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2008年10月 6日 (月)

幸福と不幸を分ける「私自身」(4)

幸福と不幸を分ける「私自身」(4)
岸見一郎
(『MOKU』2004年3月号、MOKU出版)
【インタビューに基づいて構成された記事です】
幸福と不幸を分ける「私自身」(3)の続き

普通のことを認めることが出発点

 何か特別なことをしなければ貢献できないと思っている人もいますが、それも違います。ある小学生が勉強ではほめられないと考えて、ひいおばあちゃんの下の世話をするようになりました。小学生が、です。ところが、母親に「彼はすごいですね」といっても「でも、勉強しませんもの」の一言だけ。そういう子どもは、幸福な方向どころか、逆に不幸な方向へ進んでいきます。特別によいことが認められても幸福にはなれないし、特別に悪いことが認められてもよくない。貢献とは普通のことなのですから、普通のことを認めるということが大事なのです。本人にしてみれば、決して普通では満足しないかもしれないけれど、出発点として他人が認めるべきことは「普通でいい」というところからであるべきです。そうすることによって、今の自分を受け入れることができるようになるのですから。つまり、特別なことをした時にだけ「ありがとう」ではなく、存在そのものに「ありがとう」なのです。
 カウンセリングの時に、どうしても他に預ける人がいなかったので小さな子どもを一緒に連れてこられた人がありました。そして、カウンセリングが終わった時に、カウンセリングの間、おとなしく待っていた子どもを「いい子だったね」とほめられました。このほめるという行為は、能力のあるものがそうでないものに対していう言葉です。もし、待っていた人が大人であれば、そんな言葉にならなかったはずです。本来、そこは「ありがとう」となるはずです。そうすれば、子どもは「自分がおとなしく待つことで貢献できた」と思えるのです。「ほめて育てよ」などといいますが、それでは子どもは常にほめられることを願って行動するようになってしまい、注目や感謝されなかった時に「これだけのことをやってあげたのに」と、不満を抱いてしまいます。これこそが賞罰教育の弊害です。
 一方で、こんな例があります。ある小学校の先生が廊下を歩いている時に、ゴミを拾っている子どもを見かけた。「ありがとう」といってよい場面でした。ところが、先生は考えて、その場では何もいわず放課後の学級会でこのことを話しました。
 「今日、先生は、廊下でゴミを拾ってゴミ箱に捨ててくれているあるお友達の姿を見ました。先生は、そこで『ありがとう』と声をかけようかと思いました。でも、誰も見ていないところでゴミを拾ってくれているお友達は、他にもいることに気づきました。だから、誰もいないところでもゴミを拾ってゴミを捨ててくれているみんなに『ありがとう』といいたいと思います。『どうもありがとう』」
 こういわれた子どもたちは、誰も見ていなくてもゴミを拾うことは社会の役に立つことなのだと思えるわけです。そうすれば、誰かにほめられることを目当てに動くようなことはしなくなります。賞罰教育が、大人の目のあるところではいい子になり大人の目のないところで問題を起こしてしまう人間を育ててしまうのです。
 世の中には、賞罰と競争が蔓延しています。アドラーは、「競争原理ではなく協力原理で生きなければならない」といっています。協力を知っている人は必要があれば競争しますが、競争しか知らない人は協力をしないからです。
 アドラーは「優越性の追求」といういい方もしていますが、この「優越」とは決して「競争」ではありません。イメージとしては、平面上を人が歩いているとして、ある人は先の方を急いで歩き、ある人は後ろの方をゆっくり歩いている。同一平面上であるから、人間として価値に上下ではない。これがアドラーの考える「優越」です。しかし、その平面から上にはしごを伸ばして上っていって、自分が他人よりも上に行きたければ狭いはしごの上を行く人を引きずり下ろさなければなりません。これが「競争」です。誰かがプラスで誰かがマイナスという「ゼロ・サム」原理であり、非常に非効率的なことです。
 競争がすべて悪いことではないと思いますが、それを人生の基本に据えてしまうと不幸になってしまいます。しかし、アドラーが意図しているのは、みんなと違っていてもいいということです。オーケストラのようにいろんな楽器があっていい、これが協力原理です。
 競争、競争で生きてきて、そして負けたときに自殺するくらいなら、もっと早く誰かに相談してほしいと思います。もっと弱音を吐くべきでしょう。そういうことをやってはいけないと思わされていること自体が不幸なことです。
幸福と不幸を分ける「私自身」(5)へ続く。

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アドラー心理学」カテゴリの記事

コメント

>>オーケストラのようにいろんな楽器があっていい、これが協力原理です。

オーケストラというのがいいですね。ナンバー1よりオンリー1が・・・というスマップの歌が以前流行りましたが、それよりさらにオーケストラの方が私はみんな仲間~のイメージがしやすいです。

投稿: | 2008年10月 7日 (火) 22時04分

上のコメントに、名前を書くのを忘れていました。すみません!

投稿: mari | 2008年10月 7日 (火) 22時10分

 オーケストラとの類比はずいぶん前から考えていました。誰一人かいても音楽は成立しないのです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 7日 (火) 22時56分

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