« いつまでも | トップページ | purple gem in nature ... »

2008年10月 4日 (土)

幸福と不幸を分ける「私自身」(2)

幸福と不幸を分ける「私自身」(2)
岸見一郎
(『MOKU』2004年3月号、MOKU出版)
【インタビューに基づいて構成された記事です】
幸福と不幸を分ける「私自身」(1)の続き

既成概念を打ち破り「善く生きるための選択」

 「クリスマスに彼と一緒に過ごす幸せ」というような女性雑誌のタイトルをよく見かけます。しかし、クリスマスに彼と一緒に過ごせるかどうかは自分自身では決められないことです。幸福への鍵を自分ではなく他者が持っているわけです。そうした、相手に依存したものではなく、自分で決めることのできるものを私は「幸福」としてイメージしています。
 ところが、社会には自分では決められないことまで幸福の範疇に含んで、それが叶うかどうかをいっているケースが少なくありません。しかし、それは幸福ではなく「幸運」と呼ぶべきものです。旅先のホテルを予約した。行ってみたら海が見える部屋だった。これは「幸運」。決して幸福になったわけではありません。クリスマスに彼と一緒に過ごせたからといって、その人が幸福になったわけではなく、その日をその人がどう過ごしたかが幸福かどうかの分かれ目になるのです。すべての若い女性が彼と一緒にクリスマスを過ごせば、その人たちは全員幸福なのか。同じような状況にあるからといって、その人たちがすべて幸福になれるかどうかは別です。逆に、例えば、小さい頃に虐待を受けた経験のある人は全員不幸になるかといえば、そんなこともありません。
 幸福になれる状況にあるから幸福になるのでも、不幸になる状況にあるから不幸になるのでもない。また、他人から「あなたは幸福だ」といわれて幸福を感じるものでもなく、「それは不幸だ」といわれて不幸を感じるものでもないということです。
 結婚したい相手の職業がフリーターであれば、親はおそらく反対するでしょう。しかし、それでも自分が幸せになれると思えるのならばいいはずです。厳しい生活を受けいれられればいいのです。そうした厳しさは、自分から幸福を求める時には必ずつきまとうものであるとわかってさえいればいい。
 仮に、親が幸福だと考える結婚を押しつけたとします。すると、子どもは幸福になれなかったと感じた時に親のせいにすることができるので、自分で責任を引き受けなくなります。しかし、誰かがやってくれる、誰かのせいでこうなってしまった、と思った方が楽だから、私たちの社会には、そうした考えが蔓延してしまっているのです。それでは自分の幸福を自分で決めることはできません。そして、「幸福とはこういうもんだ」と誰かに与えられた価値観を自分も追い求めてしまうのです。
 テレビのドラマで、男女が結婚してハッピーエンドになると、「ああ、結婚は幸せなものだ」と思ってしまう。しかし、ドラマが描かなかった「その後」があるのです。ハッピーエンドが、実は、アンハッピー・ビギニングかもしれないわけです。幸福になるとは、そうした責任もすべて引き受ける厳しさを併せもつものなのです。
 即ち、「幸福になる」とは、「ただ生きる」ことではなく、「善く生きる」ことだといえるでしょう。幸運がやってくるのを待って生きるのは「ただ生きる」ことに他なりません。「今ここ」で、自分に与えられた状況でできることをやっ生きていこうとすることが「善く生きる」ことです。
 この「善く」とは、決して道徳的な意味ではなく、どうすれば自分にとってためになるか、ということです。自分にとって本当にためになるためにはどう生きるかを常に考えていくことです。一流大学に行くことが本当に自分のためになるのか。結婚することが本当に自分にとって自分にとってためになることか。大企業に入れば一生安泰という時代ではなくなっていることが象徴するように、「通俗」の幸福ではないものがあることはわかるはずです。三十歳までに結婚しなければならないとか、学校を卒業したら何が何でも就職しなければならないとか、子どもがいないと幸福になれないといった、「こうしなければならない」という既成概念を打ち破って、自分がどう生きるかを決めていかなければ、いつまでたっても幸福になれません。結婚という形を所有したから幸福になれるというのではなく、結婚という手段を使って、自分が家庭にいることによって幸福になるようにしていくしかないのです。
 人間はそうやって日々努力して自分が成長していくことによって幸福になるものなのです。どうなるかはわからないけれども努力して生きていこうという考え方は「何とかなる」と思って何もしない楽天主義でも、ポジティブ・シンキングでもなく、強いて言葉を選ぶなら楽観主義です。
 アウシュビッツの収容所では、こんな話が広まっていたそうです。二匹の蛙がミルク壺の上で遊んでいた。ところが二匹とも壺の中に落ちてしまった。一匹の悲観主義の蛙は、どうせ助からないと思って何もしないで、そのまま溺れてしまった。もう一匹の蛙は、どうなるかわからないけれど、とにかく自分にできることをやろうと思って足を動かしてみたり必死でもがいていた。そうしたら、いつの間にかミルクがチーズになっていた。蛙は溺れずにすんだという話しです。
 収容所からガス室に送られる前に精神的にまいって死んでしまった人も少なくありません。そういうところでも「今ここ」で自分ができることをやろうと思った人は、ガス室に送られない限り生き延びているのです。
 そういった自分で何とかしなければならない厳しさはあるけれど、どんなに極限状況に陥っても自分自身で幸福になることができるということです。要するに、何ものも支配しないけれど、何ものにも支配されない、責任もつきまとうけれども自由である、それが大事だと思うのです。既成概念を打ち破って生きていくためには、自分自身で引き受けなければならない責任も伴ってくるわけで、幸福と自由と責任はセットになっていると思っておく必要があります。
 「人生はずっと続く」という既成概念もなかなか破ることのできないものです。先日、同窓会の案内が来ました。そこには「人生の折り返し点を過ぎて……」と書いてありました。この案内状を書いた人は、誰の人生も七五年か八〇年かあると思って、その半分を過ぎてしまったと思っているわけです。しかし、本当は明日があるかどうかさえ誰にもわからない。大切なのは、「今この瞬間」に強い光を当てることです。ステージに立ってスポットライトを浴びると、客席も見えなくなりますが、そういう強い光を現在の自分に当てて、「明日はないもの」と思えるくらいの生き方を選んでいくしかないだろうと思います。そうやって、今日一日を生き切る。そうやって、「今ここ」の幸福を見つけていけば、それが一つの人生になっていくのです。
 今自分の人生がどこにあるのか、折り返し点を過ぎたくらいか、そうやって生きていくのは「終点」に達することを目的とした生き方です。しかも、効率よく終点を目指そうとしているようなものです。しかし、「善く生きる」ということはそういうことではありません。今日一日を生き切らず不完全燃焼しているから「道半ば」だと思ってしまうのです。
 人間にとって、「今」あるのは過去でも未来でもなく「今ここ」だけです。だから、人生は長さではなく生き方の質の問題です。深刻に生きる必要はありません。ただ、精一杯生きることです。
「幸福と不幸を分ける「私自身」(3)」に続く)

|

« いつまでも | トップページ | purple gem in nature ... »

アドラー心理学」カテゴリの記事

コメント

『幸福と自由と責任はセットになっている』ということを忘れずに考えながら進んで行きたいですsnail

投稿: そらまめ | 2008年10月 8日 (水) 23時15分

 なかなか実際には厳しいことですけどね。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 9日 (木) 00時00分

岸見さんの文には、私に必要な言葉が多くあります。自分の中に取り込むには厳しいことですが、そうなりたいという思いや心の支えになっています。

投稿: そらまめ | 2008年10月 9日 (木) 08時01分

 どの言葉が必要な言葉になるかはわからずに書いていますが、そういっていただけると嬉しいです。読む時期によってもかわってくるかもしれません。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 9日 (木) 18時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« いつまでも | トップページ | purple gem in nature ... »