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2009年12月22日 (火)

ほめることと勇気づけ

ほめることと勇気づけ

 子どもたちが課題を前にしてそれにどのように取り組むかは、本来子どもの課題であって、親の課題ではない。ある課題、たとえば、勉強をしなくても、そのことによって起こる結末は、子ども自身が引き受けなければならないのであり、また、そのことによる責任も、子どもが引き受けるしかないのである。
 とはいえ、親としては、子どもが難儀していたり、手をこまねいていたりしていれば、なんとか援助したいと思うであろうし、そうすることが必要な場合はある。その親による援助が適切なものであれば、成功するかどうかは措いておくとしても、子どもは課題に取り組む気になるだろう。子どもの課題を肩代わりすることはできないが、子どもが自分の課題を自力で解決しうるという自信を持てるように援助することをアドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいる。
 本稿においては、しばしばこの勇気づけとは取り違えられる「ほめること」と「勇気づけ」がどのように異なるかを明らかにすることを通して、本号全体で考察される子どものやる気が育つ援助について考察したい。

やる気を出さない決心

 そもそも、やる気は「育つ」のかどうかというところから考察を始めなければならない。子どもではなく、自分について考えてみるとわかるのだが、やる気が起こるのを待っていてやる気が出たことがあるだろうか。私はない。なぜなら、他ならぬこの自分が、目下取り組まなければならない課題を前にして、それをしないでおこうと決めているからである。したがって、このしないでおこうという決心を解除しない限り、やる気が出てくることはありえない。子どもについても同じことがいえる。
 それでは、なぜ与えられた課題をしないでおこうと決めるというようなことが起こるのだろうか。いくつか理由が考えられる。一つは、子どもが課題を達成できない、と思っているということがある。しかし、とうていできないようなことでなければ、課題を達成するための努力は当然必要であるが、達成できないわけではない。アドラーは、ローマの詩人、ウェルギリウスの言葉を引いて「できると思うがゆえにできる」といっている(1)。これは精神主義ではない。アドラーは、できないという思い込みが、生涯にわたる固定観念になってしまうことに警鐘を鳴らしているのである。この思い込みを解除する必要がある。アドラーの「誰でも何でもなしとげることができる」という言葉は、このような文脈の中で理解されなければならない(2)。
 次に、与えられた課題をしようとしないのは、それをまったく達成できないわけではないのに、自分が望むようには達成できないと思っているということがある。自分が望むようにというのは、たとえば、試験でいい成績を取りたいというようなことである。いい成績を取ること自体には必ずしも問題があるというわけではない。しかし、他者との競争に勝つために、あるいは、勉強以外の面では勝てないと思っている子どもが自分の劣等感を隠すためにいい成績を取ろうとするのであれば、望む結果を得られないことは明らかであると思う時、初めから試験を受けないでおこうと決めることがある。課題に取り組んで結果が明らかになってはいけない。やればできるという可能性を残し、それを決して現実化しないことの方が、たとえ課題に取り組まないことで非難を受けるとしても、はるかに望ましい、と考えるのである。
 以上のような時に「やる気がでない」ということは、課題に取り組まないことのいわば免罪符になる。ある課題をただ「しない」ということは許されないと思う。何か理由が必要である。もちろん、「やる気がでない」といってみても、そのような理由を他の人は認めないだろうが、少なくとも自分だけは納得できる。アドラーであれば、このような納得の仕方を「人生の嘘」というだろうが、課題を達成しないことを正当化しようと自分を欺いていることに本人は気がつかないし、気づきたくもない。一度もいい成績を取ったことがない子どもは、このようにして課題から逃れようとするだろうが、ある時、思いがけずいい成績を取った子どもも、次の試験でも同じ成績を取れるという自信がなければ、課題に取り組もうとはしない。

叱ること

 このように考えてやる気を出さないでおこうと決めている子どもに働きかける時には、慎重になりすぎることはない。多くの親や教師は子どもが勉強をしなければなんとかしようと思うだろうが、アプローチの方法を間違えば、事態は何も働きかけない時よりも悪くなってしまう。どちらのタイプの子どもも、課題を達成できないと思っているという意味で、勇気をくじかれている。そのような子どもが課題に取り組む援助をしたい。子どもが課題に取り組む援助をするのであって、課題に取り組ませるのではない。
 課題の達成そのものは重要ではないという子どももいる。そのような子どもは、親から何かの課題をするように指示されたというだけで、そのことを拒否する。
 このことは、親が子どもを叱る場合に起こりうる。叱られた結果、恐れをなして課題に取り組む子どももいるが、叱られても反発する子どもがいる。子どもは、親がいうことが正論であることを知っているのである。親は子どもにいう。早く宿題をしないと眠くなるというようなことをである。このようないわれなくてもわかりきったことを親からいわれるほど腹立たしいことはない。そう思った子どもは、課題に取り組むことを放棄しかねない。叱ることでは課題に取り組まないでおこうという決心を翻すことはできない。かりに子どもが大人の叱責によって課題に取り組んだように見えても、自発的に決心したのでなければ、いつでも簡単に元に戻るだろう。

ほめること

 それでは、叱らないでほめればいいかといえば、そうではない。叱られる場合と同じく、ほめられた子どもも自発的に行動するのではないからである。ほめられるために何かに取り組む子どもは、もしもほめる人がいなければ何もしない。たとえ誰も見ていなくても、自分の判断で行動できる子どもになってほしいのである。
 このほめることと勇気づけがどの点でもっとも異なるかといえば、ほめることは上から下という対人関係を前提としているということである。ほめられた子どもは少しもうれしくはない。親のカウンセリングに同行した三歳の女の子が、カウンセリングの間おとなしく待てたら、親は「えらいね」とほめるだろうが、夫のカウンセリングに同行した妻が、カウンセリングが終わった時に、夫から「えらいね」といわれてもうれしくはないだろう。むしろばかにされたと思うだろう。子どもも同じである。子どもは喜ぶと思う人は、子どもを大人と対等とは見ていない。そのような人は子どもをおだてるべきだといってはばからない。もちろん、おだてられて動く子どもは、自発的に行動したことにはならない。

勇気づけ

 それではどうすればいいのだろうか。子どもたちが課題に取り組まないでおこうとするのは、課題そのものが困難であるからというよりは、子どもの自分についての評価に問題がある。それが適切なものであれば、取り組む課題がたとえ最終的に達成できないということがあっても、最初から断念することはないだろう。アドラーは、子どもが課題に取り組まないのは、自分に価値がないと考えているからだ、という(3)。子どもの課題を大人が肩代わりすることはできないが、いわば側面から援助することはできる。子どもが自分に価値があると思えるよう援助するということである。
 子どもはどんな時に自分に価値があると思えるだろうか。そして、大人は子どもがそう思えるために、どんな言葉をかけることができるだろうか。自分に価値があると思えるのは、自分が役立たずではなく、人に役立っている、と感じられる時である。カウンセリングの間おとなしく待った子どもには、「えらいね」とほめるのではなく「ありがとう」といいたい。これは子どもが待つことで他者(この場合は親)に貢献できることを伝えることによって貢献感を持つ援助をするのがねらいであって、決して次回も適切な行動をさせるためではない。貢献感を持てる援助をすることで、自分に価値があると思ってほしいのである。自分が何らかの形で貢献できたことを知った子どもは、自分のことに価値があると思え、自分を好きになることができる。課題に取り組める子どもは、このような子どもだけである。
 このような子どもは、自分が優れていることを他者に示すために行動しない。また、他者から評価されるかどうかも問題にしないし、他者から認められることも求めない。他者から認められることはうれしいことであるが、子どもがそれを求め、期待するようであれば、たとえ貢献に注目してもほめることと変わりはないことになる。もしも優れていることを示したり、評価されること、認容されることが行動の動機であれば、そのようなことが達成できないと思えば、課題に取り組もうとはしないだろう。他者に貢献するためには、それによって他者からどう評価されるかは問題にならないし、たとえ課題を完全になしとげることができなくても、最初から課題に取り組まないよりはるかに望ましい。このように考えることができる子どもの関心は、自分ではなく、他者に向けられているのである。他者への貢献が行動の目的であれば、行動しないという選択肢は最初からない。したがって、やる気があるかどうかも問題にならない。やる気がでないと考える子どもは、自分のことしか考えていない。勇気づけは、子どもが自分から他者へと関心を向け変える援助をするというところからしか始められない。叱ったりほめるような即効性のあるように見える子どもへの働きかけは、結局は、回り道になるだろう。
 
【文献】
(1)アドラー、アルフレッド『子どもの教育』岸見一郎訳、一光社、一九九八年
(2)アドラー、アルフレッド『個人心理学講義―生きることの科学』岸見一郎訳、一光社、一九九六年
(3)Stone, Mark and Drescher, Karen, eds. Adler Speaks: The Lectures of Alfred Adler, iUniverse, Inc., 2004.
(『児童心理』2009年12月号)

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