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2008年10月 2日 (木)

アドラー心理学の諸問題(1)

アドラー心理学の諸問題(1)
理論と思想の接点〜リディア・ジッハーの思想を手がかりにして
岸見一郎(京都)

Some problems concerning Adlerian psychology (1)
How the theory and the thought relate to each other - with Lydia
Sicher's contribution as a clue to the question

Though Adler tried to make it clear how the striving for the goal
which could be ego-centric in some cases and the social interest
relate to each other the relation between these two apects of
Adlerian psychology, that is, the theory and the thought is not
necessarily clear. In this paper the author introducing the basic idea
of Lydia Sicher, who is said to have been absolutely loyal to the
teaching of Adler, clarified the possibility that the personal goal
striving could contribute to the whole. In forthcoming papers the author
is to ascertain if Sicher's trial is successful from the view point of
philosophy.

「ジッハーは熱狂的なアドレリアンだった。アドラーより慎重だった。自分自身にも他の人にも非常に厳格だった。100パーセントアドレリアンでないことは何であれ認めようとはしなかった」(Danica
Deutsch) (1)

1. はじめに

 アドラーは第一次世界大戦に軍医として従軍した。兵役期間中の休暇の間、カフェに集まった仲間たちにアドラーは、皆が驚き困惑したことに、突如として共同体感覚を世界が今何よりも必要としているものである、と話し始めた(2)。
 アドラーは昔のアドラーではなかった。この語はドイツ語では倫理的な、ほとんど宗教的な意味を持っていた。アドラーと意見を異にする一人の仲間は後に次のように語っている。
「突然のこの宣教師がいうような共同体感覚という考えに我々はどう対処することができたであろう?
医師という仕事につくものは何よりも科学を優先しなければならない。アドラーは科学者としてこのことを知っていたはずであり、このような宗教的な科学を非専門家の間で広めると主張するのであれば、専門家としての我々が彼を支持できないということを知っているべきだった」(3)
 そして多くの仲間がアドラーのもとを去っていった。
 このエピソードが示すように、アドラー心理学はその全体が科学ではなく、そこには一つの価値判断を含んでおり、科学的というよりは、哲学的、あるいは倫理的といえる部分を理論のうちに内在させている(4)。これら価値の領域である思想の部分を理論とは区別しなければならないが、筆者の長年の関心は理論的な側面と思想的な側面の接点を見極めることにある。
 本稿においては、アドラーとウィーンにおいて活動を共にしたリディア・ジッハー(Lydia Sicher, 1890-1962)(5)の思想を手がかりに、目標追求と価値の問題を考察したい。

2. 問題の所在

 アドラーは1933年に発表した「優越性の追求と共同体感覚の起源について」(6)という論文の中で、優越性の追求には正しい方向と誤った方向がある、と論じている。誤った方向での優越性の追求とはどのようなものか? アドラーは以下のものをあげる(7)。

1)他人を支配すること
2)他人に依存すること
3)人生の課題を解決しようとしないこと

 他人を支配するという意味での優越性の追求は初期のアドラーが、ニーチェに倣って「力への意志」といっていたもの、後の表現では「力の追求」に相当する。
 人生の課題を解決しようとしないのは、失敗しないためである。そもそも最初から課題に挑戦しようとしないこともあり、これではまったく前に進むこともできない (8)。
 このような優越性の追求について共同体感覚 (9)に反した(gegen)優越性の追求という表現がされている( 10)。
 他方、正しい方向の、即ち、共同体感覚を伴った(mit)優越性の追求は、上の(1)〜(3)の反対を考えればいい。

1)他人を支配しない
2)他人に依存しない(自立する)
3)人生の課題を解決する(課題に取り組む)

 ここで注意すべきことは、アンスバッハーが指摘するように(11)、共同体感覚は利己的な目標追求に拮抗することになる第二の動因、利他的な動因として考えられてはならないということである。むしろ、アドラーは共同体感覚を優越性追求に方向性を与えるものとして考えている。そしてそのようなものとして、共同体感覚は規範的な理想である、と考える(12)。
 野田は、アドラーは目標追求という自己中心的な概念と、共同体感覚という利他的な概念の折り合いをつけるために一生悩んだが(13)、その試みに成功していない、という( 14)。

3. 目標追求

 アドラーは人生は目標に向けての動きであり( 15)、「生きることは進化すること」(16)であり、人が追求するべき目標は、永遠の姿の下の(sub
spece aeternitatis)人類全体( 17)の完成に導かれるような方向にあるのでなければならない( 18)、という。
 アドラーが優越性の追求、あるいは、上述の論文において並んで用いられている完全さの追求という言葉を使ったときに、ジッハーも指摘するように(pp.43-3)、「上」「下」がイメージとして喚起されることを否定できない(19)。
 ジッハーは、この進化の動きは、「上」ではなく「前」に向かっての動きである、と考える。『創世記』に出てくるヤコブの階段の話(第28章)を引き合いに出して、天使が最上の段にいてあわれなヤコブは下の方にいるというように考えることはない、という(p.43, 50, passim)。この階段は狭いので二人が同時に同じ段にいることはできない。上の段に登ろうとすれば、そこにいる人を押しのけなければならない。
 そうではないのだ、とジッハーはいう。我々は同じ平面を歩いているのであり、ここには優劣はない。人は皆それぞれの出発点、目標を持って前へ進んでいく。自分で望むように、あるいはできるだけ早く、あるいはゆっくり進んでいくのである。優劣ではなく、ただ先に行く人と後を行く人がいるだけで、しかし、その皆が協力して全体として進化して行くのである。ジッハーも全体としての人が進む道筋を「進化」という言葉を使って表現している。進化をめざして人は「前」へ進むのであって、「上」へ進むわけではないのである。広い道を並んで歩いているので、別に誰が先に行こうと、後を歩こうとかまわない。前を歩む人もいれば、後ろを歩む人もいるが、両者は優劣の関係にあるわけではない(20)。

4. ジッハーの共同体感覚

 アドラーは先に見たように、優越性の追求には正しい方向と、そうでない方向のものがあると考えたが、ジッハーは「前」へ歩むことを基本に据え、それから外れる動きを、逸脱、後退と呼んでいる。「前」へ進むのは、ノーマルな精神的健康の方向である(p.43)。
 たとえ、後退することで他の人から自分を切り離そうとしても、それでも、そこから退却しなければならない何か、即ち、誰か他の人が存在するがゆえに他の人と結びついているのである(p.55)。
 ジッハーは、アリストテレスの「人は社会的な動物である」という言葉を引き合いに出し、人は他の人と結びついており自分の行うことは全体とのかかわりの中にあって、他の人と相互協力関係(interdependence)(21)にある(p.7)。人は世界から切り離しては存在することはできず、どんな形であれ影響を与えないわけにはいかない。たとえてみれば、池に小石を投げ入れると、その時できた波紋はやがて消えてしまって見えなくなっても影響を及ぼしつづける(p.11)。人はこのような意味で「全体の一部」であるから、自分の幸福だけでなく、全体の幸福のことを考えなければならない(p.7)。
 ジッハーは以上の意味で人が全体の中で自分が生きていて、全体に影響を与えていること、相互協力関係にあること、全体の一部であることに気づいていることを共同体感覚、ジッハー自身によればsocial consciousness、あるいは、social awarenessの定義としている(p.6, p.16-7など)(22)。ジッハーはこの意味での共同体感覚が、人がどこへ向かうかという方向性を与える、と考える。
 このような共同体感覚を持った人は、協力し貢献する(p.31, 36,54)。他人に依存することなく、自分の力で課題を解決する(pp.49-51)、と考えられている (23)。
 このうち、協力について、ジッハーは人は生まれつきの協力の感覚を持っている、と考えている(p.16)。もっともこの感覚は発達させなければならないのであるが(p.55)。個人心理学は「人は最初から進んでこの協力の道を歩む、と仮定する」(assume, ibid.)という一方で、次のようにも説明する。
 即ち、ダーウィンのいう競争を前提とした適者生存という考え方は、人生の第一法則である協力に反している(pp.28-9,31-2)、と(24)。実はダーウィン自身も気づいていたように(25)、動物は単独でいるよりも群れでいるほうがはるかに生き延びることができるのである。人は協力的であることも非協力的であることもできるが、協力することは生まれつきの可能性であり、さらに、事実(a matter of fact,
p.36)であり、非協力は本性的にも生物学的にも可能なものではない、とまでジッハーはいっている(p.31)。競争はありふれたことではあるが正常ではなく(usual
but not not normal, p.176)、競争の最たるものである戦争は人間の本性ではない(p.43)。
 そうすると協力的、非協力的のいずれのあり方もとることはできるが、非協力はすべて逸脱であることになり、このように考えることで、ジッハーは目標追求の方向性は恣意的に決められるものではなく、自ずと一つの方向、即ち、進化の方向へと向かわざるを得ない、と考えているのである(26)。

5. 目標追求と共同体感覚

 ところで、人は<進化>するのであるから、本来的ではない進化からの逸脱、後退という動きの他に、「前」への動きであっても、何らかの意味での逸脱がなければ、変化はないことになってしまう。

5-1.協力と適応性

 ジッハーも注意するように、「協力」は誤解されてきた(p.33)。人は人間社会の一員であるから、現にある社会が人が協力しなければならない唯一の社会である、というふうに。このような既存の社会にこそ人は適応しなければならないというふうにいわれるが、アドラー自身もいっているように適応を勧めているのではない。アドラー心理学は決して社会適応の心理学ではない。社会制度が個人のためにあるのであって、その逆ではない。たしかに、個人が救済されるためには、共同体感覚を持たなければならないが、そのことはプロクルステスがしたように、個人をいわば社会というベッドに寝かせることを意味していない、といっている(27)。共同体感覚を考える時に、現にある社会のことが想定されているのではないということについては既に見たとおりである (28)。
 ジッハーはconformityとadaptabilityという言葉を区別する。同じようにする(conform)ことだけが重要であるなら、人間社会は、蟻や蜂の社会と何ら変わりない。蟻や蜂の社会は何も変化しておらず、即ち、進化しないのにたいして、人間の社会は大いに変化してきているのである。アドラーがいっているように、変わりつつある状況に適応する(adapt)ことが重要である(29)。状況の変化に適切に対処できる能力がこそであり、ジッハーはこれを適応性(adaptability)と呼んでいる(p.52)。
 ジッハーによれば、人間は、基本的な欲求を満たすということだけが問題になる存在的面(existential plane)だけでなく、本質的面(essential plane)に生きている(pp.39-40)。「基本的な欲求を満たすこととは別に、人間であると感じ、人間になるために何かそれ以上のものが必要である」(p.40)。ただ生きるのではなく、人生の本質なもののために生きなければならない(30)。
 人間には「創造力」(creative power)(31)があるので、単なる生存のレベルを超えて、人生を価値のあるもの、目的のあるもにする(p.65)。創造力を使って何か新しいものを作りだし、適応し、状況をよりよきものにする。進化はこのようにしてのみ起こるのである(p.53)。

5-2.総合目標と個人目標

 このように、皆が同じことをすることが期待されているわけではないのである。行動の目標は常に個人によって創造される。いかなる状況においても、人は自由意志で主体的に決断するのである。
 先に見たように、人はそれぞれの出発点と目標を持っている。ジッハーは究極的な目標を、総合的目標(overall goal)、各人が自分で決める目標を個人的な、あるいは具体化された目標(personal or concretized goal)と呼ぶ。総合的目標は、力、美、完全、神というようなもので、いずれも理想であるので必ずしも達成されることはない。これにたいして、例えば力を目標にする人はボクサーになりたいと願うかもしれない。その場合、ボクサーになりたいという目標を個人的、あるいは、具体化された目標という(p.113)。
 ジッハーは次のような、ある人との話を紹介している。その人は非常にいいことをした、といった。しかし、突然、話を中断してこういった。
「私がそれをしたのはこの人たちを助けたかったからなのかどうかわからない。おそらく私がそれをしたのはそうすることが私には気分がよかったからであり、自分のことをいい奴だと人から思ってほしかったからだ」
 ジッハーはこれにたいして、この人の考えは間違ってないと思った、といっている(p.17)。
 このような利己的な動機でなされた行為ですら、ジッハーは善しとしている。「聖人」(saint)になることが期待されているわけではないのである(p.7, 9)。何もしないこともしていることである。何も悪いことをしていなければ、起こっていることに責任はないと考えるのは間違いである。ただ、自分が全体の一部であるということを意識すれば、他の人を援助することになるように状況が要求する行動をすることが当然のことになるであろう(p.17)。全体の幸福を念頭において行為するのでなければ、破壊的ではないにしても、あまり建設的なものにはならないだろう。どんな行為のあり方であっても(たとえ、利己的な動機でなされたものであれ)、何らかの形で他者に影響を及ぼさないわけにはいかないだろうが、より建設的な行為のあり方もある、とジッハーは考えているわけである。
 それどころか、「誰もどんなことであれ他の人のために(for)することはない」(p.20)とジッハーはいう。共同体感覚は、しばしば誤解されるように、誰かのために何かをするということとは何も関係がない(p.17, 20, 202)。自分のためにするのである。自分のために働くのであって上司のために働くのではない。自分のために働くのは生計を立てるためである。全体と共に(with)働くが、自分のために働くのである。人はどんな状況であれその中にあって、他の人と共に、そして自分のために、自分が置かれている状況が機能するために働くのであり、そのために自分がどんな貢献をすることができるかを考えなければならないのである。
 筆者が『アドラー心理学入門』(32)の中で紹介した次のようなエピソードを思い出す。共同体感覚や協力についてアドラーが話したとき、アドラーは次のような質問を受けた。
「他の人は誰も私に関心を示さないではないか」
アドラーは単純明快に答えた。
「誰かが始めなければならない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」

6. 本稿のまとめ

 最初に見たように、アドラーは目標追求という自己中心的な概念と、共同体感覚という利他的な概念の折り合いをつけようとしたが、本論文においてはジッハーがこの試みに成功しているか否かを明らかにするために、まず本稿においては、ジッハーの思想を明らかにすることを試みた。
 まず、ジッハーは個人の目標追求の方向性を考察するが、その際、この目標追求の方向性は恣意的に決められるのではなく、協力関係を前提として進化の方向へと向かわざるを得ない、と考えたことを明らかにした。
 次に、個人的な目標追求が全体にどのように貢献しうるとジッハーが考えているかを明らかにした。
 次稿においては、はたしてこれらの試みが成功しているのかを、目的論についての哲学の見地からの考察を通して明らかにしたい。

注釈

1) Sicher, L.: The Collected Works of Lydia Sicher: Adlerian
Perspective
. Edited by Adelte Davidson, Fort Bragg, Ca: QED Press,
1991, p.456. 本稿において以下Sicherのこの論文集から引用が多いので、ここからの引用の場合は、本文中に著者名、著作名なしにページ数のみ記すことにする。なお、この論文集については註4)を参照。
2) Bottome, P.: Alfred Adler: Portrait from Life. New York: Vanguard,
1957, p.120.
3) Bottome, ibid., p.123.
4) 岸見一郎:実践とは何か−「知る」ことと「行う」こと−.アドレリアン12(1), 1998, p.1.
5) リディア・ジッハーは1890年にウィーンに生まれる。第一ウィーン人文女子ギムナジウムを卒業後(1910年)、1916年にウィーン大学から医学博士号を、後に動物学の博士号も授与されている。1915年、夫とともに軍医として第一次世界大戦に参戦している。
 アドラーの著作に関心を持ったのは17歳のときで、その後1919年にアドラーに会って、自分の患者について相談をしている。当時、ジッハーはフロイトの精神分析に関心を持っていたが、フロイトはどのようにして人が苦境に陥るかを語ることはできるが、そこから抜け出す方法を教えないのにたいして、アドラーは問題から自分を解放するために取り得る方法を教えた、とその違いを強調している(pp.13-4)。
 ジッハーは、アドラーが所長を務めていたウィーンのフランツ−ヨセフ神経症外来診療所で働いた。アドラーが1929年にロングアイランド医科大学の教授職に就くためにアメリカに行ったときに、ジッハーが診療所の所長に任命された。ドライカースは次のようにいっている(p.461)。
「アドラーが〔アメリカへ〕去るときにウィーンの診療所を任せることができた人は他にもいたが、アドラーが実際に委ねたのはジッハーだった。それほどまでにアドラーはジッハーに信を置いていた」
 9年後にヒットラーによって閉鎖されるまでジッハーはこの診療所で個人心理学によって数多くの患者を治療した。ウィーンを去ったジッハーはその後イギリス、オランダ、ラトビア、リトアニア、ポーランドで講義、講演を行った。イギリスで交通事故に遭ったジッハーはそこで一年の闘病生活を送った後で1939年にアメリカに渡る。以後、アメリカアドラー心理学会の会長をはじめとする要職に就き、1941年にはロサンゼルスアドラー心理学研究所を設立している。
 ジッハーはアドラー心理学についてまとまった書物は残さなかったが、ダビッドソン(Adele Davidson)が1991年に編集出版した論文集であるThe Collected Works of Lydia Sicher:An Adlerian Perspective(QED Press)によってジッハーの思想をまとまった形で知ることができる。
6) Adler, A.: Über den Ursprung des Streben nach Überlegenheit und
des Gemeinschaftsgefühls, Internationale Zeitschrift für Individualpsychologie, 11. Jharg.1933(本稿においてはAlfred Adler Psychotherapie und Erziehung Band III, Fischer Taschenbuch Verlag, Fankfurt am Main, 1983から引用する).
7) Adler, ibid., S.24-5.
8) 岸見一郎: アドラー心理学入門. KKベストセラーズ、1999, p.153註.
9) Mitmenschlichkeitが原語。「仲間」であること(fellowmenship, Solidarität)。この言葉はアドラーにおいて「共同体感覚」という言葉とほぼ同義で使われる。
10) Adler, ibid., S.31.
11) Ansbacher, H.L. and Ansbacher, R.R. in Alfred Adler Superiority and Social Interest, Ed. by Ansbacher, H.L. and Ansbacher, R.R., W.W.Norton & Company, New York, 1979, pp.29-30, 41.
12) Adler, ibid., S.26.
13) 野田俊作: 負のアドラー アドラー心理学の誤用と悪用.アドラーギルド、1999, p.38.
14) 野田、前傾書、p.41.
15) Adler, ibid., S.30.
16) Adler, ibid., S.22.
17) したがって、ここでは既存の社会ではなく、理想の社会が念頭に置かれている。共同体感覚という場合の「共同体」は「到達できない理想」であって、既存の社会ではない(Adler, Individualpsychologie in der Schule, Fischer Taschenbuch Verlag,
Fankfurt am Main, S.20)。
18) Adler, Über den Ursprung des Streben nach Überlegenheit und des
Gemeinschaftsgefühls
, S.31.
19) Streben nach Vollkommenheit(完全さの追求)に並んで用いられるStreben nach oben(上に向かっての追求)というような表現(Adler, ibid., S.22)。
20) 岸見、前傾書、pp.90-2.
21) 相互依存関係と訳すと「共依存」のようにとられかねないのでこの訳語を採用した。
22) このようなことを感覚(gefühl, feeling)としてとらえているのではなく、認識しなければならないのである。
23) アドラーの考える共同体感覚を伴った優越性の追求の条件に対応する。
24) 人生の第二法則は貢献である(p.36)。
25) アルフレッド・アドラー(岸見一郎訳):子どもの教育.一光社、1998, p.111.
26) アドラーも「万人の万人にたいする闘い」は一つの世界観であるが、普遍妥当的なものではない、と指摘している(Individualpsychologie in der Schule, S.89)。これはホッブス(Hobbes, 1588-1679)が『リヴァイアサン』の中で用いた言葉としてよく知られている(bellum omnium contra omnes)。人間は自己保存欲を持っており、他者を圧倒しながら、自分の権利と幸福を求めようとする。これをホッブスは、「自然状態」と呼ぶ。
 また、水泳を学ぶのに難儀する子どもについて、そのような子どもは、人生は闘いである、と見ており、このような闘いの中では、「上」であるか、「槌になるか、鉄床になるか」が重要である、即ち、槌でなければ、鉄床であるしかないので、鉄床にはなりたくない、というケースを出している。競争の中で人は「上」にいることを目指すということである(Adler, ibid., S.98)。
27) アドラー:子どもの教育、p.39.
プロクルステスについては同書、p.11.註11、アドラー(岸見一郎訳、野田俊作監訳):個人心理学講義、一光社、1995, p.259. 解説註29を参照。
28) 註17)参照。
29) アドラー:個人心理学講義、p.258.
30) ソクラテスの次の言葉を想起する。「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、善く生きるということなのだ」(プラトン、Crito, 48b, 田中美知太郎訳)。
31) アドラー:個人心理学講義、pp.13-4.
32) 岸見、前傾書、p.115.

(『アドレリアン』第14巻第2号、2000年所収)

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