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2008年10月 7日 (火)

幸福と不幸を分ける「私自身」(5)

幸福と不幸を分ける「私自身」(5)
岸見一郎
(『MOKU』2004年3月号、MOKU出版)
【インタビューに基づいて構成された記事です】
幸福と不幸を分ける「私自身」(4)の続き

「目的」は「今ここ」で達成していくもの

 神経症の人は、ある「目的」があって神経症になるのだ、とアドラーは考えました。これがアドラーの「目的論」です。例えば、きょうだいの中で一人だけ不安神経症になる時、その子は親の注目を集めたいのだ、とアドラーはいいます。あるいは、何かで挫折した人は、それをする能力がないことを自他共に認めざるを得ないような症状を自分で作り出すというのです。つまり、幸福になれないと思っているから、幸福になれない理由を作り出してしまうわけです。そうなる「目的」は、各人の「創造力」によって作り出されるのであり、そうなる外的事象は「副原因」であっても「真の原因」ではない、と捉えます。
 赤面症の女子中学生がいました。彼女に「赤面症が治ったら何がしたい?」とたずねると「男の人とおつきあいがしたい」といいました。つまり、その中学生は男の人とおつきあいできるかどうか自信がないから赤面症になってしまったわけです。ですから、赤面症を本気で治す気があるかといえば、それは疑わしい。なぜなら、赤面症が治ってしまったら、「赤面症だからおつきあいできない」といういい訳ができなくなってしまうからです。もし赤面症が治っても他の症状が彼女には出てきます。男の人とおつきあいできない理由を自分で探してしまうのです。
 ですから私は彼女に「赤面症がなくなれば明るい人生が待っていると思うかもしれないけれど、それは違うよ。私はあなたの赤面症を治すことはできるけれども、一度治してしまったら、もう二度と赤面症にしてほしいといっても元にはもどせないよ」」といってあきらめてもらいました。そういった後から、彼女には一度も赤面症が現れなくなりました。私は、そうした症状、つまり彼女の「いい訳」には乗っからないようにします。そんなことよりも、彼女は男の人とつきあう自信がないのですから、自信をつけてもらうようにするのです。赤面症を必要としなくなるような「ライフスタイル」を作っていくわけです。拒食症であれ不登校であれ、そういった症状には目を向けないで、その人の「ライフスタイル」にだけ目を向けていくのです。
 ある時、その中学生がいいました。合コンでカラオケに行ったというのです。そして、自分と一緒に行った友だちのところには合コンした男の子から電話がかかってきて「つきあってほしい」といわれたけれど、自分にはかかってこなかった、そういって彼女は大きな声で笑いました。その瞬間にカウンセリングは終わりました。彼女にとっては、男性とおつきあいすることは人生の課題の最優先事項ではなくなってしまったわけです。既成の価値観から抜け出したのです。
 「目的論」のアドラー心理学に対して、その他の心理学の多くは「決定論」を採ります。「過去にこういうことがあったからこうなった」「トラウマ(心的外傷)によってあなたは今こうである」といういい方です。しかし、そういう捉え方をしてしまうと、その原因となったところまでさかのぼってやり直すしかありません。それでは神経症の治療などありえないわけです。しかも、同じような原因があるとみんな同じような症状を表すことになってしまいますが、人間は機械的に反応するわけがありません。確かに、外からの影響を受けることもあるけれど、それをどう受け取ってどう対処するかは人それぞれ違うのです。そこが「過去の出来事に自分の幸不幸は左右されない」とするアドラーの考え方との大きな違いです。
 子どもが中学生で不登校になってしまった時、カウンセラーや精神科医から「三歳までの育て方が間違っていたのです」「小さい頃に抱きしめて育てなかったからです」といわれても、それで元気になって帰っていける人がいるでしょうか。「今ここ」にいる人をどうにかしなければならない時に、過去を持ち出すことは意味がありません。厳しいけれど、これからのあり方を変えていくことでしか救われないのです。
 仮に、ある原因が何かの影響を与えたとしても、それは「決定因」ではありません。人間は「○○だから××なんだ」「□□じゃないから△△なんだ」という論理を展開します。その方が自分にとって都合がいいからです。しかし、本来因果関係のないところにそれを作ってしまうのは、理由づけ、こじつけでしかありません。そういう理由つけ、こじつけをしてしまう自分から離れようとする治療をしていかない限り、いつまで経っても症状から抜けられないのです。
 殺人事件の現場を見てしまった生徒のカウンセリングに当たった精神科医が「きっと、これはトラウマになる」といったけれど、その生徒は、これからの人生で人とうまくやっていけないという思い込みをさせられてしまう不幸が、その一言によって始まるのです。ただ単にいある人との関係がうまくいかなかっただけのことでも、すべてトラウマのせいにされてしまうと、幸福になる道が閉ざされてしまいます。そして、自分をどんどん追い込んでいった後に何があるのか……。本来は、非常に慎重に使わなければいけない「トラウマ」「PTSD(心的外傷後ストレス障害」といった言葉を、阪神大震災以降、日本ではたやすく使いすぎているように感じます。
 アドラーのいうように、その症状を持って達成しようとする「目的」に目を向ければ、より上手にその目的を達成する方法を探すことができます。そうやって、自分が「今ここ」でできる、より善いことをやっていく方が幸福には近道だと思います。
 人間には所属欲求というものがありますから、どこにも受け入れてもらえないことが一番つらい。だから、無視されるくらいなら、せめて叱られてでも注目してほしいと思って問題行動を起こします。それを叱れば、もっと注目されたくて、ますますエスカレートします。ですから、症状に目を向けるのではなくて、適切な行動にこそ注目するべきです。どんなに問題行動を起こしていてもきちんと家に帰ってくるならば「おかえりなさい」といって迎えればいいのです。そういう目的達成の方法を使うべきです。
 私の仕事は、カウンセリングする相手をみるわけですが、その人の病的なところをみるのではなく、健康なところをみていきます。そこが病名をつけなければならないいけない精神科の医師との違いです。人間の心の闇の部分ばかり引き出して「あなたは、こうですよ」といっては、治る人も治らなくなります。明るい部分、健康な部分にその人自身が目を向けていくようにする。それが私のカウンセリングです。
 紀元前五世紀の哲学者プラトンが「お金や名誉やそういうことばかりに気を配って、魂に気遣いをしないで恥ずかしくないのか」といっています。魂に配慮する、魂の世話をするということを英語で言うと「サイコセラピー」つまり心理療法なのです。私は哲学が専門なのですが、今カウンセリングをしているからといって、それほどど遠いことをやっているわけではないと思っています。プラトンやソクラテスも、今日の時代であれば、カウンセラーであっただろうと思います。哲学も心理学も幸福とは何か、どうすれば幸福に至る道を見つけることができるか、そのために人間はどう生きればいいのか、といったことを探る学問ですから。
 私がここにカウンセリングにこられている方と話しているようなことは、かつてソクラテスがアテナイの街の道ばたで、多くの人とやりとりしていたことと同じなのかもしれないと思ったりもします。自分の著書を一冊も残していないソクラテスは、毎日、人と語り合っていたのだろうな、と思います。
 カウンセリングをしながら、自分が何かの役に立っていると思えることは嬉しいことです。これは私にとっての幸福です。
(完)

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コメント

先日は失礼致しました。

ここの文を読んでいて,思い当たるところがたくさんあり思いをめぐらせていました。

>私の仕事は、カウンセリングする相手をみるわけですが、その人の病的なところをみるのではなく、健康なところをみていきます。

この部分を読んで,先生の温かい言葉はここから来ているのだなと思いました。
先生の書かれる文章がとても好きです。
それを言いたくてつい,顔を出してしまいました。

投稿: セロ | 2008年10月 8日 (水) 11時17分

 そういってもらえるとうれしいです。ずいぶんときついことをいうことがあって反省頻りなのですが、基本的には健康なところを見るということを心がけてします。それ以外のところを見ても意味がないともいえます。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 8日 (水) 19時47分

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