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2008年10月28日 (火)

どうしてもコーヒーを

go on blooming ...

 夜遅くまで講義の準備をしていた。

 森有正がある本を引いて、大切なことは、デカルトのように生きることであって、デカルトを論じ理解することではないという一文に心打たれたと書いている(『砂漠に向かって』全集2、p.430)
 今日はずっとこの言葉が頭に残っていた。僕の場合は、デカルトではなく、プラトンやアドラーの名前が代わりに入るわけだが。
 今年も増刷になった『アドラー心理学入門』のあとがきにアドラーの友人だった作家のフィリス・ボトムの言葉を引いて、アドラーが、自分が創始した心理学は理論であるばかりでなく「心の態度」である、といっていたことを伝えていることを書いた時に念頭にあった理論と実践の問題は今も考え続けている。ここでアドラーが「理論であるばかりではなく」といっていることは注意したい。理論では<ない>とはいっていない。日常的な意識のあり方と抽象的な思考をする意識のあり方は、両立不可能なところがあるとある哲学者はいっているが、哲学や心理学(少なくともアドラー心理学)は抽象的な思考をしていては学べない。現実の諸条件をすべて考慮に入れなければならないからである。一般的な人について考えても意味はないだろう。高校生の頃、夕食は何にしようと思ったとたん物理の公式が雲散霧消するといっていた先生があったが、生きることの基盤から離れた思考は意味がないだろう、と考えている。昔、野田俊作先生に井戸端会議ができる哲学者になれ、といわれたことをよく覚えている。たしかにソクラテスは井戸端会議ができる哲学者だった。

 母の介護を十年続けた絵本作家の言葉を落合恵子が引いているのが目に止まった(『母に歌う子守歌』朝日文庫、pp.76-7)。
 「あの夜、わたしは駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだの」
 母親は待っている。でも、このまま帰りたくない、と思った。
 「でも、あの夜のわたしはどうしてもコーヒーを一杯ゆっくり飲んでから、帰りたかったの。どうしてもどうしてもそうしたかったの。あのまま家に直行するのはいやだったの。……まだ帰りたくないという、わたしの気持ちが通じたのかしら、娘をこんなにも疲れさせてはいけないと思ったのかしら、母は翌朝早くに亡くなった…」
 落合はこう語る彼女に「そんなにご自分を責めないで」としかいえなかったという。
 母が脳梗塞で入院していた時、週日は家に帰られず、病院で泊まっていた。夕方から深夜までは父や妹らが代わってくれるのでその間、病院の中にあった重症患者の家族用の部屋で寝た。まだ若かったが、次第に力がなくなってくるのは日に日にわかった。ある日、こんなことが後一週間続いたら僕の身が持たないと思った。その矢先母は死んだ。そのことで後々まで自分を責めることになった。
 もしも僕がその時の自分に声をかけられるとしたら、落合と同じようにいっただろう。

 バイパス手術退院後の日々を登録しました。

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コメント

あの頃はみんな疲れていましたね。
一度目の呼吸停止の時は私が泊りでした。早朝に起こされてICUに行った時には心臓マッサージをしてくださっていました。その後、蘇生したので、安心して病院から仕事に出かけました。
しかし、お昼に仕事を早退したのにもかかわらず、すぐに病院に行かず、途中下車して家で眠ってしまったのです。その間に母は逝ってしましました。まっすぐに行っていたら、死に目に会えたのにと思うと今でも悔やまれます。

投稿: ぼにぃ | 2008年10月28日 (火) 21時44分

 でもきっとあの時はできることの最善のことをしたと今では思っています。最善ではなかったかもしれないけれど。最後の頃の記憶がひどく曖昧で、当時皆でつけていたノートにも記録が少ないのです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月28日 (火) 21時50分

 不適切な書き込みだとは思うのですが、ちょっと、ほっとしました。
 父を亡くした後、いつまでも後悔し、自分を責め続ける自分を受け入れることができず、自分で自分を苦しめていました。自分を責めてしまうのは、私だけではなかったのだと、ほっとしました。建設的ではありませんが。

投稿: フィン・カ・ビヒア | 2008年10月28日 (火) 22時18分

 上にも書きましたが、最善の対処はどんなケースでも難しく、後悔は不可避です。もちろん、これは家族サイドでの話ですが。それでもあの時、できることの最善を行ったと思わないと、その後の人生を生きていけません。基本的には介護、看病などについては当事者以外からの批評はできないだろう、と考えています。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月28日 (火) 22時28分

大学生の頃、薬害エイズ訴訟に関わる活動をしていました。HIV感染者のつらい立場を知って、署名活動の必要性をわかっていたのに、署名を集めるのが苦手な自分を責めていました。そのときの気持ちを思い出しました。

投稿: そらまめ | 2008年10月28日 (火) 23時11分

そうですね。『もし・・・』と時間を戻してもやはり私は同じことを選択するのかもしれません。その時にはその時にできる限りのことを選択していたと思うからです。

投稿: フィン・カ・ビヒア | 2008年10月28日 (火) 23時38分

そらまめさん
 ベストを尽くすことはできませんから、そこから引き算して現状を判断したらつらいものがあります。何もしていないわけではないのですから、本文に書いた例でいえばコーヒーを飲む自分を受け入れてもいいと思うのです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月28日 (火) 23時39分

フィン・カ・ビヒアさん
 今のような事例に限りませんが、後からわかるということはありますね。どうしてあんなことをしたのだろう、と。その決断が自分にふりかかるならともかく、他者に関わってくるとたまらないですが、そしてたしかに自分が選択したわけですが。いった人は残された人を責めたりしません。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月28日 (火) 23時55分

『ベストを尽くすことはできませんから、そこから引き算して現状を判断したらつらいものがあります』
自分の過去の受け入れ方、今からの考え方が変わるような思いです。ありがとうございます。

投稿: そらまめ | 2008年10月29日 (水) 07時24分

 その時に限って・・・というようなことがやはりあるのですね。自分の身近なこと、友人の場合、などあれこれ思い当たることが浮かんできました。と、同時に例えば私の夫のように普段遠くはなれているのに、たまめぐり合わせがよかったのか、父親や祖母の最後の時に居合わせることができた事もあるのも思い出しました。その時に限って・・・ほんのわずかな時間で・・・ということで長年苦しんでいる友人がいます。ご無沙汰しているので、久しぶりに連絡してみよう~と思います。

「ベストを尽くすことができない」というところに目が止まりました。ベストを尽くす、尽くした、って言葉がありますが、どこまでやればベストとみんな思っているのだろう?とかねがね不思議に思っていました。「ベスト」についてよかったらもう少し、教えていただけますか?

投稿: mari | 2008年10月29日 (水) 13時21分

そらまめさん
 課題から逃げずに取り組んだ人にはここで書いたようなことを話します。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月29日 (水) 18時14分

mariさん
 キューブラー=ロスは誰もいない時を見計らっていく人もあるということを書いています。死が悪しきことだというふうにはロスは考えていませんからそんなふうに考えることができるのかもしれませんが。
 bestは誰にもできないのです。でも、何もしないわけではなく、その時、できるmuch betterなことはあるはずです。そして、それが何かはその時々の状況で決まるので、mariさんらしいその問いには答えることは難しいです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月29日 (水) 18時17分

>>bestは誰にもできないのです。

そうなんですね。私は「ベストを尽くした」という人は考えうること、計画したこと、予定したこと、全てを本当にしつくしたんだと思っていました。私はあれこれ思いつくけれど、全部できたことはないから、ベストを尽くしたことは一度もないとおもっていましたが、その時のmuch betterをやったことなら、あると思います。それすら考えるのを放棄する事も多々ありますが、さすがに、いつも放棄しているというわけではないでしょうし。それでも、それは思いついた全部のことをやったわけではないから、ベストを尽くしたとはいえないと思っていました。うまくかけないのですが、bestは誰にもできない、というのは目からウロコでした。(だからといって、な~~んだ、何にもしなくていいんだ~、と、much betterをやらないためにこの考えを利用しようというつもりではないです。念のためにかきますが・・)
でも、まだ、much betterのどこまでやったら、「尽くした」って事にしていいのかわからないのですが、こういうのも「私らしい問い」に入るのかもですね・・・。そんなことはこれときまった答えがあるわけではないと。それでもやっぱり気にはなりますが。

投稿: mari | 2008年10月29日 (水) 19時40分

mariさん
 そういうことを考えずにできるところから何かをしてみませんか?

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月29日 (水) 20時09分

ものすごく横道にそれるのですが…

時々,自分の両親がいなくなったときの事を考えます。
帰る場所が無くなったらどう思うだろうと。
寂しいのだろうけど受け入れられないだろうと思います。

たとえ離れていても,別段話をしなくても,
帰る場所があるというのはそれだけで幸せなのだろうと思っています。
受け入れてくれるかどうかは別として…。

投稿: セロ | 2008年10月30日 (木) 01時01分

はじめまして。私も少しお話させてください。
私の父は23年前に、母は4年前に亡くなりました。
父の亡くなる前日に私は母と交代して病院に付き添いました。母は随分と疲れていてナカナカ交代に来ませんでしたので「もう一晩私が付き添うよ。」と言いましたが、母は交代し、その日の明け方に逝きました。
母は、私が泊まりの日に逝きました。その日は随分と苦しそうでした。私は心の中で「お母さん逝くなら今日よ。お父さん早く迎えに来て。」と祈っておりました。親不孝な娘かもしれませんが、母はもう十分頑張ったよと思いました。
父が亡くなり、母も居なくなって「あぁ自立しなければいけないのね。」今までは見えないオーラで母が守ってくれていたけれど、これからは私が守っていく立場になったのだということをひしひしと感じました。

投稿: shoko | 2008年10月30日 (木) 15時50分

セロさん
 でも、物理的に帰る場所がなくなることはありえますが、それでも何かの形で帰る場所は残ります。
 僕も話がそれるかもしれませんが、ふとセロさんがお書きになっていることを読み、バイパス手術の間に何か事故があって帰る身体がなくなってしまっていたら今頃どうなっていたのだろう、とよく想像します。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月30日 (木) 19時10分

shokoさん
 この世では二度と亡くなった人と会えないという意味では別離の悲しみはずっと残りますが、死が悪しきもの、怖いものかは生者の誰も実のところわからないでしょうね。そのように思われた気持ちは僕にはわかるように思います。
 母が亡くなってからは人生が変わらないわけにいきませんでした。人が死ぬというのはただその人が不在になるだけではなく、残された人に思いもよらないことも含めて大きな影響を与えますね。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月30日 (木) 19時16分

もし、私がこのお話しをうかがったらなんて声をかけてあげられるかしらと考えていました。そして、おもいついたのは、母親は、子供のことを愛していると死に至るまで伝えることができたのかもしれないということでした。子供には、母が自分のことを思っていてくれたことが伝わっていると思いました。ただ時が来て亡くなっただけだったのかもしれませんが、これまでの信頼関係があったからこその思いなのかなと思います。

投稿: ころころ | 2008年10月30日 (木) 20時13分

ころころさん
 僕の母のことを思うと、伝えてくれていたはずなのに、それに気づいていなかったのかもしれないです。他方、言葉で伝えてなかったのかもしれないのです。後一週間こんなことが続いたら僕のみが持たないと思った時の母の死は、その思いを伝えるためだったかもしれません。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月31日 (金) 00時29分

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