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2009年4月 9日 (木)

喉から

a crown of sakura ...

 父と一緒の時は安全に注意を払わないといけないので当然写真どころではないのだが、一瞬、父に断ってシャッターを切った。満開の桜。これから散っていくのを見ると寂しくなるが、桜に限らず、どの時期の桜も美しい。
 父の状態は三月の初めに退院した頃を思うとずいぶんとよくなっている。血液のデータ上は貧血がひどいので動くのが困難で、実際、ちょっとした所作で息切れがする。本人は自覚していないのだが。なぜよくなったか実はよくわからない、と主治医は正直にいわれるが、家族の手厚いケアの賜物だ、といいたいところである。
 身体的なこともだが、意欲が出てきたように見えるのは嬉しい。今朝は、僕が行くよりも先に起きていて、廊下に干してあった洗濯物を外していた。散歩(車椅子でということだが)に出かける時、いつもの帽子を被った後、近くにいつも置いてある双眼鏡を手にして、これがあればよく見えるだろう、という。そんな些細なことではある。
 他方、活動性が高まることによる問題もないわけではない。夕方、部屋をのぞくと、ベッドに悄然とすわっていた。声をかけたら、険しい顔をしてたずねるのだ。
 「どうして廊下に鍵がかかっているんだ」
 もう何十回と繰り返した息切れがひどいこと、階段の昇降は危険であるという説明をすることになった。
 「しかし、トイレに行きたくなったらどうするんだ」
 そのためにポータブルの便器が置いてある。父が住む家は一階にトイレがあって、父は二階に生活している。それなら一階で過ごせばいいというようなものだが、玄関は二階にある。一階といっても地下という方がわかりやすいだろう。 
 わかった、とたしかにその場では理解できるが、記憶が持続しない。夜は僕はいないので危険を回避するためには、他に方法はないのである。24時間体制で父の側にいてトイレに行くたびに階段の昇降を手伝えればいいのだろうが、現状では無理である。
 だから、と、僕は父に理解を求めるのだが、耳が不自由な父には僕の声はほとんど聞こえないので、大声を出さないといけない。大声を出すと、感情が高ぶっていけない。そして僕の心臓は喉から飛び出しそうになる。

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コメント

 亡父が、介護が必要になってきた当初、アドラー心理学を読みふけりました。今でも、ちゃんと理解し、実践できているかどうか、自分でも怪しいのですが....当時次のように思いました。
「親子関係やその他の人間関係に比べ、介護の現場では、本人の自主性に<協力する>というスタンスがとりにくい」と。本人の自主性は、怪我や危険につながり、怪我や危険はひいては介護者にとっての更なる問題となる。だから、何とか話し合って協力を求めたいのだけれども、たいていの場合自由を主張する本人(しかも頑固で理解力も劣ってきたりしている)とは相容れず、結局は理想的にはいかないことが多い。その結果、介護者が上、非介護者が下、というような、上下関係でやむを得ずねじふせてしまうことになる、と。それが本当によいことなのかどうか、いつもいつも疑問に思っていました。ではどうすればいいのか、答えは出ませんでした。どうすればよかったのでしょうか....。というのを今の先生に聞くのは、ちょっと酷なことなのでしょうね。すみません。
 結局その<戦い>は、私の場合、父が自らの寝たきり状態をあきらめて受け入れた時に終結しました。それまでの父は、病気のためもあるでしょうが、不自由な自分の体にいらつき、自由を阻止しようとする家族にいらついていました。けれども、肺炎で1月入院したことで、筋力が弱り、もう自分の足では歩けなくなりました。そうなってしまってからの父は、劇的に穏やかになっていきました。
 さだまさしの「解夏(げげ)」にこんなセリフがでてきます。ある難病で、もうすぐ失明することがわかっている、でも失明すると割れるようなこの痛みがそっくり消えてしまうらしい、という主人公の身の上を聞き、僧侶がいうセリフです。
ーああたのは、失明する恐怖、という行ですなぁ。つらいつらい行ですなぁ。失明した瞬間にその恐怖からは解放される。苦しか、切なか行ですたい。ばってん、残念ながらいつか、必ず来るとですなぁ。
ーなるほど。失明した瞬間に『失明するという恐怖』から解放される、ということですね。
ーはい。その日がああたの解夏ですなぁ。

父は、動けなくなること、寝たきりになることが怖かったのかもしれないです。それであらがい、戦っていた。でも、寝たきりになってしまったことで、解放されたのかもしれません。そういう道筋をたどらなければならないのなら、寝たきり前の父と家族の<確執>も、通るべき道にすぎなかったのかもしれません。

投稿: なおち | 2009年4月10日 (金) 10時15分

 まだまだ手探りですが、日々迷うことばかりです。コメントありがとうございます。
 育児の場合、子どもと大人は違うけれども対等であるということをいつも考えて子どもと接してきました。違うというのは、例えば、子どもは大人と同じだけの責任を取れないということがあります。小学校一年生の子どもの門限が午後10時ということはありえないのです。また理解力も十分ではありませんから、言葉で、道に急に飛び出したら車にはねられるよ、と教えることはできませんし、もちろん、そういうことを体験から学ぶということも不可能です。ですからこの違いを考慮せずに、子どもに大人と同じことを要求するのは間違っています。
 子どもの場合は、しかし、やがて極端にいえば、今日できることが明日できるようになるかもしれませんから、いつまでもできないと思って親が過剰に援助することが子どもの自立を妨げるということはありえます。
 親の介護はベクトルが反対ですね。ただ子どもとは反対なのだと理解するのが難しい時があります。こんなこともできなくなったのか、これもわからないのか、と感情が入ってくるからです。短期記憶の衰えはある程度やむを得ないとしても、理解力の低下は認めがたいことではあります。そのことを子どもとは反対に昨日できたことが今日できないという事実の確認にとどめ、できないことが増えていっても、親と子どもとの違いだと認識し、そこに対人関係の上下を見ないということができれば、親子関係もうまく行くだろう、と考えています。子どもの危険を回避するために大きな声を出す必要はありますが、その時に感情的にならずにすむのであれば、老いていく親とも同じふうにできるでしょう。
 父は、しきりに歩かなかったら本当に歩けなくなるといいます。長い入院生活で筋力が衰えた面はたしかにありますから、ある程度の恢復は望めますが、そこから先は病気の問題があって、父が思うとおりのことを認めるわけにいかず、父もその時その時では以前のように歩けないことをたしかに自覚はしています。とはいえ、父にとっては「つらいつらい行」なのでしょう。先が見えてしまう僕としては、父の行はそのまま僕の行であるとこの頃よく思います。
 穏やかにいうと父はその時はわかってくれます。お前がしてはいけないということはしない、と。粘り強く、しかし、決して上下関係でねじふせないということを粘り強く続けていくしかないでしょうね。育児の場合にアドラー心理学が即効性がないのと同じですが、即効性を求めるとそのことの弊害、あるいは、副作用は甚大なものになるでしょう。

投稿: 岸見一郎 | 2009年4月10日 (金) 15時42分

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