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2009年1月 1日 (木)

幸福感という力

in spite of resistance ...

 今日が何日なのかもうわからなくなってしまったと笑う父は、2008年最後の日もうつらうつらしていた。8.8度も熱が出たので前日にまして力なく、父を一人残して帰ることがつらかった。
 写真は去年最後に撮ったもの。鳥に抗う空気は、鳥が飛ぶことを妨げるどころかそれを支えるという意味のキャプションを書いたが通じるかわからない。

 年末に青山光二の『われらが風狂の師』(新潮文庫、絶版)を再読した。三高、京都大学講師の肩書きを捨て、東大の大学院に入学、その後、華厳経60巻のドイツ語訳を完成させた哲学者土井虎賀寿をモデルにした(小説の中では土岐数馬)この小説を若い頃読んだが、その時と違って心理学や精神医学を学んでいる今読み直すとまた違ったところに目がいく。躁鬱病という診断が正しいかは難しいところだが、躁病期の常軌を逸した土岐のまわりの人への被害は甚大なものがある。三高で教えを乞うた青山光二(作中では菊本辰夫)もその一人であるが、師の天才を愛して止まない。躁病期の土岐の生活が「虚」の部分であるとすれば、鬱病期は「実」の部分に当たる、と菊本は推測する。「実」は「虚」があって初めて成立し、虚の生活が充実していればいるほど実の生活もまた充実する。鬱病期の土岐の仕事への没入は人間業ではない(pp.637-8)。
 同じ青山が90歳の時に書いた『吾妹子哀し(わぎもこかなし)』(新潮文庫)という作品がある。ここにはアルツハイマー型認知症の妻が描かれている。記憶をなくしたはずの、失禁、徘徊を繰り返す妻が不意打ちのように口にする言葉から夫の杉圭介は二人の若き日の愛の思いを蘇らせる。
「そういえば、わたしの名前、何ていうんだったかしら」
「困りましたねえ。何ていうお名前でしたかねえ」
「でも、名前なんか要らない」
「わたしという人は、杉圭介という人の中に含まれてるんですから」
「哲学者みたいなことを云うね」
「あなた、たしか哲学者だったのよね」(p.214)
 高橋英夫の解説によると青山の『美よ永遠に』という作品に次のような作中人物の言葉がある。
「天才という存在(もの)が人間仲間に与える幸福感という力があるように思う」
 『われらが風狂の師』の土岐数馬も、『吾妹子哀し』の杏子もここでいわれる「天才」であろう。まわりにいるものにとって「幸福感」を持つことは困難なことではあるが、この二月父と暮らして父が僕に与えてくれたのはたしかに「幸福感という力」である。

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コメント

 謹んで新年のお喜びを申し上げます。美しい写真をありがとうございます。
 母のことで2年近くプールに行けていない私にとって、この鳥は私自身のようです。泳ぐというより浮いているだけの私は水に抱かれているような気持ちを味わいに行っていたものです。空の上を飛ぶというより滑空しているような錯覚は心地好く、我を忘れたり自分の身体のすべての部分を意識したりしていたことを思い出しました。あの感覚は私の所作を、生き方を美しくしようと日々決心する原動力でした。忘れかけていた感覚を思い出させていただけてうれしく思います。本年もよろしくお願いします。

投稿: ちばちゃん | 2009年1月 2日 (金) 22時34分

 滑空する鳥に憧れます。本文にも書きましたが、楽そうに飛んでいるように見えても、空気の抵抗があって、しかし、それを活かしているところが驚きです。

投稿: 岸見一郎 | 2009年1月 4日 (日) 00時12分

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