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2009年2月11日 (水)

他者の承認はいるのか

 自分を受け入れ、自尊心を持つためには、他者から承認されることが必要だという人は多いように思います。
 そのようにいわれることは、たしかに嬉しいでしょう。そんなふうに他の人にはいいたいと思います。しかし、自分を受け入れ、好きになれるために、他者からのこのような承認が絶対必要かということになると、違うと思うのです。
 学校から帰ってから、寝たきりの曽祖母の下の世話をする小学生がいました。当然のようにそのようにしていました。私はある日その話を聞いて驚きました。小遣いをもらってもしないかもしれません。そこで、こんな話を聞いた、とそのことを私は親に話しました。すると、親はこういいました。
 「でも、あの子は勉強しません」
 たしかに親が子どもが曾祖母の世話をしていることに注目しないという親の対応は問題だと私は思います。しかし、彼はだからといって、何としても注目、承認されなければならないと思う必要はないのです。乳児は、先に泣くことでしか家族の注目を引くことができませんが、大きくなれば、家族の一員ではあっても、家族の中心でいることはできません。
 私は、注目されたい、承認されたい、と思うようになったのは、子どもの頃から受けた賞罰教育の影響である、と考えています。自分をほめる人がいなければ適切な行動をしない人があります。廊下にゴミが落ちているとします。ほめられたい人はまわりの様子を見ます。あなたなら誰がいなくてもゴミを拾いますか? ほめられたい人はほめる人がいなければ何もしません。これはおかしいでしょう?
 注目されることを行動の目的と見る人は、最初ほめられたいと思ってする行動は表面的には適切なものであっても、期待する注目が得られなければ権力争いになるということは先に見ました。
 ここで注意したいのは、他者からの注目、承認はいらないといっても、他者、あるいは、もっと広く社会との結びつきがない、あるいは、必要がない、ということではないということです。ことさら承認を求めなくても、人は他者との関係の中に生きている限り、承認されているからです。他者からのことさらの承認や、絶え間ない注目がいらないという時、これは行為の次元でのことで、他方、人は他者との関係の中に生きている限り、たとえ何をしなくても他者からの承認を受けているというのは存在の次元でのことなのです。

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コメント

>>人は他者との関係の中に生きている限り、承認されているからです。

何度読んでもここの意味がよくわからないのですが、もうすこし詳しく説明していただけると嬉しいです。

投稿: mari | 2009年2月11日 (水) 22時21分

 有島武郎が書いた『小さき者へ』という作品のことを思い出しました。お前たちというのは、自分の子どもです。
 「お前たちをどんなに深く愛した者がこの世にいるか、あるいは、いたかという事実は、永久にお前たちに必要なのだ」
 たとえ子どもがそのことに気づいていなくても、子どもは生きていけます。有島がいうのは格別の承認があるケースですけどね。
 さらに混乱させることになりそうです。
 

投稿: 岸見一郎 | 2009年2月11日 (水) 23時09分

>>「お前たちをどんなに深く愛した者がこの世にいるか、あるいは、いたかという事実は、永久にお前たちに必要なのだ」

すみません~この日本語そのものがよくわからないです。

行為の次元と存在の次元という風に、別の次元の話というように分けられるんですね。

人に承認されていているか、いないか、そんなことにこだわらなくても人は(それで死ぬということではなくて)生きて行けるから、そう思えば別に人からの承認はことさら必要でもなく、重要でもないか~という気になってきました。「気」ばかりですが。

投稿: | 2009年2月12日 (木) 20時22分

 明解な日本語だと思いますが…

投稿: 岸見一郎 | 2009年2月12日 (木) 20時35分

すみません~なんだかわからないと思い始めたら、すっかりわからないわ・・・と思ったのか、全然違うように読んでいました。いろんな意味に読んでいました。が、普通の文章ですね、わかりました。な~んだ、わかった~とおもったら、今度はどんな風に読み違えていたのかもうわからなくなったので説明できないのですけれど。すみません~

でも、>>人は他者との関係の中に生きている限り、承認されているからです。

と、これがどう言う関係があるのかまではわからないのですが・・・。知らない間にお互い様でどこかで役に立っているかもしれないからかな?とかいろいろな縁があって生を受けたのだから、生きていること自体がラッキーとういことでそれが「承認」ともいえるかな?とか思っています。

投稿: mari | 2009年2月12日 (木) 21時19分

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