« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月の記事

2008年12月31日 (水)

ありがとうございました

in aknowledgement of your kindness

 今年もお世話になりました。11月に父が帰ってきて以来生活が一変し、年末には父は思いがけず入院ということになり病院で新年を迎えることになりました。
 僕自身の病気のことも含め気がかりなことは多々ありますが、来年も引き続き頑張りたいと思っています。変わらぬご厚情に感謝します。

| | コメント (2)

2008年12月30日 (火)

退屈も回復の兆しか

 昨日は病院に行ったのに持ち帰る洗濯物もなく(清拭もしてもらわなかったのだろうか)、看護師さんとも主治医とも会わず帰ることになった。さすがに気になってナースステーションに寄ったが、この日も皆コンピュータのディスプレイに釘付けになっていて誰も気がついてくれない。一番近いところにいる看護師さんに声をかけたら、知らない人ね、あなた、誰、というような表情をして、後ろを、つまり他の看護師さんに誰か対応してよ、というように振り向く。ようやく一人の父のことをよく知っている看護師さんが対応してくださった。何か聞いておくことありますか、という問いもなんだか妙だが、〜〜を持ってきてください、という答えも、もしも僕がナースステーションに行かなかったら伝わらなかったはずなので妙なのである。この看護師さんは丁寧に対応してくださったが、不穏な気持ちになった。
 父はこの数日の中では一番元気で「退屈だ」と頻りにいう。とっくにカードの度数が0になっていて映らなくなっているはずのテレビのことをいいだす。
 「私は何度も入院してきたが、正月を病院で過ごすのは初めてだ」
 僕も今年の正月は父と過ごせると思っていた。
 父の状態についてここに書くのはばかれるようになってきた。治療が功を奏してよくなれば、と思う。
 父が入院している病院の外来で二ヶ月毎に薬を出してもらっているのだが、父のことに気を取られているうちに薬を切らしてしまったことに気がついた。5日まで外来は休みである。
 夜、胸のあたりがひどく気持ちが悪く、すわってられなくなった。

| | コメント (2)

2008年12月29日 (月)

犬の夢

年年歳歳花相似

 父は入院してからいよいよ力をなくし、僕が行ってもうとうとしていることが多い。シャワーの後、処置があって席を外そうとしたら、もう帰るのか、とたずねる。今、きたばかりだから、またすぐ戻ってくる、といったら安心したように見えた。しばらく父の近くにいて少し話をした後帰ったが、明日くるからというと「ありがとう」という。
 父が飼っている(今は僕が世話をしている)犬の夢を見たという。
 「上がり框のところで足をかけて、食事をくれと甘えるんだ」
 父の入院のことに気を取られていて僕の薬をもらいに行くことをすっかり失念していた。入院前、父の服薬管理を厳格していたのに自分の薬を忘れたのと似ている。

| | コメント (2)

2008年12月27日 (土)

非日常的体験

winter beauty ...

 今日も父は早く退院したいといい、正月に一時退院できないか、医者に聞いてくれ、と何度もいう。残念ながら父の希望はかなえることはできない。
 「夜中に目が覚めると、どこにいるかわからなくなるんだ」
 入院は非日常的な経験である。去年、バイパス手術で僕が入院した時はある程度心の準備ができていたが、その前年心筋梗塞で救急入院した時は何の準備もなかった。父の今回の入院は後者に近い。
 僕が行くと、熟睡していた。後からやってきた妻と妹が声をかけるとようやく目を覚ます。よく寝たという。家にいた時は寝た気がしないといっていたのだが。
 いつも父の側にいないので不在の間に起こったことがわからない。看護師さんにたずねればいいことだが、例えば点滴スタンドが昨日と違う場所にコンセントを抜いて置いてあるとなぜだろうと思う。それで理由を知るためにナースステーションに行っても、コンピュータのディスプレイを見ている看護師さんは皆忙しそうで声をかけられない。
 今日で入院四日目だが、父にとっては入院したのはずいぶん前のことのようである。昨日胃カメラをのんだ話をする。
 「あれはつらい。喉がまだ痛くてな。看護師さんに聞いたら日にち薬だと」
 「昨日受けたばかりやから、痛いだろう」
 「昨日! そうかもうずいぶん前のことだと思っていた」
 病院での時間の流れが違うのはよくわかる。
 今は検査をしていて、結果がわかれば治療に入るという説明をすると父はいう。
 「最終結果はいつわかるんだ」
 それはまだ僕にもわからない。病気についてできる限り正確に父に伝えようと思うが、理解できる言葉で伝えることは難しい。昨日主治医から検査結果を踏まえて父の病気について説明をしてもらったことを帰ってから復習した。入院前はかなり悲観的だったが、よくなるだろうという希望を持てるようになった。歩いても息切れがしなくなったら退院できると父に説明したが、気休めをいったわけではない。
 写真は山茶花。久しぶりに花の写真を撮ることができた。

| | コメント (2)

2008年12月26日 (金)

少し休みたい

the world looks different ...

 朝、吹雪の中、父の愛犬を世話するために田んぼの畦道、川の土手を歩く。父が帰ってこないことに気づいているのだろうか。
 昼から病院へ。父は僕がいってもうつらうつらしている。時々、話しかけてくる。正月は帰りたいというが無理である。主治医の説明では一月いっぱい入院することになりそうである。
 「どうしてもだめか」
 「うん、だめ。歩いても息切れがしなくなったら帰れるから、それまではしっかり治していこう」
 こんなふうにいってみたが、一月の入院は僕の場合は非常に長く感じられた。
 病院であればたくさんの人の目があり、常時心電図はモニターされており安心であるというのは本当である。それに毎食用意するのはこの二月僕にはかなり負担だったので、その分楽になった。たとえてみれば、後一滴でも水を注げば溢れ出すコップのようになっていたので、この機会に身体を休めることができたらと思う。
 主治医の詳細な説明のすべてが理解できたとは思わないが、説明の内容を整理し、なお不明な点を調べたら、父の症状についていろいろと見えてくるものがある。
 入院することになった日のことを思い出した。入院が決まった時、既に1時を回っていた。外来の看護師さんで、今からだと夕食まで何も食べられないから、売店で何か買って食べさせてあげなさいといってくれた人があって、売店でサンドイッチ(おにぎりを所望していたが売り切れていた)とお茶を買ってから病室に入った。父は三切れあったサンドイッチの一切れを「お前、食べろ」といった。空腹なのは自分だけではないことに思い当たったのである。
 息子が帰ってきた。

| | コメント (4)

2008年12月25日 (木)

ある意味安心だが

 今日は前から入っていた予定どおり、尼崎の保育所へ。午前中、子どもたちの様子を見て、昼から職員研修。年長組の教室に入ると子どもたちが話しかけてくる。楽しいひとときを過ごす。
 仕事を終え、帰りにそのまま父が入院している病院。いつも降りる駅から三つ目の駅で降りる。この病院には二年前に心筋梗塞で僕が救急車で運ばれ、一月入院した。同じ病棟、階なので、よく知っている看護師さんがおられ、安堵する。
 検査が続く。ひどく疲れているようで、行っても食事の時は当然起きていたが、すぐに横になって眠ってしまった。
 しばらくの間病院通いの日が続くことになる。父が連れてきた犬の世話も欠かせない。今日朝出かける前に父のところへ行き、散歩。病院からの帰りにも行く。しっぽを振る。父が帰ってこないことに気づいているだろうか。
 いつも独居する父のことが気がかりだったが(目を離せないので昼間はほとんど父と一緒に過ごしてきた)今は入院しているので安心ではある。二、三週間入院予定だが、もっと早く退院できるかもしれないし、もっとかかるかもしれない。
 11月来持続的な仕事が思うようにできなかったので年末、年始は何とか遅れを取り戻したい。

| | コメント (0)

2008年12月24日 (水)

父入院

takeoff

 前の日記に書いたように、受診したところ父はすぐに入院することになった。入院になることはまったく予想していなかったわけではないが、帰る間もなく入院になるとは思ってもいなかったので、一度帰って入院の準備をし、また病院に帰るなどしていたら今日は本当に疲れてしまった。どれくらいの入院になりますか、とたずねたら一週間かもしれないし、一月になるかもしれない、という答え。夕食にショートケーキが出た。今夜は父とクリスマスイブ。

| | コメント (0)

心理的に遠い

Leave everything neat and clean behind you...

 青鷺が飛び立った。近くにいた鴨が驚いて飛び上がった。
 父の家は歩けば12分だから近いはずなのに、朝、両手に荷物をいっぱい持って歩いていると心理的には遠い。しばらくの間自転車に乗っていたが故障して以来、直しに行く間もなく毎日かなりの距離を歩いている。先週から父の家からもインターネットに接続できるようになったので閉塞感は少し弱まったが、依然世間から隔絶しているという思いが強い。まだ今年はまだ雪は降っていないが、昔、母が入院していた時、暖房の効いた病室で長く過ごし季節感を失いそうになっていたある日、ふと窓の外に雪が舞っているのを見て冬の到来に気づいたことを思い出す。
 父の具合がよくないので今日は受診するつもり。予約を入れてないので長い時間待つことになるかもしれない。
 自分が病気の時よりも、親や子どもが病気の時の方がつらい。

| | コメント (0)

2008年12月22日 (月)

早く帰れと

quo vadis ...

 今日は看護師さんこられます、とメモに書き残して帰ったからか、朝から風呂に入ったらしい父は風呂から上がった後寝てしまったようだ。声をかけたら起きるという。そのまま寝かせていた方がよかったかもしれない。
 ちょっとした所作でも息切れがひどい。これくらいのことでいけない、と父はいうが、何とか楽になってほしい。医学の知識がないのが残念だが、母の時のように何も知らなくて判断を誤ったという思いは今もぬぐえない。そんなことにならないように、と調べ質問してばかりいる。予約はまだ一月も先だがあさって受診しようと思う。父にいうと嫌だとはいわない。 
 力なく早く帰れといふ父を残して帰る足取り重し

| | コメント (0)

丹の色の

deep in meditation ...

 霧の深い日が多い。父に代わって川辺を父の愛犬と散歩する。
 昔、この地には丹(に)の色の波が打ち寄せていたが(丹波という地名の由来)大国主命が峡谷を切り開いたので水が引いたといわれる。
 丹の色の波の面影今もなお川面を覆ふ霧に残れり

| | コメント (2)

2008年12月21日 (日)

人間の弱さ

 土曜は昼から妻に代わってもらって家に帰った。一度横になったら身体がふとんに吸い込まれた。父が帰ってくる前は疲れたらよく横になっていたが、今はそれができなくなった。
 今日は読書会。いつも父と二人で過ごしている部屋に今日はたくさんの人が集まる。父は常と変わらず同じ席について話に耳を傾けていた。
 今日読んだところでは魂の不死が最終的に証明された。
 「とすれば、魂は不死なるものである」
 しかしなおもその後で登場人物の一人であるシミアスがソクラテスに語っている。
 「私自身も語られてきたことから不信な点はありません。しかし、論じられている問題の大きさと人間の弱さをはかなく思うと、語られたことに関して自分の中になお不安が残らないわけにいきません」
 本当にそのとおりだと思う。

| | コメント (0)

2008年12月20日 (土)

間近に見ると

on the alert ...

 父の犬と連れだって川辺を歩いていたら青鷺が思いがけず近いところにじっとしていた。毎日見る鳥ではあるが、間近に見ると緊張する。
 この頃朝起きるのがつらい。アラームが鳴ってから何回も何回も起きなくていい理由を考えているが、どれも正当な理由でないことに思い当たり起きるという毎日。父のところへ行くというところがどんなことがあっても動かせない。そう思ってしまうことが疲れを増幅させる。しかし一時を乗り切れば、後は身体は動く。
 金曜は眼科受診。待合室には高齢の方が多く、うちにきていただいているヘルパーさんが付き添いでこられている姿も見た。今日土曜日も近くの医院を受診。父がこちらに戻ってから5人の医師のお世話になっている。僕自身のことでは40日ごとの受診だけだが、父ともう数え切れないほど病院、医院に通うことになった。

| | コメント (4)

2008年12月19日 (金)

暗闇に向かって

pioneering a new walk ...

 父が日に日に弱っているように見える。今週は朝行っても鍵がかかっていて、父の愛犬は鎖に繋がれたままである。少し前までは朝一番に散歩に連れ出していたし、もう少し前は、僕が繋いでも僕が帰ると離していて、父の近くに横たわっていたものだが。
 父に代わって日に何度か犬と共に散歩に行く。老犬なので足元がおぼつかなく階段は嫌う。ところがある日かなり急な階段をおりることを促したら、一生懸命おりていった。それ以来新しい散歩コースが拓かれた。その途上で霧の深い朝撮った。遠くに白鷺が見える。

 『作家が過去を失うとき』(ジョン・ベイリー、朝日新聞社)には、哲学者であり、作家のアイリス・マードックが晩年アルツハイマーに罹患してからの生活が書いてある。
 「アルツハイマーは、ひそかに忍びよる霧のように知らぬ間に周りのすべてを消し去るまで、ほとんど気づかれない病気だ。その後、霧の外に世界が存在しているなど信じられなくなる」(p.175)
 脳の働きに強い刺激を与えるとう実験的な薬があるが、そのような薬の効き目はごく一時的であり、効いている短い間でも患者を混乱させ、恐怖すら植えつけるという。慣れ親しんでいた霧が晴れ、ふいに足元の断崖があらわになるからである。
 アイリスが書くことが困難になっていく状態を次のように語っている(p.212)。
 「暗闇に向かって船出している」
 著者である夫のベイリーは、これは内面世界を意味していたかもしれない、という。それならアイリスは恐ろしい現状をきちんと把握していたように思える。しかし、ベイリーはいう。
 「私が脳の専門家だったら、こんなふうに正気に立ち戻る一瞬があるなど信じがたいと感じるだろう」(ibid.)
 萎縮した頭頂部の脳スキャンの映像を見てしまっているベイリーは困惑する。

 今日も訪問看護。たびたびこられる看護師さんに父は気を許したのか僕にも(僕だから、か)話さないことを話すことに驚く。

| | コメント (2)

2008年12月18日 (木)

あの頃も

 昨日は近大姫路大学で講義。11回目。残り少なくなり、まだまだ話したいこと、話さなければならないことが多々あるのに話し尽くせるか心配になってきた。
 朝、父のところに行くと、デイサービスに行く準備をして待っていてくれた。
 講義を終え、一目散に帰ったら父はひどく疲れた様子で待っていてくれていた。今帰ったばかりだというが、3,40分は待っていたはずだ。どうだったかという感想も聞けないほど僕の方も疲れていたので、また明日ゆっくり話を聞こうと思う。お腹が減ったという。常よりは運動量が多かったのかもしれない。僕もお腹が減った、といったら、早く家に帰れ、と父はいう。そういうことをいわせるつもりはなかったのだが。量が少し多いかと思ったが、父に夕食を作った。父からは聞いてないが、記録には詳細に様子が書いてあり、また様子を見に行かれたケアマネージャーさんからも電話で報告があった。介護サービスが動き出して2週間。契約のための面接が多く、また必ずしもまだうまく機能していないこともある。早く軌道に乗ればいいのだが。
 夜、日記も書かずに(書けずに)寝たのにまだ眠い。朝からあれこれ失敗ばかりしてしまい落胆。前にも書いたが、昼間父のところでは横になれるところがない。
 父のところで食事を用意し、家に帰ってからまた夕食を作るのが大変。父のところで父の分も含めて4人分を作って、持ち帰ることも考えたが、いざそうしようと思うとそれはそれで大変だと思ってしまい、結局、この件も棚上げになってしまっている。
 四半世紀を経て帰ってきた父は好々爺になっていた。振り返れば、母が亡くなった後は折に触れてぶつかってきた。月でいえば一月に母が脳梗塞で亡くなり、同じ年の6月に結婚するまでの半年が大変だった。翌年の3月に父は仕事で横浜へ行ってしまったが、その後も会う時は二人きりであることを可能な限り避けた。誰か(子どもであってもいい)がもう一人いなければたちまち険悪な雰囲気になった。いつも僕が定職についていないことから始まった。お前のしているカウンセリングというのを受けたいといいだしたのはそんなに古いことではない(月に一度ほど会って話を聞いていたが、それも僕の病気で中断してしまった)。今は毎日父と過ごしていることを父がどう思っているかはわからない。若い頃も、父と今のように関われていたらよかったのにとこの頃よく思う。

| | コメント (0)

2008年12月16日 (火)

そういわれたら何も

a quiet life ...

 これも父と散歩していた時に撮った。後で、父に見せたら喜んでいた。ここには鷺だけでなく、この情景を見ている父と僕が、少なくとも、僕と父が共に過ごした時が写し込まれている。
 この頃、霧がひどく寒い。霧は昼前にようやく晴れる。寒いと父は外に出ようとしない。いい天気になったので散歩に誘ったが、いいわ、と断る。朝から一度も父はこちらに一緒に越してきた愛犬を見ていない。
 父が食事を終えた後、帰ろうとした時、父は思い詰めたような表情でいう。
 「明日はデイサービスには行かないでいこうと思う。私は人と関わるのが苦手で、行っても何をするわけでもなく、退屈なのだ」
 「でも、昨日、そのことでデイサービスの管理者がこられたのを覚えていると思うけど、その時、今の話を聞いてもらったから、考えてもらっていると思う」
 「前に住んでいた時は、将棋をする人がいたのだ。私はほとんど知らなかったが、教えてもらった。懐かしい」
 「同じようにデイサービスにきている人に将棋を教えてもらおうという話になったね」
 「そうだった」
 「明日行かなかったら、僕は大学で講義する日だから長い時間一人で過ごしてもらうことになる。心臓のことが心配で病院にあるデイサービスにいってもらうことにしたのだけど、一人でいると思ったら心配で、心配で仕事にならない」
 「わかった。お前にそういわれたら何もいえない」
 僕は間違っているかもしれない。父が家にいたいというのなら、そうしてもらってもいいのではないか、と今日の父とのやりとりを思い出しては考え込んでしまう。介護認定が降りる前の先月、昼食と夕食を用意しておいて朝から夜まで一人で過ごしてもらったこともあったのに、父との暮らしが長くなった今はとてもそんなことはできないと思う。電話があっても姫路からはとても駆けつけることができない。
 
 父の家に昼間に行くことの問題はインターネットに接続できないことだったが、アドエス(Advanced/w-zero3[es]僕のはWS011SH)をモデムにすることにようやく成功したのでこの問題は解決した。これでMacBook Airが生き始めた。正式のmac用のモデムドライバはないのだが、書いた人があるというのは驚き。メーカー保証はないが、問題はなさそうだ。

| | コメント (4)

2008年12月15日 (月)

仮の住処

2008年12月15日月曜日
years slipped by ...

 父が今暮らしている家は10年前まで僕が住んでいた家でもある。長く離れていたので昔の感覚が戻ってこなかったが、この頃、朝からずっといると今住んでいるマンションの方が仮の住処のように思うことがある。主な本はこの10年の間にマンションの方に持ってきたが、依然として、ここにははるかに多くの本が残っている。かつては書斎だったが、今は雑然とした書庫に化してしまっている。時間があれば本の整理をしてみたいところが、時間がない。
 写真は家に覆いかぶさるように立っている銀杏の木。毎年銀杏がたくさんなる。子どもの頃は小さかったのにいつの間にか大きくなった。家の下にもぐって家を損なうから切った方がいいと忠告する人もこれまでたくさんあった。
 今日は朝、過日のデイサービスのことで管理者とケアマネージャーが来訪。父が、次は行かない、といっても覚悟しようと思っていたが、幸い、素直に行くことを約束してくれる。
 昼からは看護師さん。父と二人だけだと単調な日だったが人が出入りすると昼間の時間が早く過ぎる気がする。父はどんなことにも「はい」(はあい?)と機嫌良く返事をする。
 昼食をすませると僕は父から伝染する睡魔に襲われる。父の声で目を覚ます。
 「散歩行こうか」
 部屋からはきれいな夕日を一望できる。父がふという。
 「駅は一晩中電気がついている」
 夜中に目を覚まして外を眺めているのだろうか。

| | コメント (0)

勇気づけられた子どもはどう変わるのか―勇気づけの目標

勇気づけられた子どもはどう変わるのか―勇気づけの目標
岸見一郎(きしみいちろう)
日本アドラー心理学会認定カウンセラー・日本アドラー心理学会顧問

勇気づけとは何か

 子どもたちは生きていくに当たって、人生の様々な課題に直面することを回避することはできない。勇気づけは、子どもが人生の課題を解決しうるという自信を持てるように援助することである。本稿においては、どうすることが勇気づけになるのか、子どもたちがどのように育つことを目標にするのかを具体的にイメージすることで明らかにしたい。

自分の価値を認める

 アドラーは次のようにいっている。
 「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」(1)
 子どもが人生の課題を回避しようとするとすれば、課題そのものが困難であるからというよりも、自分に価値があると思えないということに関係があるということである。いうまでもなく、子どもが直面することになる課題は困難なものであり、時に解決できないことが実際にはあるだろう。それにもかかわらず、解決できる力があると教えることが勇気づけなのではない。解決できない課題はあるからである。アドラーは楽天主義者ではない。楽天主義者は、悪いことは起こらない、何とか「なる」と考え、自分で何をどの程度までできるかという見極めもせず何もしない。常に楽天的な人は悲観主義者である。根拠もない自信を根底から覆すようなことが起これば、たちまち悲観主義者になる。そしてすべてに絶望する。他方、勇気ある楽観主義者は、何とか「する」。無論、すべてが解決できるわけではないが、それにもかかわらず、何もしないのではなく、できることをするのである。勇気を持てる、あるいは、勇気をくじかれることには、課題そのものの難易はさほど関係しない。むしろ、自分に価値があると思えることこそが重要である。
 どうすれば子どもは自分に価値があると思えるようになるか。もしも子どもが自分に価値があると思えなければ、課題に取り組もうとしない。勇気づけは、この線で考えるならば、課題解決の能力を与えるというよりも(アドラー自身は誰でも何でも成し遂げることができる、といっている)、子どもが自分に価値があると思えるように援助することである。

他者の評価にとらわれない

 人からの評価を気にかける子どもがいる。人からよくいわれたら喜び、悪くいわれれば悲しんだり、憤慨する。これはおかしいだろう。人の価値は、他者からの評価に依存しない。悪い人だといわれるからそうなるのでも、よい人だといわれるからそうなるわけでもない。他者の評価を気にかけるというのは、人が自分について持つイメージ、他者の自分への期待に合わせようとすることである。
 そこで勇気づけの目標は、子どもが人からの評価に左右されないように援助することである。勇気づけられた子どもは、他者からの評価にとらわれず、自分を実際よりもよく見せようとはしない。
 これができれば、たしかに大きく変わることが可能だが、しかし、具体的にどう変わるのかを明らかにしなければ無内容であるともいえる。

短所を長所と見る

 人はいきなり変わることはできない。自分の価値を認めることができるためには、短所だと思ってきたことを、長所として認めたい。勇気づけられた子どもは、自分についてそれまでとは違った見方ができるようになる。「暗い」のではなく「やさしい」というふうにである。
 個々の性格について見方を変えていくこともできるが、逆のことがあることも見逃せない。かつては長所だと思われていたことが、短所に見えるということがあるということである。几帳面できちんとしている人だと思っていたのに、細かいことにこだわるうるさい人に思えるというようなことである。好意を持っていれば、どんなことでもよく見える。
 自分についても自分のことを好きにならないでおこうという決心が先行する。そうすることで、積極的に他者との対人関係を築かないでおこうと考えているのである。そこで、自分の価値を認めるべく短所を長所と見るためには、他者との対人関係を積極的に築こうとする決心が必要がある。

自分の価値は貢献感によって得られる

 そのような決心ができるためには、他者との関係を築くことが自分にとって有用であるということがはっきりと理解されなければならない。人は孤立して生きているのではなく、他者と関係の中にある。しかもこの関係は敵対的なものではなく、アドラーのいう共同体感覚の原語(Mitmenschlichkeit)が示しているように、人と人は結びついて(mit)いるのである。
 アドラーは「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」という言葉に続けて次のようにいっている。
 「そして、私が価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」(2)
 共同体にとって有益なことをしている時、そしてそのようにして共同体に貢献している時、自分が人の役に立てていると思え、そのような自分が価値があると思えるのである。アドラー心理学が、ほめるのではなく、勇気づけることを勧め、具体的には「ありがとう」ということを提案するのは、自分が役に立てたと思い、そのことによって自分に価値があると思ってほしいからである。
 ほめられて育った子どもは、適切な行動に気づいてもらえなければ(これも他者の評価を気にすることである)、たちまち適切な行動を止めてしまい、自分をほめない人を敵だと思う。貢献感があれば、他者が認めなくても、自足しているのと対照的である。

他者に期待せず与える

 他者から与えられることを当然だと思い、他者が自分に何をしてくれるかということ(評価を求めることもその一つである)にしか関心がない子どもがいる。このような人にとっては、自分は世界の中心であり、自分のまわりを世界が巡っている。たしかに、人は他者とは離れて生きることはできず、自分がこの世界に所属し、その中に自分の居場所があると感じられることが、人間の基本的な欲求であるというのは本当だが、そのことは自分が世界の「中心」にいるということではない。世界の「中」にいるけれども、「中心」ではないのである。他方、勇気づけられた子どもは、他者が格別の注目を自分にしなくても不平には思わない。貢献感があれば、自分には居場所があると感じられ、自分のことを受け入れることができるからである。
 このように思えるようになるためには、先に見たように、他者を敵ではなく、仲間と見る必要がある。自分のことは好きになれても、他者が仲間とは思えないという人は多い。しかし、一人でもこの世界に自分の仲間がいることを知れば、子どもは必ず変われる。そして、自分の問題だけではなく、他者の問題をも解決するために協力するようになる。自分は自分だけで完結せず、他者に自分の存在を負っているということを知っているからである。
 このように考えられるからこそ、勇気づけられた子どもは、他者を援助する一方で、自分の力だけでは解決できないことがあれば、他者から援助を受けることを恥じたりはしない。甘やかされた子どもには思いもよらないが、何もかも自分一人で背負い込み途方に暮れている子どもはいるのである。

失敗を怖れない

 以上のようであれば、勇気づけられた子どもは、失敗を怖れず、自分の判断で動ける子どもになるだろう。他者へ貢献することを厭わないので、自分のことだけを考え、失敗したらどんな評価がされるかばかりを気にする子どもとは違うのである。
 勇気づけられた子どもは、課題そのものが困難であるということもあるが、課題に取り組むということだけが関心事である。しかし、失敗を怖れる子どもは、最初は課題そのものの困難に端を発したのであっても、課題の解決に関心があるというより、自分のことに目が向いている。他者からの評価を気にするので、よく思われるために課題に取り組むことすらしなくなることもある。勇気づけられた子どもはこんなふうには考えない。どう思われるかということを気にせず、課題を解決することで自分をよく見せようともしない。やればできるのに、というような可能性の中に生きたりはしないし、たとえ課題を達成できなくても、問題行動など誤った仕方で注目を引こうとはしない。
 ともかく課題が与えられれば、できることから少しずつでも始めていくしかない。これは勇気そのものであり、アドラーはこれを「不完全である勇気」「失敗する勇気」と呼ぶ。課題に取り組まないよりはるかに望ましいわけである。
 さらに、もしも子どもが評価されること、失敗することを怖れないのであれば、今日、当たり前のことだと思われる競争からも自由になることができる。

対等であること

 九十三歳のジャーナリスト、むのたけじと話をした中学生がこんなことをいっている(3)。
 「私は生まれてからずっと、大人に会うと上の立場から、下に見られていました。家では親から子どもだと見られ、学校では先生から生徒だと見られ、近所でも子どもだと見られていました。それがむのさんのところに行ったら、私を一人の人間として対等に扱ってくれたので、夢中でしゃべることができました。生まれて初めて子ども扱いされずに、人間扱いされました」
 他方、むのは、これまで想像しなかった若者が出てきたことを知り、このことを知ってから死ぬのと、知らずに死ぬとでは大違いだ、と今の若者が、門地、門閥、家柄、見識、権威にとらわれず、人間としてぶつかってくることに驚いている。このような子どもたちに、叱ったり、ほめたりする従前の教育は必要ではない。何かについておかしいと思った時は、疑問を率直にいえる。大人が空気を読めというようなことをいって異論を持たないように圧力をかけても、それをものともしない。

勇気づけの問題

 今一度確認すると、勇気づけは、子どもたちが自分の人生の課題を解決する能力があるという自信を持てるよう援助をすることである。子ども自身が自分の判断で自分自身の人生の課題に取り組む援助をするのであり、大人は子どもの課題を肩代わりすることもできなければ、子どもを子どもの意志とは何かの別の目標へ向かわせることもできない。本稿では、慣例に従って「勇気づける」とか「勇気づけられる」という言葉を使ってきたけれども、大人の子どもへの働きかけは断じて操作や支配であってはならない。言葉の本当の意味での自立を支援することは、大人の側に忍耐が要求される。何か問題があった時に、子どもを一喝すれば、子どもは問題行動を止めるだろう。しかし、勇気づけは、手間暇がかかるのである。
 勇気づけということを学ぶと、われわれがどうすれば子どもを勇気づけられるか考え、試行錯誤的に子どもに声をかけるという日が始まる。そして、ある日、気がつくのだ。私が子どもを勇気づけているのではないのだ、むしろ、日々の生活においてどれほど子どもに勇気づけられているのだ、と。

【文献】
(1)Stone, Mark and Drescher, Karen, eds. Adler Speaks: The Lectures of Alfred Adler, iUiverse, Inc,, 2004.
(2)ibid.
(3)むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波書店、二〇〇八年
(『児童心理』2008年12月号臨時増刊、金子書房)

| | コメント (0)

2008年12月14日 (日)

ずっといます

don't disturb me ...

 朝、父と散歩していた時に撮った写真。船はまだ霧が少し残る川を静かに下っていく。瞑想に耽っているように見えた青鷺は船頭さんが竿で川面を叩く音に驚いて飛び去っていった。
 土曜は昼からヴァイツゼッカーの研究があり、大学をのぞけば久しぶりの遠出。午前中は父と一緒にいた。今日も訪問看護。看護師さんから毎回多くのことを学ぶ。指摘されて気がついたが、歩くよりも、椅子から立ったり座ったりすること、また衣服の着脱などの後の息切れがひどい。心臓はよくなった兆候が見られない。2日から新しい薬を服用しているが、今のところがあまり効いている様子はない。
 看護師さんが「近くに息子さんが住んでられてよかったですね」といわれたことに父は「息子はずっといます」と答えてくれる。
 ひどく疲れてしまって、ここまで書いて昨夜は寝てしまった。今朝も早くから父のところへ急ぐ。僕の方はよくなってきたので毎日父のところへ行くことはできるようになったが、外での仕事が病後、手術後のようにできなくなってしまい、時折ある外での仕事は僕が不在にすることに伴う父への危険を考えるとあまりに負担が大きい。訪問介護、看護などのサービス利用が軌道に乗ればいいのだが、父に無理を強いるわけにいかない。

| | コメント (4)

2008年12月12日 (金)

冬の日射し

beauty catches the eye ...

 朝、行くと風呂に入っていた。昨日の約束と違うというと、忘れてた、と笑う。「よく寝られた。起きたら8時だったので」。11時にこられた看護師さんには「一人で〔風呂に〕入った、と息子に叱られましてね」と笑う。たしかに昨日よりは調子よく見えた。僕は叱ったりはしていないのだが。注意はする。「ごめん」と父は小さな声で謝る。
 過日、沢木耕太郎の『無名』を読んだ感想を書いたが、その中で印象に残っている箇所がある。ある日沢木が病院で一人で父親の看病をしていた。沢木は父と二人で映画を見たことを思い出した。その映画の前に上映されたニュースで、二人のボクサーがリングの上で追いかけっこをして場面を思い出した。あれはおかしなシーンだった。そう思って笑い出しそうになった時、眠っていると思っていた父親が不意にいった。
 「あれは面白かったなあ」
 寝ぼけているのかと思って聞き返した。
 「えっ?」
 「ほら」
 「何?」
 「グルグル逃げまわって……」
 二人は同じことを考えていたのだ。
 父と昼間いると、こんなことが起こってもそんなに不思議ではないと思ってみたりもする。
 暖かな冬の日射しの中で父が居眠りをしているのを見ていると、いつまでもこの平穏な幸福が続きますように、と思う。

| | コメント (5)

2008年12月11日 (木)

必ず支えになる

 10日水曜日は父が始めてデイサービスに行った。8時に迎えのバスがくることになっているので、常より少し早く行くと既に朝食を済ませていた。いつもの運動靴ではなく革靴を履く。足が腫れ、もう長く革靴を履けなかったが、利尿剤の効いたのかきれいに腫れが引いた。
 僕は父を送った後、大学へ行く。先月来大学に行っている間父を一人にすることが不安でならなかったが、安心して過ごすことができた。ところが帰ってすぐにその足で父の家に行くと、父はめずらしくひどく感情的に開口一番「今日は疲れた。あんなんかなん。みんな待ってるだけで、退屈だった」という。はその件でスタッフと何度も電話で話す。
 訪問看護にこられた看護さんの前ではデイサービスのことについてたずねられた時に、わりあい穏やかに話した。
 「何かをするということをはっきりいってもらったいいのに何もいってもらえないので退屈。もったいない。こっちも何をしたいといえない」
 今日は風呂から上がってきた時、
 「しんどかった。これから人がいる時に風呂に入るようにする。何かあったら声をかけられるように」
という。散歩も一人で行かないようにしてほしいと頼んだ。心臓の具合はよくないようだ。その後、昼食時、嘔吐。今週は毎日のように訪問看護にきてもらっているが、今日のような日は心強い。
 父はこの頃は僕が持って行く新聞(一日遅れの新聞)にもあまり目を通していないように見える。夕食時、少し新聞に書いてある話をしてみた。ソニーの大規模リストラ計画について話をすると、父は「不況ということを理由にしているに過ぎない」という。最近は昔のことをいろいろとたずね話していたが、こんな話もしてみようと思った。
 今日は用事があれこれあって、原稿はあまり書き進めなかった。『痴呆を生きるということ』(小澤勲、岩波新書)を読む。認知症について教えられた。この病気が介護者の対応によってずいぶんと変わるのはわかる。叱責されるとそのこと自体は忘れているように見えても、自分がどんな立場にあるのか、どのように周囲に扱われているかという漠然とした感覚は残るという。反対に、苦労して一緒に旅行しても、帰ってきた直後に旅行に出たことさえ忘れてしまう。それは家族にすればがっかりさせられることである。だが、と著者はいう(彼らは認知症の人を指す)。
 「そのような心遣いは必ず彼らのこころに届き、蓄積され、彼らを支える」(p.32)

| | コメント (2)

2008年12月10日 (水)

すっかり私も

here comes the sun ...

 霧が深い、寒い朝が続いたが、今朝は少し寒さが緩んだ。この写真は8日の朝、洗濯物を干そうとしてベランダに出た時に撮った。日はまたすぐに霧間に隠れた。
 今日は訪問介護。僕はその間用事をすますために出かけたので、あまり話はできなかった。その後、訪問看護。こちらに戻っての二ヶ月目は父にとっては多忙な日が続く。昼間一睡もしなかった。夜、眠れていたらいいのだが。
 夕方、話していたら「すっかり私も病人になってしまった」という。
 「心不全といわれているので気をつけている。胸の痛みなどないか…こういうことは自分でないとわからないから」
 これは心筋梗塞になった僕にはよくわかる。少しの所作で息切れがするというようなことはまわりの者にもわかるが、それ以上のことはわからない。父が心不全による不安を感じているかはわからない。
 そういうわりには、夜中のトイレのこと(暖かい部屋から寒い廊下に出ること)についての看護師さんの注意は聞こうとしない。訪問看護は24時間体制で電話連絡が可能だが、夜は父は一人なので万が一の時のことを考えると夜も気が休まらない。
 水曜は近大姫路大学で講義。10回目になる。父のところで講義ノートを書き終えることができた。レジュメも作ったが、それを教務にメールで送るために一度自宅に戻らなければならなかった。

| | コメント (0)

2008年12月 9日 (火)

無名性の中に

沢木耕太郎『無名』(幻冬舎文庫)

 沢木耕太郎の新刊『旅する力 深夜特急エピソード』(新潮社)を読んでいたら、その中に父親のことが言及されていた。俳人であったことに興味を持った。たまたま妹から時期を同じくして、89歳の時、脳出血で倒れた父の「無名」の人生を語った『無名』のことを知り読み始めたら、ちょうど今毎日父の介護をしていることもあって一気に読んだ。
 「父は何事も成さなかった。世俗的な成功とは無縁だったし、中年を過ぎる頃まで定職というものを持ったことすらなかった。ただ本を読み、酒を吞むだけの一生だったと言えないこともない。無名の人の無名の人生。だが、その無名性の中にどれほど確かなものがあったろう……」(p.59)
 58歳の時近所の人に勧められ俳句を始めたが、65歳でふつりと詠むのを止めた。ところが近年再開し、雑誌に掲載されていることを知る。沢木は父親が詠んだ俳句を本にまとめるべく、自分の知らない父の人生が語られている俳句を集め読むことを通じて父親の人生の軌跡を辿ることになる。
 沢木は、病床の父親のそばにいた時、自分がひどく疲れていることに気づいたと書いている。何もしないでただベッドの脇で椅子にすわっているだけなのに、原稿書きなどで徹夜した時よりも遙かに疲れるという。「深くて重い、鈍痛のような疲労」(p.50)。それはただ待つということからくる疲労感であり、何を待つのかわからず、ただ待つことができないことからくる疲労感である。
 沢木は、朝がくるのを、時が過ぎていくことをただ待つといっているが、ただ時を待っているのではなかったのを知っていたかもしれない。
 「私の思いは複雑だった」(p.125)
 父はこのままただ死を待つことになるのか。なんとか生かしたい。しかし人には死すべき時というのがあるだろう。「漠たるものではあったが」今が父の死すべき時なのではないかという思いがあった。そう思ったのは沢木なのである。
 沢木の父親との関係を読むと、僕自身の父との関係と重ねてしまう。沢木は父親に向かって激しい言葉をぶつけた記憶はなく、ただの一度の反抗をしたことがなかっただろう、という(p.218)。この点は僕とよく似ているが、沢木が幼い頃から父を守らなくてはならない人と感じていたといっているのは驚きであり、そんなふうに思ったことは一度もなかった。
 北杜夫が父親の斎藤茂吉についてこんなふうにいっていることを思い出した。
 「子供の頃ひたすら怕(こわ)く煙たい存在だった父は、だしぬけに尊敬する別個の歌人に変貌したのである。私は打って変わって父を尊敬するようになり、高校時代それを模した稚拙な歌を歌ったものだ」(『青年茂吉』)
 次第に茂吉にさす老いの影を北は見逃さない。茂吉は散歩の折りはいつも手帳を持ち歩いた。そこに短歌を書きつけるのである。北はその手帳をこっそりと盗み読み、父がまだ旺盛な創作欲があることを知って安堵したり、逆に拙い歌を見つけては父の衰えに失望する。
 父の手帳を盗み読む北と、句集を編もうとする沢木の姿はダブるのだが、僕には北が茂吉に抱いたような尊敬の念も父に持ってきたとは思わない。
 沢木の本を読んで、父の人生について僕は何も知らないことに思い当たる。父が「自分史」の中にこんなことを書いているのを読み驚いた。
 「振り返れば、輝かしい時代、いつもそばには家族がいた。今は、家族はなく、子どもたちも独立して幸せに暮らしている。ふと気がつく、愛犬「チロ」がいつもそばにいる。遠き家族の写真を振り返って、それぞれが自分の生を力強く生きた時代を偲び、歴史を思う」
 とりわけ「それぞれが自分の性を力強く生きた」という言葉。そんな時代のことを知りたくて、父との生涯二度目の二人暮らしの中で折に触れて父のこれまでのことをたずねている。

| | コメント (0)

輝かしい時代

glowing tree ...

 写真は6日に近くの池で。今年は紅葉は見られないと思っていたが、傾く日の光に照らされ紅葉が燃え上がっていた。
 寒い日が続く。朝、父の家は寒くて暖房が効かない。身体が冷たい、と食後、布団に入る。霧が晴れるとようやく少し部屋が暖まってきた。父が寝ている間に少しでも寝ようと思って毛布をかけて横になって少しうとうとしたとたんにケアマネージャーさんからこれからケアプランを作成したので持って行きたいと電話があった。
 昼から訪問看護。目下、緊急で不規則にきてもらっているが、落ち着けば週一回になる。看護師さんたちの父への対応からは学ぶことが多い。父と二人で過ごしている時と違って、看護師さんらがこられると話ができ、時の歩みが速く感じられる。
 火曜は訪問看護と介護。水曜日はデイサービス。必要なのは気力だという父が新しい生活を好んでくれたらいいのだが。
 父が3年前に作った「自分史」を見つける。どこにあったんだ、と今日は何度も見ていた。その中に父はこんなことを書いている。
 「振り返れば、輝かしい時代、いつもそばには家族がいた。今は、家族はなく、子どもたちも独立して幸せに暮らしている。ふと気がつく、愛犬「チロ」がいつもそばにいる。遠き家族の写真を振り返って、それぞれが自分の生を力強く生きた時代を偲び、歴史を思う」

| | コメント (0)

2008年12月 7日 (日)

父の戦争

 朝行くと、一度起きたが、しんどくてまた寝ていた、という。今朝はずいぶん冷え込んで心配だった。父の部屋にいた父の愛犬が僕の姿を見て、逃げ出していった。何とか起き上がってパンを食べ、服薬。
 戦争の時の話を父から聞く。
 父は1927年生まれ、80歳である。16歳の時、海軍の予科練に志願した。三重や奈良で訓練を受けていたが、すぐに日本は戦争に負けた。
 「だから私には戦争体験はないが、軍隊体験はあるということだ」
とその頃のことを話してくれた。
 「ある日、p-51(ムスタング)による機銃掃射を受けた。10メートルくらいしか離れてなかった。 実際にはもっと離れていたかもしれないが、その時、死というものが恐ろしい、とつくづく思った。志願した時は軍隊に入ることは名誉なことで、死ぬということは考えなかった。国のためとも考えなかった。どうせ20歳になり、いずれ〔戦争に〕行かないといけないのなら早く行っとけばいい、みんなが入ってくるまでに少しでも上になってやろう、と思った。そんな単純な気持ちだった。でもその時の機銃掃射は怖いと思った。
 戦争が終わった時は、もう戦争に行かなくてよいので嬉しかった。原爆のことは知らなかった。それまで厳しい訓練に耐えてたが、命長らえられたとつくづく思った」
 結局、父は訓練を受けただけで帰ってきた。
 「軍隊では、人負けてはだめだということをたき込まれた。例えば、よく走らされたが、遅いともう一週走らされた。だから娑婆に戻ってきた時、何でもできると思った」
 「8月25日ぐらいに帰ってきた。その時は予科練の制服を着ていた。それを見て近所の人は予科練だといったが、もちろん戦争が終わっていたので、何とも思わなかった。親戚の人らがいて変だと思ったら、前の日に父が亡くなっていて、葬式の準備の最中だった。父は戦争が終わったから私が帰ってくるのを知っていた。私がいつ帰ってくるかと待っていたそうだ。栄養失調だった。母は肺浸潤で12月に亡くなった。二人ともまだ60代だった」
 何度も聞いた話もあるが、細部については今回初めて聞いたこともある。その頃のことのイメージを思い浮かべているような表情をして話してくれた。この後、戦後の話もしてくれた。
 「アルバムがあったかもしれない」と立ち上がった父はそのままトイレに行き、話は終わり、新聞を読み始めた。
 このような体験をした父はまだ10代だった。近年は、戦争を知らない政治家の発言によく怒っていた。その頃の気迫を取り戻してくれたら、と思う。
 話を聞こうと思ったのは妹に教えてもらった沢木耕太郎の『無名』(幻冬舎文庫)を読み始めたからだと思う。父のことをほとんど何もしらないことに改めて思い当たったのである。

| | コメント (2)

2008年12月 6日 (土)

間に合った

in time for the autumnal beauty ...

 寒い日になった。今年は紅葉を見ることができず、もうこんなに寒くてはだめかと思っていたら、実際、葉はたくさん落ちていたが、きれいな紅葉を見ることができた。

| | コメント (2)

美しい時間

 加藤周一が亡くなった。父が持っていたわずかな本の中に加藤の『読書術』があった(後に、岩波現代文庫として刊行)。何度も繰り返し読んだ。
 高校時代に繰り返し読んだのは『羊の歌』(岩波新書)だった。医学部の学生でありながら文学部の講義を聴いていたという加藤の回想を読み、学問に憧れた。
 僕が書いた本の中でも加藤周一の著書から多く引用している。
 以下、折に触れて書いたものから。

 加藤周一は、南方の島で戦死した友人についてこんなふうに書いている。
 「一人の友人にくらべれば、太平洋の島の全部に何の価値があるだろうか。私は油の浮いた南の海を見た。彼の目が最後に見たでもあろう青い空と太陽を想像した。彼は最後に妹の顔を想いうかべたかもしれないし、母親の顔を想いうかべたのかもしれない。愛したかもしれない女、やりとげたばかりかもしれない仕事、読んだかもしれない詩句、聞いたかもしれない音楽……彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、「だまされて」死を択んだのでさえもない。遂に彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである」(『羊の歌』p.198)

 加藤周一の次の指摘は頷ける。戦争中の私的な会話においてでさえ、戦争に賛成していた人びとの背後には、権力があり、いいたいことを自由にいって周囲を憚る必要がなかったのに対して、戦争に反対する議論は、権力を憚り、多くの禁句を避け、自説を擁護するのに、根拠の半分しか指摘できなかった(『続・羊の歌』p.214)。今は言論の自由が当時に比べればあるはずなのに、権力を傘に暴言を吐く人は多いように思う。

 渡辺一夫の『敗戦日記』の続き。今は日記を読み終え、串田孫一宛の書簡を読んでいる。
 「拝誦、田舎で洋書を開いたり、横文字を書いたりするのがキザ……とはいかにも君らしい感慨だと笑ってしまひましたが、これは重大なことなのです、キザだとて思つてよしたら、君は日本人の一番悪いところに負けるのです」(1945年5月22日)
 電車の中で洋書を読んでいたら憲兵に文句をいわれ、これはドイツ語です、といったら殴られたのは加藤周一ではなかったか。

 加藤周一の『小さな花』(かもがわ出版)。人は誰も「美しい時間」をもっている。加藤の経験はこうだ。

 「細い径の両側に薄の穂がのびて、秋草が咲いていた。雑木林の上に空が拡がり、青い空の奥に小さな雲が動く。風はなく、どこからも音は聞えて来ない。信州の追い分けの村の外れで、高い秋と秋草の径は、そのとき私に限りなく美しく見えた。たとえ私の生涯にそれ以外の何もないとしても、この美しい時間のあるかぎり、ただそのためにだけでも生きてゆきたい…」(「美しい時間」p.9)

 このような「美しい時間」は計画して手に入れることはできない。人生設計には役立たない。しかし何のために人生設計をするのだろうか。加藤はいう。

 「何のために働き、苦労をし、時々気ばらしをしながらでも、生きてゆくのか。美しい時間が人生にどう役立つかではなく、それが私の人生にどんな意味をあたえるかということだけが、根本的な問題であるように私には思われる」(p.11)

 美しい時間は誰でも持つことができる。

 「その人にとっての一つの小さな花の価値は、地上のどんなものとも比較しても測り知ることができない。したがってそういう時間をもつ可能性を破壊すること、殊にそれを物理的に破壊すること、たとえば死刑や戦争に、私は戦争に賛成しないのである」(ibid.)

 どんな花が世界中で一番美しいだろうか。

 「一九六〇年代の後半に、アメリカのヴィエトナム征伐に抗議してワシントンへ集まった「ヒッピーズ」が、武装した並列の一列と相対して、地面に座り込んだとき、そのなかの一人の若い女が、片手を伸ばし、眼のまえの無表情な兵士に向かって差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかっただろう。その花は、サン・テックスSaint-Exの星の王子が愛した小さな薔薇である。また聖書にソロモンの栄華の極みにも匹敵したという野の百合である」(pp.36-7)

 一方で史上空前の武力、他方に、無力な女性。一方に、アメリカ帝国の組織と合理的な計算、他方には無名の個人とその感情の自発性。権力対市民(国民ではないだろう)。自動小銃対小さな花。

 一方を他方を踏みにじることはできない。人は小さな花を愛することはできても、帝国を愛することはできない。「花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである」(p.37)。権力の側につくか、小さな花の側につくのか。選択を迫られることが人生においてはある。ピーター・フォークが日本国の天皇から招待された時のことを加藤は伝えている。その晩は先約がある、と断ったのである。

 「私は先約の相手に、友人か恋人は、一人のアメリカ市民を想像する。もしその想像が正しければ、彼は一国の権力機構の象徴よりも、彼の小さな花を選んだのである」(p.38)

 権力に対して人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、常に限りなく美しく感じるのである、という加藤に同感する。

| | コメント (2)

息子には息子の

the quiet of nature ...

 昨日は疲労困憊。朝、父のところに寄った後、すぐに第一日赤受診。自分が病気であることを思い出す。昼からデイサービス、訪問介護、訪問看護の管理者、ケアマネージャ来訪。それぞれのサービスについての詳細な説明を受ける。契約書には同席していた父が署名をし、捺印する。来週からデイサービス、訪問介護、訪問看護が始まる。父がこちらにきて二ヶ月目。新しいステージに入る。
 父は説明を聞いている間に疲れたのだろう、隣の部屋に寝に行った。音がしたので、看護師さんらが様子を見に行かれた。その時、父はふいに犬の散歩をしていないことを思い出した。犬の散歩は今の父の生き甲斐の一つだが、常に転倒の危険、交通事故の危険があるので心配の種であることを話していたので、「犬の散歩は息子さんにお任せになったらどうですか」といったら、父は「息子には息子の家族がある」と父が答えた、と驚かれた。

| | コメント (4)

2008年12月 5日 (金)

介護認定

 父は要介護1ということになった。担当ケアマネージャーが決まり、どんなサービスを受けるかケアプラン作成に動き出した。父がこちらに帰ってきて二ヶ月目。新しいステージに入ったといえる。
 昨日、介護認定についての知らせを大学からの帰り、新幹線の車内で受けたが、木曜は在宅しているといったところ早速ケアプラン作成に打ち合わせにケアマネージャと会うことになった。最初はデイサービス、訪問、訪問看護と週1度から始め、様子を見ていくことになった。当然、父の意向が最優先なので父の希望などをたずねた。始まらないと何もわからないのは本当である。デイサービスなどについてケアマネージャーがたずねると父はこんなふうに答えた。
 「週に一度だけ行っていたのです(注:これはデイサービスではなかった。同年輩の人の集まり)。でも私は耳が不自由ですから、それに、もともと人と関わるのが苦手ですので、人と話さなくなりました。それに女の人が多く、男性はもう一人いましたが、その人は農業をしているおとなしい人で、その人と私は話があいませんでした」
 こんなこともいった。
「そういうサービスのお金、費用はどうなるのですか」
 この発言に僕は驚いた。こういう話はこちらにきて一度も出なかったからである。例えば、病院に行った時なども支払いのことは一度もたずねなかった。僕はそれは大丈夫だから心配しなくていい、といってしまったが、介護を受けるのは(恩恵ではなくて)権利で、そのために介護保険を払ってきたのだというべきだった。
 父の意向を最優先で繁栄したケアプランができればと思う。
 普段は父とひっそりと暮らしているが(母が亡くなった後父と二人で暮らしていた頃の感覚が蘇ってきている。今は毎日僕が通っているわけだが)、人がくるということになるとその日の朝から気合いが入っている。「おしゃれですねえ」といわれると、嬉しそうに笑う父を見て、今の状況は厳しいけれど、心和むひとときが過ごせ、そのせいか、常よりも速く時が経ったような気がした。
 夕食を作って娘と食べた後、疲れてしまって(大学に出講した次の日はひどく疲れるのだが、この頃は疲れをそのまま引きずってしまう)少し寝てしまった。その後、明日の夕食(父の分も含めて)の買い物に行った。夜の方が気分的には安心して買い物ができ、次の日の夕方に時間的な余裕ができる。

| | コメント (2)

2008年12月 4日 (木)

個別の肌触り

autumnal reflection ...

 今日は近大姫路大学で講義。その講義で紹介したのだが、柳田邦男氏は、以前は3人称的視点で脳死を人の死と認めてもいいのでは、と考えていたが、自死をはかった息子さんが、意識が戻らず11日の脳死状態の後亡くなった時、こんなふうに考えた。
 「でも、11日間、私が語りかけ、息子も何かを語りかけてくる目前の「脳死」は、まったく違う。存在感の大きさに圧倒されました。その時、命や死は、個別の肌ざわりのある「人称性」を持つ、と確信しました。それが、被害者本人やその家族の「心」を大切にする「2・5人称」の視点につながるのです」(「聞く」6,息子の死で知ったこと、朝日新聞、2008年12月1日朝刊)
 介護について何も知らなかったが父のことがあって関連の本を読み出している。議論のための議論しても意味はない。目下大学で講じている生命倫理学で扱われるテーマは柳田のいう「2・5人称」の視点でしか考えられない。切実でありながら、冷静さを失わないというのは難しい。
 朝、父のところに行ってから出かけた。夕方まで父を一人にするのは不安でならない。何度も携帯電話に連絡が入ってないか確かめた。もっとも何かが仮にあってもすぐに帰るわけにはいかないのだが。買い物をしてから夕方寄ったらいつもより遅い時間の食事になった。父は暖房の効いた暖かい部屋で待ってくれていた。
 明日(木曜)はずっと父のところにいられるように、夜、スーパーに寄って父と家の夕食の買い物をした。二世帯分の夕食を考えるのは難しい。しかし夜のうちに買い物をするというのはいい考えだと思った。
 写真は青鷺。紅葉した山の色が川に映えるのが不思議。山と川はかなり離れているはずなのに。

| | コメント (4)

2008年12月 3日 (水)

眠い

kotoshi saigo no ...the last butterfly ?

 写真は1日に撮った。暖かい日で蝶が飛んでいた。
 父と病院へ。循環器科と皮膚科を受診したが、後者は予約ではないこともあって、13番だったのに長い時間待つことになった。予約している人や入院している人の
診察が間に入るのだろう。
 心臓弁膜症は手術しかない(だからしないという意味だが)という話は驚く。弁膜の異常については初めて聞いたからである。聴診器をあて、血液の逆流はましになっているといわれたが、医師の方が把握していることを患者サイドでは断片的にしか聞かされていないように思った。
 父の認知症については気がかりだが、少し歩いては息切れがする様子を見ているので、心不全、腎不全についてはもっと心配である。
 診察が終わってから病院内のレストランでこちらに戻ってきて初めて外食ができたことが嬉しかったようだ。常は僕と二人で過ごしているので、疲れただろうが刺激があってよかったと思う。暖かかったので、散歩の時、あそこにすわろう、と父がいう。長く日なたぼっこをしながら父と話をした。
 今日は講義。父と過ごすのはいいが、仕事をその分減らせるわけもなく、睡眠を削ることになるのが問題。

| | コメント (3)

2008年12月 2日 (火)

どこへでも行ける

aurified world under the rainbow ...

 虹が出ていた時世界は光り輝いた。
 今日は父と泌尿器科の医院に行く。タクシーを呼ぼうかといったら歩くという。僕の足なら10分くらいで行けるが、途中休み休み片道40分かかった。それでも、二週間前と比べたら足取りは(比較的)軽かった。父はいう。「私一人だったら、どこにも出かけないでずっと寝ているかもしれない」と。腎不全だといわれた。心不全でもあるから、状況は厳しい。歩くのは大変だったようで帰ってから「こんなことではどこにも行けない」という。駅まで歩けたら、どこへでも行けるのだが。それに僕は車の運転ができないわけではない。もっとも父が乗ってくれるかわからないが。父は私は(今も)車に乗れる、といって譲らないので、僕が運転するくらいなら自分で運転するというかもしれない。
 明日は循環器科と皮膚科を受診する。遠いのでタクシーを呼ぶつもり。
 昼食後、父は僕が勧めた本を読んでいたが、本の中に入り込めない、という。一体、どんな本なら読めるのだろう。

| | コメント (12)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »