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2009年1月18日 (日)

パピヨン

 田口ランディ『パピヨン』(角川学芸出版)を読んだ。これは田口が父を看取った話を軸にキューブラー=ロスについて書いた作品である。ポーランドのマイダネック収容所でロスが見たという蝶の絵(寝棚の壁にたくさんの蝶の絵が描かれていたというのだ)を見に行ったが、そんな絵はなかったというところまでは面白かったが、後がいけない。「死とはこの人生からべつの人生への存在への移行にすぎない」といったが(『永遠の別れ』p.18)、その際、人間が死ぬことを、蝶が蛹から蝶になるように、肉体を脱ぎ捨て魂となって別の次元に入って行く、といった。ロスはやがてオカルト傾向を強め、晩年、夫も離婚、脳卒中の発作を何度も繰り返し、左半身麻痺になったが、ヘルパーの介助だけで自活することを望み、入院することなく2004年78歳で亡くなった(1926-2004)。ロスは収容所にいたユダヤ人たちは蝶の絵を見たが、通常の意識のレベルで見たのではなく、また、ロスや死に逝く人や残された家族がしばしば蝶を見たと語るのは、シンボリックな言語によるものだというような田口の話は、にわかに同意できない。
 そのロスの晩年の動向をドイツのDer Spiegel誌(1997年39号)が伝えている。
 「この二年半というもの毎晩、今夜死ねれば、と願ってきました。そうであればどんなに嬉しいことか。今の私の状態は、生きているわけでもなければ、死んでいるわけでもない。私にはわかっている。私が自分自身を愛するようになれたとき、はじめて死ねるのだということを。でも、それが出来ないのです。それが嫌でたまりません」
 死にゆく患者についての心理研究が今のロス自身に役立っているかという質問にはこう答えている。
 「そんなことは時間とお金の無駄でした。精神分析が私に役立ったことといえば、あまり臆病にならなくなったことくらいです。職業や職業上の成功は、私自身を愛することと何の関係もありません。(ファンからの手紙も)気分が悪くなるだけです」
 ロスがこのような発言することについては、率直とか正直というふうに肯定的に評価する人もあるが、私にはそうは思えない。ここでいわれる自分自身を愛するということもただの自己愛でしかないのではないか。
 死後の世界についてはこのように答えている。
 「自分の死を考えない日はありません。痛みもなく、怒りもなく、もはや孤独ですらない。そこには安らぎと愛があるだけです。死後の世界で、私が愛していたすべての人々に会えると確信している。それが待ち遠しくてたまりません」
 このように考えるロスは、今の自分の状態を抑うつと受容の中間あたりだろう、と自ら分析している。私は、ロスの晩年について、このようであればその生涯においてしてきたことは何だったのか、と僕は否定的に見てしまうが、他面、これこそ人間らしいといえないこともない。死の受容と言葉でいうのは簡単だが、実際に、受容できるような境地に達することができる人が多いとは思えないからである。
 僕は死後の世界を認めないが、そこで「愛していたすべての人々に会える」という無邪気なロスの確信はどこからくるのか。そこで、いやな人とも会うかもしれないのに。

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