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2009年1月17日 (土)

安心して、とはいえない

 日野原重明が、医師になって最初に担当した患者は、結核性腹膜炎と診断された十六歳の少女だった(『死をどう生きたか』二頁以下、特に八~一〇頁)。この少女は結核にも罹患していたが、当時は結核に対する有効な治療法はなかった。家族は母親だけで、工場で働く母親は、日曜日にしか見舞いにくることはできなかった。
 ある日曜の朝、容体が急変した。嘔吐が続き、腸閉塞の症状を示し、血圧が下がり、個室の重症室に移された。苦しみを止めるにはモルヒネを注射するしかなかった。日野原は「今日は日曜日だから、お母さんが午後からこられるから頑張りなさいよ」といって励ました。
 モルヒネを注射すると、まもなく苦しみが少し軽くなったようで、大きな眼を見開いてこういった。
「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生にきていただいてすいません。でも今日はすっかりくたびれてしまいました」。しばらく間をあけてこう続けた。「私は、もうこれで死んでいくような気がします。お母さんには会えないと思います。先生、お母さんに、よろしく伝えてください」。そういって、彼女は日野原に向かって合掌した。
 日野原は次のように書いている。
 「私は一方では弱くなってゆく脈を気にしながら、死を受容したこの少女の私への感謝と訣別の言葉に対して、どう答えていいかわからず、『安心して死んでゆきなさい』などとはとてもいえず、『あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい』といった」(九頁)
 日野原がこういった途端、少女の顔色が急に変わったので、看護師に血圧計とカンフル剤を持ってこさせた。血圧を測ろうとしたが、血圧はひどく下がり、血管音はもはや聞くことはできなかった。
 「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」
 日野原は死に逝く少女にこのような言葉をかけながら、自分がいうことが真実ではないことを知っていたはずである。知識からも経験からも見えてしまう。
 この少女の死は日野原にとって最初の経験だった。
 「私は、いまになって思う。なぜ私は、『安心して成仏しなさい』といわなかったのか? 『お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ』となぜいえなかったのか? そして私は脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか?」(同上)
 思うに、「安心して死んでいきなさい、成仏しなさい」ということは、患者に信仰があれば可能だろうが、そうでなければいえない言葉である。また、医師自身が死後のことについて確信を持てないのであれば、「安心して」とはとてもいえないであろう。
 
 日野原が鈴木大拙(1870-1966、仏教学者、思想家)の主治医だった。血圧が異常に高い(180/60-240/80)ことに驚いた日野原はいった。
 「大拙先生の場合、血圧の高いということが、お仕事ができるということなのか。お仕事をされるから高くなるのか、どちらなのか判断しかねます。不思議ですね」(『鈴木大拙とは誰か』上田閑照・岡村美智子編、岩波現代文庫、p.192)
 腸閉塞で九十五歳で亡くなる。救急車で聖路加国際病院に到着した大拙は、意識は鮮明だったが、重篤な状態だった。
 「どんなふうに痛いのですか」
 「どうということはないが、痛いのはかなわんです」
 開腹手術は危険ということで見合わせ、内出血症状に対しては輸血を繰り返したが、血圧はどんどん下がった。
 「病気はずいぶん重いのです」
と日野原が率直にいうと、大拙はうなずき、
 「最善をつくしますよ」
というと、苦しい中にもうなずき、感謝の念を表明した。
 16歳の症状に「あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい」といった時と言葉かけが違うのがわかる。今わの際、「病気はずいぶん重いのです」といわれたら、一体、どう思うのだろう。あるいは、鈴木大拙はこの時自分が死ぬなどとはつゆ疑っていなかったのだろうか。
 亡くなる二時間ほど前に、
 「お寺の要職の方々が心配して部屋の外で待ておられるのですが、お会いなさいますか」
と日野原がたずねると、
 「誰にも会わなくてよい。一人でよい」
と答えた。
 秘書の岡村美保子が、「何かほしいものはありませんか」とたずねたら、No, nothing, thank youと大拙は答えた。そして「そんなに心配しなくていい」と岡村を気遣った。最後の言葉もNo, nothing, thank youだった。
 父の病気は今のところ幸い重篤なものではないが、主治医が僕に病状について話した時、それをそのまま伝えることができるか自信がない。

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