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2009年6月18日 (木)

肩の力を抜いて

 保育所の講演から帰宅して一息ついたところ。雨が降り出したが、タイミングよく傘を使わずに到着。質疑応答を中心に話したが、あっという間に時間が過ぎた気がする。 
 朝から何度も今日は仕事に行くのか、と父がたずねる。5時に出かけるのだったら夕食を早めにしようというので、常よりかなり早い時間に食べた。そこからが問題で、なかなか出かけるといい出せなかった。あわただしく着替えさせ、横になるところまで見届けてからしか出るわけにいかないのである。昼間なら後でまた行くことができるのだが。
 講演では、怒りの感情をめぐっての質問が出た。怒りは子どもとの関係を悪くする。そのため子どもを援助することが難しくなる。叱って、子どもとの関係を遠くしておいてから、子どもの援助をすることはできない。
 いろいろ話したが、子どもの仲間になることについて話を詳しくした。今思い返せば無邪気といっていいほど子どもを信頼していた、死んだ母のことを思い出した。
 平日の夜、講演にこられる親はどの方も真面目で育児に熱心である。できればもう少し肩の力を抜いて、子どもが、この親を頼っていては大変だと思って自立できるような育児をされたらいいのに、と思ったが、僕も子どもが小さかった頃はいろいろな意味で余裕がなかったのは本当である。
 明日は講義。いささかハードなのだが、常とは違う日があると力がわいてくる。
 『ふたたびのゆりかご』(多賀洋子、講談社)読了。若くしてアルツハイマーを発症した夫の介護の大変さは想像を絶する。介護認定までに長くかかっていることに驚く。父の場合ももっと早くできることがあったのだろうと思う。本人はもとよりまわりも加齢に伴う物忘れだろう、と重要な兆候を見逃すことはありうることはよくわかる。

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コメント

「無邪気といっていいほど子どもを信頼していた、死んだ母のことを思い出した。」
の所を読んで涙がでた。
その様な母親でありたいと願っている自分がそこに居た。
いや、、既に信じ信頼することしか出来ない自分がいるので切なくて涙が止まらないのかもしれない。

私の母は自分の為に、自分の都合で3人の子供を操作していた。
自分がいつも一番正しく立派だと思い込んでいた。

姉は疑似うつ病になり
兄はフヌケになり
私は頑なな鉛の心を持った。

84歳の母・・・・・。
月、1度の電話を自分に義務付けているけれど、それさえ苦しくなる事があった。
母はベットでずーーと本を読んでいる。
「今、三島由紀夫の金閣寺を読み返していたの、同年なのよ生きていれば今年85歳・・・」と言う。
頭がしっかりしている。
そして、、、私に「財産の遺留分を辞退して欲しい」と言う。
私にも姉にもお金は一切出したくない母がそこに居る。
私は元より遺留分など貰う必要はなかった。
何億あろうと、、(実際は知らないが、わずかだと思うだから倍腹がたつのかもしれない)
出来る事なら貰った後に母の目の前で燃やしてやりたいと思うほど、その話が嫌いだった。
(電話をかけたことを後悔する・・・。)

私がその家の娘である権利さえ辞退を迫る母親をどう愛せばいいのか判らなかった。
そのことで、兄をフヌケにしている事に母が気付いていないことが悲しかった。
自分を見失うほど操作された姉が気の毒だった。

姉も兄も私も全てを知りながら、憎みながら心の何処かで許していた。
母の生きて来た人生を知っているから。

私は野田先生のライブラリを聞きながら心の鉛を少しずつ溶かしていた。
ありがたい、、、導かれていると感じることが出来たから~。
日本に居たなら重い鉛を抱え足を引きずりながら母を見舞っていたに違いない自分の姿がある。

今は「神の計らい」で異国にいると思える。
そして、この先私が母を介護する状況になるかどうかは「神の計らい」に任せれば良いのだ思った。

その時には介護の世界に足を踏み入れた私を許さなかった母も「ありがたい」と思うかもしれない。

今日のブログを拝読して
親が立派である事を誇示するとか、立派だと思い込むことは子供からすなら全くに迷惑な話かもしれない・・。
と思ったのでした。


投稿: Lindenbaum | 2009年6月22日 (月) 21時54分

 信頼の話をする時に、いつもこちらが先という話をするのですが、なかなかむずかしいことだと日々父といて思います。父は僕を全面的に信頼しているはずなのに(さもなければ父は食事もできないですし、薬も飲めません)、ぐらりと僕の父への信頼が揺らぐことはたしかにあるのです。
 介護を必要となる時がくるか、くるとすればそれがいつなのかはわかりません。父のようなアルツハイマーは本人も気づきません。ここには語り尽くせないほど父とはいろいろありましたし、そんなことを一切忘れてしまった父を前にため息をつくしかなかったこともありましたが、幸い(と今となっては思うのですが)父が介護を必要とするようになる前数年間は、それより前の数十年とは違った接し方ができるようになっていました。どちらからか歩み寄るしかないという話をして、それは相手ではないという話をします。でも、たしかに、歩み寄ったのは父の方だったのでした。お前のやっているというカウンセリングを受けたいとある日いいだしたのでした。

投稿: 岸見一郎 | 2009年6月23日 (火) 08時41分

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