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2009年6月 7日 (日)

看病の真意

 父は今日も力なく食事をとるとすぐに寝にいってしまう。もう今日は予定はないな、とたずねるので「ない」といったが、義父と義母が訪ねてきた。直前までしんどいといっていたのに、調子いいですよ、とにこにこしていうので驚く。昼から夕方まで妻に代わってもらう。今週も書店に行って、山ほど本を買う。

 正岡子規の『仰臥漫録』(岩波文庫)を読む。これは公刊は意図されてない草紙状に綴じた大判の土佐半紙に書かれいる。結核と脊椎カリエスで仰向けにしかなれず寝返りも打てない状態で、日々の記録(三食の献立など)、随想、歌、絵などが記されている。病者としての子規の語る本音は、目下、父の介護をしている僕に向けられたものであるかのように思える。母親と妹がつきっきりで子規の介護をしていたが、律という妹に対する言葉が厳しく驚く。妹は義務的に病人を介抱するが、同情的に病人を慰めることはない。団子が食べたいといえば、同情がある者ならばすぐに買ってくるだろうが妹はそんなことはしない。同情ということを説いても、同情のない者に同情がわかるはずもない、等々。こんなことをいわれたら、かなわないと思うのだが、次の日には子規はこんなふうに書いている。
 「もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめると同時に余は殆んど生きて居られざるなり 故に余は自分の病気が如何ように募るとも厭わずただ彼に病なきことを祈れり 彼あり余の病は如何ともすべし もし彼病まんか彼も余も一家もにつちもさつちも行かぬこととなるなり 故に余は常に彼に病あらんよりは余に死あらんことを望めり」(p.63)
 律がいなければ家族はほとんど生きていけない。だから自分の病気がどうなっても律が病気にならないことを祈った、という。妹がいなければ私の病気がどうなるかわからないから妹を大切にしようといっているのではない。自分の病気よりも妹の身を案じているのである。
 しかし、子規の心は揺れる。苦痛がつのると自分の思うとおりにならないので絶えずかんしゃくを起こし、人を叱る。だから、家人が怖れて近づかない、とも書いている。「一人として看病の真意を解する者なし」。病者は孤独である。介護者の立場からは反論してみたくはなる。
 「家人屋外にあるを大声にして呼べど応へず ために癇癪起こりやけ腹になりて牛乳餅菓子などを貪り腹はりて苦し」(p.76)
 家人が屋外で低い声で話す声が病牀に聞こえるのなら、病牀にて大声で呼ぶ声が聞こえぬはずはない、と子規はいうのだが、「やけ腹」になる子規に思わず笑ってしまいそうではあるが、病者としての経験からいうと、理不尽にも聞こえるけれども、不断に痛みに苦しんだ子規の気持ちもわからないわけではない。病気なのだから、仕事のことも何もかもわすれてゆっくり休んだらいいと健康者はいうけれど、苦痛や不安の中にあってはゆっくりもしていられない。

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コメント

初めて、コメントを書きます。

ブログを開くキッカケは「生きる意味を求めて」を読んで存在を知り、その後は「今日はどんな花なんだろう!
と色彩の美しさに魅了され毎日楽しみに・・。」

でも意識が段々、介護の方に移って止められなくなってしまった。
7年間程、訪問介護の現場で仕事をしていて、、、離職して丸4年が過ぎました。

「父はいつもニコニコして問われると昔のことを機嫌よく話している」って、なんだか懐かしい思いで拝読させて頂いたりしておりました。
・・・・「何かあればいってほしい」って、、、、
言っても直ぐには出てこないでしょう?

今日、ケアした内容、気が付いた事、をノートに記入して家族と交換日記を付けていたんですよ。
何をどれ位召し上がったか、水分補給(お茶)を飲んだかどうか、そして、排泄ケア(特に便秘をしていないか?)はとても大切な事なのです。
多分既に行われているんでしょうねぇ。

このブログではお父様の事もヘルパーさんの仕事の内容も少ししかわからないのですが、例えば、家族しか知らない事を教えて頂けたらとても助かるのです。
何がお好きだったのかは家族に聞いてみないとわかりませんもの。
短期記憶は消えても昔の事は覚えているんですよねぇ。
昔の記憶の中のご本人が一番居心地の良い場所に置いてあげたいと思いながら重度の認知症の人とは付き合っていました。

でもお父様はまだまだしっかりされているご様子。
もしかして、退屈されているのかも~。と思ってしまいました。(ごめんなさい。何も知らないのに・・・。)

色々な事例が蘇って来て、まだ仕事をしたい自分が居るんだなと気が付きました。

認知症なのに無意識のところで、これ以上迷惑はかけられないとか、申し訳ないとか思っている場合が多いのですよ。

今日の意識がしっかりしていると人の世話になることは
もっと辛い体験になるんだと今日のブログを読んで思ったのでした。


投稿: Lindenbaum | 2009年6月 9日 (火) 00時46分

 コメントありがとうございます。たくさんの人に関わってもらっていますから、それぞれの仕事で記録も当然されているでしょうが、横のつながりのためにノートを用意しています。そこにヘルパーさん、看護師さん、そして家族(もっぱら僕ですが)がヴァイタルはもとよりどんな様子だったかを書いています。
 父は退屈という感覚はあまりないように見えます。退屈は意欲があることが前提だと思うのですが、その意欲そのものが低下しています。テレビを観たら、とよく勧められるのですが(この数日また見始めました)、退屈しのぎというふうにも見えません。
 週日は誰かがこれられていて、よくしてくださるのですが、父はまったく覚えていません。本人もこんなに忘れてしまうようでは申し訳ないとはいっています。
 意欲を引き出す何かをするということは当然考えてますが、長く続きません。例えば、退職後、油絵を描いていたことがありますから、油絵は無理としてもスケッチなどを勧めても続きません。
 9日に書いたようなことを父はいいますが、これも以前だったら僕の生活を気にかけてくれていましたが、そこには思い至りません。書いてくださったように意識がしっかりしていたら、つらいものがあるように思います。

投稿: 岸見一郎 | 2009年6月 9日 (火) 08時42分

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