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2008年12月 6日 (土)

美しい時間

 加藤周一が亡くなった。父が持っていたわずかな本の中に加藤の『読書術』があった(後に、岩波現代文庫として刊行)。何度も繰り返し読んだ。
 高校時代に繰り返し読んだのは『羊の歌』(岩波新書)だった。医学部の学生でありながら文学部の講義を聴いていたという加藤の回想を読み、学問に憧れた。
 僕が書いた本の中でも加藤周一の著書から多く引用している。
 以下、折に触れて書いたものから。

 加藤周一は、南方の島で戦死した友人についてこんなふうに書いている。
 「一人の友人にくらべれば、太平洋の島の全部に何の価値があるだろうか。私は油の浮いた南の海を見た。彼の目が最後に見たでもあろう青い空と太陽を想像した。彼は最後に妹の顔を想いうかべたかもしれないし、母親の顔を想いうかべたのかもしれない。愛したかもしれない女、やりとげたばかりかもしれない仕事、読んだかもしれない詩句、聞いたかもしれない音楽……彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、「だまされて」死を択んだのでさえもない。遂に彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである」(『羊の歌』p.198)

 加藤周一の次の指摘は頷ける。戦争中の私的な会話においてでさえ、戦争に賛成していた人びとの背後には、権力があり、いいたいことを自由にいって周囲を憚る必要がなかったのに対して、戦争に反対する議論は、権力を憚り、多くの禁句を避け、自説を擁護するのに、根拠の半分しか指摘できなかった(『続・羊の歌』p.214)。今は言論の自由が当時に比べればあるはずなのに、権力を傘に暴言を吐く人は多いように思う。

 渡辺一夫の『敗戦日記』の続き。今は日記を読み終え、串田孫一宛の書簡を読んでいる。
 「拝誦、田舎で洋書を開いたり、横文字を書いたりするのがキザ……とはいかにも君らしい感慨だと笑ってしまひましたが、これは重大なことなのです、キザだとて思つてよしたら、君は日本人の一番悪いところに負けるのです」(1945年5月22日)
 電車の中で洋書を読んでいたら憲兵に文句をいわれ、これはドイツ語です、といったら殴られたのは加藤周一ではなかったか。

 加藤周一の『小さな花』(かもがわ出版)。人は誰も「美しい時間」をもっている。加藤の経験はこうだ。

 「細い径の両側に薄の穂がのびて、秋草が咲いていた。雑木林の上に空が拡がり、青い空の奥に小さな雲が動く。風はなく、どこからも音は聞えて来ない。信州の追い分けの村の外れで、高い秋と秋草の径は、そのとき私に限りなく美しく見えた。たとえ私の生涯にそれ以外の何もないとしても、この美しい時間のあるかぎり、ただそのためにだけでも生きてゆきたい…」(「美しい時間」p.9)

 このような「美しい時間」は計画して手に入れることはできない。人生設計には役立たない。しかし何のために人生設計をするのだろうか。加藤はいう。

 「何のために働き、苦労をし、時々気ばらしをしながらでも、生きてゆくのか。美しい時間が人生にどう役立つかではなく、それが私の人生にどんな意味をあたえるかということだけが、根本的な問題であるように私には思われる」(p.11)

 美しい時間は誰でも持つことができる。

 「その人にとっての一つの小さな花の価値は、地上のどんなものとも比較しても測り知ることができない。したがってそういう時間をもつ可能性を破壊すること、殊にそれを物理的に破壊すること、たとえば死刑や戦争に、私は戦争に賛成しないのである」(ibid.)

 どんな花が世界中で一番美しいだろうか。

 「一九六〇年代の後半に、アメリカのヴィエトナム征伐に抗議してワシントンへ集まった「ヒッピーズ」が、武装した並列の一列と相対して、地面に座り込んだとき、そのなかの一人の若い女が、片手を伸ばし、眼のまえの無表情な兵士に向かって差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかっただろう。その花は、サン・テックスSaint-Exの星の王子が愛した小さな薔薇である。また聖書にソロモンの栄華の極みにも匹敵したという野の百合である」(pp.36-7)

 一方で史上空前の武力、他方に、無力な女性。一方に、アメリカ帝国の組織と合理的な計算、他方には無名の個人とその感情の自発性。権力対市民(国民ではないだろう)。自動小銃対小さな花。

 一方を他方を踏みにじることはできない。人は小さな花を愛することはできても、帝国を愛することはできない。「花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである」(p.37)。権力の側につくか、小さな花の側につくのか。選択を迫られることが人生においてはある。ピーター・フォークが日本国の天皇から招待された時のことを加藤は伝えている。その晩は先約がある、と断ったのである。

 「私は先約の相手に、友人か恋人は、一人のアメリカ市民を想像する。もしその想像が正しければ、彼は一国の権力機構の象徴よりも、彼の小さな花を選んだのである」(p.38)

 権力に対して人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、常に限りなく美しく感じるのである、という加藤に同感する。

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コメント

人間の歴史が始まって以来、いまだにやめられない戦争をいかにすれば人類は放棄することができるとお考えでしょうか?

投稿: ひで | 2008年12月 7日 (日) 11時42分

 言葉によって問題を解決することを日常場面で徹底するということから始めるしかないように思います。感情を使うこと、力を使うこと(暴力も、言葉による暴力も含む)は即効性がありますが、そのような方法に頼らずに人と関わることがどれほど難しいかは誰もが知っているのですが、あえてその方法を使わない努力をしたいです。
 次に、競争を当然のことと考えないことが必要だと考えています。これも教育の場面から始めていく必要があります。

投稿: 岸見一郎 | 2008年12月 7日 (日) 15時50分

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