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2009年3月11日 (水)

私のことを忘れないで

 寝室からテレビの大きな音が聞こえてくる。父が起きたようだ。ベッドに腰掛けて、幼稚園の小さな子どもたちが出てくる番組を見ている。父がそれを見て大きな声を上げて笑う。父が笑うのを聞いたのは久しぶりのような気がする。
 ほどなく父は再び布団に潜り込む。
 「チロちゃん、寝まちょうね。寝まちょうか?」
 チロは父が飼っていた愛犬の名前である。父はいつもチロにはこんなふうに話しかけていた。そのチロは父がこの家に戻ってきた時、一緒にやってきた。2ヶ月後、父は入院した。僕は毎日病院に行って、朝夕、犬の世話に父の家に通ったが、一月ほどで根を上げてしまった。今は妹の家に預かってもらっている。そのまま入院することになるとも知らず、外来受診に出かける日の朝、父はチロにいった。
 「チロ、私のことを忘れないでいてくれよ」
 父がチロのことを忘れてしまった。帰ってから一度も名前を口にすることはなかった。
 父はチロのことを忘れたわけではなく、チロと「家」で暮らしているのかもしれない。
 石川啄木の歌をふと思い出す。
 「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと、握れば指のあいだより落つ」
 父の思いでの砂はいのちがある。それは目には見えなくなるが、消えたわけではない。砂時計のように、反転することができたらいいのに。

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