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2008年11月 4日 (火)

子どもが”こころ”を開くとき

子どもが”こころ”を開くとき
別冊PHP1999年11月号
岸見一郎

 いつもわが子と心を通じあっていたいと思っている方は多いと思いますが、接し方によってはこの願いとはほど遠いことになることがあります。子どもが心を開くか、あるいは、閉じるかはひとえに親子の関係の中で子どもが決めることである、と私は考えています。ここでは、子どもはどんなときに心を開くのかを具体的な例で考えていきたいと思います。

◆子どもが決める
 何でも話をしてくれる子どもがいい子である、あるいは、子どものことを何でも知っている親がいい親である、と思っていませんか?
 確かに子どものことを知っていることは大切なことですが、ときにこのように思うことがかえって子どもが心を閉ざすという結果を招いているということがあります。
 そもそも、子どもの心を「開かせる」と考えることに無理があると思います。子どもは親に対して心を開こうと思うかもしれませんし、思わないかもしれません。子どもに心を開いてほしいのであれば、そうお願いするしかありません。子どもが嫌だといえば引き下がるしかないでしょう。子どもは関係がよくなければ心を開かないでしょうが、よい関係だからといってどんなことでも話してくれるかというと、必ずしもそうではありません。

◆「何かできることない?」
 息子が小学校の低学年だった頃、ある日、学校のことをたずねようとしたことがあります。すると彼は、きっぱりとこういいました。
 「何でもかんでも、お父さんに話さなければならない義務はないと思う」
 何もいい返す言葉がなかったことはいうまでもありません。親だからといって、いわば子どもの心に土足で踏み込むようなことをするのは許されないのです。
 私の友人が、ある日、中学生の娘さんが学校からひどく落ち込んだ様子で帰ってきたときのことを話してくれました。すぐに「どうしたの?」と声をかけようとしたのですが、私の助言を思い出して、そのときは「お母さんに何かできることない?」とたずねました。するとその娘さんは答えました。
 「うん、ある……ほっといて!」
 友人は、自分には何もすることがないことに大いに落胆しましたが、次の日、娘さんが晴れ晴れとした表情で帰ってきて、「昨日は友達と喧嘩をして落ち込んだけど、今日は仲直りできた」というのを聞き、「親としては何もできなかったけど、子どもが自分で問題を解決するのを見てうれしかった」と話してくれました。

◆子どもを信頼する
 以前放映していたNHKの連続テレビ小説『あぐり』の中で、淳之介が中学受験に失敗したとき、父親のエイスケは「そう」としかいわないので息子のほうが困惑する場面がありました。「パパなんだから、どうして、とか、ばかだな、とか残念だったな、とか、気にするな、とかそういうことはいえないの?」と問うと、エイスケが、「いやあ、何もいうことはないよ、お前の人生だからなあ。俺にはよくわかんないよ、それじゃいえないのか」
 と答える場面です。エイスケはこのように答えた後、
 「それよりも、どうだい、すごいだろ。これがナイアガラの滝だ」
 といって、旅先で撮ってきた写真のスライドを見せます。このやりとりから二つのことを学ぶことができます。
 まず、勉強は子どもが自分の責任でやり遂げるしかなく、子どもが自らの力でやり遂げなければならないこと、あるいは、やり遂げられることを親が肩代わりしてはいけないということです。そのようなことに手出し、口出しをすることは、子どもを信頼していないことを子どもに伝えていることになります。

◆子どもに協力する
 もちろん人は何もかも自力でできるわけではありませんから、以上のことを踏まえた上で、親が協力することが必要であることは当然あります。しかしそのためには、必ず手続きを踏まなければなりません。
 息子と私がダイニングで、彼は勉強、私は仕事をしていました。ふと息子がこういいました。
 「お父さん、僕はお父さんが頑張れといってくれたらやる気になるので、ときどき頑張れっていってくれない?」
 と。そこで私はときどき息子に頑張れ、と声をかけることにしました。子どもの依頼を引き受けるのが嫌ではありませんでしたし、難しいことでもなかったからです。
 親が子どもの勉強の様子を見ていて、声をかけるということはあります。「最近のあなたの様子を見ているとあまり勉強をしていないようだけど、そのことで話をしたいのだけどいい?」というふうに。それに対して子どもが放っておいてほしい、といえば、それ以上介入することはできません。

◆関係をよくするために
 淳之介とエイスケノの会話のもう一つのポイントは、子どもと遊べているということです。父親は、一緒にスライドを見ようと誘っています。
 子どもと勉強の話をやめたら、親子の会話が一切なくなったという人がいました。勉強は、子どもが責任を取ることであって、親が取ることはできないということを学んだからでした。そこで子どもには勉強の話をしないことにしたのです。勉強のことを話して、子どもが機嫌良くなることはあまりないでしょう。「宿題はもうしたの」とか、「ちゃんと勉強しなさい」と声をかけることをやめ、子どもと遊ぶこと、楽しい時間を過ごすことを考えてみます。その遊びの内容は、親子によって違うでしょう。友人の一人はとっくみあいをして体を動かして子どもと遊ぶ、といっていました。私は息子にコンピュータの操作を教えてもらったり、小学生の娘とファストフードの店でフライドポテトを食べたりします。
 こんなふうにすることで子どもが何でも話してくれるようになるかといえば、それはわからないとしかいえません。しかし、これくらいの距離を置きながら、必要があれば友人として援助しようと決心していれば、心を開いてくれるときは開いてくれるでしょう。いずれにしても、親が決めることではないのです。

【追記 2008年11月4日 上述の記事は、親が子どもに援助ができるために何ができるかということを書いたものです。勉強は子どもの課題だというふうに書くと、子どものことは放っておいていいのだ、と誤解する人が後を絶たず困ります。例えば勉強は、「仲間に対する義務を免れることはできない」というアドラーにとっては、どうでもいいことではありません。人は「全体の一部」として他者から受けるだけでなく与えなければなりません。勉強はそのためにも必要なことです。勉強「だけ」が必要ではないかもしれませんが。課題の分離は協力の前提です。協力しようにも誰の課題かわからなくなってしまっていては協力ができませんから、もつれた糸をほぐすようにこれは親の課題、これは子どもの課題を分けていくのです。そうすると上にも書いたように実は親の課題はあまりないことに気づくことになるでしょうし、親のために勉強させるわけではないこともわかるでしょう。こんなことを思い出しました。ある保育士さんから聞いたのです。あるお母さんは参観日に子どもの様子を見に来てください、といっても、たしかにこられるのですが、教室で本を読まれるのだ、と。こんなことを勧めているわけではありません。子どもが自力で勉強してくれるのがベストです。さもなければ困った時に相談してもらえるような親子関係を作りたいのです。上に「それ以上介入することはできません」と書きましたが、さらに続けると「今の現状はあなたが思っているほど楽観できるものではないけど、いつでも相談にのるからいってくださいね」というようなことになります。介入はできませんが、協力はできます。協力も時に必要な重要な人生の課題はたしかにあります。課題の肩代わりはできないとしてもです】

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コメント

保育士さんのお話に出てくる母親のことですが、参観日にやってきても、子供の様子には無関心で、自分で持ってきた本を黙読しているということですか?
それとも頼まれもしないのに、子どもに代わって絵本か何かを教室で朗読するということですか?

投稿: ひで | 2008年11月 5日 (水) 16時29分

 前者です。今、一番必要なことは何か、を考えたら、本を読んでいる場合ではないことはわかると思うのですが、こんなケースがあることを知って驚きました。このケース自体を問題にしたというよりは、これとよく似たことが育児の場でありうることを伝えようと思いました。

投稿: 岸見一郎 | 2008年11月 5日 (水) 19時22分

耳が痛いお話です。
息子は心を開かない…というか,嫌だったことをあまり言わないのです。
我慢強いのか,私の心配しすぎなのか分かりませんが。
聞き方を変えたり時間をずらしたりすると話してくれるのですが,
無理に聞き出しちゃいけないと思いながらも聞いてしまう…
反省します。

公園や道端で子どもを遊ばせながらするお母さん方の立ち話が,
保育士さんのお話に近い例かなって思います。
自分の子どもなら動き方も大体分かるので目で追いつつ…
が出来るのですが,よその子となると…(^^;
「あっ,いない!」と言われ探し回ったりが結構あります。

投稿: セロ | 2008年11月 7日 (金) 00時54分

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