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2009年6月 6日 (土)

勉強は誰のためにするのか?

 勉強は誰のためにするのかとたずねられて、親のためと答える子どもはないでしょう。勉強は他の誰かが代わりにできるわけではありません。勉強をしないことによって成績が下がることがあっても、それによって起こる結末は、子ども自身に降りかかり、その責任は、子ども自身が引き受けるしかありません。勉強が子どもの課題であるというのは、こういう意味です。
 子どもの課題であれば、親は原則的には子どもの課題に介入することはできません。親は子どもがあまり勉強をしていないように見える時に、当然のように「勉強しなさい」というような声をかけるのですが(しかもその言葉には怒りの感情が伴っています)、親がそういった時、子どもの反応が概してよくないのは、自分の課題にいわば土足で踏み込まれたというふうに感じるからです。しかも、親が声をかけるのは、勉強していない時であって、子ども自身も勉強しなくていいとは思っていないでしょうから、痛いところを突かれた子どもは、親に反発します。
 こうして、勉強の問題は、知らないことを学ぶことに喜びを感じ、やがては勉強することによって社会の役に立つという本来的な面から離れてしまい、親子の闘いにすりかわってしまいます。親に強いられて勉強していい成績を取ったことが、親に負けた、と考えて、勉強を放棄する子どもすらいます。
 私自身は子どもに勉強しなさいといったことはありませんが、あまり勉強しているように見えない時に、親として何かできることはないのか、と問われることがあります。できることはあります。勉強は今見たように子どもの課題なので、親が介入することは基本的にはできませんが、もしも子どもが親の声に耳を傾けることに同意するのであれば、勉強について話し合うことはできます。しかし、そのためには、まず勉強について話をしたい、と親が子どもにいい、話をしてもいいという子どもの合意が必要です。子どもが話したくはないといえば、残念ながら話はそこで終わりです。またいつでも相談にのるからその時は話してね、というふうにいうことはできます。
 実際、親子が膝を交えて勉強について話ができればいいのですが、大人が「このままだとどうなると思う?」といういい方をすると、子どもがそれを皮肉や威嚇と取ることはあります。子どもが素直に受け止めるためには、日頃の親子関係のあり方が問題になってきます。
 まず、子どもと親は知識や経験の点では違いはあっても人間としては対等だということをしっかり親が理解していることが必要です。「上から目線」を子どもは嫌います。勉強について子どもと話すために取る手続きが煩瑣であるとか、なぜ子どもにこんな物言いをしなければいけないのか、と思った人は要注意です。この親は本気で自分の人生について考えてくれているのだということが子どもに伝わる気迫は要りますが、熱血の精神主義は無効です。必要なのは、この親なら自分の課題である勉強について相談してみようと思えるような親になることです。そのためには、勉強以外の面で子どもとの良好な関係が築かれている必要があります。どうすればいいか。話は続きます。

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