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2009年3月10日 (火)

すきとおった風

 青木新門の『納棺夫日記』(文春文庫)を読む。評判になった映画の原作ということで敬遠していたが、題名から想像していた本ではまったくなかった。死者との出会いを通して、死と、死から目を背けては生きられない生についての省察の書である。
 「今日のあらゆる分野で最も必要なことは、現場の知ではないだろうか・
 青木は正岡子規の言葉を引いている。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬことではなく、「如何なる場合にも平気で生きて居る事」だ、と。
 「如何なる場合」というところが難しい。死に直面しても平気で生きることはできるか。死の不安におののく患者にとって激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉も要らない。手を伸ばせば届くくらいの近くで前を歩む人が最も頼りになる。
 「きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい」
 父にとってそんな人でありたいと思うのに、ちょっとしたことに心がざわついてしまう。前を歩むどころではない。
 朝、父の着替えを手伝っていたら、ふとパンくずが目に止まった。夜中か朝かわからないが、空腹にかられて冷蔵庫に入れてあったパンをトーストして食べたようだ。もともと何枚あったか把握してなかったが、おそらく二枚は食べた。今朝は朝食前にボナロンという薬を飲む日だったというのに。一日延期することにした。「覚えてない」といわれると心が萎えてしまう。父を責めても始まらないというのに。
 夜の闇の中で父は何を考えているいるのだろう、と思う。

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