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2008年9月16日 (火)

「がんばれ」だけが励ましではない−言葉かけのいろいろ

はじめに

 私が学んでいるアドラー心理学においては、子どもが人生の課題を解決し、社会に貢献する能力があり、人々が自分の仲間であると感じられるように援助することを「勇気づけ」という言葉で呼んでいる。本稿においては、「がんばれ」という言葉かけに代表される「励まし」がはたしてこのような援助のために有用なのかどうかということから始め、子どもを援助するためにどんな言葉かけが可能かを考察する。

「がんばれ」が子どもの勇気をくじくとき
 たしかに「がんばれ」といわれてやる気を出す子どもはいる。しかし、そのような子どもは「がんばれ」という親の期待を満たすことができる子どもに限られる。試験を例に取ると、たまたま悪い成績を取っても、次はいい点を取れる自信がある子どもである。
 子どもが悪い成績を取ってきたら、多くの親は何もいわないか、叱る。親にいわれるまでもなく既に勇気をくじかれているので追討ちをかけるように「なんだ、この成績は」と批判したり、「次はがんばれ」と励まそうものなら、親の思わくとは裏腹に、いよいよ勇気をくじかれて奮起することはない。
 よい成績を取った場合も、今回いい成績が取れたのは偶然のことであると思っているのであれば、「次回もがんばれ」と励まされても、次回いい成績を取れなければ親は自分を見捨てるのではないか、と恐れることになる。
 このように恐れるがゆえにともかく結果さえよければいい、と考え、不正な手段をも辞さない子どももいる。高校生のとき英作文の補習を受けたことがある。教材は先生自作のものだと思っていたが、本屋で教材の元になった問題集を見つけてしまった。幸か不幸かその問題集には解答集がついていた。それを見れば完全解答ができる。しかしそれでは力がつかない。自力で解くべきである…そう考えたものの解答集の誘惑に勝つことはできなかった。私の完璧な解答を見ても寸分も疑うことのない先生の「君はよくできる」という言葉は、私には大変なプレッシャーになった。
 最初からそもそも課題に挑戦しないでおこうと決心することもある。私は大学でギリシア語を教えているが当てても答えない学生がいる。あるとき、一人の学生にたずねてみた。
「どうして答えなかったか自分でわかりますか?」
するとその学生は答えた。
「もし私が〔実際に〕答えて間違ったら先生にできない学生だと思われるだろう、と思いました。でもそんなふうに思ってほしくありませんでした。たまたまこの問題ができないだけで本当はできると思ってほしかったのです」
 勉強しない子どもに「あなたはやればできるのに」といえば子どもは勉強するどころかかえって勉強しない。やればできるという可能性を残しておきたいからであり、実際に勉強してできないことが自他ともに明らかになっては困るからである。
 課題に取り組んでいるある子どもに親が無邪気に「がんばれ!」と声をかけた。するとその子どもは「〔もう〕がんばってるよ」と不満の表情をあらわにしていった。自分のことを、わかってもらってないと感じたかもしれない。
 また、自分はがんばってないと思っている場合がある。『五体不満足』を書いた乙武洋匡氏の元には、「あなたがそんな身体でがんばっていることに励まされた。私もがんばらないと」という意味の手紙が届くそうである。その手紙について乙武氏は次のようにいう。
「僕、全然がんばってないんですけどね。僕にとって「がんばる」という言葉の定義は、嫌なことをガマンしてやること。そういう意味じゃ、今までの人生でがんばったのは大学の受験勉強ぐらいで、それ以外はすべて楽しいからやったんです」
このように考える人に対して、あなたはがんばっている、あるいは、がんばれという言葉かけは的外れなものとなる。

「がんばれ」は勇気づけになるか?

 ある時夜遅く仕事をしていたら、当時小学生だった息子が私に突然こんなふうに声をかけた。
「おとうさん、ここにすわって〔仕事して〕くれない? 僕はおとうさんが僕の隣で「がんばれ」といってくれたらやる気が出るから」
それを聞いた私はためらうことなく、息子の横にすわって、いわれた通り、時折「がんばれ」と声をかけた。
 このケースでは「がんばれ」が勇気づけになっている。一つには子ども自身が「がんばれ」といわれるとやる気が出る、といっているからである。次に、子どもからこの「がんばれ」という言葉をかけてほしいという依頼があり、親がそれに同意するという手続きが踏まれているからである。
 アドラー心理学では「これは誰の課題か」といういい方をする。あることが誰の課題かは最終的に誰が責任を引き受けなければならないか、あるいは、ある選択の結末を誰が最終的に引き受けなければならないかを考えればわかる。
 そこでたとえば勉強は誰の課題かといえば子どもの課題なので、親は子どもに当然のごとく「勉強しなさい」といってはいけないし、そもそもいえないのである。「がんばれ」という言葉かけも本来は子どもの課題について発せられるものである。
 すると親が子どもに「がんばれ」といえるためには、先のケースのように、子どもが親に「がんばれ」といってほしいと頼んできて親が引き受けるか、親が子どもの様子を見て手伝えることはあるかたずねてみて、子どもが引き受ければ手助けの一つの方法として「がんばれ」ということを提案することは可能である。
 このような手続きを踏むことなく「がんばれ」といわば土足で親が子どもの課題に踏み込むことは、子どもに問題解決をする能力がないといっているに等しく、子どもとの関係をこじらせることになる。「がんばれ」という言葉を大人が安直に発し、子どもがそれを喜ばないとすれば、親が自分の課題に介入しようとしていることを子どもは知っているのである。「がんばれ」と声をかけることを子どもが了承し「がんばれ」という場合であっても、子どもを親の都合で自分の欲する方向へ動かすことはできないということに思い至りたい。そのような意図があって発せられる言葉は勇気づけとはいえないのである。

どのような言葉をかければ勇気づけることができるか?

 以上のように考えると、子どもが自分の課題について苦境に立っている場合も、子どもが自分の責任で解決すべきなので、子どもが自力で立ち向かえることについては、少なくとも頼まれもしないのに、子どもの行動やその結果について手出し、口出しをすることはできないことがわかる。
 とはいえ、原則的には子どもは自分の問題を自力で解決すべきであるが、ときに親からの助力がなければ解決できないこともある。その場合も、既に見たように、本来は子どもの課題であるが親と子どもの「共同の課題」にする手続きを必ず踏まなければならない。
 そこで、子どもが課題に取り組むのを見守ることだけが唯一親ができることであるということがある。子ども自身が自分の課題を自力解決できること、そのために(もしも子どもが望むのであれば)親が援助することであって、いかなる場合も親が子どもの課題を肩代わりすることはできないのである。
 子どもが自分の課題を守備よく達成したときにはそのこと自体で勇気づけられているので、必ずしも声をかけるには及ばない。息子が四歳のとき、プラレール(プラスチックの鉄道模型)を作っていた。それを見た母親が声をかけた。
「すごいレールね。これ一人で作ったの? こんなむずかしいのを作れるようになったんだね」
息子はこの言葉かけに対して次のように答えた。
「そう、大人から見たらむずかしいように見えるけど、ここまでは簡単なんだ」
驚いたことに、このやりとりがあった後で、息子は線路を作ることを放棄してしまった。
このような何気ない大人の評価の言葉、さらに「えらいね」というほめ言葉を用いると、本稿では詳論の余裕はないが、人がほめてくれるかどうかを判断基準にして行動するようになり、ほめる人がいないと適切な行動をしなくなるという弊害をもたらすことになる。
 他方、子どもが苦しんでいるとき、「がっかりしているみたいだね」「残念だったね」というような声をかけたり、頼まれもしないのに手出し、口出しをすれば、私は苦しい時間を一人では耐えられない弱い人間であるという信念を植えつけ、子どもを依存的にするかもしれない。そうなると、自分に能力があるとは思えないようになるかもしれない。このような場合私がよくするのは「何かできることはない?」という言葉かけである。このようにいっておいて子どもが何も援助を依頼してくることがなければそれでよし、もし援助の依頼があれば、どうしても子どもが自分の力だけでは解決できないことについて、共同の課題として問題の解決に向けて可能な範囲で子どもの援助をしたい。
 子どもへの言葉かけはどんなに慎重であっても慎重すぎることはない。最初はどんなふうに声をかければ子どもを勇気づけて援助できるかを努めて意識しなければならない。アルフレッド・アドラーは次のような話を伝えている。ひきがえるがあるときむかでに出会い、このめずらしい動物の持っている力を賞賛し始めた。そして「千ある足のうちでどれを最初に動かすのですか?
どんな順序で後の九百九十九の足を動かすのか教えていただけませんか?」とたずねた。むかでは考え始め、足の動きを観察し始めた。すると、足をコントロールしようとして混乱し、一歩も進めなくなった…意識して言葉をかけ始めると最初は必ずこのように言葉の選択に迷うことになるであろう。それでもこの段階を踏むことなしに子どもを援助することはできないのである。
(『児童心理』2000年8月号)

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コメント

足がもつれた百足になったりつつかれて丸く丸まった団子虫(ご存知でしょうか?団子虫)になったり、いそがしくしています。言葉の選択をするのは、子供を援助するため、だったのか・・・といまさらのようにこの文章を読んで気づいてめげていますが、どれが一体勇気付けになっているのか、なっていないのか、見極めるのも難しいです。相手に聞けばいいのでしょうが、相手があまのじゃくのようだったり、反応がストレートではなくて、答えるのに協力してくれないときは、何を基準に判断すればいいのでしょうか?

投稿: mari | 2008年9月16日 (火) 14時23分

「相手があまのじゃくのようだったり、反応がストレートではなくて、答えるのに協力してくれない」ということが、基準になるでしょう? 援助できる関係を築くことがまず必要です。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月16日 (火) 16時13分

なるほど。もつれた百足の足が一瞬そろった気がしました。私は子供たちと関係が悪いとは思っていなかったところが、そもそもの勘違いだったようです。援助できる関係であるにはお互いに「協力」できないと難しい、とおもうのですが、その「協力」しあえる関係にはお互いにあんまり無いようです。すごく悪くは無いから、悪くないと思っていたけれど、そこまでまだよくはないということがわかってちょっとすっきりしました。でも、なんだかすごろくの「ふりだしにもどる」にあたったときのようなショックはありますけれど。ま、「10回休み」よりはよしとします。 

投稿: mari | 2008年9月16日 (火) 20時22分

「すごく悪い」と思わなくてもいいですが、もっとよくすることは可能なのです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月16日 (火) 21時01分

「もっとよい」が「私の言うことを聞く」だと思っていたようです。私には今はそれ以外の「いまよりもっとよい」どんなのなのかどうも具体的に想像がつかないのですが、たしかにありそうな気がしてきました。

投稿: mari | 2008年9月16日 (火) 21時42分

365日24時間いつも言葉かけを慎重にするのはとても大変なことだと思います。それでも、身につけたいです。自分のために。

投稿: そらまめ | 2008年9月16日 (火) 21時46分

> 子どもへの言葉かけはどんなに慎重であっても慎重すぎることはない。

 それでいいのですね。よかったです。
 私は、日々、子どもに言葉かけをしようと慎重に考えていると、先生の書かれたむかでの例にあるように、意識し過ぎるあまり、何もしゃべれなくなったり、または言葉足らずで誤解されてしまったり、そのたびに反省し、後日訂正したり、本当に忙しいです。
 でも、この失敗の日々なしに子どもを援助することはできないのですね。勇気づけられました。嬉しいです。

>私がよくするのは「何かできることはない?」という言葉かけである。

 先生がよくされる言葉かけを私も言ってみようと思います。
 

投稿: キューブ♪ | 2008年9月16日 (火) 21時52分

さっき書き忘れたのですが、先生のご本「アドラー心理学入門」の副題には「よりよい人間関係のために」ってかいてある~~!と先日気づいて、目のウロコがぴくぴくしていたのでした。「よりよい」とか「better」というのは侮れないですね。

投稿: mari | 2008年9月16日 (火) 21時57分

>mariさん
 それはよかったです。いわせてもらえるなら、子どもが親のいうことを(何でも、でなくても大抵のことを)聞くとすれば、それはむしろ、悪くはないかもしれませんが、よいとはあまりいえないと考えています。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月16日 (火) 21時58分

>そらまめさん
 ぜひ。それでも失敗しますけどね。でも子どもは優しいです。困った親だなあ、と笑って許してくれます。もちろん、甘えてはいけませんけどね。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月16日 (火) 22時00分

>キューブ♪さん
 失敗しても「前向きに」反省すればいいのです。意識しなければ何事もかえることはできません。「うん、ある。ほっといて」といわれてもがっかりすることはありません。自立に向けて子どもたちが歩み出しているということですから。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月16日 (火) 22時03分

>mariさん
 気づかれましたね。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月16日 (火) 22時04分

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