乗り、頭を後ろ向けに倒して、濡れないように上手に看護師さんが洗ってくださる。
 夜、息子に電話をしたら驚いていた。「生きてるみたいだ」と電話をしたのだが、こんなふうに電話できることをうれしく思った。
 夜、二時頃に目が覚め、長く起きていた。大貫妙子のアルバム、boucles d'oreillesを聴く。入院来初めて音楽を聴くことができた。
 18日。この日の予定は200メートル歩行。レントゲン。シャワー。午前中、心電図と血圧を前後に測って歩く。血圧も拍動も上がるが、程なく下がるようだ。歩いたからというより、特定の所作をした時に、息が上がるようである。この感覚は初めてなのでなかなか慣れない。今日はその後、何度か歩いてみたが、昨日よりはかなり楽に歩けるようになった。胸の痛みが軽減。ロキソニンを使わずに過ごせている。変なふうに身体をかばうのでそのための筋肉痛も出てきた。
 昨日も書いたが、やっと頭の働きが正常に復したように思う。聡明な看護師さんと夜遅く話をしていたら、心の中に巣くっていたどろどろとした暗いものが浄化されたように思った。
 昼から洗髪、シャワー。手術の傷は二日でもう乾いているのだが、保護テープを当てて身体を洗う。半分以上、看護師さんが洗ってくださる。リハビリの一環なので、前後で血圧と心電図をチェックする。傷を初めて正視した。静脈を取った左足がむくんでいる。次は入浴が可能になるだろう。早い時期にシャワーにかかれて、大手術をした後とは思えないほど快適である。
 詰め所まで歩き、体重を量る。朝よりまた減る。もう手術前の体重に十分戻っただろう。

2007年5月19日土曜日
手術後4日目(続き)
 この日、レントゲンを撮りに行ったことは書いたが、撮影の前に、こんなに大きな手術をしたのに、歩けるようになってよかったといってもらえ、うれしく思った。ICUでまだ意識がない時、術後一日目にもレントゲンを撮ったが、その時は当然動けなくて乾板を背中に敷く形での撮影だった。意識が戻ってからは、ひどく痛かった。
 夕方、中島先生回診。「ブログの作り方、君に教えてもらおうかな。かみさんが返事書きたいんだ。今日は風呂に入った、って書くんだろう」と笑われる。
「もう退院だな」
 僕は是非早期に退院したいとは思っていたが、先生の口から聞くと喜びは一入である。
「〔術後〕10日くらい?」
「それでいいだろう」
 夜、強い雨風。雷鳴も。夢を見ていた。乾電池を四本橋の上に落とすのである。それを今きた道を戻ってさがしていたら見つかるという夢。深夜の看護師さんがやってきて心電図送信機の電池が切れたので交換しにきた、と起こされる。また眠りに落ちて今度はこんな夢を見る。父を乗せた車で高速道路に入る。ところが、僕はこの病気になったので免許を返還したのではなかったかという不安が膨らむ。しかも、アクセルを踏んだのに、思うようにスピードが出ない。夢の中で思い当たった。いやいや免許は、まだ更新してそんなに経ってないではないか。スピードが今出ないのは、しかたがないではないか、と。退院後の人生を暗示する夢ではある。
 深夜にやってきた別の看護師さんが、もう尿をためなくていいといわれる。それなら、それにあわせて水分制限も解除になったのではないかとたずねたら、先生がこられてないのでわからないという。では朝食はどうしたらいいのか、お茶を飲んでもいいのかいけないのか、というと出てくる牛乳だけにしておくように、という指示。まさか昨日まで課せられていた一日の水分量を一食で超えるとも思えない。

手術後5日目(5月19日)
 今日の担当看護師さんは、僕のPowerBookに興味を示される。「岡田先生がmacを使ってられるから先生にたずねたらいいよ」というと、彼はいう。「僕たちは岡田先生はまだ四月に赴任してこられたばかりでよく知らないのです。それにもっぱら冠動脈造影室にこもってられるという噂ですし」と。病棟に上がってきて、スタッフと談笑するというようなことは、先生が得意とはされないことなのだろう。
 土肥先生の包交。ちらりと傷を見て、「オーケー、後は来週の初めくらいに(リード*を)引っこ抜けばいいだけだ、ふふ」とその様を演じられる(*術後不整脈が出た時のために残してある心臓内まで挿入する電気の線、ペースメーカーリード)。
 リハビリは、500メートル歩行。廊下で会う看護師さんたちが驚かれる。回診中の中島先生にも会う。おっ、やってるな、と僕の腕を取って早足でしばらく一緒に廊下を歩くことになる。僕より数日早く同じ冠動脈バイパス手術を受けられた人の病室に行って引き合わされる。手術内容も、方法、背景も違うが、同じ先生に執刀してもらった「仲間」にあった思いで嬉しく思った。この日、後で、廊下で再び顔を合わせることになった。奥様とも話す機会を得た。
「まだ自分ではこんなふうに歩いたりすることは無理かと思っていましたが、先生に後押しされました」
 これは文字通りでも、心理的な意味でも、である。その方はいわれる。
「私もそういわれました。頑張りましょう」
 退院の話が今日も出た。僕が「早く退院したいです、でも、先生と会えなくなるのは辛いですねえ」といったら「大丈夫だ、ブログのやり方を覚えたら」といわれる。退院する前に一仕事しないといけないかもしれない。ブログの何を先生はおもしろいと思われたのだろう(追記、楽天に公開していた日記のこと)。
 夜、便が固くて、出なくて苦しくなった。もともと下剤を眠前に処方してもらうようお願いしてあったのだが、必要がなくなった、と一瞬喜んだのだが。ナースコールを押してどうしたらいいか判断を仰いだ。ところがコールに出た看護師さんは事態の切迫を理解されなかったようだ。「後で、下剤を飲んでお休みなればいいですから、もう頑張らないでゆっくりしてください」「後」などなくて今苦しいのに、と思ったが、一度コールを切る。しかしどうしてもよくなくて、おそらくは心拍も血圧もひどく上がっているはずなので再び、コールを押す。「はあい、どうされましたあ」。常は、この人のおおらかな舌足らずな話し方は嫌ではないのだが、この時は感に障る。とにかくきてもらって、浣腸できることがわかった。問題はさらにこれからで、この看護師さんが待てど暮らせどこられなかったのである。結局、この間に、浣腸は(手術前に経験したが、気持ち悪いものである)必要なくなり、一件落着したのだが、なぜこんなことになったか僕は詰所に行って確認しないわけにいかなかった。他の看護師さんにたずねたところ、浣腸を暖めるのに時間がかかったという。では、時間がかかるといえばいいと思うし、後に11時半頃に様子を見にこられた別の看護師さんによれば、緊急の事態が発生していたようで、僕まで手が回らなかったのが真相であることがわかった。「それなら」と僕は彼女にいった。
「そういわれたらよかったと思います。詰所とここではそんなに離れているわけではありませんが、何も見えませんから。今、緊急に対処を要する患者さんがいて、すぐにいけないこと、浣腸を暖めるのに時間がかかること、それをいってくださったら、僕は待てたと思います。そちらの事情でただ待っていれば、5分が10分、10分が20分に感じられます。何よりも今、術後の状態で心拍数が増し、血圧が上がっている状態というのは、怖いです。それについても大丈夫だといってもらえたらよかったと思います」
 U看護師は僕の主張を認め、さらになぜひどい便秘が起こったかその原因、今後どうすればいいかということについて明解な説明をして帰られた。少し時間を取ったが、話ができたのでよかったとしよう。というのはどちらでもいいが、同じことではなくとも、似たような、つまり看護師が不測の事態を前に足りない時にコールがあった時にどうするかということについて考えてほしい、と思った。

2007年5月20日日曜日
術後6日目
 昨日はナースコールをしたがなかなかきてもらえず、ゆっくり息をして耐えたが、結果的にはそれが呼吸訓練になったといえないこともない。苦しみを克服するために、呼吸が痛いとはいってられなかった。それにしても耐えられるくらいならそのそもナースコールを押したりはしないのだから、「もう無理しないで、ゆっくり休んでいてください」とおっとりとした口調でいわれ、その口調が安心感を与えることも場合によればあるだろうが、力があったら抗議したいと思った。
 不満が膨らむというのはたぶん元気になってきた証拠なのかもしれないが、できれば穏やかに過ごしたい。快適な入院生活というのがスローガンに終わってはいけないし、それを達成するのは難しいことではない。患者の訴えに耳を傾ければいいだけではないか。患者がよくなるにつれ、複数医師、看護師間の連絡不足、あるいは指示の不一貫性が顕著になってくるように思う。僕は、複数スタッフのいったことを全部覚えているから、すぐにわかってしまう。心拍数が多いことを指摘する今日の担当看護師が、貧血は改善しているといったが、これは間違いだろう。むしろデータが悪くなっていることが、最近の血液検査で明らかになっており、その後、新たに検査をしていないのだから。僕がたずねたかったのは、術後には心拍数が増えるといっていた看護師がいたが、そのことについて新たに本当にそうなのか知りたかったのであるが、貧血について言及する必要があれば、たしか、と記憶に頼るのではなく、データを見ればいいのに、と思ってしまった。
 今朝は昨日よりも深く呼吸ができるようになった。なお痛みがあるが、中島医師から聞いていたもっとも辛い時期は乗り越えたように思う。咳もできるし、くしゃみも何とか耐えられる。変なかばい方をするからか、筋肉痛がひどい。最初の頃は、浅い、速い息しかできなかったのが、今は胸に聴診器を当てられ深呼吸するようにいわれるとゆっくり息ができる。
 今日は階段歩行に進めず500メートル歩行を再度実施。昨日、クリアできたと思っていたのだが、歩行後の血圧が高すぎたようである。昨日より低い数値が出たが、どうなることか。その後、疲れて、午前中、ずっと寝てしまった。食事中に心拍数が増えることを昨日指摘されたので、今日は気をつけて時間をかけて食べる。去年も、入院中、食事後気分が何度かあったことを思い出した。
 エレベータを使った院内歩行が許可になったので、一階まで行ってみたが、今日は休みの日なので薄暗く、面会にくる人を見かけるだけなので、すぐに帰ってきた。黙っていってはいけないことになっている。心電図の電波が別の階に行くと途切れてしまうからである。帰室後、血圧を測られた。「まだ貧血があるようなので、しんどくなったら、立ち止まるか、その場に蹲ってください」。こういった看護師さんは、午前中、貧血は改善したといったのではなかったか。「今日はもうこれといった予定はありませんか」「ええ、今日は。ゆっくり休んでください」そういって笑顔で退室しようとする看護師さんに追い打ちをかけた。「包交はまだでしょう?」今日はまだ先生たちを一度も見ない。ゆっくり休養されているといいのだが。
 昼から親戚見舞い。

2007年5月21日月曜日
術後7日目【1】
 昨日のことを少し。5時頃、手術後14,5日といたICUに顔を出した。ドアホンを押して待っていたら、看護師さんが4人出てこられた。歩いているところを見てもらえればいいので少し言葉を交わしてすぐに帰ったが、嬉しい再会だった。ICUにいた時のことを覚えているかたずねられた。覚えていない人もあるそうである。僕は覚えている。
 もうよくなってきたからか夜の巡回が減ったように思う。それなのにこられるのを待っていた。長い夜。
 朝、採血。血管が細いのと貧血のため、時間がかかる。痛い。差し直さず、待たれる。
 朝食後、一階に下りてみた。今日は外来がある日なので、人が多い。若い男性が嬉しそうに大声を出して突然走り出す。母親が驚いて、後から走って止めに行く。その様子を見てはいけないかのようにそっと見ている人たち。僕への視線を感じるが平気である。
 中島先生回診。「おはよ〜」と今日も元気。
「昨日、ブログ読んだ。いいこと書いてあるじゃないか。それで(つながりが理解できないのだが)早く冠動脈造影をしたほうがいいんじゃないか。competitionを知るためには」
 岡田先生に心臓カテーテル検査をしてもらうことになる。岡田先生は今日は外来で、早速、オーダーを出すことになった。
「井上君、ブログに書き込みしたまえ。Godhandという名前がいいんじゃないか、ふふ」
 病院は遊び場であるという(看護師さんにそういっていると聞いた)中島先生のテンションの高さにはなかなかついて行けないが、先生と知り合って、僕自身が少し変わってきたような気もする。
 今日は検査がいくつかある。ところが外来の予約の合間に入れていくことになっているので、まだいつになるかわからない。今日はついてきてもらわなくても、一階の検査室まで一人で行ってみるといったがどうなることか。
 待っていたらシャワーが先になった。今日は一人で。風呂はまだ入らせてもらえない。シャワーの後、血圧を測ったが、70-110が80-110になっただけで問題はなかった。
 その後井上医師のガーゼ交換。
「傷口を見ます。それと今日は術後一週間なのでペーシングリードを抜きます、ふふ」
 鋏をくるりと回転させて、まず縫合のための糸を切り、二本のリードを(30センチくらいか)引き抜く。経過が順調であることを喜んでくださる。ちょうど一週間前のこの時間は、手術の真っ最中だった。後、ドレーンを抜いた後の抜糸だけが残っている。
 身軽になった僕は廊下を足早に歩き、すれ違う看護師さんたちを驚かせた。
術後7日目【2】
 今日は1時過ぎから、心電図、心臓超音波、レントゲン検査。手術後、二度、レントゲンを撮るために車椅子で一階の検査室まで行ったが、もうエレベータを利用した院内歩行を許されているので、一人で行きます、といったら当然のようにスパルタの心臓血管外科ではオーケーが出た。待たないといけないことを予想し、入院来読んでいる(何度目かわからない)森有正のエッセイを持って行く。他の科の患者さんたちは看護師さんが付き添ってられた。レントゲンを撮るために先週二度検査室まで行ったが、その時はたしかにまだ歩けなかったので、車椅子を利用したのだった。心臓超音波検査では長時間無理な姿勢を取って、何度も息を吐いて止めることを繰り返さなければならなかった。二日前だったらできなかったかもしれない。浅い、速い呼吸しかできなかったし、横に向くだけでも痛みをこらえて、たいそう気合いを入れないとできなかったからである。それにしても前に書いたが、はい、そこで息を吸って、吐いて、吐いて、はいそこで止めて、などできないと思うのだが。
 帰室すると、父が見舞いにきてくれていた。今回も高齢の父に心配をかけてしまった。父が遠くからくること自体が心配だったのだが、顔を見られ、話すことができてよかった。僕が身軽に歩いている姿を見て、父は驚いたようでもあったが、安堵してくれたのではないかと思う。検査を終えて、すたすたと歩いて部屋に戻ってきた僕を見て驚いているように見えた。「おまえが受けた大きな手術を思えば、私の身体のことなどとるにたらないが」「そんなことはないから」「それがつらくてなあ」僕の話は止め、父の話を聞いた。
 入院していると、何かのきっかけで話をするようになることがある。中島先生に無理矢理引き合わされた形の男性は、肺癌の後、今回バイパス手術を受けられた。今日初めて言葉を交わした男性は40代で糖尿病になり、今回の入院では大きく腫れ上がった左足の治療のために入院されている。右の首に点滴ラインが確保してあった。「二十年かけて悪くしてきたのですからね」といわれるが、治癒にそれと同じだけの年数がかかるとは思わない。しかし早期の治癒が可能になるためには、生き方そのものの見直しもたしかに必須であろう。中島医師が、手術を受けたら人生観が変わるといってられたことを思い出した。先のパイパス手術を受けた男性の妻が見舞いにきていた友人たちと話しているのを耳にした。「あの人は今度のことで本当に変わったのよ」と。どちらの人も企業戦士という言葉がふさわしい。
 中島医師、夕方回診。「今日は(バイパスの)再手術だった。最初が40代で、今、60代。どうだ、お楽しみが二度待ってるぞ」「先生、勘弁してくださいよ」
 今日は二度、岡田医師とも話す。臓血管外科から冠動脈造影検査のオーダーが出たので、その件についてたずねにこられた。先生の検査結果を待って退院が決まるのですから、よろしくお願いします、といったところ24日に(おそらく無理をして)予約を入れてくださった。医師たちもオペの結果を見たいだろうし、もちろん、誰よりも僕が見てみたい。何事もなければ、25日に退院の運びとなった。

2007年5月22日火曜日
術後8日目
 一晩途中で目覚めることなく眠ることができた。寝たのはそんなに早い時間ではなかったが、長い病院の夜は辛く苦しかったので、目が覚めたのはまだ5時頃だったけれども、外は早くも明るく、満たされた気持ちになった。
 朝、中島先生回診(この際、高橋、井上医師も同行)。前日に書いた楽天の日記を受けて、「本当に調子がいいの? けなしてもいいんだぞ、あいつの言葉が気に入らないとか。ペーシングリード抜くの、痛くなかったろう。あそこは神経ないんだ」と。
 最後に「いいですよ、問題ない」といって去って行かれた。
 今日は検査もなく、階段を一階分上り下りするリハビリがあっただけである。とはいっても、久しぶりに階段を上るのはなかなか苦しいもので、すっかり筋肉が衰えてしまったように思った。平地歩行にはもう慣れたのだが。
 昨日、書いた糖尿病の男性の部屋をたずねる。病気になった経緯などを聞く。大学の事務職の人で僕にその大学で講義ができないか打診したい、といわれる。
 リハビリクリア後に自分で階段の上り下りをしてしまったが、昼からするようにいわれていたことを思い出す。疲れたのか、その後、ほんの一時間ほどだが、寝てしまった。今日は病棟が静かだと思ったが、ただ、部屋のドアを閉めていたからだけかもしれない。
 僕は部屋のテレビをめったに見ないが、たまたまつけたら入院案内放送をやっていてこの病院に屋上があるということに気がついた。ヘリポートがあって、急患の搬送のためにヘリコプターが着くことは知っていたが(僕が手術を受けていた時にあったようだ。今日もあった。事前にヘリコプターの到着を知らせる全館放送があるが、もしもいきなりのことであれば驚くことになるだろう)、外に出られないだろうと思っていた。実際、これはその通りなのだが、旧館の屋上なら出られることを知ったのである。院内にいても感じる外の熱気に誘われたかのように、南病棟から旧式のエレベータに乗って屋上に出た。ここからは東福寺が眺望できる。
 高齢の車椅子に乗った女性が、看護学校の生徒とともにおられた。こちらにきてから人と話すことにためらいをあまり感じなくなったように思う。少し、話をする。学生さんは三年生で、今三週間ある実習の二週目だそうだ。手術直後は6月1日の聖カタリナ高校の教壇に復帰することは絶望的に困難ではないか、と思ったものだが、この学生さんと話をして早く戻りたいと思うし、実際、まだ10日も(!)ある。
 この方は僕の隣の病棟階に入院されているので、一緒にエレベータで下り、僕は僕の病棟階のところでお元気で、といって別れた。その声にナースステーションにいた看護師さんたちが一斉に目を上げて僕たちの方を見られたのは少し驚いた。
 夕方、24日の冠動脈造影検査についての岡田医師からのムンテラ。competitionなどという言葉を使ったものだから、ずいぶん専門的な話を外科の先生に聞かされたのですね、と驚かれる。新しい病院にきて、最後のチェックをこの一年おつきあいしてきた岡田先生にしていただけることは本当に安心であり、ありがたいと思う。
 走り出したらあっという間にゴールの100メートル走のようである。もちろん、苦痛が癒えてきたのでこんなことをいえるのだが、ついこの間までのバイバス手術であれば、その日のうちに抜管し人工呼吸器から外すなど考えられないことだった、と岡田先生はいわれる。ICUにも10日近くいたのではないか、とも。めぐりあわせで最善の結果を得られたことに感謝したいと思う。

2007年5月23日水曜日
術後9日目
 去年は、助かったのに、一月に及ぶ入院生活の後、予後はよくても、未処置の狭窄部位を残し、やがてバイパス手術が必要だといわれ続け、一年間たえず心筋梗塞の危険におびえて生きた。死ぬのは一度なのだから、恐れても意味はない、といつも自分にいい聞かせていた。
 22日の夕方、岡田先生から24日の検査の説明を受ける。4月に同じ説明を受けたので、繰り返しは全くなく、今回の手術のこと、今後の見通しが話の焦点となった。今回もなお一箇所未処置のところがあるが、これについては、急いで何とかしなくても、そこが閉塞しても、最近、しんどくなったくらいのようである。3箇所にバイパスを繋いだが、これらの血管は10年持つということだった。10年を長いと見るか、短いと見るかは、意見の異なるところだろう。それでは10年経てば、必ず閉塞するのかといえば、そうともいえないというファジーな世界である。明日の心臓カテーテル検査を最後にしばらくはこの検査を受けなくてもいいようである。後は、狭窄、閉塞を起こす根本原因を突き止めていくことが必要になってくる。
 今日は、風呂のリハビリ。その前にドレーンを抜いた後の傷の抜糸。足の静脈にまだたくさんテープがついていたが、「俺は中途半端が嫌いだ」と中島先生が何枚かはがしていき、その後、8時過ぎに回診にこられた高橋医師も、同じ理由で、今度は足も、胸の傷跡にもついているテープを全部はがして行かれた。
 高橋先生は、今回の手術の執刀医の中でももっとも繊細な人で、気性的には僕に一番近いのではないかと見ている。アメリカで三年間学んだというこの先生は、僕がブログに書いていることは知っているが、「惑わされるような気がするから」と今は読まないという。「退院されたら、ああこんなことを感じてられたのだなあ、と思って読みます」。カウンセリングをしている時に、クライエントさんがその内容を公開されると(逆は決してないが)どぎまぎすることはたしかにある。
 風呂に入りながら、手術の傷跡を見てみる。自分の身体のようには思えない。やがてもっときれいになると聞かされていても、盛り上がっている傷を手でなぞるのは気持ちのいいものではない。「清潔にするのが大切だから、汁が出ていても、石鹸で傷口を洗いなさい。乾燥させるのが大切」と朝、中島先生が回診の時にいわれる。
 胸に聴診器を当て、「絶対大丈夫だ」といって部屋を出て行かれた。「絶対」と力強くいわれると本当にうれしい。明日の心臓カテーテル検査で問題は出てこないだろう。
 昼から、階段二階分の昇降リハビリ。これはこれまでの中で一番きつく明日もう一度午前中にしようということになった。のぼりついたところがピークで、降りると少し楽になった。この時点で心拍数が110だったら、術後3日目にナースステーションまで歩いた時、120だったことを思えば、よくなっているのではないかと思う。
 ちょうど帰室し、血圧を測ろうとした時に、中島医師が入ってこられる。そのため(と僕は見ている)血圧が高くなり、測定し直すとまたすぐに下がったので、看護師さんが笑われる。「なんだい、こんなに豊かな話をしてやってるのに」と出て行かれる。
 その後、中島先生と廊下で話をした。
「私は、父親の手術をしたんだ」
「おいくつだったのですが、手術をされたのは」
「80歳。それから14年生きて、死にましたけどね。いくつか会社の社長をしていましたが全部、やめてそれからは遊んでいきました。おやじが死んだ時、悲しむ人はいなかったね。やっといったか、って」
 僕は父親の手術をするというのがどんな気がするものかたずねた。
「楽だったね。だって考えてみなさいよ。私だけが私の心配をすればいいんだ。でも、君の手術をする時は、心配するのは君のことだけじゃない。奥さんの顔も、息子さん、娘さんの顔も浮かぶ。ごきょうだいも、親の顔も。その点、自分の親の手術は楽なんだ」
 軽口を叩いていると思っていたらいきなり先生がこんなことを話されるものだから、胸が熱くなってしまった。僕も先生も黙って、廊下で別れた。

2007年5月24日木曜日
 術後10日目。
 また夜眠れなかった。病院の消灯時間は早い。個室なので気にしなくてもいいのかもしれないが、廊下の電気が9時半に消されると、事実上読書灯だけを残して部屋の照明を落とさなければならない。こんな時間に寝たら途中で目が覚めるに違いないと思っていたのに、昼間疲れたのか、少し寝入っていたのだろう。そのまま朝まで眠るというわけにはいかなかった。ICUから戻ってきたばかりの患者さんの大きな声が深夜の静かな廊下に響く。どこからかアラーム音が何度も聞こえてきた。少し眠いが、体調は万全。冠動脈造影検査の順番を待っている。前回の経験では、左手の動脈からカテーテルを入れるので痛みのため、しばらくキーボードには触れないので、今のうちに書いておこう。
 今日は朝から階段二階分の上り下りリハビリに再チャレンジした。少し早めに歩いてしまうと、しばらくつらくなる。蹲るほどではないが、特に階段の場合、苦しい。しかしその後の回復は早くなってきたように思う。井上医師にこの話をすると、一つは貧血による。貧血は改善傾向にあり、輸血はしないことに決まった。もう一つは、なにしろ心臓を二時間ほど止めたわけだから(たしかにこれは大変なことだろう)、徐々に慣らし運転をしていかないといけないだろうという。目下安静時の心拍数が90もあってつらいが、これも特に心拍を抑える薬は出さないということだった。
 今日の担当看護師は厳しい。「呼吸練習やったはりますかあ、ちょっと見せてください」。彼女の「ちょっと」はくせ者で、やはり1クール10回。「今、何回目?」「9回、後1回」「はい」苦しい。しかし手術前より、肺活量が増えたようだ。まだ胸の痛みが強いというのに。今、はめているバストバンドを見ると、大リーガー養成ギブスというのがあったことをふと思い出した。こんなのをはめて息をするというのがそもそも無理ではないかと僕は思うのだが、この胸を締め上げた状態での呼吸に慣れてきたともいえる。
 今日の検査は、午後連絡時ということで、時間がわからず落ち着かない。
 僕が手術の際に受けた全身麻酔は、完全な感覚の遮断だからである。意識が戻った途端抜管されたがその時の僕は「この世に蘇生した人の定かならぬ眼ざし」をしていたかもしれないが、そのような人が見てきた「青い微光にみちた世界の記憶が海藻のようにゆらめいて」はいなかっただろう(辻邦生『夏の砦』p.223)。何の記憶もないからである。
「手術で一番辛いのは、前の日だ」と中島先生はいわれる。たしかにそうだと思う。手術が終わったら、傷の痛みに耐えなければならないし、それしかできない。ただ今ふりかえって思うと、去年の心筋梗塞の後はどうしてあれほど精神的に不安定だったのだろうか。今回は、そういうことは一度もなかった。

2007年5月24日木曜日
術後10日目【2】
 左手にシーネをはめているので、長文は打てない。結果だけを。心臓カテーテル検査(卒業試験ともいう)に合格した。グラフト血管にきれいに血液が流れていて、検査中の岡田医師が「さすがやね」と驚嘆の声を上げてられた。明日、退院することになった。

2007年5月25日金曜日
術後10日目(続き)
 最後の難関は冠動脈造影検査。何時からということが決まっていなくて、きっと岡田先生が無理にこの日に入れられたのだろう。看護師さんにどうやって行くのですか、とたずねたら歩いていきますという答えが返ってきて驚いたが、さすがに指示には車椅子で検査室に行くとなっていたようで、歩けるのに車椅子に乗ることになった。前病院では、検査の時も、ストレッチャーで、点滴も病室であらかじめ確保してからいった。いかにもこれから手術という雰囲気でこれだけで十分に緊張した。
 検査は局部麻酔で、左手の橈骨動脈から。穿刺の時がいつも痛い。痛いと訴えたら、麻酔を追加されたが、それでも最初は鈍痛があった。しばらくはこの検査を受けなくていいようだが、そのうちこの血管は使えなくなるかもしれない。身体の中をうごめくカテーテルの気味悪さは何度この検査をしても慣れるものではない。バイパスのためにつないだ3本のグラフト血管にきれいに血液が流れていて、検査中、岡田医師が「さすがやね」と中島先生の手技に驚嘆の声を上げられるのが聞こえた。約一時間の検査の終わりに岡田先生に「卒業試験合格です」と声をかけてもらった時は、長かったこの一年を思って不覚にも涙が出た。薬の飛沫が目に入らないように、ガーゼが目に乗せてあったのだが。「合格」となると、もう一日も早く退院したくなって、高橋医師に明日、退院ということでいいですか、と迫った。この日、中島先生も井上先生も学会出張で不在だったので一瞬困ったという表情が見えたが、オーケーが出た。ただし(その後しばらくして戻ってこられた)金曜朝に採血とレントゲンをしてその結果次第ということになった。週末に退院という予定だったようだ。この期に及んで検査データがよくないので退院延期になったらどうしようという危惧は今はある。それならそれでしかたないが。
 術後、一時間ほどして、止血帯のチェックに岡田先生が部屋にこられる。その際、画像データをプリントアウトしたものをもってこられて説明してもらう。
 夜、ばたばたしたようだが(朝、隣の部屋の人のベッドがなかった)、僕は何も知らず7時過ぎまで寝たようだ。

術後11日目
 検査結果次第で退院が決定、とまだ決まったわけではないことを何度も医師たちは強調する。朝、採血とレントゲン。井上先生は戻ってこられたが、中島先生は学会出張のようで不在。先生が朝おはよう、と大きな声で回診がこられないと一日が始まらない気がする。昨日から病棟が火のついたように寂しい。血圧が低い。60-100.安静時の脈拍が80まで下がった。体重も今朝は入院前に戻った。もっとも昨日、検査時に大量に輸液を点滴で入れたのだが。これで退院となれば、後は手術の傷の痛みが癒えるのと、病院内では十分できなかったリハビリを続けることになる。

2007年5月25日金曜日
術後11日目【2】
 荷物の片付けもしながら、検査結果を待つ。やがて高橋先生がこられ、退院が決まった、と「おめでとうございます」と笑顔の先生と握手を交わした。高橋先生のことはあまり書かなかった気がするが、今回執刀してくださった心臓血管外科の3人の医師のうち高橋先生が気質的には僕には一番似ている、と感じていた。
 一人で退院し、帰るつもりだったが、さすがにまだ(おそらくこれからも長い間)重いものを持ってはいけないし、持てないので、妻に助けてもらうことになった。病院の中を歩くのとは違って、距離的も長く、また道も必ずしも平坦ではなく、自宅まで遠い道のりに感じられた。
 帰宅後、自立更生医療の手続きのために市役所へ行く。この制度がなければ600万もする手術費を払いようがない。この申請のためには身体障害者手帳を持っていることが前提なのだが、この期限が4月30日に切れていて、手続きが煩瑣なことになることを恐れていたところ、最初に出てきた福祉課の課長が僕の中学時代の同級生で話はすんんり進んだ。講演を依頼するとしたら、それくらいはできるだろうか、とたずねるので驚いた。もちろん、生計を立てる手段が限られているので是非、とお願いしておいた。
 娘と久しぶりに会う。喜んでくれた。