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2009年11月 5日 (木)

失敗を怖れない

失敗を怖れない
 以前、ある大学で古代ギリシア語を教えていました。ギリシア語は難しい言語なので、初学者が間違っても少しも恥ずかしくはないのですが、この大学に入ってくる優秀な学生は、それまでわからないとか、できないという経験をしたことがなかったので、「わかりません」と素直にいえないということがありました。その一言がいえないばかりに、当てられても答えなかったり、講義に出てこなくなるのです。
 自分が他の人よりも劣っているのではないか。このように感じることを、アドラーは劣等感といっていますが、劣等感は、あくまでも自分が劣っているという「感じ」であって、実際に劣っているということではありません。ですから、誰から見ても美人と思える人が、自分の器量について悩んだり、実際には誰よりも勉強がよくできるのに、できないと思っているということがあります。秀才は失敗と、失敗することをことのほか怖れるように見えます。
 勉強については、その責任を取るのは子どもなのですから、親は、本来的には、子どもの勉強に手出しも口出しもできませんが、子どもが誤ること、失敗することを怖れないように援助することはできます。ところが、親は不用意に子どもの勉強に介入して、子どもの意欲をそいでしまいます。
 勉強はただ自分のためではなく、社会の役に立つためにするもので、自己満足のためにするものではありません。ところが、ほめられた子どもは、次もいい成績を取らないといけない、とプレッシャーを感じ、悪い成績を取って叱られた子どもは、次は叱られることがないように、どんな手段を使ってでもいい成績を取ろうとし、ただ結果を出すことに汲々とし、学ぶ喜びはさることながら、そもそも勉強の理解にもほど遠いことになりかねません。勉強することそれ自体よりも、親からどう思われるかばかりを気にする子どもは、結局のところ、自分のことにしか関心がないのであり、思うような成果が出せないのであれば、初めから課題に取り組まなかったり、勉強するとしても、自分のことしか考えていないので、苦しければたちまち勉強を放棄しかねません。
 間違うこと、失敗することは誰にもあります。大切なことは失敗から学ぶことです。失敗することからしか学べないといっていいくらいです。思うような結果を出せなくて落ち込んでいる子どもには不用意に声をかけないのがいいでしょう。落ち込みは子どもが自分で解決するしかないからです。「つらそうだね」と声をかけると、親に慰めてもらわないと立ち直れないと思うようになるかもしれません。もちろん、落ち込んでいる子どもに追い打ちをかけるようなことをいうことは、子どもの勇気をくじくことになり、いよいよ自分に与えられた課題に挑戦しなくなるでしょう。
 たとえ、課題を完全に解決できないとしても、できるところから少しでも取り組んでいける子どもになってほしいからです。そのためには、勇気が要ります。アドラーはその勇気を「不完全である勇気」「失敗する勇気」「誤っていることを認める勇気」と呼びました。このような勇気が必要なのは勉強だけではなく、この人生を生き抜くために必要であることはいうまでもありません。

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アドラー心理学」カテゴリの記事

コメント

西洋に住み 間違う事を気にかけない人々に混ざり何十年も暮らした後、環境、文化により人間の生き方は変わるものだと実感しました。
ヨーロッパ社会の方がアメリカより自然そのままの人々が多いのは、やはり社会、教育の仕方等の結果、無理せず生きる人々が多くて私には行きやすいところです。
アドラーの本を読み始めているところです。

投稿: A.S | 2009年11月 5日 (木) 11時45分

A.Sさん
 知らない間に文化の影響を強く受けてしまっているということはありますね。おそらくは間違えても、失敗しても、誰もそのことをいつまでも心にとどめているはずもないのに、いつまでもこだわる自分がいます。
 無理しないで生きたいです。

投稿: 岸見一郎 | 2009年11月 5日 (木) 14時26分

心理学はよくまだわかりませんが、海外で仕事と生活上バックグラウンドの様々な人々と関わり 其の後思った事は人間の深い感情は同じであっても 宗教が強い教育をされた移民の方々は考えがそちらに深く影響されているけれど 一つの社会に生きて行く為 何十年も其の社会で暮らすとなると 其の社会の基準、そしておおもとの今は信じてはいない人々が多いにも関わらず其の社会をつくりだしてきた長い歴史のある宗教から来た考えのような影響が 失敗などのレヴェル許容範囲に表れて日常生活が行われ かなり無理しない人間が多くなるものだと パリ市民にまじりながら 思いました。自分の人生、失敗もじぶんのもので愛着あります。

投稿: A.S | 2009年11月 6日 (金) 07時05分

A.S.さん
 「失敗もじぶんのもので愛着あります」と僕もいえたら、と思いました。失敗を怖れる学生のことを書きましたが、自分を見ている思いでした。でも、この十年ほどでずいぶんと自分が変わったように思います。
 パリに2日だけ慌ただしく滞在したことがあります。生活者としてパリ(市民)と関わると、旅行者には見えないことが見えてくるのでしょうか。

投稿: 岸見一郎 | 2009年11月 6日 (金) 20時39分

先日、とてもお世話になっている工務店の人に苦情の電話をかけました。そのときは自分が正しいと思い訴えたのですが、後に事情を聞いたときは、もう少し他の言い方があったのではないかと思い、恥ずかしく後悔していました。電話をかけて言ったことの一部は失敗だったと思いますが、相手から話を聞くことで多くのことを学ばせてもらえた出来事でした。

投稿: そらまめ | 2009年11月 8日 (日) 22時38分

そらまめさん
 感情的になっていないつもりでも、自分は正しいのだ、と思った時点で、相手との関係をそこねてしまっていることが多いように思います。相手の主張に耳を傾ける余裕がなくなることもたしかに思い当たります。

投稿: 岸見一郎 | 2009年11月 9日 (月) 16時53分

私は「自分は正しい」といつも思っている気がします。自分の考えと違うからといって相手が間違っているとは思いませんが、心の底では納得していないことがよくあります。
「自分が正しい」という思いを持たずに会話をする練習をしてみます。難しそうですが。

投稿: そらまめ | 2009年11月 9日 (月) 22時51分

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