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2009年1月の記事

2009年1月31日 (土)

お腹がしくしくと

too early spring ...

 一頃ほど寒くはないはずなのに今日の雨は冷たく感じられた。父のところに行ったのは三時半頃だったが、部屋のカーテンを閉め、電気をつけていた。今日は土曜なので病棟はひっそりと静まりかえっていた。
 「お腹がしくしくと痛かった」という。看護師さんが用意したバスタオルを巻いた湯たんぽをお腹の上に乗せていたのだろう。僕が行った時にはもう布団の外に置いてあった。
 この頃はすぐに会話が途切れてしまう。あまり疲れさせてはいけないので、昨夜来の様子をたずねた後、父が時計を見て「もう四時か」というのを潮に今日は帰った。こんなに早く帰っては、行き帰りの時間の方が長いとは思ったのだが。
 看護師さんにきれいに髭を剃ってもらっていた。
 先月の24日に外来受診の後、そのまま入院になって、いまだ退院の目処は立っていない。今飲んでいる主要な薬が4錠まで減らせたら退院は可能というふうに主治医からは説明は受けている。その後、外来に繋ぎたいということだが、4錠に減るの一週間後。29日からリハビリを開始したが、入院前よりもはるかに状態は悪いので、退院後独居が可能なのかわからない。病気が寛解したら、独居が困難だからといって病院にいられるものではないのだろう。
 先週来右肩の凝りがひどい。父が退院して自宅に戻ったらまた父の家に行って世話をする生活が待っているので、今のうちに可能な限り仕事を終わらせようと思って、連日、原稿を書き続けているのが応えているようだ。

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2009年1月30日 (金)

なんだかうっとうしい日

changing nature ...

 雨が降り出したので急いで洗濯物を取り込む。天気予報で雨が降ることは知っていたが。寒さが緩み、決して冷たい雨というわけではなかったが、外に出ることが億劫に思われた。
 父がノートに書いていた。
 「今日は雨。なんだかうっとうしい日になってしまいました」
 今夜も病院で眠れているだろうか、春を少し感じさせる雨音を聞きながら。 

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2009年1月29日 (木)

一度着たコートは

 昨日から少し寒さが緩んだようだが、一度着たコートは脱げない。病院の中では半袖の看護師さんが汗をかき、かき働いている。父は熱が出ていた頃はふとんを何枚もかけていたが、今は1枚か2枚である。家に帰ってきたらどうなることか。霧の出る日の朝は暖房がなかなか効かない。
 今日は父のところに行くと部屋にいなかった。しばらくしたら看護師さんと共に車いすに乗った父がシャワーから戻ってきた。
 今日からリハビリ開始。今日は血圧、酸素などを頻繁にチェックしながら身体がどれくらい動くか調べたるために横になって手や足を伸ばしたり、部屋の中で歩く。どれくらいまで恢復することを目標にしましょうか、という問いには、家ではトイレと風呂が一階にあるので、階段の上り下りができるようになってほしい、と答えたが、どうなることか。貧血による息切れはひどい。
 今週は朝父の家に行かなくてよくなって楽をしてしまった。老犬なので家の中とはいえ、最近の寒さは心配だった。仕事の関係で夜帰りが遅くなるので、早い時間に食事を与えたこともあった。この数日、体調がよくなかったので、今朝は食事をして薬を飲んだ後、もう一度横になったらすぐに寝てしまった。
 今月は本をたくさん読んだ。毎日病院に通っていて電車の中で読むことが多かったからだろう。数日来、太宰治の『人間失格』を読んでいる。直筆原稿を写真に撮ったもので(集英社新書)、訂正の後、書き加えなどを見ると、たしかに太宰の息づかいが伝わってくる。

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できると思うがゆえにできる

 たしかに事実としてできないこと、達成がきわめて困難なことはある。それでも多くのことは、最初から、あるいは少し着手した後、これは自分にはできないと思うことはないだろうか。アドラーはウェルギリウスの「できると思うがゆえにできる」という言葉を引いている(『アドラーに学ぶ』p.178)。もちろん、これは精神主義の類ではない。アドラーは自分を過小評価する危険を危険を説いているのである。自分を過小評価すると「もう追いつくことはできない」と信じてしまう。そして、そのことが、生涯にわたる固定観念になってしまって、進歩しなくなることがある。しかし、実際には、追いつけないというのは本当ではない。もしも子どもや生徒が自分について過小評価していれば、そのような評価、判断が誤っていることを指摘し、固定観念になることを阻止したい。
 アドラーは「誰でも何でもなしとげることができる」といっている。アドラーは才能は遺伝ではないと考えているからである。この見解は後に批判されることになったが、今日においても、遺伝や脳などの身体的な要因による説明で、何もかもわかったように考えることが、人の勇気をくじいていることはあるように見える。
 ある時、アドラーの数学教師が一見解けそうにない問題に立ち往生したことがあった。その時、アドラーだけが答えがわかった。この成功によって、アドラーの数学への心構えはすっかり変わってしまった。
 数学が苦手なアドラーの娘、アレクサンドラが、ある時、試験を受けずに家に帰ってしまったことがあった。「どうしたんだ? 君は本当に誰もができるこんなばかばかしいことをできないと思っているのかい? やろうとしたらできるんだ」。アレクサンドラはわずかな期間で数学で一番になった。
 自分の限界についての誤った固定観念を取り去れば、それだけでただちに何でもできるようになるかといえば、もちろんそんなことはない。どんなことも、最初は難しい。自転車に乗ることも泳ぐことも。どんなに難しくても、自分が取り組んでいることは自分でやるしかなく、誰も代わってくれない。しかし、根気よく、我慢して取り組めば、最初はとてもできないと思っていたことも、しばらくすれば、うまくできるようになるというのも本当である。
 それにしても、今こうして書いていると、私自身が大学院生の頃、指導教授に、君は論文を書くのは得意でない、といわれたことがずっと引っかかっていて、その後の人生で、論文を書く時など、その言葉がいつも心から離れず、苦手意識を持ち続けたことを思い出す。
 その後、著書を書くようになり、ある時、その一冊を先生に献本したことがあった。しばらくして思いがけず先生から返事がきた。そこには「いつのまにかこれだけの文章を考え書いて蓄積していたとは驚き感心しました」と書いてあった。不思議なことに、書くことについての苦手意識はこの時からなくなった。

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2009年1月28日 (水)

最終講義

against the blue sky and the river ...

 近大姫路大学での最終講義。試験問題を提出してきた。必須の授業でもあるので全員、再試の必要がなく、本試験で合格点を取ってほしいものだが、どうなるか予想がつかない。15回も講義をして、ようやくなじんだ感じなのに、もう二度と講義する機会がないと思うと残念である。次の出講は10月。せっかくの最後の講義なのに前日から体調がよくなくて、思うように力が入らず、申し訳ないことだった。まだ一年生なので、看護師までの道のりは遠いが、立派な看護師になってほしい。
 講師控室が今日から5回に移った。海が見えることを初めて知った。
 学校からの帰り、父のところへ。今日は主治医と話すことができた。退院という言葉が聞かれたのはよかったが、治癒ではなく、寛解という判断がされれば退院できるということだろう。退院後、独居が可能なのかどうか。父は犬のことを今日もたずねなかった。僕も何もいわなかった。おそらく退院後の父には犬の世話はできないだろうし、僕も現状では無理である。理解してくれたらいいのだが。
 川の土手に水仙が咲いていた。

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2009年1月27日 (火)

この話につきる

still too early to bloom ...

 芝桜が早くも咲いていた。もっともこのところ寒い日が続くので、震えているように見える。
 父は熱はない、元気だというが、僕が行っても起き上がるわけでなく、話が途切れると目をつぶってしまいそうになる。もちろん、眠ったらいいのだが、全般に意欲が低下しているように見える。
 もうかれこれ三年ほど前、僕が心筋梗塞で入院していた時、ある看護師さんからこんな話を聞いたことがある。よく足湯を時間をしてもらっていた。
 「私はおじいちゃん子なんです。中学生の時、そのおじいちゃんが入院したことがあって、見舞いに行きました。そうしたら、髪の毛も梳かしてもらえず、髭も伸び放題だったんです。看護師さんはそこまでしてくれなかった。それで私は毎日病院に通って身体を拭いたりしました」
 「それが看護師になろうとしたことの動機になってます?」
 「ええ、〔患者が〕人間らしくあるにはどうすればいいか、考えました。身体を悪くしろという意味ではないけど、看護師も入院してみないと見えないことがたくさんあるように思います。おじいちゃんは心筋梗塞で亡くなりました。救急車の中でひどく苦しんだ、とおばあちゃんがいってました。前の日、たまたま母に用事があって電話したらおじいちゃんが〔電話に〕出たのです。長く話しました。それが最後でした」
 明日は近大姫路大学での生命倫理最終講義。難しく煩わしい話が多く、毎回閉口していた学生が多かったかもしれないが、僕が話したかったのは、この看護師さんの話につきるかもしれない、と思った。

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2009年1月26日 (月)

いいえ、まだです

in the twilight ...

 今日は、父が帰ってきて以来初めて、それ以前と同じような日を過ごすことができた。もちろん、いつものように父のところには行ったのだが、そのように思えたのは、今日は仕事を一番にすることができたことと、父については入院して以来ずっとそうなのだが、父の愛犬のいわば命を預かる必要がなくなったことが大きい。父の食事は三食用意しなければならなかったし(今は入院しているのでその必要がない)、父の飼っている犬の食事も管理しなければならなかった。僕の都合で今日はなしというわけにはいかず、睡眠不足で眠気を残しながら、ぼんやりとして重い身体を引きずるようにして、深い霧の中、寒さに身を縮ませて毎朝父の家へと続く川の土手を歩いたが、贅沢なことをいってはいけない、勤めに出ている人は毎日こんな苦労をしているではないか、と自分にいい聞かせてみても、つらいものがあった。なぜ、つらいかは説明するのは簡単ではないけれど。今日は三ヶ月ぶりでこの義務から解放され、病院からの帰り、父の家に父の犬の世話をしに行く必要がなかったが、大切な仕事をキャンセルした、あるいは、仕事があるのを失念した気持ちになった。

 城山三郎の『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』(新潮社)を読む。死後見つかった9冊の手帳。書くためには途方もない集中力が必要だが、老いによる衰えが作家の集中力を阻む。
 恩田陸の『ブラザー・サンシスター・ムーン』(河出書房新社)。作中の言葉を使うと、「繋がっているけど繋がっていない人たちの話」ということになるだろうか。繋がっていない(ように見えるけれど)繋がっている人たちの話という方が正確かもしれない。大学で出会った三人の物語がそれぞれの始点から紡がれる。作者の分身ともいえる主人公の一人の言葉が印象的である。綾音はバイト先で客の一人に学部と専攻をたずねられた。文学部で日本文学…「じゃあ、将来はあれだ、作家さんだ。やっぱり、書いているんでしょ?」。この問いに彼女は「思わず反射的に」答えた。「いいえ、まだです」。そう答えた本人が自分の言葉に驚くことになる。「書く人は放っておいても書く」「(書かない人は)そもそも書かない人だったのである」

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2009年1月25日 (日)

またいつか会える

Looking up at the sky ...

 先週の受診した時の採血結果を踏まえ、父の愛犬の世話を妹の家族に委ねる決心をした。父はわかってくれるだろう。父が退院すればまたその時考えることになるが、これでしばらく僕の負担は少し軽減するだろう。夕方、妹夫婦が引き取りにきてくれた。三ヶ月一緒に暮らしたようなものだから、あまり感情を表さない控え目な犬だが、情が移ってしまっていたことがわかる。またいつか会える日はあるだろう。
 父は今日も退屈だと訴える。行ったら、相撲を見ていた。また転倒したという。
 メモ帳を病院に持って行ったが、父はこのところ書く気力がないのか何も記録を残さない。その代わり、看護師さん(たち)と僕が交互に書いている。看護師さんたちの気遣いが心を和ませる。
 病院からの帰り、振り返ったら空が夕日に染まっていた。長い間立ち尽くしていた。

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2009年1月24日 (土)

どれだけ心配しても

regional spring

 こんなに寒いのに大丈夫なのだろうか、と菜の花を見て思った。冷たい風が吹いていて写真どころではなかったが、青空が見えてきた。春の訪れを予感させる花なのに、春の暖かさを冬の最中に想像することはできない。
 「外は今日は寒いというより、冷たい。病院の中は本当に暖かい」と父にいう。病院の中にいると季節感を失ってしまう。
 戸棚にあるオーバーのことが気になっているようで、ふいにこんなことをいったことがあった。
 「入院した時に着てきた青いオーバーをいつでもいいが持って帰ってくれないか」
 父は、もう暖かいから厚手のオーバーは要らないというのだが。
 熱が下がり、落ち着いている。個室は、静かなので気に入っている、という。
 「あせらずにゆっくり治すしかない。今は働いているわけではないから」。若い頃、病気で4ヶ月会社を休んでいた時とは違うだろう。まだ退院は目処は立っていない。
 (ここからは僕の話だが)昨日、診察を受けたところ、LDLコレステロールが高いことがわかった。痩せていても、中性脂肪が少なくても、そういうこととは関係がなく高くてがっかりすると同時に動脈硬化が僕の場合体質で、ストレスが危険であることをずっと医師から指摘されている。父のことをどれだけ心配しても、その心配によって父がよくなるわけではない…のだが。

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2009年1月23日 (金)

受診/講演

 今日は昨日書いたとおりのハードスケジュールで疲労困憊。予定が重なるのはめったにない。今回は父親の入院は想定外だった。
 採血をしたところ、結果はよくなかった。遺伝的なものだろうということで新しい薬を処方された。この一月、毎日平均すると1万歩歩いていた(今日は2万歩を超えた。これは新記録)。いい結果が出ると思っていたが、運動や食事とは関係なく、動脈硬化が進むことはあるようだ。ストレス。
 3時前、父のところへ。朝、第一日赤に行ってきた、といっても、父は格別の反応はしない。別にいうことでもなかったが、どこか悪いのか、くらいたずねてほしかったのだろう。
 夜は、九条保育所で講演。1時間半講演をして、その後質疑応答。反応がよく、楽しいひとときだった(と僕が感じたということだが)。数人の人が同時に手を挙げられる。この保育所には初めてきたが、もう長くきていなかった母の実家(があった場所)の近くであることに気がついた。一つ思い出が蘇ると、いくらでも思い出される。

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2009年1月22日 (木)

霧が晴れる時

when the fog clears up ...

 昨日、父のノートに血圧などのデータを書いた看護師さんが誰かがわかった。忘れそうだったので、メモ代わりに、と笑われる。父の病状について質問したら、血液データを諳んじてられるのに驚いた。
 父はこの頃よく大きな声で笑う。僕も笑う。
 カワセミを連日いつも歩く土手から目撃した。目撃とは大仰だが、川面を飛んでいくカワセミは流星を見た後のようにいつまでも心から離れない。
 内田百けん内田百けん(「けん」は門構えに月)は期待通り読み始めたら止まらない。誰かの小説を思い出せるが、誰かわからないと思っていたら、『冥土』(ちくま文庫)の解説を多和田葉子が書いているのを見て、なるほどそうか、多和田葉子だ、と思った。この解説は秀逸。たしかに多和田が指摘するように、内田の小説には土手がよく出てくる。死者は土手を歩く。土手の向こう側は見えない。しかし、と多和田はいう、土手だから普通は向こうには川があるだろう。三途の川。
 考え事をしていたらもう日が変わる時間になってしまった。明日は用事が重なってしまった。午前に受診(僕の)。夜、講演。その間に父のところへ行き、父の犬の世話をする。
 霧が晴れる瞬間が好きだ。この土手の向こうには何が?

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2009年1月21日 (水)

月を踏む

reflecting the setting sun ...

 過日帰省していた息子が内田百けん(「けん」は門構えに月)のことを話していたのが記憶に残っていて、『百鬼園随筆』(新潮文庫)を読んだところ、軽妙で諧謔に満ちてはいるが、何の落ちもなく突然終わるといういささか興ざめの随筆であることを知ったのになお本を置くことができないのはなぜかはわからない。
 久世光彦の小説を読んで内田の小説を読んでみようと思った。ちくま文庫にある『内田百けん集成』は24冊もあることに驚いた。とりあえず、久世が『美の死 ぼくの感傷的読書』(筑摩書房)で取り上げている「サラサーテの盤」を読んだ。全巻読破することになるかもしれない。困ったことだ。
 久世の『百けん先生 月を踏む』(朝日文庫)は、内田が借金取りから逃れて逗留している寺の小坊主である果林(久世の分身だと解する評者もいる)の目を通して描かれた内田へのオマージュ。
 「私ハ、イツ死ヌノダロウ。<ちごいねるわいぜん>ヲ聴キナガラ、ソレバカリ過考エル」(p.249)
 私は死ぬのが怖くなると小説を書く、と内田に語らせた久世は第5章の途中まで書いて急逝した。

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僕が頑張れば、とも

 近大姫路大学で講義。90分では話せないかと思ったが、準備した分をすべて話せた。後1回。次回は最後の15分で学生にアンケートをとるという。難しい、わけがわからない、声が聞こえない、早口、ホワイトボードの字が読めない。PowerPointを使ってほしかったなどなど、いくらでも反応は予想できる。
 帰り、父のところへ。今日は元気そうにしていて、しきりに退屈だといっていた。「本が読めれば退屈しないのだろうが、読む気力がわかない」と。
 家にいる時に使っていたスケッチ帳を持って行ったら、日付や食事の時間を書き留めている。今日見たら、看護師さんが血圧や体温などの数値の後に、今日は調子がいいです、と書いてあって、顔がほころんだ。
 一つ一つのことはこなせるが、今日のように朝、父の犬と散歩、講義、病院、帰りに犬の散歩と重なるとやはり疲労困憊。妹のところに犬を預けようとも思うのだが、遠方で簡単に車で連れて行くというわけにもいかない。父は事情をいえばわかってくれると思うのだが、退院した時に犬がいないとがっかりするかもしれない。いつ退院になるかわからないが、僕が頑張れば、とも思う。

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2009年1月20日 (火)

最初の一歩

 明日は近大姫路大学での生命倫理の講義。14回目。明日の分を含めて後二回しかない。話残していることが多々あるので、今日は一生懸命ノートを書いたら常よりもずいぶん長くなってしまった。おそらく90分では話しきれないだろう。
 疲れてしまって、もうこれは最終講義に回そうと思って、まだきちんとまとめられていないのだが、これまで話してきたことを振り返って(あるいは日頃、書いたり話したりしていることを振り返って)生きる勇気を持つには飛躍がいる、とつくづく思う。長所を指摘したり、貢献に注目するなどして、いわば外堀を埋めることはできるけれども、当の本人が、人生の課題に向かおうとしなければ何も起こらない。人と関わること(対人関係を築くこと)は人生の大きな課題だが、それを回避したい人は、何としても他者の中に問題を見出し、それを人との関わりが困難であることの理由にしようとする。同様に、自分についても、他者との関係が始まることがないように、あるいは、終止符を打つために、自分の問題、短所などを容易に見つけるだろうからである。最初の一歩が踏み出せれば、後はたやすくはないけれども、動き出すことができる。そうでない人はいつまでも動かない。最初の一歩を踏み出せる援助ができるかどうかがカウンセラーの力量が試されるのだが、僕にはいつも難しく感じられる。
 父は今日はあまり元気になかった。一週間ぶりにまた点滴が再開された。何の点滴かを看護師さんにたずねたが、毎日行っていても、前日からあったことを線として理解することは困難である。明日は大学の帰りによるといったら、無理するなよ、と父はいうのだが、行かなければ様子がわからないので気になってしかたないだろう。母の命日であることを父に覚えているかたずねようかと思ったが止めた。それをいったからどうというわけでもないと思ってしまったからなのだが。こちらに帰ってきて三ヶ月。そのうち一月は病院にいる。父が結婚してずっと過ごした家に四半世紀ぶりに戻ったことを、思い出が一杯つまった家で過ごせていいですねという人もあるけれども、父にしてみれば妻を亡くした家でもあるのだ。

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2009年1月19日 (月)

前から知っていると思って

fly before you look ...

 また父の夢を見た。父がこちらに帰ってきて、その上、入院して以来、いつも考えているのだろう。夢の中の父は30人ほどを収容する病室(もちろん、実際にはありえない)に移されていた。今、使っている薬は感染症を引き起こす恐れがあるので、大丈夫なのだろうか、と不安になった。
 その感覚を引きずって病院にいると父はまた病室を変わっていた。父は転室の意味と必要を理解していなかった。何のために病院に連絡先を教えてあるかわからない。「まだまだ退院できないだろうな」と父はいう。それでも父は今日は退屈だという。「退屈だ。いすはないのか…それならここにすわれ。話をしよう」というので安堵したのだ。
 鶴見俊輔が、病気になる前も後も言葉使いを変えなかった医師の話をしている。
 「患者を、病気になっているという一番低いレベルで見ていないということですね。患者になったとしても、その人間の高いレベルでの姿勢を記憶から削がないということが重要なんですね」(『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』河出書房新社、p.6)
 僕と父はもう長いつきあいになるわけだが、例えば、父の主治医や看護師さんたちは父の今の姿しか知らない。もちろん、これは当然のことなのだが、前から知っていると思って、見てもらえたら、といつも思う。病気になっているという状態が鶴見がいうように「一番低いレベル」だとは思わないのだが。

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2009年1月18日 (日)

パピヨン

 田口ランディ『パピヨン』(角川学芸出版)を読んだ。これは田口が父を看取った話を軸にキューブラー=ロスについて書いた作品である。ポーランドのマイダネック収容所でロスが見たという蝶の絵(寝棚の壁にたくさんの蝶の絵が描かれていたというのだ)を見に行ったが、そんな絵はなかったというところまでは面白かったが、後がいけない。「死とはこの人生からべつの人生への存在への移行にすぎない」といったが(『永遠の別れ』p.18)、その際、人間が死ぬことを、蝶が蛹から蝶になるように、肉体を脱ぎ捨て魂となって別の次元に入って行く、といった。ロスはやがてオカルト傾向を強め、晩年、夫も離婚、脳卒中の発作を何度も繰り返し、左半身麻痺になったが、ヘルパーの介助だけで自活することを望み、入院することなく2004年78歳で亡くなった(1926-2004)。ロスは収容所にいたユダヤ人たちは蝶の絵を見たが、通常の意識のレベルで見たのではなく、また、ロスや死に逝く人や残された家族がしばしば蝶を見たと語るのは、シンボリックな言語によるものだというような田口の話は、にわかに同意できない。
 そのロスの晩年の動向をドイツのDer Spiegel誌(1997年39号)が伝えている。
 「この二年半というもの毎晩、今夜死ねれば、と願ってきました。そうであればどんなに嬉しいことか。今の私の状態は、生きているわけでもなければ、死んでいるわけでもない。私にはわかっている。私が自分自身を愛するようになれたとき、はじめて死ねるのだということを。でも、それが出来ないのです。それが嫌でたまりません」
 死にゆく患者についての心理研究が今のロス自身に役立っているかという質問にはこう答えている。
 「そんなことは時間とお金の無駄でした。精神分析が私に役立ったことといえば、あまり臆病にならなくなったことくらいです。職業や職業上の成功は、私自身を愛することと何の関係もありません。(ファンからの手紙も)気分が悪くなるだけです」
 ロスがこのような発言することについては、率直とか正直というふうに肯定的に評価する人もあるが、私にはそうは思えない。ここでいわれる自分自身を愛するということもただの自己愛でしかないのではないか。
 死後の世界についてはこのように答えている。
 「自分の死を考えない日はありません。痛みもなく、怒りもなく、もはや孤独ですらない。そこには安らぎと愛があるだけです。死後の世界で、私が愛していたすべての人々に会えると確信している。それが待ち遠しくてたまりません」
 このように考えるロスは、今の自分の状態を抑うつと受容の中間あたりだろう、と自ら分析している。私は、ロスの晩年について、このようであればその生涯においてしてきたことは何だったのか、と僕は否定的に見てしまうが、他面、これこそ人間らしいといえないこともない。死の受容と言葉でいうのは簡単だが、実際に、受容できるような境地に達することができる人が多いとは思えないからである。
 僕は死後の世界を認めないが、そこで「愛していたすべての人々に会える」という無邪気なロスの確信はどこからくるのか。そこで、いやな人とも会うかもしれないのに。

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父の夢

 今日は読書会。『パイドン』を読了した。2500年の歳月を隔てて、プラトンのおかげでソクラテスの地上での最後の時間にいあわせる思いがする。毒杯を仰ぐ直前湯浴みを終えたソクラテスはあまりたくさんのことを話さなかった、と書いてある。この時、ソクラテスの胸中を知りたい。
 読書会の後、病院へ。食事をちょうどすませたところだった。元気そうに見えた。貧血は改善されていない。「寒かったら無理して毎日こなくてもいいから」といってくれる。
 父の夢を見た。まだ二十歳台に見える若い父が、三歳くらいの僕を抱き上げて笑っているというだけの夢だったが、幸福な思いに満たされた。一体、これまで父を近く感じたことがあっただろうか。

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2009年1月17日 (土)

安心して、とはいえない

 日野原重明が、医師になって最初に担当した患者は、結核性腹膜炎と診断された十六歳の少女だった(『死をどう生きたか』二頁以下、特に八~一〇頁)。この少女は結核にも罹患していたが、当時は結核に対する有効な治療法はなかった。家族は母親だけで、工場で働く母親は、日曜日にしか見舞いにくることはできなかった。
 ある日曜の朝、容体が急変した。嘔吐が続き、腸閉塞の症状を示し、血圧が下がり、個室の重症室に移された。苦しみを止めるにはモルヒネを注射するしかなかった。日野原は「今日は日曜日だから、お母さんが午後からこられるから頑張りなさいよ」といって励ました。
 モルヒネを注射すると、まもなく苦しみが少し軽くなったようで、大きな眼を見開いてこういった。
「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生にきていただいてすいません。でも今日はすっかりくたびれてしまいました」。しばらく間をあけてこう続けた。「私は、もうこれで死んでいくような気がします。お母さんには会えないと思います。先生、お母さんに、よろしく伝えてください」。そういって、彼女は日野原に向かって合掌した。
 日野原は次のように書いている。
 「私は一方では弱くなってゆく脈を気にしながら、死を受容したこの少女の私への感謝と訣別の言葉に対して、どう答えていいかわからず、『安心して死んでゆきなさい』などとはとてもいえず、『あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい』といった」(九頁)
 日野原がこういった途端、少女の顔色が急に変わったので、看護師に血圧計とカンフル剤を持ってこさせた。血圧を測ろうとしたが、血圧はひどく下がり、血管音はもはや聞くことはできなかった。
 「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」
 日野原は死に逝く少女にこのような言葉をかけながら、自分がいうことが真実ではないことを知っていたはずである。知識からも経験からも見えてしまう。
 この少女の死は日野原にとって最初の経験だった。
 「私は、いまになって思う。なぜ私は、『安心して成仏しなさい』といわなかったのか? 『お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ』となぜいえなかったのか? そして私は脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか?」(同上)
 思うに、「安心して死んでいきなさい、成仏しなさい」ということは、患者に信仰があれば可能だろうが、そうでなければいえない言葉である。また、医師自身が死後のことについて確信を持てないのであれば、「安心して」とはとてもいえないであろう。
 
 日野原が鈴木大拙(1870-1966、仏教学者、思想家)の主治医だった。血圧が異常に高い(180/60-240/80)ことに驚いた日野原はいった。
 「大拙先生の場合、血圧の高いということが、お仕事ができるということなのか。お仕事をされるから高くなるのか、どちらなのか判断しかねます。不思議ですね」(『鈴木大拙とは誰か』上田閑照・岡村美智子編、岩波現代文庫、p.192)
 腸閉塞で九十五歳で亡くなる。救急車で聖路加国際病院に到着した大拙は、意識は鮮明だったが、重篤な状態だった。
 「どんなふうに痛いのですか」
 「どうということはないが、痛いのはかなわんです」
 開腹手術は危険ということで見合わせ、内出血症状に対しては輸血を繰り返したが、血圧はどんどん下がった。
 「病気はずいぶん重いのです」
と日野原が率直にいうと、大拙はうなずき、
 「最善をつくしますよ」
というと、苦しい中にもうなずき、感謝の念を表明した。
 16歳の症状に「あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい」といった時と言葉かけが違うのがわかる。今わの際、「病気はずいぶん重いのです」といわれたら、一体、どう思うのだろう。あるいは、鈴木大拙はこの時自分が死ぬなどとはつゆ疑っていなかったのだろうか。
 亡くなる二時間ほど前に、
 「お寺の要職の方々が心配して部屋の外で待ておられるのですが、お会いなさいますか」
と日野原がたずねると、
 「誰にも会わなくてよい。一人でよい」
と答えた。
 秘書の岡村美保子が、「何かほしいものはありませんか」とたずねたら、No, nothing, thank youと大拙は答えた。そして「そんなに心配しなくていい」と岡村を気遣った。最後の言葉もNo, nothing, thank youだった。
 父の病気は今のところ幸い重篤なものではないが、主治医が僕に病状について話した時、それをそのまま伝えることができるか自信がない。

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無理といわずに

in spite of prickling thorns ...

 昨日は元気だった父が今日は熱はないのに力なく、口数も少なかった。
 先週の土曜日に8錠から始まったプレドニンの投与が今日から7錠になった。一週間に1錠ずつ減らすことになっている。
 夜、読書灯をつけて本を読んでられます、と看護師さんが教えてくださる。入院前も本を手にすることはめったになかったのでいい兆候ではある。今日から腕に時計をはめていて、何度も時間を確認する。まだ退院まで長いので、こんなふうに時間を気にするのがいいのかはわからない。
 メモ帳とボールペンを持って行く。
 「電話はどこからかけられるのか」とふいに父がたずねる。
 父の携帯電話は病院内では決められた場所でしか使えないので持って帰ってある。
 「公衆電話があるけど、とても今はそこまで歩けない」
 即答できたのにはわけがある。僕が心筋梗塞で入院していた時、僕がいたのは父の病室のすぐ近くで、僕も公衆電話から電話をしたことがあったからである。今の父よりも僕の方がおそらくはるかに足取りは軽かったが、それでもそこまでたどり着くのは大変だった。やっとの思いで電話をしたら、後でかけて、といわれ力が抜けてへたってしまったことを思い出した。父に無理といわずに他に方法を考えるべきだった、と後になって思った。

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2009年1月16日 (金)

いい兆候

 今日の父は、床に足をおろしてベッドにすわっていた。横にならなくて大丈夫なのか、というと、大丈夫だという。退院の目処について正しく理解していた。声がかれていたのが気になった。どうしたのだろう、風邪を引いたわけでもないのに、というが、新しく服用している薬の副作用ではないか、と心配。ともあれ身体は楽になったという。毎日、病院に行っても、よくなる兆候が少しも見えなかったので、病院を後にしてからも、父のことが心から離れず辛かった。退院が遠い先のことではなくなったが、父が帰ってくれば、昼間仕事する時間がなくなるので、それまでに仕事を仕上げたい。
 父の犬の世話をしていることは昨日も書いたが、毛の色がどんなのだったか忘れてしまった、というので驚く。そういえば僕が中学2年生の時交通事故で入院したことがあったが、家に帰った時、当時飼っていた犬を見て、こんな犬だったのか、と思った。その頃、一生懸命世話をしていたので入院中ずっと心配していたのだが。今も出ているかと思うが、『愛犬の友』という雑誌があって、新刊を書店で買った帰り、自転車で家に向かっていた時にバイクと正面衝突したのだった。こんな話を父としたが、父は僕の交通事故のことを覚えてなかった。父は僕が事故にあったという連絡を母から受けた時、僕が死んだと思った、という。中学2年生の時どころか、僕が心筋梗塞になったことも覚えていない。

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2009年1月15日 (木)

気を長くして

fluttering snow and heron ...

 父の犬を世話するために朝、夕、父の留守宅を訪れるということは何度も書いてきたが、このところ続く寒い日はつらい。寒風の中を歩いていると涙が出てくる。寒くても、老犬は暖房のないところで僕を待ち、写真の青鷺は雪が降っても、川面を飛んでいるのだが。
 月曜に熱が下がり、水曜には点滴をしなくてよくなった父は今日も気分がよさそうで、シャワーに入れるのだ、と枕元に着替えを用意して待っていた。主治医に話を聞くと、やはり新しい薬が使い始められていた。薬というのも侵襲であることには変わりはない。よく効く薬は副作用も怖い。入院しているのでそのあたりは心配しなくてもいいのだろうが。入院して三週間経ったが、今日の話であれば、今後順調に恢復するとして、ようやく折り返し点を過ぎたくらいである。
 父に主治医の話をしたところ、
 「まあ、気を長くしてじっくり治すしかないな」
という。早く帰りたいとはいわなかった。
 以前は細切れの時間でも平気で原稿を書けたのにできなくなった。用事で仕事の中断を余儀なくされるのがつらい。もちろん、本当は仕事が進まないことの理由にしていることはわかっているのだが。

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2009年1月14日 (水)

病む人の心の支え

blooming secretly ...

 今日は近大姫路大学で講義。あまりに遠いので、最初の頃は15回も通うことが大変なことに思えたが(実際、大変だったが)、講義が終わることが残念に思える。試験を作らないといけない。100人を超える学生の答案を見るのは久しぶり。当然、いわゆる記述式の問題。いつまでに成績を出さないといけないか、たずねるのを今日は失念してしまった。
 今日は講義の中で次のフランスの外科医アンブロワズ・パレのものとされる言葉を紹介した。
To cure sometimes
To relieve often
To comfort always 
 日野原はこれを次のように敷衍して説明している。
「癒すことはときどきしかできなくても、和らげることはしばしばできる。しかし、病む人の心の支えとなることは、医師にも看護師にも、いつもできることではないか。それを私たちはやっているのか、そのための時間を患者に与えているのか。ではどう慰めるのか」(日野原重明『死をどう生きたか』中公新書、p.11)
 To comfort ...常に、といっていいのか。日野原は「いつもできることではないか」「それを私たちはやっているのか」という。日野原は必ずしも「できる」といっているわけではない。時間がないという理由をあげる人もあるだろうが、それは医療サイドの問題で患者にはそんな理由は通用しない。
 「どう」(how)慰める(comfort)かが問題である、と日野原はいう。その方法については本講義で学んできたことなのである(といってみたが、今の時点で、学生は思い当たるだろうか)。
 講義の後そのまま病院へ。常より遅い時間に着くと、父が「疲れているだろうに悪いな」といってくれる。主治医から話があるようなことを看護師さんがいわれたが違った。新しい話はなし。ただ、点滴の針が抜いてあった。快方に向かっていればいいのだが。食欲もまた出てきたようで、肺炎も治まった様子でお茶を飲んだり、食事をする時に起き上がる所作は軽やかに見えた。
 写真は山茶花。雪月花という種類のようだ。

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2009年1月13日 (火)

霧が少しずつ

can you bear the cold of the winter here?

 今日は本当に寒く、手がかじかんで凍傷になりそうに思うが、寒いところに住んでいる人にはこれくらいと思われるかもしれない。
 父は熱が下がって以来この数日楽そうに見える。ぽつりぽつり語る父の言葉に耳を傾ける。抗生剤の点滴が終わるまで、と思いながら、今日はいつもより長く父のところで過ごした。前にも書いたが、父の心を覆っていた霧が少しずつ晴れていくように見える。
 今の部屋には少しでもナースステーションに近い方がいいということで、最初の見晴らしがいい部屋から移ったのだが、廊下側で外が見えない。
 「部屋を変わってもいいか、といわれたので、何も考えずにいいといったら、こんなところで、しまったと思ったのだが、外は見えないが、今は落ち着けるのでよかったと思う」
と父がいうのが意外だった。
 退院の目処は立っていない。
 明日は近大姫路大学で講義。早くも13回目。まだ講義の準備が終わらない。いつも講義直前までかかる。

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2009年1月12日 (月)

「いま」「これから」

2009年1月12日月曜日
frosty flowers...

 父は熱が下がり、「今日は本当に気分がいい」という。
 「この間、夜の長さが気にならないといっただろう。ところが、その日の晩、寝られなくてな。心理的なものかもしれないが」
と笑う。 
 お前の電話番号を教えてくれ、というので、どういうことかたずねたら、退院が決まったら電話をしないといけないからだ、と。そんな急に退院は決まらないから、といったが、気持ちはもう退院に向いているわけだ。肺炎なったのは入院後のことであり、それが治ったとしても(熱が下がったからといって治ったわけではないだろう)ようやく入院時に戻ったといっていいくらいなので、まだ退院までは長いだろう。

 『黄落』(佐江衆一)の圧巻は、夫の母親が亡くなった後、葬儀の際、その母親を介護した妻へのお礼を会葬者への挨拶の中で言及しなかったことを妻が夫に責める場面である。夫は妻が葬儀の時不機嫌な態度だったことを気分のいいものではなかった、となじる。そのことのわけを理解した夫は、人前だから身近な女房のことをいうのを遠慮した、その気持ちがわからないのか、という。なぜ遠慮することがあるの、俺の口からいうより、他の人が触れるのが自然だったと思ったのだ。そういう夫に妻はいう。「あなたにいってほしかったわ」(p.259)
 読後、重苦しい気持ちをいつまでも引きずっている。
 病院への電車の中で酒井雄哉師の『一日一生』(朝日新書)を読む。大事なのはこれまで何をしてきたかではなく「いま」、そして「これから」。
 「いつだって、「いま」何をしているのか、「これから」何をするかが大切なんだよ」(p.186)

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2009年1月11日 (日)

端正で足るを知る

the lady of the camellias ...

 熱が下がった父は今日はわりあい元気で抗生剤の点滴をしている間ずっと話をすることができた。入院時の混乱期を脱して少しずつ父にかかっていた霧が晴れてきているように見える。今日は今の病状について説明した。もっとも病気の原因がはっきりしているわけではないので、明解にはなりえないのだが。
 「入院していても退屈するということはない。一日が早く経つ。もう4時だろう。テレビを観なくても、横になっていると寝ているのだろうな、退屈ということはない」
 僕は入院していた時もぼんやり過ごすことはあまりなく、わずかな時間を惜しんで本を読み、書いたものだが。そうしなければ自分がばらばらになりそうな、消えていってしまいそうな気がしたからである。本を読むことを許されなかった頃は辛かった。時間が経たず、わずかに点滴の状態を示す点滅するライトだけが時間の経過を知らせた。そんな自分のことを思うので、今の父が仙人や行者のように見えてくる。
 プラトンの『国家』にケパロスという老人が、
 「端正で足るを知る人でありさえすれば、老年はそれほど苦になるものではない。しかし、もしもそうでなければ、ソクラテスよ、そういう人にとっては、老年であろうが青春であろうが、人生はつらいものになる」
といっていることをよく思い出す。
 「お前のことを看護師さんがよく話している。仕事もあるのに毎日よくくる、と。ありがたいと思っている」
 僕はたまたま病気でほとんどの仕事を辞めたので時間が自由にできるだけのことなのだが、病院が近いこともあって(電車に乗って40分ほど)毎日行けてよかったと思う。時々、気持ちが揺れることはあるのだが、一日も早い退院を願って頑張りたい。もちろん、僕が病院に行けるのは家族の協力があってのことである。
 佐江衆一の『黄落』(新潮文庫)を読了。11月から父の介護を始めた今読むとどのページに書いてあることも我が身に引きつけて読まないわけにいかない。

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2009年1月10日 (土)

暖かくならなくても

reflecting the setting sun...

 今日(9日)は一度病院に行ったが、主治医から検査結果などについての話を7時から聞けることになったので、待つには時間がありすぎるので一度帰った。写真は駅から父の家に向かって歩いている時に撮った。父の犬の散歩、食事の世話をした後、買い物に行き夕食の用意をした。再び出かけ、電車に乗っていると携帯に電話があった。知らない番号だったが、病院の番号らしいので駅に降りてから電話すると、父の入院している病棟階のナースステーションだった。心臓カテーテル検査が入って8時半になるがいいかという内容だった。先生にはお疲れのところ申し訳なかったが、時間まで待つことにした。長い時間をかけて父の病気について説明してもらった。その前に父のところに顔を出すと、嬉しそうに「今日も大学だったのか」とたずねる。今日は熱があってあまり話せなかった。
 父の病気は一進一退ならいいが「進」がなくて、原因を探るもののまだ決め手はない。いくつかの可能性は検査結果に照らして「〜ではない」と次々に否定されているというのが現状。
 父の場合、循環器、血系内科、神経内科、皮膚科など多領域に及ぶ。ある一つの専門領域の中に収まる病気はないだろう。また検査データによって示される病気は病者ではない。全人的に診るというのは難しい。
(ここから10日)
 雪が舞う寒い日になった。こんな日は病院の方が暖かいと思ってもみるが父は早く帰りたいという。9日は家に手すりなどをつける工事をしてもらう予定だったが、入院している間は工事はできない、と延期になってしまった。春になって暖かくなったら工事を、などどケアマネージャーはいわれるが、そんな先まで入院になっては困るのだ。寒かろうが、父が帰ってきた時には階段やトイレなどに手すりがついてなければ意味がない。ふと口を滑らされただけだと思うが、病院通いで疲れていると、こんな言葉にもいらだってしまう。
 今日は妻と妹と病院に行ったので、常よりは気が楽だった。父は熱は変わらずあるもののわりあい元気で話をした。昨夜の主治医の話のことを気にしていてどうだったか、たずねる。肺炎と貧血のこと、必要があれば輸血をする可能性があることをいう。退院時期についてはまだわからないとしかいえなかった。

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2009年1月 8日 (木)

今となっては

at last ...

 朝、父の犬を連れて歩いていたら、少し先の川岸に青鷺がいるのが見えた。常は敏感なのに、この時は川面をじっと見つめていて僕たちが近づくのにまったく気がつかないように見えた。やがて気がついて飛び立ったが、こちらの方に向かって飛んできた。
 夕方、病院から帰って再び同じ場所を通りかかった。もうあたりは暗くなっていた。朝と同じ場所から青鷺が羽ばたきの音をさせて飛び立っていった。
 今日の父はわりあい元気にしていて、話をすることができた。
 「早く退院したいのだが…私としてはもう大丈夫だと思うのだが、何かが高いからそれが下がらないと駄目みたいだ」
 もちろん、父に限らないだろう。検査データについて説明されても理解するのはむずかしい。
 中学生の時、父は肝炎で長く入院したことがあった。家に帰ってからも2ヶ月ほど療養していた。病院にいる間一度だけ見舞いに行ったが、その時、一体、父と何を話したかは今となっては思い出せない。今と同じように一言二言話をして帰ったのだろうと思う。

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仏の座

the sign of spring ...

 仏の座は春の花だと思っているのに、去年も今年も冬の最中に咲いているのを見かけた。霜が降りたり、雪が積もっていることもあるが、この写真を撮った日は春の兆しを少し感じた。まだまだ先のことなのに。

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2009年1月 7日 (水)

それだけでも

 今日は久しぶりの出講。姫路駅が様変わりしていて、中央口から外に出ると、PLiE姫路があってその二階にジュンク堂が移った。毎週、講義前に寄ったりしたら、講師料が飛んでしまいそうだ。
 講義は毎週行っているとそれなりに慣れるが、間があくと力の入れ具合がわからなくなるのか、疲れてしまう。途中で一度声が出なくなった(気づかれなかったと思うが)。早くも今日は12回目。死についての講義の2回目。
 父の着替えを持って姫路に行くのもどうかと思ったが、帰りに病院に寄ることにしていたのでどうしようもない。いつもよりも遅い時間に病院に着く。熱があった。抗生剤の点滴が終わったところだった。今日の骨髄生検のことを看護師さんにたずねる。病理に回っていて結果はまだ出ていない。胸骨ではなく腸骨稜からの検査だった。毎日、痛い注射ばかりされて辛い、と父はいう。昨日食欲がなくなったといっていたが、今日は夕食の時にいたので見たところ半分も残すので驚いた。
 帰ろうとした時、父がいった。
 「お前が毎日きってくれるからそれだけでもどんなに気が楽か。あまり話すわけでもないけどな」

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一番苦しいのは

our guardian egret ...

 それにしても、といつも病院を後にする時に思うのだが、今、一番苦しいのは父である。もう長く入院しているのに原因を特定できず、連日検査が続く。既にこれまで得られたデータでほぼわかっているのだが。胸にずっと貼り付けてあった心電図モニターを取ってもらえたのはよかった。明日の検査についての説明を父と一緒に主治医から聞いた。
 「食欲がなくなってきてなあ。前は何でもおいしかったのだが」と父はいう。「今月は〔退院は〕無理だろうな」という問いに僕は答えられなかった。主治医からは一月いっぱいは見ておいてほしいといわれているが、まだ実のところ誰にもわからないのではないか。そういうことも含めて父に現状を十分説明できていないことが苦しい。それは僕が本当のことを隠しているという意味ではなく、まだわからないからである。骨髄生検のことは父も聞いたはずだが、僕なら夜眠れなくなるほど怖いだろう。
 9日に介護保険の住宅改修補助によって父の家の階段やトイレなどに手すりをつける工事を予定していたが、延期になった。入院している間に本人が不在時に工事をしてはいけないことになっているということである。退院した時に工事が完了していなければ意味がないというと(入院前よりも必要になることが予想されるから)、退院の日が決まれば、それに合わせて工事できるというところまでは約束を取り付けたが、間に合うのかどうかわからない。帰った時には階段に手すりがついているから、といえなくなってしまった。
 明日は(書いている間に今日になってしまった)近大姫路大学での12回目の生命倫理講義。講義の準備がまだ終わらない。昼間、思うように仕事の時間を取れないのがつらい。

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2009年1月 5日 (月)

息切れしないよう

 日記が父の病気のことばかりになってしまうが、父はまた転室になり、今度はナースステーションの近くになった。廊下側でトイレの近くだが、外は見えなくなった。この部屋はやかましい、見舞いに来た人がひっきりなしに話していて寝つけないというのだが…見舞いにひっきりになしに人がこられるはずもなく、面会時間も決まっていて、しかも今は昼なのだから起きている方がいいのではないか、といってみたが、目下、高熱が続いているので、少しの声や音に過敏なのかもしれない。
 高熱は心配。「どうして熱が下がらないのか」と父。肺炎の可能性も否定できないとのことでレントゲン撮影。結果は聞けてない。
 この頃は父とあまり話せてない。父に代わって日々の状態や、検査などについて知りたいと思うので、看護師さんにあれこれ質問してしまう。
 今日は僕は体調がよかった。夕方万歩計を見たら14000歩を超えていた。父の犬とも朝夕散歩している。日が長くなり始めていることに気づく。
 今月いっぱいは見てほしいと主治医にいわれているが、先が見えないので、力の配分を間違えないようにしたい。いつも最初頑張りすぎて、後になって息切れしてしまうので。
 7日から講義再開。後、3回しかない。

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2009年1月 4日 (日)

手を振って

stare into the distance and you will find ...

 今日病院へ行ってさっそくトイレを確かめたら、非常時のボタンがあった。しかし父はそれには気づかなかったのだろう。トイレで転倒したことが報告されているか、と看護師さんにたずねたら、報告は受けてないといわれるので、今、報告を受けてください、といった。
 便器を使うようにいっても理解されないとか忘れるというようなことをいわれるが、問題はどうすれば転倒という危険を回避できるかということである。部屋に置いてあったマット(足を着けばナースステーションでわかるようになっている)がないのでたずねたら、数に限りがあり、優先順位があるという。転倒する危険があるのなら優先順位は高いと判断すべきではないのか。転倒の危険がないように配慮してほしいので、目が届かなないことの弁明をしてほしいわけではない。
 僕がいる間も何度かトイレに行こうとするので、ポータブル便器を使うように行ったが、嫌そうだった。しかし、目下、立っているだけでもふらつき、今日からは酸素吸入もしている。
 主治医と話をすることができた。前回検査後に説明を受けた時と違って今回は病気について調べていたので医師の説明はよく理解できた。
 入院前と違って歩いて12分というわけにはいかない。電車で隣の市にある病院に行くのは気合いがいる。こんな時、車の運転ができたら…とは思わない。できないわけではないが、今は車の運転に集中できないと思うからである。
 今日は熱があって父は元気がなかったが、明日もくるから、といって帰ろうとしたら手を振ってくれた。

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2009年1月 3日 (土)

安全とはいえない

 今日は病院に行かず、妻と帰省中の息子に代わってもらった。昨日、貧血で息切れがひどく少し歩くだけで立ち止まって大きな息をする父が足腰が弱ったのか足がもつれるようであることが気になっていたが、とうとうトイレで転倒した。このことを父が看護師さんに伝えたのかは確認できていない。自力で起き上がったということだが力と時間がいっただろう。これではいけないと父が思えば、ベッドサイドのポータブル便器を利用しようと思うだろうが、そうでなければこんなことがあっても部屋のトイレまで歩こうとするだろう。こんな場合、家族としては常に見張っているわけではないので当然どうすることもできない。病院としてどう対応してもらえるか明日たずねてみようと思う。入院診療計画書には、入院生活が安全安楽に過ごせるよう援助する、と記載してあるが、転倒するようなことがあれば「安全」とはいえないからである。
 朝、夕父の愛犬の世話をするために父の家に通っている。いつ行っても熟睡していて大きな伸びをして出てくる。父が不在であることに気づいているのだろうか、といつも思う。何年かぶりかで犬と散歩をしている。どこかに行かなければならない目標なしに歩く。「帰ろうか」というと、どこを歩いていてもその場で回れ右をする。
 また明日くるから、と父にかけるのと同じ言葉を犬にかけ、鍵をして帰る。川沿いの土手を歩いて帰ることにした。電灯一つない道だが、雨上がりの空には月が出ていて明るく感じられた。父が入院していても一日の歩数は変わることなく驚くほど多い。
 父の退院がいつになるかめどが立ってないが、今のうちに仕事を進めておこうと思ってずっと原稿を書いている。
 父が入院したとたん力が抜けてしまった気がする。横になっている時間が増えた。

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2009年1月 2日 (金)

父の矜持

 正月とはいえ病院は常とは変わらない。年末、年始一時帰宅している人が多いのか病棟は少しばかり静かにも思えるが。父の部屋には1日に入院された人がおられた。「病気などしたことがなかったのだが、会社をやめてからいけない」。挨拶をする。
 父は病室に入った時、ちょうどトイレに行くべくベッドがら降りようとしていた。息切れがひどくわずかな距離を歩くのも大儀である。僕がバイパス手術の後、貧血がひどく少し歩くだけで苦しかった時のことを思い出す。ベッドの横にポータブル便器を置いてもらっているが、父にそれを使うよう勧めても「行けるうちは行く」といって聞かない。身体のことを考えていたらこのような矜持は治療の妨げになるといえないこともないが、父の意志を踏み躙ることはしてはいけないと思った。急によくなることは期待できないのかもしれないが、明らかに父の息切れが軽減する日がくることを願わずにはいられない。

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2009年1月 1日 (木)

幸福感という力

in spite of resistance ...

 今日が何日なのかもうわからなくなってしまったと笑う父は、2008年最後の日もうつらうつらしていた。8.8度も熱が出たので前日にまして力なく、父を一人残して帰ることがつらかった。
 写真は去年最後に撮ったもの。鳥に抗う空気は、鳥が飛ぶことを妨げるどころかそれを支えるという意味のキャプションを書いたが通じるかわからない。

 年末に青山光二の『われらが風狂の師』(新潮文庫、絶版)を再読した。三高、京都大学講師の肩書きを捨て、東大の大学院に入学、その後、華厳経60巻のドイツ語訳を完成させた哲学者土井虎賀寿をモデルにした(小説の中では土岐数馬)この小説を若い頃読んだが、その時と違って心理学や精神医学を学んでいる今読み直すとまた違ったところに目がいく。躁鬱病という診断が正しいかは難しいところだが、躁病期の常軌を逸した土岐のまわりの人への被害は甚大なものがある。三高で教えを乞うた青山光二(作中では菊本辰夫)もその一人であるが、師の天才を愛して止まない。躁病期の土岐の生活が「虚」の部分であるとすれば、鬱病期は「実」の部分に当たる、と菊本は推測する。「実」は「虚」があって初めて成立し、虚の生活が充実していればいるほど実の生活もまた充実する。鬱病期の土岐の仕事への没入は人間業ではない(pp.637-8)。
 同じ青山が90歳の時に書いた『吾妹子哀し(わぎもこかなし)』(新潮文庫)という作品がある。ここにはアルツハイマー型認知症の妻が描かれている。記憶をなくしたはずの、失禁、徘徊を繰り返す妻が不意打ちのように口にする言葉から夫の杉圭介は二人の若き日の愛の思いを蘇らせる。
「そういえば、わたしの名前、何ていうんだったかしら」
「困りましたねえ。何ていうお名前でしたかねえ」
「でも、名前なんか要らない」
「わたしという人は、杉圭介という人の中に含まれてるんですから」
「哲学者みたいなことを云うね」
「あなた、たしか哲学者だったのよね」(p.214)
 高橋英夫の解説によると青山の『美よ永遠に』という作品に次のような作中人物の言葉がある。
「天才という存在(もの)が人間仲間に与える幸福感という力があるように思う」
 『われらが風狂の師』の土岐数馬も、『吾妹子哀し』の杏子もここでいわれる「天才」であろう。まわりにいるものにとって「幸福感」を持つことは困難なことではあるが、この二月父と暮らして父が僕に与えてくれたのはたしかに「幸福感という力」である。

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