« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月の記事

2008年11月30日 (日)

奇跡が起こらなくても

healing flower ...

 今日は昼から代わってもらえたので、3時頃自宅に帰った。本当はその間にしようと思っていたことがあったのだが、帰って横になったらあっという間もなく深い眠りについてしまった。執拗に鳴り響く電話にも申し訳ないが出ず、それでもアラームの音で少し目が覚めた後、新聞代を集金にきた人があって起きることができた。眠りによってというのもどうかと思うが少し英気を養うことができた。
 父と一緒にいると、小川洋子『博士の愛した数式』やソン・イェジンが出ている『頭の中の消しゴム』のことを思い出す。どちらも記憶の喪失が扱われている。後者の映画では何の奇跡も起こらない。かといって救いがないわけではない。
 朝行くと父は既に食事を済ませていた。パンを一枚焼いて食べるだけなのだが、前日冷蔵庫に一枚しか残ってなかったので、もしも夜中に空腹で食べていたら朝のパンがないはずだと思って急いでいったが、夜は食べなかったことがわかった。その後、風呂から上がってきた父は僕を見て「おはよう」と機嫌良く声をかけてくれる。数時間前から僕がきていること、きた時に当然挨拶したことは忘れてしまっているようだった。しかし、『博士の愛した数式』に出てくる数学者も一日で記憶がリセットされ、それはたしかに生活に支障をきたすけれども、そのような時でも私という意識は継続している。
 その意味で昔と父は少しも変わらない。変わったとすれば、些細なことでいえば食事をゆっくりとるようになったこと。昔のことはよく覚えている。父がゆっくり食事をするようになったことを指摘すると、「昔は食べるのが速すぎるといわれた」という。母がいつもいっていた。「で、どう答えていたか覚えてる?」「いや」「戦争中は速く食べないといけなかったからその時の癖で…」「ああ、そんなことをいってたと思う」「そして、次の〔母の〕言葉はいつも決まっていた。戦争が終わって何年も経つというのに」そしてもっと大きな変化は食事の終わりに「おいしかった。ありがとう」と必ずいうこと。もう四半世紀も前に母が亡くなって父と二人暮らしになった時、最初は外食ばかりしていたが、「誰かがつくらなあかん」という父の言葉を受けて、料理を学び始めたのもこの家でのことだった。カレーライスをカレー粉から炒めて作ったら「もう作るなよ」と父がいったという話は本にも書き、講演でもよく話す。このことを覚えているかはわからないが父との共有経験は連綿として少なくとも僕の中では残っている。
 「お前のしているカウンセリングというのを受けたい」といいだしたのはいつのことだったろう。月に一度は京都駅で待ち合わせて食事をし、コーヒーを飲みながら長く話した。父とカウンセリングをしたら、こちらから出向かないといけないし、カウンセリング料をもらうわけにはいかず、食事をした後は支払いもしないといけない。いいのか、という父に、働いているし、といった。その後、僕が病気になって父との「カウンセリング」は途絶えてしまっていた。今はその分を取り戻したい。取り返しがつかないのかもしれないが。

| | コメント (2)

2008年11月29日 (土)

取り返しのつかない旅

in his dream also ...

 ようやく週末。この時間の歩みが遅く感じられる。今日はとうとう朝、父の家に行ったまま夜まで一度も自宅に戻らなかった。父が寝ている間に原稿を書き進んだが。今日は起き上がられないようで、食事の後すぐに横になって寝てしまった。このまま夕食まで起きないのだろうか、と思っていたらようやく3時頃起きていて散歩に行こうというので一安心。
 仕事に使う本がたくさんあるので持って行ってまた持って帰るのが大変なので一部置いて帰るようにしている。翻訳の続きをしようと思ってドイツ語の辞書(電子辞書)を持ち帰るのを忘れていることに気がついた。だから今夜は翻訳は断念した。
 その代わりというわけでもないが、今夜は久しぶりに近くの本屋に行った。新刊が中心で僕の求める本はほとんどないが、本が並んでいるのを見ると心が落ち着いた。自分の身体のことだけを考えていればいいのなら、遠くても出かけられるのだが、父のことが気になって11月になってからは大学に行く以外は自分の用事で遠出しなかった。
 『人生は愉快だ』(池田晶子、毎日新聞社)と『旅する力 深夜特急エピソード』(沢木耕太郎、新潮社)を買う。前者の帯にあるコピーは下手だと思うが(「死んでからも本は出る)、2007年に亡くなった池田がどんなことを亡くなる前に書いたのか読みたくて手に入れた。後者は、沢木の旅に関するエッセイを集めた本。本のカバーにある外国文学の研究者の誰にでも一世一代の旅があるという言葉を引いて、沢木はこれを「取り返しのつかない旅」といいかえているのが目に止まった。
 「良くも悪くも取り返しのつかない。それは、もうそのような旅は二度とできな
ということを意味します。私の『深夜特急』の旅も、たぶん「取り返しのつかない旅」だったのです」
 そして僕の人生も、と思った。
 写真は青鷺。近くの川には数羽いて朝と夕方には魚を捕りに現れる。

| | コメント (6)

2008年11月28日 (金)

経験の共有

making an early start ...

 この季節、父の家の近くに乗船場がある保津川下りは休みともなるとたくさんの人がきて賑わう。霧が立ちこめた川を渡って船が乗り場まで向かう。この船に何人乗れるのだろう、と父にいうと、30人だという。泊まっている船を指さし、あそこに書いてあるではないか、と。定員30名と書いてあった。この写真ではそんなにたくさんの人が乗れるようには見えないが。
 父が眠っている間に買い物に行くために自転車で走っていたら山に淡い虹がかかっているのが見えた。その虹に気がついた人がいて、自転車に乗せた幼い子どもに、「ほら見える? 虹」と声をかけても子どもはきょとんとしていた。「虹が出てますね」と声をかけたら微笑まれた。
 銀杏の葉が風に舞う。あの葉はどこから飛んでくるのか、と父がたずねる。昼間、ほとんどの時間、父と僕は同じテーブルに対面してすわっている。僕が仕事をしていると父も自分の部屋でテレビを観たりはせずに新聞を読んだり、さもなければ居眠りしたり、ぼんやり外を見ている。僕も疲れるとよく外を見ている。父の見た銀杏を僕も見たわけである。
 ある時を切り出せばこのように平和で穏やかだが、この一月一番長く父の傍にいた僕にはこの平穏が危うい均衡上のものでしかないこともよく知っている。

| | コメント (4)

2008年11月27日 (木)

逆転可能

panta rhei ...

 今日は父は元気がなく、持って行った新聞に目を通そうともせずぼんやりしていることが多かった。それでも昼から長い時間寝た後は少し元気になった。3時半頃起きてきて、よく寝てたというと、いつもは寝た気がしないというのに、そうはいわなかったから本当に熟睡できたのだろう。少し散歩。昨日、途中で一度転倒したので目が離せない。看護師さんの前では力強く歩いたのに、歩幅が狭く背中が丸くなってしまっている。暖かい日であれば長く歩くのだが、寒いとなかなか外に出ても早く帰ってしまう。
 これも火曜日に見た虹の写真。25日の日記に載せた虹の写真を父に見せた。一緒に虹を見た時のことを覚えてくれていた。少し前のことも思い出せない最近の父が二日前のことを覚えていたのである。物忘れは誰でも多かれ少なかれ経験するが、ずいぶん前から物忘れがひどいことを訴えていた(『アドラーに学ぶ』p.107)。これが器質性のものなのかはわからないが、昨日の講義では父のことを念頭に置きながら、28歳で多発性硬化症に罹患したチェリストのジャクリーヌ・デュ・プレの話をした。ある朝、目覚めたら両腕とも使えることに気づいた。この回復は四日続き、その間に何曲か記念すべき演奏を録音している(『アドラーを読む』pp.144-5)。レインは器質性の損壊はが(元の状態まで回復しないということ)と考えられていることの反証としてこのケースを引いている。
 父に認知症の検査をした医師はさらなる悪化を予言したが、改善に向けて援助したいと考えている。
 父が今暮らしている家は僕が生まれ育った家である。最初の頃は父の家に通勤しているような気がしたが、この頃は少し前に住んでいた時の感覚が蘇ってきたのか居心地がよくなってきた。行ったり来たりすると疲れるということもあるが、今日は長くいてずっと仕事をしていた。父の家からはインターネットに接続できないので、それだけは不自由している。父とずっと話をしているわけではなく、時折言葉を交わすくらいだが、一緒にいるだけでも父が少しでも安心してくれているのならいいのだが。

| | コメント (0)

疲労困憊

come here if you can ...

 今日は近大姫路大学で講義。食後今日の講義をまとめていた。講義は今回から病気をテーマに話す。認知症の話をよくするようになった。昨日、父と虹を見たことを画いたが、例えば、この経験を覚えていないといったとしたら(今日は講義だったので話す時間があまりなかったので確かめてない)、その虹を見るという経験を共有したということは父の人生にどういう意味を持つのかというような話を終わる間際に急いでした。これはひいてはわれわれが生きている間に経験したことは死後どうなるのかという問題にも関わってくる。
 大学に行く前にいつものように父のところに寄る。昼食を用意し、これは昼に食べること、食後、薬を飲むように、というメモをつけておく。父のノートには、今日は大学に行きます。夕方来ます、と書く。これを見たら、思い出してくれるだろう。
 介護認定の申請は14日にしたのでそこから数えて一月としてもまだしばらく時間がかかる。この頃は父の家に行ったり来たりすることに疲れてしまって、長い時間いることが多い。もっともいろいろと用事があって、細切れの時間しか仕事ができない。それでもコンピュータを持っていくので原稿は進んでいる。ただ僕の場合、かなり長い時間、集中しないと書けないので(原稿の種類によるが)あれこれと用事があって仕事が中断すると、また元の状態に戻るまでに時間がかかるか、二度と元に戻れない。そして振り出しに戻る。

 写真は青鷺。近づいたら向こう岸まで飛んでいった。もう近づけないだろうといわんばかりに。写真をその場で父に見せたら、ほお、ときれいに撮れたなあ、と喜んでくれた。
 父が昔写真を撮ったことはここに書いたかもしれないが、父の描いた油絵を初めて見た。前の家から持ってきたが、父にはまだいってない。また画こうという気になればいいのだが。

| | コメント (2)

2008年11月25日 (火)

いつまでも

may this moment forever ...

 介護認定の調査は一時間ほど続いた。最初、調査員の看護師さんが父に質問、後に僕に質問された。認定を受ける必要があって申請しているのだが、傍で父の答えるのを聞き、父の衰えを知るのはつらい。
 問題は気力だ、本を読めたら、と父はいう。今は本を開いても思うように読めないようだ。
 「私は本が好きで、子どもの頃は食べながら本を読んでは親に怒られたものだ」
 「入り込める」本を読みたいというのだが。
 新聞は僕が一日遅れで持って行くのを丹念に読んでいる。前の家では新聞を取っても開きもしなかったというのでこれは進歩だろう。
 父と散歩に出かけたら、大きな虹が架かっていた。「きれいやなあ」といつまでも空を見上げていた。いつまでも父の記憶に残りますように。

| | コメント (4)

介護認定調査

 昼から冷たい雨が降り出した。それなのに父は犬を連れて散歩に出かけるという。寒いからと外に出て行こうとしなければそれはそれで困ったことと思うかもしれないのだが。常よりも長く歩くことになった。
 この頃、日が経つのが遅く感じられる。父のところから帰ってからは疲れてしまってぼんやりしていることがある。介護認定の判定まで一月かかる。それまでは僕が頑張ります、といったものの、まだ遠い未来のような気がする。
 短期記憶の障害などに目を向けがちなのだが、安心することもある。この数日、疲れてしまって父の朝食の時間に遅れて行くことがあったが、朝はトースト一枚だけなので自分で用意して食べ終わっていた。その後かなりの時間が経ってからマーガリンが切れたので買っておいてほしいといったこととか、服薬管理を全部僕がしているのだが、ある時、僕が間違えてしまったことがあった。同じ薬を2錠出してしまったのである。同じのが2錠あった、というので飲んでしまったのかと動揺したが、2錠あったので1錠は飲まなかったことがわかって安堵した。
 大半の時間は同じテーブルで父は新聞を読み、僕は仕事をしているが、時々、昔の話をしたり、(ここまで24日分)
 今朝は雨も止み、いい天気になった。いつもの時間に行くと、ちょうど出かけるところだったようで、しばらく川辺を散歩する。朝食後、介護認定の調査員がこられるのを待つ。この数日、何度も今日のことをいっておいたからか(何しにこられるのだ、と何度も問い返したが)、身だしなみを整えていた。面接は一時間ほど。最初父からの聞き取り。後に、僕からの聞き取り。
 娘の大学への入学金を振り込みに一時帰宅中。金曜日に合格が決まったのだが、間三連休を挟んで水曜日までに振り込まないと入学を取り消すというのはどうかと思うのだが。今は10万円を超えるとATMを使えない。

| | コメント (0)

2008年11月23日 (日)

昔のままの

let me capture you please ...

 毎朝、父の家に行く時に川沿いの土手を通るので、青鷺と遭遇する。今日こそはと思うが、大抵、思いがけないところにいて、鷺にしてみれば、僕の突然の出現に驚いて飛び立つ。毎日のことなので土手にのぼる手前でカメラをスタンバイしているが、それでもシャッターチャンスを逸してしまう。この写真も不意打ちの青鷺。シャッタースピードは1/80。もっと早くしていたら動きを止めた写真になっただろうが、水面への反射と共に、これはこれで水面ぎりぎりのところを高速で飛んでいる様子を捉えられたかもしれない。青鷺との駆け引きは父の家に行く時の楽しみである。
 今日は午前中ずっと父のところにいた。この頃、父のところでずっと原稿を書いている。こちらにきた頃は僕が行っても、朝食を済ますと寒いから、と自分の部屋に入ってテレビを観始めたものだが、僕がいると同じテーブルについて新聞を読んだりしている。そして時々散歩に行こうか、と声をかけてくる。昼に一度帰り、再び行ってからも同じように過ごす。いつものように家で採れた柿をむき始める。ふいに父が僕に声をかけた。「おい、これ柿、食べろ」「はい」昔のままの父。

| | コメント (4)

2008年11月22日 (土)

今が一番幸せ

you don't have to panic ...

 僕が近づいたからではなかったと思うのだが、パニックに陥っている白鷺と青鷺。三者三様の反応がおもしろいと思った。いつもの川で。

 今日は父がこちらにきて初めての読書会。今は父が暮らしている家で毎月一回読書会を開いてきたが、引き続き、使わせてもらう。読書会にきた人たちと楽しそうに話をしていた。常は僕としか話をしない生活なので、父に今必要なのは刺激だろう。
 何かの話で僕が心筋梗塞で入院したことに言及したら、父が驚いて「誰が?」というたずねる。僕の病気のことはもう覚えていない。無用な心配をかけるのは止めようと思った。
 帰る間際にこんな話をした。
 「前も行ったと思うけど、昔、祇園で易者に見てもらったことがある。そんなことはめったにしたことはなかったのだが。そうしたら、あなたは寂しい人ですね、晩年寂しい生活を送ります、といわれたのだ。本当にそんなふうになった。
 でも、お前がよくしてくれるから今が一番幸せだ」

| | コメント (6)

2008年11月21日 (金)

前と同じ私

we will embrace you ...

 今年は紅葉をゆっくり見ることもできず、写真を撮ることも思うに任せられないが昨日は用事があれこれあって、父の家を出た時途中でたくさん写真を撮った。これもその時撮った一枚で、空には有明の月が残っていた。
 この頃は仕事の時(週に一日)以外は父の家の近辺から離れられない。時間がないわけではないが、もう長く近くにある植物園にも行けない。閉塞感とでもいうのか、物理的な時間の拘束よりもつらいものがある。
 この感覚は前にもあったと思いついた。昔は母が入院していた時、週日はずっと病院にいたが、休みの日は他の家族に代わってもらった。病院から離れている時は何もかも忘れて過ごすこともできるはずだったのに気が晴れなかった。月曜の朝、病院に戻る時怖かった(『アドラー心理学入門』p.74)。今も父の家に行く時は同じように感じる。ずっと一緒にいればいいようなものだが(そうすれば心配から解放される)そういうわけにもいかない。父が、寒いから寝る、といえば、しばらく用事はなくなるので、大急ぎで帰って仕事をするが、またすぐに出かけることになるので、なかなか思うように原稿を書けない。
 今日は昼食後父と同じテーブルで仕事をしていたが、疲れていてしばらく寝てしまった。父の「散歩に行こうか」という声で目覚める。風が冷たい日だったが、父が外に行こうと自分からいってくれるのは嬉しかった。父は意欲が問題だ、と繰り返しいう。
 父はいう。
 「私は前と同じだと思っているが、まわりにいる者はみんな私がおかしくなったと思ってるだろうな」
 無論、そんなふうに思ったことはない。
 火曜日に介護認定のために市から調査にこられる。父はどう答えたらいいかをしきりに気にする。できることはできる、できないことはできないといえばいいと答える。

| | コメント (2)

2008年11月20日 (木)

今日は「はれ」

 放射冷却現象で雲一つないいい天気だったが風は冷たく、寒かった。今日は何度も自転車でマンションと父の家との往復する。
 今日は長い時間父と一緒に過ごした。昼食後は同じテーブルで原稿を書いたり、本を読み、時折、父と話し込む。外は寒かったが、日が差し込む部屋は暖かかった。
 朝行くと、この頃は寝ている時が多かったが、既に犬との散歩を終えていた。夜、熟睡できたので、早く起きられ、散歩をする気になったと嬉しそうに話す。
 ノートに今日は日付(2008年から書いた)の他に「はれ」と記す。父の気持ちも「はれ」だったのだろう。
 この頃、疲れてしまって思うように仕事ができない。介護認定の申請中だが、結果が出るまで頑張ります、と手続きのことで相談に乗ってもらったケアマネージャさんには宣言したのだが。

| | コメント (0)

「全体」を聴く

2008年11月20日木曜日
winter has come ...

 父の愛犬を連れて散歩している時に撮った。もう少し近づきたいと思うのにもう帰るといって聞かないので困った。ちょっとした気配にも逃げるアオサギが今朝はじっとしていた。

 武満徹があるピアノのコンサートの後でこんな感想を記している。ホールのすみでこんな話を耳にしたという。非常に失望した、ペダルの使い方が下手で、低音が濁って汚い、云々。専門の技術批評も及ばぬほど細を穿つ会話はしかし武満を失望させる。この人たちは高い入場料を払って、いったい何を聴きに来たのだろうか、私は大変楽しく聴いたのに、と。
 「それにしても音楽はその全体が肝心なので、ステレオ・プレイヤーの部品を論ずるような技術批評は好ましくない」
 「技術的な品定めもだいじではあろうが、音楽を聴くことがもっともだいじではないか」(『武満徹 エッセイ選—言葉の海へ』ちくま学芸文庫、p.314)
 武満は別のところでこんな話もしている(pp.180-1)。
 友人の一人が小学校時代鉱石ラジオを作ることに夢中になった。最初に音が出た時、大いに感動した。その時流れていた音楽は大変難しそうなもので驚く。それまで音楽というものを意識して聴いたことはなかったが、すばらしいと感じた。
 その曲がベートーベンの第9交響曲であることがわかったのは、後になってからだった。数年後、その人はカラヤンの指揮するベルリンフィルによる第9の生演奏を聴いた。しかし、彼にとっては、鉱石ラジオの遠くから聞こえてくるような音楽の方がすばらしかった。
 小学校の時、鉱石ラジオを作ろうと思ったが、1000円という当時の雑誌に書いてあった材料費を僕は親にほしいといえず断念したことを思い出すとともに、この人が鉱石ラジオから第9を聴いた時のことが想像できるように思った。どんなすぐれた音響装置にも、生の演奏にもこの時の感動を再現できなかったのはわかる。
 武満がいう音楽で肝心な「全体」を聴くというのはこのような聴き方なのだろう。

| | コメント (5)

2008年11月19日 (水)

山茶花

you are beyond my reach (takane no hana, the stars) ...

 この山茶花は父の家で撮った。医院に歩いて行ったことは昨日書いたが、山茶花が咲いていることを父に教えたら、初めて見た、と驚いていた。父が前にここで暮らしていた時には咲いてなかっただろう。これからの季節、山茶花の写真を撮るのが楽しみである。
 その父だが、今日は講義があるので朝いつものように家に行って朝食の用意をしてから出かける。夕方まで行けないので心配だったが、帰りによったら、寒い寒いとはいっていたが無事だった。昼に薬も飲んでいた。ノートに食事と服薬記録を書くようにしたのはよかったようだ。ノートを見れば、食事をしたか薬を飲んだかわかるようにしてある。急に、しかもかなり寒くなったので心配である。
 講義は今日は7回目。長い時間をかけていくので、学生が聞いてくれなければそれだけで脱力してしまうが、幸い、熱心に聞いてくれる学生がいて嬉しい。

| | コメント (0)

2008年11月18日 (火)

文字通り今、ここ

how lucky to see you ...

 過日東京出張の際、のぞみの車内から撮った。東京に行くのは久しぶりで、めったに行く機会もなくたとえ行っても富士を見られるとは限らない。顔なじみになった駅員さんが「今日はいい席が取れましたから」といわれるので期待していたら、はたして富士を見られる席だった。
 今日は午前中、泌尿器科の医院に行く。二種類の薬を処方してもらう。過日、内科を受診しそこで失禁のことを行ったのに無視されたが(失禁の薬などない、パッドをあてるとかすればいいといわれた)、放置できないので、近くにないか探した。駅の近くだが父が歩くのは難しいのでどうしたものかと思っていたら、父が歩いていくというので驚く。父は背筋を伸ばして大股で歩くようにしているという。途中何度か立ち止まって休んだ。途中何度か「これからどこに行くんだっかな」とたずねる。帰りも歩いて帰れたが、これだけで昼になってしまった。
 昼食後、明日の講義の準備をするためにいったん僕は帰ったが、夕方食事の用意に行った時、状態はよくなかった。これから風呂に入るというので、昼に入ったことをいうと覚えてなかった。今日、頑張って歩いたことは覚えているだろうか。「お前がいてくれるから、いろいろ世話してくれるからありがたいと思っている。一人だったら外に出ようと思わないだろう」といったことを覚えているだろうか。文字通り、今ここにしか生きていないとしても、あるいはだからこそいっそう共に過ごせる時間を大切にしよう、と思って今日は帰った。心が沈む。

| | コメント (2)

2008年11月17日 (月)

何も変わらない

your twittering makes me cheerful ...

 霧の朝、ホオジロのさえずりが聞こえてきた。
 今日は余力があると思っていたが、父の食事を用意して、帰ってから夕食を作ったらぐったりという感じである。父は今日は食後自分の部屋に戻らず、新聞を読んだりしていたので、僕も帰らず同じテーブルで仕事をした。朝と昼、二度散歩をした。
 ロビン・ウィリアムス主演の『パッチ・アダムス』を見た感想を本の中で書いたことがあった。過日の近大姫路大学での講義の中でも紹介した。映画の中でパッチ・アダムスが、患者に名前を呼んで話しかける場面があった。回診の際、カルテを見ながら、教授が症状について説明しても、患者は気難しい顔をしていた。しかもこの先悪くなるだろうという話ばかりなので不安な表情でもあった。アダムスが、「この患者の名前は?」と問うた時、症状については詳細に説明できるというのに、誰もすぐにはその問いに答えることができなかった。アダムズは患者に名前をたずねた。そして、その名前を呼んで挨拶するだけで患者の態度が変わった。
 家族が病気になって、パーソン論でいうところの「人格」「生命権の主体」でなくなるとしても(パーソン論は多くの問題を孕んでいる)、それまでと何かが変わるわけではない。
 「要は気力の問題だ」と父はいう。それを父がどう引き出せるか。それを僕をどう援助できるのか。
 最近父が使う語彙の中で一番多いのは「ありがとう」である。

| | コメント (2)

2008年11月16日 (日)

父のリハビリ

slipping  back in time to the past ...

 少し疲れてしまってゆっくり寝たいところだったが、父が待っているので頑張って早く起きる。
 今日は父を散髪に連れ出した。雨模様だったが散髪を終えた頃には雨が上がり、少し日が差した。マンションまで10分ほど(父の足で)歩いてもらい、一緒に昼食を取った。寒いから帰るといったが夕食までいてもらうつもり。今はよく寝ている。
 朝、父の家で食事をした後コーヒーを飲みながら、父の昔話を聞く。流線型の蒸気機関車が走っているのが家から見えたという。父の妹(僕の叔母、後に若くして亡くなった)が最初養女になったが義母とそりがあわず、父が代わって養子になり、母と共にこの家にきたということだった。この母、つまり僕の祖母のことについては少し本の中で触れたことがある(『アドラーに学ぶ』p.164)。僕はこの祖母にずいぶん甘やかされたが、今でいう認知症で寝たきりになってからは関わりがなくなった。何年その状態が続いたかはわからないが、仕事をしていた母が家にいるようになったこと、ある日、常とは違う気配がし、母が慌ただしく廊下を行き来していたのを思い出す。その時、僕がどこにいたかは思い出せない。祖母が亡くなったのである。
 夕方までマンションにいてもらおうと思ったのだが、急に帰るといいだした。歩いたらかなり時間がかかるがそれでも歩くかとたずねたが意志は強かった。僕が早足で歩けば、13分ほどの距離である。途中何度も休みながら、40分ほどかけて家に帰り着いた。
 意欲、気力の減退が目下一番の問題である。僕には精神面での援助しかできない。精神面での援助ならできる。
 写真は父の家の近くにある保津川下りの乗り場で。朝日で川面が輝いていた。ここから2時間ほどで嵐山に着く。父とここまで散歩する。父はいつもいう。「私が知っている船頭さんはもう誰もいない」と。今はその人たちの子ども、孫が仕事を引き継いでいるのだろう。

| | コメント (0)

2008年11月15日 (土)

わかりません…

heron deep in meditation

 このアオサギがいる場所を僕は知っていて、いつもそっと近づくのだが、むこうも気配に気づくと音も立てずに川面すれすれに飛んでいく。そして僕が決して近づけないところまで行ってこんなふうに川の中に立っている。霧が深い朝に撮った。
 今朝は内科の医院に介護認定のための意見書を書いてもらいに行く。HDS-R(改定長谷川式簡易知能評価スケール) による検査を受ける。どういう検査なのかという説明もなく、いきなり始まった検査に、横にいた僕までもどぎまぎしてしまった。父は小さな声で何度も申し訳なさそうに「わかりません」といった。検査することで客観的な評価をできるということだろうが、検査の前に医師は僕からは受診にいたるまでの状況を僕から詳細にたずねたが、父との話す時間は短かったという印象を得た。ともあれ医師がどんな評価をするかは僕にはわからないが、一方で、僕が思っていたよりも状態が悪いのかもしれないという暗澹とした思いがするのと、他方で、父がどんなふうであってもこれまでと変わらぬ父である、と改めて思った。

| | コメント (6)

東京へ

fall aflaming ...

 東京で講演。朝、食事の用意をしてから出かける。昼と夜の食事を用意し、それぞれに昼、夜というメモを付け、食後に飲む薬も置いておく。「それで今日は夜きてくれるんだな」と帰るまでに何度もたずねるので、これから東京に行くから、今日は行けないと何度も説明しなければならなかった。後ろ髪を引かれる思いで東京に向かう。疲れていたのか車内で1時間以上寝てしまった。
 講演の反応はよかった。控え目ではあるが笑ってももらえうれしかった。哲学の講義だからといって難しい話とは限らない。難しいとすればなぜ難しいかというところから話を始めた。病気になる前の年に行ったのが最後だったので久しぶりだった。病後初めての遠出だったが、講義もでき自信がついた。帰り、あまり考えもなく、のぞみに乗ったが、満員で名古屋まですわれなかった。これは考えなかったのでさすがに疲れた。指定席が空いてないかたずねたが満席だった。

| | コメント (2)

2008年11月13日 (木)

新たな一歩

a peaceful pond in autumn ...

 姫路での講義の翌日は疲れて午前中寝ていることがこれまで何度かあったが、父が帰ってきたのでそういうわけにもいかずいつもの時間に父のところへ行き、朝食の用意をする。今朝は霧も出ず晴れていたが、父は外に行こうとしないので、父の犬を連れて散歩する。犬と一緒だと写真を撮るのは難しい。カメラを構えていたら引っ張られることがあるからである。
 一度帰って地域包括支援センターに電話をする。介護認定の手続きについて相談に乗ってもらうつもりで電話をしたら、早速昼からケアマネージャーさんが父の様子を見にきてくださった。知らないことばかりなのであれこれ質問をすることになったが、丁寧に教えてくださったので、最近、これからのことを思って暗澹とした思いに押しつぶされそうだったが、少し希望の光が見えたように思えた。
 昼から二回父と散歩した。歩きながらあれこれ話す。僕のバイパス手術をした先生は、お父さんが80歳の時、自分でお父さんのバイパス手術をされたという話には驚いていた。父も80歳だからである。手術の後94歳まで生きられた。父にも長生きしてほしい。
 今日は忙しく結局昼間ほとんど仕事ができず、早くも日が変わろうとしている。金曜は東京で講演をする。手術後初めての遠出である。姫路でも十分で遠いわけだが。土曜の朝、介護認定のための意見書を書いてもらうために内科を受診するので講義が終わればすぐに帰られなければならない。それよりも明日の父の食事をどうしようかと悩んでいる。
 写真は近くの池で撮った。しばらく池の方に行けてなかった。

| | コメント (2)

2008年11月12日 (水)

霧の朝

a misty morning ...

 今日は近大姫路大学で講義。この数日、寒い日が続いていたが、暖かい日になった。朝はこの頃はいつもこんなふうに深い霧が出る。この霧の中今朝も父のところへと食事を用意しに行く。講義があったのでいつものように昼は行けなかった。講義後行くと、暖かい日だったのに外に出ていないという。明日は父を連れ出そうと思う。【今日は疲れたので、明日改めて。写真の右側が少し欠けています】

| | コメント (2)

2008年11月11日 (火)

生きる勇気

shivering universe ...

 今朝も父は寒いといっていたが、何とか散歩に誘い出すことができた。犬を連れた(犬も老いている)父はゆっくり歩くので、先の方まで行って写真を撮る。撮った写真をその場で父に見せる。父のやる気をどうすれば引き出せるのか。僕の執刀医である中島先生が父親のバイパス手術をされたのは80歳の時だった(『アドラーに学ぶ』pp.75)。僕の父も同じ80歳である。
 散歩から帰ってしばらく話をしていたが、寒いから横になると行ったらもう僕にはすることがなくなってしまう。明日の講義の準備をするために昼間で一度帰る。今週は明日の講義の後、金曜日に東京で講演をする。明日は父の昼食、金曜は昼食と夕食をどうすればいいのか考えなければならない。

| | コメント (4)

2008年11月10日 (月)

仏の座

frosty beauty ...

 去年もこの時期に見かけた仏の座。春に花が咲くと思っていたのだが。
 寒い日が続き、父は元気がない。犬の散歩も僕がしなければならなかった。市役所と銀行へ諸々の手続きに行ったが、一回で用事が終わらず出直すことになった。保険の紹介先のサーバーがダウンしているなど信じられない話である。
 介護の認定には医師の意見書がいるが、長年かかっている医師ならともかく一回した診察したことのない循環器内科の医師が父の日常生活の自立度、認知症の症状などについて判断できるのだろうか。何もかも初めてのことばかりでわからないことが多い。
 父を病院に連れていくことなどを考えて、車の練習をしているが長く乗っていないのでまだ感覚がうまくつかめない。

| | コメント (2)

自分を好きになる

自分を好きになる
 子どもたちは今はまだ大人からの援助が必要ですが、やがて自立し、この人生で直面する課題を自分の力で解決できるようにならなければなりません。とはいえ、何もかも自力では解決できない時もあるでしょう。そんな時のために、子どもが大人に援助を依頼できるよう親子関係をよくしておきたいのです。
 これまでのところでは、子どもは大人と対等であること、そうであるならば、子どもを叱ることもほめることも本来できないということ、そこで命令しないでお願いし、丁寧に話して「ありがとう」といおうと提案しました。今回は、そのようなことが、子どもの自立、即ち、自分の人生の課題を自力で解決できるようになるために、なぜ必要なのかを考えてみましょう。
 まず、子どもに自分のことを好きになってほしいのです。この自分は他の道具とは違って買い換えることはできませんから、これからもずっとつきあっていくことになります。それなのに、自分を好きになれなければ、幸福になることはできません。では、どんな時に自分のことを好きと思えるかといえば、短所だと思えるような性格でも実は長所であると性格を見直すことも大切なことですが、自分が他者に貢献していると感じられる時であるということを見逃すわけにはいきません。子どもは「ありがとう」といわれれば、自分が他の人の役に立っていると感じることができるのです。
 子どもができる貢献は、最初は些細なことかもしれません。それでも自分が他の人の役に立てると少しでも思えれば、このことは、子どもがやがて直面する人生の課題を解決できるという自信につながっていきます。
 ところで、子どもが他の人に役立とうと思えるためには、その他の人がアドラーが使う言葉でいえば「仲間」、つまり味方であり、必要があれば援助してくれる友人だと思う必要があります。そうでなければ他の人に役に立とうとはそもそも思わないでしょう。それなのに親が子どもを叱ると、親子関係は確実に遠くなり悪くなりますし、親を代表とする大人全般が自分の仲間ではなく「敵」だというふうに子どもが思ってしまうと、子どもはそのような敵である他の人に役立とうとは思わないでしょう。そして、自分が役立っていると感じられなければ、自分のことを好きにはなれないのです。
 子どもに貢献感を持ってほしいもう一つの理由は、他の人からただ受けるだけではなく、自分も他の人に与える人になってほしいからです。子どもはたしかにまわりの大人から援助を受け、実際、知識、経験ともにまだ十分持っているとはいえない子どもにとっては援助を受けることは必要なことです。しかし、人が自分を援助するのはあくまでも好意であって、当然のことではありませんし義務でもありません。子どももまた、このわれわれが生きている共同体の一員として他の人に貢献する人になってほしいのです。そして、そのことを苦痛ではなく、喜びに感じてほしいのです。
 子どもをそのあるがままに受け入れるということは間違いではありませんが、子どもの視点からいえば、何もしなくてもいいわけではありません。与えられるだけはなく、自分も与えられる子どもになってほしいのです。

| | コメント (5)

2008年11月 9日 (日)

久しぶりの講演

I will be a flower myself ...
   写真はベニシジミ。最初、花かと思った。この時期は羽をこんなふうに広げている。この写真を撮った次の日から寒い日になった。  今日は池田のちゅうおう保育園で講演。午前中、保護者向けに2回話し、昼から職員研修。講演は6月以来。  伝統的な育児、教育における賞罰教育の問題から話し始める。  子どもに自分のことを好きになってほしい。この自分とはこれからずっとつきあっていかなければならないからである。では、どんな時に自分のことを好きだと思えるかといえば、自分が他者に貢献していると感じられる時である。そのために子どもに「ありがとう」といってほしいのであって、子どもに次回適切な行動をしてもらうためにありがとうというのではない。このような意図があって「ありがとう」というのはほめることに等しい。このようなところから話し始めた。叱らない、ほめないという話は微妙な問題をはらむので、短い時間に話すのは簡単ではなかった。  終始、熱心に聞いてもらえてありがたかった。また講演の機会がありますように。

| | コメント (0)

2008年11月 8日 (土)

垂直離水

shall we dance?

 寒い日になった。ヴァイツゼッカーの研究会だったが、暖房が入らず(月曜にならないと入らないということだった)寒くて震え上がった。ボンでの講演から帰られたばかりの木村先生がことのほかつらそうだった。丁寧にテキストを読んでいくのだが、どの一文も誰からの指摘もないということはない。学生の頃、ギリシア語のテキストを読んでいた時と同じである。そして、実際、前にも書いたが、その頃一緒に読んでいた仲間がいることが不思議で、嬉しい。
 父が帰ってきて明日でようやく一週間になる。まだ慣れなくて、毎日、13000歩になる万歩計を見て、ため息をついている。車に乗ればいいのだが、それはそれでストレスがかかりそうではある。
 写真は白鷺。注意して近づいたが、気づかれこれから飛び去るところ。nice landingというコメントをもらったが、これは離水の瞬間。

| | コメント (5)

2008年11月 7日 (金)

心配ばかり

seeing eye to eye with you ...

 キチョウを前から撮る。僕の印象ではこの蝶が一番敏感で少し動いても逃げてしまう。
 今日は朝、家を出るのが遅くなってしまって朝食を待っているだろう父のことが気になって急いで歩いていたら途中で犬を連れた父と出会う。今まで寝てた、という。「やっと田舎暮らしのよさがわかりかけてきた」と笑う。そのまま少し川の土手を父と歩く。
 新聞(オバマ大統領のことが一面の昨日の朝刊だが)を持って行くと喜んでくれた。もう長く気力がなくて読もうともしていなかったという。朝食後、父は新聞を読み、僕は仕事をしていたが、僕は遅くまで仕事をしていたので眠くてかなわなかった(自分の時間を確保するためには睡眠を削るしかない)。しかしこんなふうでは長くは続かないし、僕も自分の病気のことを忘れるわけにはいかない。
 柿を取ろうとして転倒したことを忘れたのか、懲りずに今度は何個か柿を庭の木から取ることに成功し食べたことは心配で、ひどくがっかりするのだが、気力が回復したことの証左ではあるのだろう。

| | コメント (8)

2008年11月 6日 (木)

自立を援助する

soft wild flower...

 父の家に行く時、大抵、田んぼの中の道を歩いていく。途上で写真を撮る。これはミゾソバ。小川に日の光が反射していた。
 今日も病院へ。昨日解決しないことがあって出かけることになったのだが、父が受診していた病院が実にいい加減で、紹介状が役立たなく再度問い合わせなければならなかったからである。ところが再度の病院からの情報提供要請もすぐに実行されなかった。ようやく今日父の診察中に医師の下の名前は何かという電話がかかってきた。すぐにファックスが送られてくるかと思っていたら結局間に合わなかった。こんなことはあったが、皮膚科で薬を全面的に変えた。きっとよくなるだろう。
 ところで昨日の内科、今日の皮膚科で処方された薬は種類が多く、服薬管理が必要だと思った。というのも一種類、一錠増えただけの朝の薬を見て、父はこんなに多いのか、前はこんなに飲んでなかったという。出ていた薬を飲めてなかったかもしれない。未使用の塗り薬も発見した。塗ってなかったということである。しばらく毎食毎に確認しようと思う。
 父はいう。
 「いろんなことができなくなってしまってなあ」
 「それは仕方がない。できないことがあっても恥ずかしいことではない。でも、頼むから、できなくなったことはできなくなったといってほしい」
 「そんなんでいいのか」
 「そうしてもらわないと困る」
 「そうか、わかった」
 僕の方は、他方、父ができることをとりあげないようにしないといけない。今朝行ったら洗濯がしてあった。自立支援の方法は子どもの場合と同じである。
 同じことを何度もいっても、そのことを非難しないで、初めて聞いたように対応すること。コンロの火は使えないようにしている(解除は簡単だが)。「(長い距離を)歩けるようになったら、街に行こうな」といったらうれしそうにしていた(まわりに民家がないところに隠居している)。

| | コメント (2)

2008年11月 5日 (水)

よくなりますように

The C Letter

 キタテハの「C」を撮る。日なたぼっこの蝶と同じ蝶である。
 今日は父と病院に行った。転入など諸般の手続きが終わってないので、それがすんでからと思っていたが、薬がなくなるなど強い不安を訴えるので、受診することにした。8時前に行ったら、遅いと叱られた。出かける気満々だった。
 病院には8時半頃に着いたが、いくつかの検査を受け、二つの科を受診し終えたら12時半を回っていた。父は相当疲れたはずだが、危惧していた心不全について入院などを必要とする緊急のものではないことがわかって大いに安堵したようだ。実は明日もう一度受診する必要ができたが、今日の先生方の話などを聞いて、父の症状についてわかったことがある。明日、先生にたずねてみたい。
 病院でも、薬局でも、いつも行っているところなのでお父さんなんですね、といってもらえた。
 火曜、水曜と昼間にほとんど仕事ができなかった。今日は待っている間不安がる父と話し続けなければならなかったので、検査が終わるまでの間少し本を読めたくらいである。それなのにもうこの時間には疲労困憊。何も考える気力がない。今日は1万3000歩。

| | コメント (4)

2008年11月 4日 (火)

子どもが”こころ”を開くとき

子どもが”こころ”を開くとき
別冊PHP1999年11月号
岸見一郎

 いつもわが子と心を通じあっていたいと思っている方は多いと思いますが、接し方によってはこの願いとはほど遠いことになることがあります。子どもが心を開くか、あるいは、閉じるかはひとえに親子の関係の中で子どもが決めることである、と私は考えています。ここでは、子どもはどんなときに心を開くのかを具体的な例で考えていきたいと思います。

◆子どもが決める
 何でも話をしてくれる子どもがいい子である、あるいは、子どものことを何でも知っている親がいい親である、と思っていませんか?
 確かに子どものことを知っていることは大切なことですが、ときにこのように思うことがかえって子どもが心を閉ざすという結果を招いているということがあります。
 そもそも、子どもの心を「開かせる」と考えることに無理があると思います。子どもは親に対して心を開こうと思うかもしれませんし、思わないかもしれません。子どもに心を開いてほしいのであれば、そうお願いするしかありません。子どもが嫌だといえば引き下がるしかないでしょう。子どもは関係がよくなければ心を開かないでしょうが、よい関係だからといってどんなことでも話してくれるかというと、必ずしもそうではありません。

◆「何かできることない?」
 息子が小学校の低学年だった頃、ある日、学校のことをたずねようとしたことがあります。すると彼は、きっぱりとこういいました。
 「何でもかんでも、お父さんに話さなければならない義務はないと思う」
 何もいい返す言葉がなかったことはいうまでもありません。親だからといって、いわば子どもの心に土足で踏み込むようなことをするのは許されないのです。
 私の友人が、ある日、中学生の娘さんが学校からひどく落ち込んだ様子で帰ってきたときのことを話してくれました。すぐに「どうしたの?」と声をかけようとしたのですが、私の助言を思い出して、そのときは「お母さんに何かできることない?」とたずねました。するとその娘さんは答えました。
 「うん、ある……ほっといて!」
 友人は、自分には何もすることがないことに大いに落胆しましたが、次の日、娘さんが晴れ晴れとした表情で帰ってきて、「昨日は友達と喧嘩をして落ち込んだけど、今日は仲直りできた」というのを聞き、「親としては何もできなかったけど、子どもが自分で問題を解決するのを見てうれしかった」と話してくれました。

◆子どもを信頼する
 以前放映していたNHKの連続テレビ小説『あぐり』の中で、淳之介が中学受験に失敗したとき、父親のエイスケは「そう」としかいわないので息子のほうが困惑する場面がありました。「パパなんだから、どうして、とか、ばかだな、とか残念だったな、とか、気にするな、とかそういうことはいえないの?」と問うと、エイスケが、「いやあ、何もいうことはないよ、お前の人生だからなあ。俺にはよくわかんないよ、それじゃいえないのか」
 と答える場面です。エイスケはこのように答えた後、
 「それよりも、どうだい、すごいだろ。これがナイアガラの滝だ」
 といって、旅先で撮ってきた写真のスライドを見せます。このやりとりから二つのことを学ぶことができます。
 まず、勉強は子どもが自分の責任でやり遂げるしかなく、子どもが自らの力でやり遂げなければならないこと、あるいは、やり遂げられることを親が肩代わりしてはいけないということです。そのようなことに手出し、口出しをすることは、子どもを信頼していないことを子どもに伝えていることになります。

◆子どもに協力する
 もちろん人は何もかも自力でできるわけではありませんから、以上のことを踏まえた上で、親が協力することが必要であることは当然あります。しかしそのためには、必ず手続きを踏まなければなりません。
 息子と私がダイニングで、彼は勉強、私は仕事をしていました。ふと息子がこういいました。
 「お父さん、僕はお父さんが頑張れといってくれたらやる気になるので、ときどき頑張れっていってくれない?」
 と。そこで私はときどき息子に頑張れ、と声をかけることにしました。子どもの依頼を引き受けるのが嫌ではありませんでしたし、難しいことでもなかったからです。
 親が子どもの勉強の様子を見ていて、声をかけるということはあります。「最近のあなたの様子を見ているとあまり勉強をしていないようだけど、そのことで話をしたいのだけどいい?」というふうに。それに対して子どもが放っておいてほしい、といえば、それ以上介入することはできません。

◆関係をよくするために
 淳之介とエイスケノの会話のもう一つのポイントは、子どもと遊べているということです。父親は、一緒にスライドを見ようと誘っています。
 子どもと勉強の話をやめたら、親子の会話が一切なくなったという人がいました。勉強は、子どもが責任を取ることであって、親が取ることはできないということを学んだからでした。そこで子どもには勉強の話をしないことにしたのです。勉強のことを話して、子どもが機嫌良くなることはあまりないでしょう。「宿題はもうしたの」とか、「ちゃんと勉強しなさい」と声をかけることをやめ、子どもと遊ぶこと、楽しい時間を過ごすことを考えてみます。その遊びの内容は、親子によって違うでしょう。友人の一人はとっくみあいをして体を動かして子どもと遊ぶ、といっていました。私は息子にコンピュータの操作を教えてもらったり、小学生の娘とファストフードの店でフライドポテトを食べたりします。
 こんなふうにすることで子どもが何でも話してくれるようになるかといえば、それはわからないとしかいえません。しかし、これくらいの距離を置きながら、必要があれば友人として援助しようと決心していれば、心を開いてくれるときは開いてくれるでしょう。いずれにしても、親が決めることではないのです。

【追記 2008年11月4日 上述の記事は、親が子どもに援助ができるために何ができるかということを書いたものです。勉強は子どもの課題だというふうに書くと、子どものことは放っておいていいのだ、と誤解する人が後を絶たず困ります。例えば勉強は、「仲間に対する義務を免れることはできない」というアドラーにとっては、どうでもいいことではありません。人は「全体の一部」として他者から受けるだけでなく与えなければなりません。勉強はそのためにも必要なことです。勉強「だけ」が必要ではないかもしれませんが。課題の分離は協力の前提です。協力しようにも誰の課題かわからなくなってしまっていては協力ができませんから、もつれた糸をほぐすようにこれは親の課題、これは子どもの課題を分けていくのです。そうすると上にも書いたように実は親の課題はあまりないことに気づくことになるでしょうし、親のために勉強させるわけではないこともわかるでしょう。こんなことを思い出しました。ある保育士さんから聞いたのです。あるお母さんは参観日に子どもの様子を見に来てください、といっても、たしかにこられるのですが、教室で本を読まれるのだ、と。こんなことを勧めているわけではありません。子どもが自力で勉強してくれるのがベストです。さもなければ困った時に相談してもらえるような親子関係を作りたいのです。上に「それ以上介入することはできません」と書きましたが、さらに続けると「今の現状はあなたが思っているほど楽観できるものではないけど、いつでも相談にのるからいってくださいね」というようなことになります。介入はできませんが、協力はできます。協力も時に必要な重要な人生の課題はたしかにあります。課題の肩代わりはできないとしてもです】

| | コメント (3)

日なたぼっこ

Let me C your pattern ...

 写真はキタテハ。父と「日なたぼっこ」をしていたら、思いがけず蝶々が飛んでいた。父は若い頃写真を撮っていたので、その時のことをたずねてみたが、どんなカメラを使っていたかなどすっかり忘れてしまっているようだ。
 一日に父の家まで何度も往復する。田んぼの中の道をつっきって川の土手を一生懸命歩く。昨日、最後に行った時は車で帰った。父を乗せるにはまだ練習が必要だ。
 昼から寒いというので外の方が暖かいから、と連れ出す。歩くとすぐに息が切れるので、川を見ながら、長くすわって日なたぼっこをした。その間、ずっとあれこれ話をした。
 今朝は8時に父の家に「出勤」。散歩を終え、朝食を待っていた。僕は食べていたので、父の分を用意し、その後洗濯。昼から一度帰って用事をし、その後夕食の用意する。帰りに買い物に行き、今度は家族の食事を作ることになる。問題はこれがいつまで続くかである。仕事の量、使われる時間はそれほど問題にはならない。仕事をする場所を変える必要があるだけ(少しこれには含みがある。本当は「だけ」というわけにはいかない)だからである。問題は僕と父の対人関係である。これが今後どんなふうになるかは今のところ予想できない。

| | コメント (3)

2008年11月 3日 (月)

父帰る

 父が帰ってきた。僕が今住んでいるところからは歩けば15分ほどのところにある家に昨日荷物を運び込んだ。もともと父は仕事の関係で横浜に行く前はずっとここに住んでいた。僕もここで生まれ育った。今も僕の書庫があって、時々必要な本を取りにきていた。父にすれば帰ってきたという感覚だろう。今回、諸般の事情で帰ってきたのだが、これからどんなふうに父と関わっていくことになるかはまだわからない。気がかりなことは持病がいくつかあることと、それとも関係してこれから冬に向けてこの家が寒いことである。まずは病院で受診するところから始めることになるだろう。
 今朝は、一緒に散歩をし、朝食を用意するために早い時間に出かけた。一緒に朝食を食べていたら、「こっちにきても一人で住むのだと思っていた」と父がいうので驚く。後で友人に引っ越しを知らせる電話をしていた。その会話の中で、上の言葉に続いて「いや、別にマンションを持っているのだが」といっているのが聞こえたので、文字通りの意味ではないことはわかった。平日に動けるのは僕だけだが、かなり頼られているのは確かである。携帯電話をかけるのに難儀していたはずなのに、何の苦もなく友人のところにかけていることに今度は驚いた。
 明日からも当面仕事がない日は必要な本とコンピュータを持って通うことになる。ここにはインターネットに繋ぐ環境がまだ整っていないので不便この上ない。引っ越しに伴う役所関係、医療関係の手続きを明日から始めないといけない。
 父は、今は気力がなくて本を読めないというので、頭を使うのがいい、と助言した。もともと本はよく読んでいた。
 「この家には本がたくさんあるから、本に困ることはない」
 「でも、哲学の本なんかは読めない」
 「もちろん、哲学の本を読む必要はない。そうだった、毎月この家で読書会をしている。この部屋を使いたいがいいだろうか」
 これまで読書会で使っていた部屋は今回父が使うことにしたので、隣の部屋に玄関に置いてあった応接セットを移した。
 「それは一体どんな本を読んでるんだ?」
 「哲学…かな」(目下、プラトンの『パイドン』を読んでいる)
 「ではわしが出てもわからんかもしれんな」
 父は参加する気なのだ、とまた驚く。
 一体、これから何度驚くことだろう。
 一緒に連れてきた父の愛犬が夢の中に出てきた。玄関を入ったところで昨夜はおとなしく寝たはずだ。その玄関の戸にきれいな紫色の花が一輪咲いていた。そんな夢。

| | コメント (2)

2008年11月 2日 (日)

reflection of time ...

reflection of time ...

 父が帰ってくる今日、暖かい穏やかな日になった。
 写真にどうしたら時間を写し込めるか、よく考える。
Flickrに載せている写真をこちらにリンクしているが、右端が少し欠けていることに気づいた。どうしていいのか目下わからない〕

| | コメント (6)

音は消えても

 父が帰ってくることが思いの外に気にかかる。散漫になって仕事があまり進まない。他にも心配事がある。
 人の生は、音と同じように、ちょうど音が消えてもその音が発せられなかった前とは同じではありえないように、消えることはないだろう。
 去年受けたバイパス手術の時、全身麻酔であることは当然、人工心肺を使って心臓まで止めた。もしあの手術の間に事故があって、心臓が再び動き出さなくなったら、僕はどうなっていたのだろう、とよく考える。心臓は再び動き出した。でも、もし心臓が動き出してなかったとしても、そして、その時、他者からは僕は死んだと見なされただろうが、それでも僕は消えたわけではないだろう。
 人と人も一度会えば、会わなかった前には戻れないだろう。
 池の波紋の写真を撮りながらこんなことを考えていた。
 昨日、会った人が病気に倒れ、その後、よくリハビリのために池のまわりを歩いている姿はよく見ていた。とりわけこの二年は家にいることが多かったので見かけていたが、話したことはなかった。力強い足取りで歩いてられる姿をその後ずっと思い出しては、これからのことを煩っている自分のことを恥ずかしいと思った。

| | コメント (0)

2008年11月 1日 (土)

よう生きとるわ

purple gem in nature...

 今年二度目のムラサキシジミ。羽を広げるとこんなふうだがそうでないと地味で、どこにいるかわからないくらいである。どこに行けばいるかは大体はわかっているが、その「どこ」の範囲が広いのと、行けば必ず見つけられるほど多く飛んでいるわけではない。
 歩いていたら後ろから近づく男性の姿に気がついた。僕は考え事をしていたのであまり気にとめなかったところ、僕が足を止めると杖をついて歩いていたその人も足を止められた。不思議に思ったその瞬間、僕もその人も同時に誰かわかった。「似ている人だと思ってなあ」と声をかけてもらえて嬉しかった。15年前に大きな病気で身体を不自由にされた。「ほんまにわし、よう生きとるわあ」と豪放に笑われた。
 父が明日帰ってくる。暖かい日になればいいのだが。

| | コメント (2)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »