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2008年12月15日 (月)

勇気づけられた子どもはどう変わるのか―勇気づけの目標

勇気づけられた子どもはどう変わるのか―勇気づけの目標
岸見一郎(きしみいちろう)
日本アドラー心理学会認定カウンセラー・日本アドラー心理学会顧問

勇気づけとは何か

 子どもたちは生きていくに当たって、人生の様々な課題に直面することを回避することはできない。勇気づけは、子どもが人生の課題を解決しうるという自信を持てるように援助することである。本稿においては、どうすることが勇気づけになるのか、子どもたちがどのように育つことを目標にするのかを具体的にイメージすることで明らかにしたい。

自分の価値を認める

 アドラーは次のようにいっている。
 「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」(1)
 子どもが人生の課題を回避しようとするとすれば、課題そのものが困難であるからというよりも、自分に価値があると思えないということに関係があるということである。いうまでもなく、子どもが直面することになる課題は困難なものであり、時に解決できないことが実際にはあるだろう。それにもかかわらず、解決できる力があると教えることが勇気づけなのではない。解決できない課題はあるからである。アドラーは楽天主義者ではない。楽天主義者は、悪いことは起こらない、何とか「なる」と考え、自分で何をどの程度までできるかという見極めもせず何もしない。常に楽天的な人は悲観主義者である。根拠もない自信を根底から覆すようなことが起これば、たちまち悲観主義者になる。そしてすべてに絶望する。他方、勇気ある楽観主義者は、何とか「する」。無論、すべてが解決できるわけではないが、それにもかかわらず、何もしないのではなく、できることをするのである。勇気を持てる、あるいは、勇気をくじかれることには、課題そのものの難易はさほど関係しない。むしろ、自分に価値があると思えることこそが重要である。
 どうすれば子どもは自分に価値があると思えるようになるか。もしも子どもが自分に価値があると思えなければ、課題に取り組もうとしない。勇気づけは、この線で考えるならば、課題解決の能力を与えるというよりも(アドラー自身は誰でも何でも成し遂げることができる、といっている)、子どもが自分に価値があると思えるように援助することである。

他者の評価にとらわれない

 人からの評価を気にかける子どもがいる。人からよくいわれたら喜び、悪くいわれれば悲しんだり、憤慨する。これはおかしいだろう。人の価値は、他者からの評価に依存しない。悪い人だといわれるからそうなるのでも、よい人だといわれるからそうなるわけでもない。他者の評価を気にかけるというのは、人が自分について持つイメージ、他者の自分への期待に合わせようとすることである。
 そこで勇気づけの目標は、子どもが人からの評価に左右されないように援助することである。勇気づけられた子どもは、他者からの評価にとらわれず、自分を実際よりもよく見せようとはしない。
 これができれば、たしかに大きく変わることが可能だが、しかし、具体的にどう変わるのかを明らかにしなければ無内容であるともいえる。

短所を長所と見る

 人はいきなり変わることはできない。自分の価値を認めることができるためには、短所だと思ってきたことを、長所として認めたい。勇気づけられた子どもは、自分についてそれまでとは違った見方ができるようになる。「暗い」のではなく「やさしい」というふうにである。
 個々の性格について見方を変えていくこともできるが、逆のことがあることも見逃せない。かつては長所だと思われていたことが、短所に見えるということがあるということである。几帳面できちんとしている人だと思っていたのに、細かいことにこだわるうるさい人に思えるというようなことである。好意を持っていれば、どんなことでもよく見える。
 自分についても自分のことを好きにならないでおこうという決心が先行する。そうすることで、積極的に他者との対人関係を築かないでおこうと考えているのである。そこで、自分の価値を認めるべく短所を長所と見るためには、他者との対人関係を積極的に築こうとする決心が必要がある。

自分の価値は貢献感によって得られる

 そのような決心ができるためには、他者との関係を築くことが自分にとって有用であるということがはっきりと理解されなければならない。人は孤立して生きているのではなく、他者と関係の中にある。しかもこの関係は敵対的なものではなく、アドラーのいう共同体感覚の原語(Mitmenschlichkeit)が示しているように、人と人は結びついて(mit)いるのである。
 アドラーは「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」という言葉に続けて次のようにいっている。
 「そして、私が価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」(2)
 共同体にとって有益なことをしている時、そしてそのようにして共同体に貢献している時、自分が人の役に立てていると思え、そのような自分が価値があると思えるのである。アドラー心理学が、ほめるのではなく、勇気づけることを勧め、具体的には「ありがとう」ということを提案するのは、自分が役に立てたと思い、そのことによって自分に価値があると思ってほしいからである。
 ほめられて育った子どもは、適切な行動に気づいてもらえなければ(これも他者の評価を気にすることである)、たちまち適切な行動を止めてしまい、自分をほめない人を敵だと思う。貢献感があれば、他者が認めなくても、自足しているのと対照的である。

他者に期待せず与える

 他者から与えられることを当然だと思い、他者が自分に何をしてくれるかということ(評価を求めることもその一つである)にしか関心がない子どもがいる。このような人にとっては、自分は世界の中心であり、自分のまわりを世界が巡っている。たしかに、人は他者とは離れて生きることはできず、自分がこの世界に所属し、その中に自分の居場所があると感じられることが、人間の基本的な欲求であるというのは本当だが、そのことは自分が世界の「中心」にいるということではない。世界の「中」にいるけれども、「中心」ではないのである。他方、勇気づけられた子どもは、他者が格別の注目を自分にしなくても不平には思わない。貢献感があれば、自分には居場所があると感じられ、自分のことを受け入れることができるからである。
 このように思えるようになるためには、先に見たように、他者を敵ではなく、仲間と見る必要がある。自分のことは好きになれても、他者が仲間とは思えないという人は多い。しかし、一人でもこの世界に自分の仲間がいることを知れば、子どもは必ず変われる。そして、自分の問題だけではなく、他者の問題をも解決するために協力するようになる。自分は自分だけで完結せず、他者に自分の存在を負っているということを知っているからである。
 このように考えられるからこそ、勇気づけられた子どもは、他者を援助する一方で、自分の力だけでは解決できないことがあれば、他者から援助を受けることを恥じたりはしない。甘やかされた子どもには思いもよらないが、何もかも自分一人で背負い込み途方に暮れている子どもはいるのである。

失敗を怖れない

 以上のようであれば、勇気づけられた子どもは、失敗を怖れず、自分の判断で動ける子どもになるだろう。他者へ貢献することを厭わないので、自分のことだけを考え、失敗したらどんな評価がされるかばかりを気にする子どもとは違うのである。
 勇気づけられた子どもは、課題そのものが困難であるということもあるが、課題に取り組むということだけが関心事である。しかし、失敗を怖れる子どもは、最初は課題そのものの困難に端を発したのであっても、課題の解決に関心があるというより、自分のことに目が向いている。他者からの評価を気にするので、よく思われるために課題に取り組むことすらしなくなることもある。勇気づけられた子どもはこんなふうには考えない。どう思われるかということを気にせず、課題を解決することで自分をよく見せようともしない。やればできるのに、というような可能性の中に生きたりはしないし、たとえ課題を達成できなくても、問題行動など誤った仕方で注目を引こうとはしない。
 ともかく課題が与えられれば、できることから少しずつでも始めていくしかない。これは勇気そのものであり、アドラーはこれを「不完全である勇気」「失敗する勇気」と呼ぶ。課題に取り組まないよりはるかに望ましいわけである。
 さらに、もしも子どもが評価されること、失敗することを怖れないのであれば、今日、当たり前のことだと思われる競争からも自由になることができる。

対等であること

 九十三歳のジャーナリスト、むのたけじと話をした中学生がこんなことをいっている(3)。
 「私は生まれてからずっと、大人に会うと上の立場から、下に見られていました。家では親から子どもだと見られ、学校では先生から生徒だと見られ、近所でも子どもだと見られていました。それがむのさんのところに行ったら、私を一人の人間として対等に扱ってくれたので、夢中でしゃべることができました。生まれて初めて子ども扱いされずに、人間扱いされました」
 他方、むのは、これまで想像しなかった若者が出てきたことを知り、このことを知ってから死ぬのと、知らずに死ぬとでは大違いだ、と今の若者が、門地、門閥、家柄、見識、権威にとらわれず、人間としてぶつかってくることに驚いている。このような子どもたちに、叱ったり、ほめたりする従前の教育は必要ではない。何かについておかしいと思った時は、疑問を率直にいえる。大人が空気を読めというようなことをいって異論を持たないように圧力をかけても、それをものともしない。

勇気づけの問題

 今一度確認すると、勇気づけは、子どもたちが自分の人生の課題を解決する能力があるという自信を持てるよう援助をすることである。子ども自身が自分の判断で自分自身の人生の課題に取り組む援助をするのであり、大人は子どもの課題を肩代わりすることもできなければ、子どもを子どもの意志とは何かの別の目標へ向かわせることもできない。本稿では、慣例に従って「勇気づける」とか「勇気づけられる」という言葉を使ってきたけれども、大人の子どもへの働きかけは断じて操作や支配であってはならない。言葉の本当の意味での自立を支援することは、大人の側に忍耐が要求される。何か問題があった時に、子どもを一喝すれば、子どもは問題行動を止めるだろう。しかし、勇気づけは、手間暇がかかるのである。
 勇気づけということを学ぶと、われわれがどうすれば子どもを勇気づけられるか考え、試行錯誤的に子どもに声をかけるという日が始まる。そして、ある日、気がつくのだ。私が子どもを勇気づけているのではないのだ、むしろ、日々の生活においてどれほど子どもに勇気づけられているのだ、と。

【文献】
(1)Stone, Mark and Drescher, Karen, eds. Adler Speaks: The Lectures of Alfred Adler, iUiverse, Inc,, 2004.
(2)ibid.
(3)むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波書店、二〇〇八年
(『児童心理』2008年12月号臨時増刊、金子書房)

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