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2010年10月の記事

2010年10月31日 (日)

今年最後のコスモスか

a faint touch of winter

 遅くまで仕事をしていたので、起きたら8時だった。川の土手で写真を撮っていたら何を撮っているのだとたずねる人があった。その時はベニシジミを撮っていたが、テントを張って翡翠を狙っているというその人がどう思われたかはわからない。カメラのレンズのことをいろいろと教えてもらう。
 今日歩いた道からは少し離れているので見なかったが、コスモスがこの台風でどうなったか気がかり。長く咲く花なので、桜のように早く行かなければという切迫感がない。だだからかえって撮るチャンスを逸してしまう。

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2010年10月30日 (土)

恢復途上

I miss you

 提出期限ぎりぎりまで学生の答案を手元においていたが昨日ようやく返送した。いつもながら、学生のできもさることながら、教えたことが思うように伝わっていないとすれば僕のほうの問題なので成績がよくなければ喜べない。
 気候が不順で身体に応える。水曜日に近大姫路大学へ出講。前の週は姫路のほうが京都より暑いと思っていた。部屋は暖房が効いていて、途中で声が出なくなってしまった。
 今年はアゲハチョウがコスモスにとまっているのを見なかった気がする。去年、載せなかった(はず)写真を探し出してきた。
 父のところへ行った。顔色もよく元気そうだった。「どっこも痛くない。夜もよく寝てる」と機嫌もよかった。父が描いた絵などを壁に貼ってもらっていた。作品展という掲示がしてあって、父はまんざらでもないという様子だった。絵の具を使って画いてある絵もあった。絵には署名してあったが達筆で驚く。家にいた頃は時を忘れたのではないかと思うほどだったことを思うと、父の状態は安定していることがよくわかる。来月は病棟を変わることになっている。

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2010年10月26日 (火)

落柿舎で講演

 京都は落柿舎で講演をした、境内にある次庵は句会席に使われる。参加者は多くなかったので、講演というより講義といったほうが適当かもしれない。駅からは少し離れているので、間に合うよう、雨の中、一生懸命ゆるゆると歩いている人たちを追い抜いて歩いた。
 話は石田衣良の『美丘』の美丘がアドラー心理学についての講義を聴いた時にノートにひらがなで書いた「みらい きぼう じんかく」という言葉の意味を明らかにするところから始め、一時間話した後はすべて質疑応答にあてた。今日は初めて扱うテーマなので途中で話の接ぎ穂がなくなるのではないかと心配だったのだが、疲れ知らずで話し続けることができた。参加された皆さん、ありがとう。

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2010年10月25日 (月)

今日は講演

In the crisp air of autumn

 今日は地元の祭りの宵山だったが、生憎の雨でどうなったか心配。土曜の夜に出かけたところ、まだ夜店も出てなくて鉾も建ってはいたが人が少なかった。伝統行事を守っていくのは大変だろうといつも思う。
 今日は落柿舎で講演。明治に再建されたのだが、ここで芭蕉が『嵯峨日記』を書いた。芭蕉の生年を調べたら、五十歳で亡くなっていることに気づいた。そういえば講演の題が決まってなかった。
 写真はヒメアカタテハ。コスモスが満開。咲き始めの頃が好きで、わずかに咲き出した頃に写真を撮りに出かける。よく見るまでもなく、花びらが枯れたり落ちてしまっている。例年ほど蝶や蜜蜂もあまり見ない。広いところにわずかな蝶しか飛んでいないとなかなか遭遇しない。ヒメアカタテハが一瞬とまったところを見た。二枚撮ったうちの一枚。

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2010年10月22日 (金)

時間がなくても、時間があっても

 今週は水曜の近大姫路大学への出講で疲れてしまった。今年は三年目。一年目は初めての生命倫理の講義でシラバス作成から始めなければならなかった。二年目の去年は前年の講義を踏まえて毎回の講義ができたが、父のところへ行って朝食の用意をしてから姫路に向かうのは大変だった。それを思うと今年は楽なはずなのだが、なかなか思うようにいかないものである。
 『アドラー心理学入門』10刷の見本刷が届く。一九九九年からのロングセラーになっている。今なら違うことを書くだろうと思うが、今も愛着がある。すべてはここから始まった。
 カトー(古代ローマの政治家、文人)は八十歳になってからギリシア語を学んだ。モームはいう。あまり時間がかかるというので若い時には避けるような仕事にも老年になるとぞうさなく取りかかれるものである、と。八二歳になった父は「どう考えても、これから先の人生のほうが短い」というのだが、悠々としている。

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2010年10月19日 (火)

やはり秋の使者か

Like a boomerang

 去年はこのトンボを撮った時、秋の使者という題をつけたが、今年は天候が不順で適当とは思えない。花にとまってくれたらというのは人間の勝手だろう。一度気に入った茎を見つけると、飛び去ってしまってもまたすぐに戻ってくるので待っていたら写真に撮れる。僕のカメラで撮るには遠すぎるところにとまったが、鮮やかな色は伝えられるかと思う。
 このところ新しいカメラがほしいという気持ちが募っていけない。カメラを換えれば写真が変わるということはきっとないだろうとわかっているのだが。

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2010年10月18日 (月)

父の誕生日

Sudden blush

 今日は父の82歳の誕生日なので、おめでとうといいにいった。花を持っていくことも考えたが、花束を持って駅を下りてから30分も歩くことがためらわれ、置き場所も困るかと思ったので、若い時に母と二人で写っている写真と僕の『困った時のアドラー心理学』を持っていった。
 写真を見て、父は懐かしいといい、写真に写っている蓄音機やレコード、火鉢には関心を示すのに、母のことについては何もいわない。今に始まったことではないので驚かないが、やはり覚えてないのか、と寂しい。
 僕の本を持っていったのは父に自慢するつもりではない。一人で暮らしていた頃、父に僕の本を送ると、次に家にきてくれた時に重い本でも電車の中で読んでくれたことを今もうれしく思い出すからである。父がどこまで読んでくれたかはわからないが、こちらに戻ってきた時も僕の本を余さず持ってきてくれた。とうとう一度も本を開くことはなかったのだが。
 本には僕の写真が載っている。これは誰ですか、とたずねられた父は嬉しそうに僕を指さしてくれた。

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2010年10月16日 (土)

難しそうだが描けるだろう、と

where have the flowers gone?

 父のところへ写真を持っていこうと思って、常は自分の写真をプリントアウトした試しがないのだが、近所のコンビニへ行った。コピー機を使ってA4サイズにプリントアウトできることをホームページで確かめて行ったのに、SDカードを読み取るアダプターが置いてないので、使えないといわれた。しかたなく、スーパーにあった機械を使ってみたが、意図しないふうに写真が切れてしまい、4枚用意した1枚だけを父のところへ持っていった。それがこの写真。
 ちょうど父は絵を描いているところだった。写真を渡すと「難しそうだが描けるだろう」と指で輪郭をなぞった。
 認知病棟から一般病棟へと来月の初めに移ることになった。落ち着いてきたので大丈夫だろうという判定が会議で出たということだった。部屋も個室から4人部屋になる。
 いつもは父に会って帰る時、泣きそうな気持ちになるのだが、久しぶりに明るい気持ちになった。

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2010年10月15日 (金)

選ぶのはむずかしい

Ready to take off

 三年前、僕と同じ病院で同じ主治医によってバイパス手術を受けた人がおられる。その人の手術は数ヶ月後だったので入院時に知り合ったのではなく、主治医が僕の手術体験記(このブログで公開している。右欄)を紹介し、それがきっかけでメールのやりとりから始まって、病院に見舞い(応援というべきか)に行ったり、術後も会って情報交換などをしてきた。今朝、奥様から今日検査を受けられるという知らせを受け、わがことのように気になる。僕のほうはまだ今のところ検査入院の話は出ていないが、局所麻酔で短時間ですむ検査とはわかっていても、検査結果がわかるまでは不安なものである。いい結果が出ますように。
 父が絵を描く時に参照する写真を持ってきてほしいといわれているのだが、そんなことを想定して撮った写真は1枚もないので選ぶのが難しい。どんな写真なら喜んでもらえるかわからないが、あれこれ想像するのは楽しい。
 写真は過日植物園で。シオンにとまったヒメアカタテハは飛び立とうとしている。

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2010年10月13日 (水)

楽しい授業

Flying fairy

 今日は大学で講義。講義ノートを見なければ、自由に話せる。見なければ、であって、なければ、ではない。板書すら必要ないだろう。僕の字は読めないだろうし。早口になるので、ペースダウンのために大切な言葉を書き出したりしているが。これからはめんどうな話もしていかないといけないが、授業が楽しかったというメールがくると嬉しい。

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2010年10月12日 (火)

彼岸花

Flowers in heaven

 昨日、月曜日、京都府立植物園に行ってきた。電車で一時間くらいで行けるが、晩年は近くに住みたいとよく思う。今住んでいるところでも十分自然に恵まれているのだが。
 天候不順のおかげでというべきか、まだ彼岸花がきれいに咲いているところがあった。Flickrでexploreの1枚として選ばれたようで、昨日からアクセスが多い。僕はめったに選ばれないので、最初から選外なのか、と思っていた。
 明日は近大姫路大学で講義。サンデル先生のような講義をする用意はあるが、必修の講義は難しい気がする。でもおそらくはこれも講義が思うようにできないためのいい訳なのだ。聞きたくないかと思っている学生も思わず聞いてしまう講義をしよう。毎回、そう思っている。その話は何か生命倫理に関係があるのですかといいそうな学生を勝手に思い描いていて、縛りになっているかもしれない。

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2010年10月11日 (月)

父に似ているところがある

small but energetically flying

 燕小灰蝶(ツバメシジミ)。3センチくらいの小さな蝶。長く続いた夏の猛暑のために長く写真を撮ることができなかったが、またカメラを持って出かけられるようになって嬉しい。今、使っているカメラはCanonのG9でかれこれ2年ほど使い、1万枚ほど撮った。このうちFlickrに載せたのは500枚ほど(このブログの写真はFlickrからリンクしている)。
 子どもの頃、父のアルバムによくわからない写真をたくさん見つけた。わからないというのはスナップ写真ではなく、花や(知らない)子どもの写真だったからだが、今から思うと父はその頃カメラにこっていたのだろう。父の若い頃の写真を看護師さんや介護士さんらに見せると、似てませんね、といわれるが(父は今でいうイケメンだった)、似たくないとずっと思っていたのに、似ているところがあるようにこの頃思う。写真のことはその一つである。影響を受けたとは思わないのだが。

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浅葱斑/父の絵

Chestnut fairy

 今日は浅葱斑を撮るつもりで出かけた。まずこの蝶がとまる藤袴を探す必要があるが、これがどこにあるかは知っている。開花状況がわからないのと、咲いているからといってこの蝶が必ずいるとは限らないので無駄足になることは覚悟だったが、幸運なことにすぐに見つけることができた。望遠レンズなどない僕のカメラで撮るにはあまりに遠かったが、また近くで撮れることもあるだろう。ともあれ、今年初めて撮ったということで載せてみたい。
 父の描いた絵を見る。施設では塗り絵をするのだが、家にいた時もそうだったように、単色で塗りつぶすのではなく、複数の色を使って塗ってあった。また写真を見て画いたものもあった。どれも家にいた時の絵よりも出来映えはよいと思った。ローマ字でサインがしてあった。初めて見た。父はこんなことも何も覚えていなくて、「なんもしてへん」というのだが、時間をかけて取り組んでいることを知った。

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2010年10月 9日 (土)

それでも聞いてほしい

このところ夜眠れずつらかった。なぜかひどく緊張していて、気を緩めることができない。
 先週から大学での講義を始めた。いつも思うのは話をすべて余さず聞いて理解してほしいということ。本なら自分のペースで読め、必要があれば読むのを止めて考えたり、読み直すことができるが、話はどんどん進むので一言でも聞き逃したら理解できないことはありうる。本のように読み返すことができない代わりに、何度か繰り返して話す工夫もするが、それでも粘り強く聞かないと理解できないだろうと思う。
 ところが聞く側はわかるところだけを拾い出して聞いているように見える。難解な講義はしないでおこうと思うが、それまで考えたこともないようなことについてすぐにわからないということはあるだろう。難しい言葉を使わず、言葉の次元でつまずくことがないようにしたいと思う。学びたいと思う学生は熱心に聴講するが、必修の講義では聞きたくなくても講義に出ないわけにいかないと思って教室にくる学生には90分は苦行になるかもしれない。
 それでも、思わず聞いてもらえる講義をしたい。何年、講義をしていても簡単ではない。

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2010年10月 6日 (水)

少し落ち着く

dignified heron

 10月に入って忙しかったが、今年も近大姫路大学での講義が始まり少し息をついた。初めての学生さんたちに話をするのは緊張する。講演と違って、次があるのだが、それでも一回一回、それなり完結させたいと思っている。前のほうにすわっている学生は僕が話しかけるから次回から前のほうの席が空いていたらどうしよう。学生は聖カタリナ高校の倍以上。教室の後ろが見えない。
 どんなにしても大学は遠い。まだ余裕がなく、行きは講義ノートを読み返し、帰りは疲れ果てて寝てしまった。

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 先に案内した落柿舎の講演はまだ定員に満ちていません。案内などはこちらです。

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2010年10月 4日 (月)

説明しないで描写する

Hear the sparrows sing

 父を訪ねたら、「今日は何しにきた?」といわれ、返答に窮した。くるのを待ち望まれていたり、あまりこないと責められるよりはいいかと思ったが、ここは「そんなこといったらもうこないからな」とでもいいたい場面ではあった。もちろん、本気でいうわけではないけれど。まずは安定しているということだろう。今月は父の誕生日。18日だな、と答える。「残りの〔人生の〕ほうが少なくなった」という父に「まあ、普通はそうだろう」と返したが、父はどう思ったかわからない。
 村上春樹の対談集を読んでいる(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋)。カフカのエピソードを惹いて、説明するのではなく、具体的に描写するという話があったが、『困った時のアドラー心理学』はこれを目指した。本文中にアドラーの引用はない。あとがきに、アドラーが、経験のない治療者はあなたには「共同体感覚がない」「劣等感がある」というようないい方をして患者に講義をするのは有害だといっていることを取り上げたのだが。個々のケースはどれも同じではないから、杓子定規な解釈の押しつけはしてはいけないし、できないのである。
 晴れてきたので久しぶりにカメラを持って出かけた。平日の昼間は僕と雀しかいなかった。コスモスがこんなに咲いているのに。

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2010年10月 2日 (土)

孤立しているが

 教えている高校の試験が無事終了したという連絡を受け安堵。学生たちからの試験の感想も届く。一様に難しいというものだった。来週からは近大姫路大学へ出講する。今年はどんな学生か、顔を見るまでは不安である。必修科目なので受講生は多い。必修であることは教師、学生のどちらにも不幸なことではないかと思うことがあるが、生命倫理に興味がなかった、あるいは、知らなかった学生が少しでも興味、関心を持つきっかけになればと思う。看護師としてこれから避けては通れない問題だから。
 病後、仕事から退き、その後、父の介護でいよいよ外に行かなくなったので、外での仕事は週に一度の講義とわずかな講演以外はなくなった。後は、空いている時間は原稿を書いている。家事はしっかりというわけではないが、買い物をしたり、夕食を作ったりしていると、役に立てているように思える。次に手術する時にバイパスにする血管が劣化しないようによく歩いている。歩いている時のほうがあれこれと考えが浮かぶようだ。
 孤立していると強く感じることはあるが、孤独ではない。所属するところはなくても、あるいは、ないので、自由な個人として生きていくことを怖れないでおこうと思う。

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