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2008年9月29日 (月)

叱ることをめぐって(1)

 大人が子どもを叱ることができるとしたら、大人は子どもを自分と対等とは見ていないということです。むしろ自分よりも下であり、自分よりも劣っており、他方、自分は子どもよりも上、子どもよりも優れていると思っているからこそ、子どもを叱れるのです。
 対等な関係であれば叱る必要はありませんし、権威は教育には無縁のものです。それなのに、子どもを叱ったことがない親はいないといっていいくらいです。なぜでしょうか。また子どもたちは叱られているのにどうして親から見た問題行動を止めようとはしないのでしょうか。
 叱ることは百害あって一利なしです。子どもは自分がしている行動が親に叱られるものであることはわかっています。何もわからずに親が叱らないといけないと思う行動をするとすればごく幼い子どもに限られています。少し大きくなれば叱られることを覚悟の上で、親に叱られる行動をあえてするのですから、それに対して親が叱れば叱られることで親の注目を得られることを学び、そうなると子どもは親が叱っているのに問題行動を止めないのではなくて、叱っているからこそいよいよその行動を続けるということになってしまいます。
 子どもを叱ると子どもは叱った人のことをどう思うでしょうか。
 子どもの時一度だけ父に殴られたことがありました。あるいは実際には叩かれたりしてなくて、ただ大声で叱咤されただけなのかもしれないのですが、私の中では父に殴られたという形で記憶されていました。父はもうこんなことを覚えていないでしょうし、常は温厚な父があれだけ怒ったのは、きっと私が相当ひどいことをいったかしたかに違いないので、今そのことで父を責めるつもりはまったくないのですが、その時以来、父との関係が遠く感じられるようになったのは残念ながら本当です。
 親が困っている子どもの援助をしたいと思うのは当然でしょうし、実際、小さな頃は親が手を貸さないと子どもは一人で生きていけないというのも本当です。しかし子どもを援助するには子どもとの関係が近くなければなりません。関係が遠ければ子どもを援助できません。たとえ子どもが何か間違ったことをしていることに気づいたとしても、親が子どもに語りかける言葉は子どもには届きません。
 子どもにしてみれば困ったことに親のいうことは大体において正論であり、親は間違ったことをいっているわけではありません。しかし、関係がよくなければ、親がいうことが正しければ正しいほどかえってどんなことがあっても受け入れたくないと思うことはあるでしょう。そうなると、子どもを援助したくてもそうすることはできないことになります。アドラーは、罰を使った権威主義的な教育は、大人と子どもの関係を「疎遠」にする、といっています。
 叱ると親の期待に反して子どもとの関係を悪くしてしまいます。少なくとも親と子の距離を遠いものにします。はたして親に叱られて、叱ってもらってよかった、と思う子どもがいるでしょうか。私はそうは思わないのです。
 アドラーは大人が子どもにとっての「仲間」であることの重要性を何度もくりかえし強調しています。
 子どもたちの一番基本的な欲求は家庭や学校に居場所があると感じられることです。しかしどうしていいかわからない子どもは多くいます。他のことでは親の注目を得られないのでせめて叱られようと思っている子どを親が叱ればいよいよ親を困らせることになります。たとえ積極的な行動に出なくてもただ勉強しないという子どももいます。そのことで親が困ったり心配するのを知っているからです。
 子どもを叱るとどうなるでしょう。教師が叱ると学校に、親が叱ると家庭に自分の居場所がないという気持ちをいよいよ強くさせることになってしまいます。
 子どもが悪意からではなく、失敗するということはあるでしょう。息子が二歳の時にこんなことがありました。歩きながら、ミルクを飲んでいたのです。コップを手におぼつかない足取りで歩きながら飲んでいました。次の瞬間何が起こるかを予想することは簡単です。この話を時々講演の時に話すのですが、歩きながら飲んだらこぼす、と声をかけるという人が多いようです。私は声をかけませんでした。その時点ではまだ何も起こっていなかったからです。
 すると、息子はミルクをこぼしてしまいました。ここでどうするかということを親にたずねると、ミルクを拭くという答えが返ってきます。誰が拭くのですか、と問い返すと、私がです、と親が答えます。しかしこれは過保護ではないか、と私は思うのです。それにここで親が子どもがこぼしたミルクを拭いてしまうと子どもは一体何に学ぶだろうかと考えると、失敗しても親が尻拭いしてくれるということを学んでしまいます。
 そこで私は息子に「どうしたらいいか知っている?」とたずねました。もしも知らないといえば教えよう、と思いました。しかし、「知っている」というのです。「どうしようと思っているの?」とさらにたずねたら、「ぞうきんで拭く」というので、そうしてもらいました。可能な限りの原状回復をする。これが失敗の責任の取り方のひとつです。
 子ども同士が喧嘩をして、もしもどちらかが怪我をしたというような場合は、怪我をさせた子どもに、怪我をした子どもに謝ってほしい、と思います。しかし、子どもがミルクをこぼした時、私は別にそのことで感情的に傷ついたわけではないので、謝ってもらう必要はありませんでした。
 失敗は一度は許されます。しかし、同じ失敗が何度も繰り返されるのは問題でしょう。そこで、同じ失敗をしないために、こんなふうにたずねてみました。「これからミルクを飲む時にこぼさないようにするにはどうしたらいいと思う?」息子はしばらく考えてからこういいました。「これからはすわって飲む」。
 この一連の会話の中で、子どもを叱っていないことがわかるでしょう。子どもの失敗を放任したわけでも、子どもが取らないといけない責任を肩代わりもしませんでした。私が伝えたかったことは同じ失敗を繰り返してほしくないということでしたが、息子がどうしたらいいか知っていましたから伝えませんでしたが、伝える必要があったとしても、感情的に伝える必要はありませんし、それどころか感情的になって伝えたとしたら、子どもは親に反発して学ぶべきことを学ばなかったことでしょう。
 たしかに多くの親は叱ると子どもがすぐにいうことを聞く、行動を改めるといいます。しかし即効性はあっても持続性がないのではないでしょうか。もしも叱ることに効果があるのであれば、一度叱れば以後子どもは問題行動をすることはないでしょう。しかし実際にはそうではなく同じことが何度も繰り返され、そのたびに親が子どもを叱らなければならないとしたら、叱り方の程度が足りないのではなく、つまりもっと叱れば子どもはいうことを聞くというわけではなく、叱るという方法そのものに問題があると考える方が論理的でしょう(「叱ることをめぐって(2)」へ続く)。

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アドラー心理学」カテゴリの記事

コメント

こうして順番に読ませていただいていると、子供と関係がもっと今より悪いときのほうが、まだ多少は丁寧に接していたなあ、とキメがどんどん荒くなっているのに気づきます。

特に、
今回は、
>>私は声をかけませんでした。その時点ではまだ何も起こっていなかったからです。
と書かれているところがとても印象的でした。

その後の、
>>しかし、「知っている」というのです。「どうしようと思っているの?」とさらにたずねたら、「ぞうきんで拭く」というので、そうしてもらいました。

のように、いい感じで話が進めばいいな~と思うのですが、我家の現状では「(知っているけれど)おかあさんやって」と私に依頼が着ます。なかなか思う様には行かないものですが、「叱る」ことはずいぶんなくなりました。

投稿: mari | 2008年9月29日 (月) 22時36分

mariさん
 いつも初心に戻って下さい。
 頼まれたら、どう思われるのですか?

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月29日 (月) 22時48分

>>いつも初心に戻って下さい。

を読んだとき、どこかから大きな声で「そんなの嫌だ!」と聞こえてきて驚いてそのことであれこれ思い巡らしていました。「初心に戻る」ってもちろん言葉では知っていますが、どうやら私は「振り出しに戻る」と混同してしまって、抵抗があるようです。困ったものです。

>>頼まれたら、どう思われるのですか?

よからぬ事を山のように思います。以前は「しつけをちゃんしなくっちゃ」と知らないなら教えなくては・・・とか真面目に考えていた気もしますが、だんだん、知っているのにやらないのだから、と体は動かしますが、内心結構おこっているんだと思います。めんどくさいというか。

いいお答えができませんでした。すみません~。

投稿: mari | 2008年9月30日 (火) 00時36分

 振り出しに戻ることと初心に戻ることはもちろん違います。毎日、この人(子ども)と始めて会うと思おうという話をよくします。始めてあった時の気持ちに常に戻ることは関係をよくします。でも振り出しに戻るわけではありませんし、実際、戻れません。
 教えなくては、という発想が対等な関係には思えないのです。僕は頼まれたら大抵のことは引き受けますよ。少しも嫌ではありません。できない時はできないといいますが。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月30日 (火) 01時24分

教えてなくては・・・とは、子供たちが大きくなるにつれ思わなくなってきていますが、情報としてたくさん提供できるほうがいい、とは思います。実際はたいしてできないですけれど。

>>僕は頼まれたら大抵のことは引き受けますよ。少しも嫌ではありません。できない時はできないといいますが。

これは、私には想像の域を越えています。
私は自分のことだけでもめんどくさいのに、人のことまで・・・と子供に頼まれたらおもうことが多いです。もちろん、内容によりますが。これも、子供がもっと大きくなると自動的にマシになる科目かもしれませんから、今は、なんとかがんばることにします。(こぼした物を拭く、とか、汚れたものを片付ける、とか、時間割をする、とか、テレビのチャンネルを変える、とか、そういう他愛ないことです。)

投稿: mari | 2008年9月30日 (火) 19時24分

 そんなにめんどくさいですか。人のことならなおさら動けます。
 自分が出したものは自分で片付けるというのは僕はあまり好みません。もちろん、自分で片付けるのが望ましいでしょうが、気がついた人が片付けるということを学んでほしいのです。
 些事で子どもと権力争いをしてエネルギーを使う方がよほどめんどくさいと思います。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月30日 (火) 19時45分

 子供たちがいなければ、毎日お菓子やパンで食事を済ませたり、今以上にいい加減な生活をしていると思うので、そういう意味では、人のことのほうがまだ自分のことより動けるかもです。笑。対大人だと、もっともっとフットワークは軽快なのですけれどね。何が邪魔をしているのやら。
いつもなんだか反抗的なコメントばかりで、恐縮ですが、子供が例えばミルクをこぼしたのを失敗として、原状回復できるように援助していくのと、気がついた人が・・・というのとの使い分けというか違いが、私の中では、わかるようなわからないようなです。いつまでたってもいろいろこまごま変にこだわってしまって難しいです。

投稿: mari | 2008年10月 2日 (木) 22時27分

 「自分の子ども」だと思うからです。そして私はその子どもの「親」だと思うからです。
 こまごまとしたことにこだわる目的を教えましょうか、といってみたくなりますが…少し考えてみてください。
 ある子どもが食事中スプーンを床に落としました。拾ってくれる? と子どもにいわれた母親が拾うとしたところ父親が自分で落としたのだから自分で拾わせろ、といいました。かくてその家ではスプーンが三日もそのままになっていました。
 

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 2日 (木) 23時10分

私には二人息子がいますが、一人のほうは【自分の子】という感覚がもう一人に比べて少ないです。私の好みの関係のありかたとはなんとなく違いますが、客観的に見るとまあまあ適度な関係かもしれません。

目的、わかりました。二つありました。どうするかこれから考えます。

スプーンの例は以前にもどこかに書かれていましたね。どうも、いつまでたっても引き受けるとどんどん頼まれることになってますます仕事が増えると思い込んでいるようです。

投稿: mari | 2008年10月 3日 (金) 21時08分

mariさん
 私の、という所有代名詞がつくと、親子関係でも他のどんな対人関係でも面倒なことが多々起こるように思います。
 頼まれたことを「気持ちよく」引き受けないから、子どもはいよいよ頼むようになってくるように僕には思えます。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 4日 (土) 22時01分

「私の」から離れるのは心もとない感じがしてしまいますが、それがいろんなことにとってbetterの元なんでしょうね~。気持ちよく引き受けない人にはもう頼もうと思わなくなる、と私だったら思うと思うのですけれど、頼まれなくなるのも困るし、なによりも屁理屈ばっかり言ってないで、物は試しで気持ちよく引き受けてみることにします。といっても、以前も三日坊主は何度かあるはずなのですが、再トライしてみます。

投稿: mari | 2008年10月 5日 (日) 20時18分

 いつも、私が気持ちよく引き受けるかどうかだけが問題です。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 5日 (日) 20時39分

そういう生き方はきっとこれまでしたことがないのですが、せっかくだから、一度はそういう生き方もしてみることにします。最初はうまくできないかもだけれど、それもご愛嬌ということで。

投稿: mari | 2008年10月 5日 (日) 21時15分

 一度はとはいわず何度でもどうぞ。
 お願いを引き受けてもらったら嬉しいということを学んだ子どもは、大人が何かを頼んだ時に引き受けてくれますから。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 5日 (日) 23時08分

 なんとなく・・・ようやくというか、どの方向にむかっていけばいいのか、ぼんやりなのですけれど光が見えるような気がしてきました。消えないで~と今は頭の中にあるかすかな薄明かりを見失わないように・・・と静かにそろ~~りとしています。
と・・・とても感覚的なことをかいていますが、とりあえず、私はどうやらいろいろ間違っているみたいだ、ということがわかりかけてきました。いつもどんなコメントにも丁寧にお付き合いいただいてありがとうございます。

投稿: mari | 2008年10月 6日 (月) 14時48分

 本当にわかれば、全力疾走しても大丈夫ですから。間違っているというよりは、わかっている、知っているという思い込みが(少し)強い傾向があるのでは、と見ています。崖に向かって進んでいなければ大丈夫です。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 6日 (月) 15時15分

何度となく「ふり出しに戻る」を繰り返しているような気がしますが、こんどこそ(!)まともな方向へ進んで行きたいです。しったかぶりの思い込みは、自覚が乏しくてなかなかピンとこないのですが、しらないことがまだまだいっぱいあるんだ~と思いました。(それが、すでに知っている!と思ったことの証拠でもあるのでしょうけれど・・)がんばります~☆

投稿: mari | 2008年10月 6日 (月) 17時47分

はじめまして、ぬらちゃんのところから、お邪魔しました。
いつもぬらちゃんには子供のことを相談して、アドラーからの視点で目からうろこのようなことをいろいろ教えていただき、いつも、刺激されながら、自分の子育てについて、考えてきました。
先日もぬらちゃんのところで子供を叱るということで、教えをいただきました。
本当に、今まで、叱って、脅して言うことを聞かせていました。 でも、確かにそれって、子供の心に何にも響いていなかったし、届いていないばかりか、子供との関係も壊していたように感じます。
「褒めて育てる」 これも、子供に対して、どうして親がおべっか使ってまで、褒めて言うこと聞かせなくてはいけないんだって言う気持ちがあって、信用できない育て方だと思い込んでいました。
でも、子供ってというか、実際私もです。
褒められると、とっても気持ちよくて、自然にまたそういうことしたくなるんですよね。
怒鳴って、怒って、脅して、させるより、自然と自発的に自分が出来ることのほうがどんなにお互い居心地が良い関係でいられるか
そして、mariさんと岸見先生との上のやり取りを読んできて、もう、私もおんなじだわって思わず叫びそうになりました。
それで、いきなりお邪魔してしまったわけです。
子供に頼まれたことを快く出来るかって、出来ない私。
だって、なんで、親の私が子供のためにやらなくちゃいけないの? 子供が自分の事やって当然でしょって上から目線で考えてました。
それなのに、子供同士のことに「それくらいやってあげなさい、どうして、お互い優しく出来ないの?」 っていつも怒ってばかり。
それで、はっと気付いたんです。
親が子供に対して、優しく出来ていないんだから、優しくすることを学んでいないんじゃないかって。
すべてにおいてそれは言えたんです。
子供に、人に対して優しく、言葉も穏やかに
って、かっこいいこといっときながら、
実は母である私が、子供に対して、カッとなったときに汚い言葉で罵倒してしまったり、子供に対してやってあげることは、子供がますます調子に乗って、頼んできて、自分でやることを覚えないんじゃないかって思って、自分のことは自分でやるということを良いことに、やってあげてなかったって。
でも、ここまで、分かっていながらも、私もmariさんと一緒で、出来ないんです
なかなか分かっていても出来ない そんな自分にいつも落ち込んだり、反省したり、それの繰り返しで、前進が見られない。
ここまでわかっていても出来ない私
すべてをいっぺんにやろうとするからかしら。。。
まずは何から、子供に対してしてあげれば、子供も私も変われる一歩になるでしょうか?

投稿: 文ちゃん | 2008年10月 8日 (水) 00時34分

文ちゃん
 コメントありがとうございます。
 「すべてをいっぺんにやろうとする」のはやはりむずかしいと思います。むずかしいということを、子どもさんとの関係を変えられないことの理由にされているように見えます。そんなにむずかしいことではないのですよ。まず何から始めましょうか。子どもさんを私の大切なお友達と思ってみませんか? ぬらちゃん? 友達だからといっていつも自分の思うとおりのことをしてくれるわけではありません。その時に怒ったり、叱ったりしないでしょう?
「~しなさい」と命令するのではなく、疑問文か、仮定文を使って、「~してくれませんか?」とか「~してくれるとうれしい」と(大きな声を出さないで)いってみましょう。多くの場合、子どもは、その方がはるかに気持ちよくお願いを聞いてくれるでしょう。断れたら引き下がってみませんか? まず、このあたりから始めてみられたらと思います。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 8日 (水) 07時50分

なるほど。。。です 
そう思いながらも、何で子供に下出に出る必要が・・・なんて思った瞬間、 あっ!!!これがいけないんだって
子供って自分の言うことを聞くもんだという固定観念が
すべてをおかしくしているんですね
子供でも、友達みたいに接することが本来の姿なんだと認識すれば良いことなんだと

確かに、私には子供との関係を変える事は難しいと言い訳しながら、変えない自分の理由にしてました。

受験の子供を持つ親への言葉もとてもずしんと来るものがありました。
まさに、今受験生の母
勉強しない姿に注目して、文句ばかり
土曜日の午後遊びたいがために朝から一生懸命勉強している姿を見て、その努力を褒めるのではなく、そんな量じゃ足りないと文句付け、午後も遊びたい時間をわざと遅らせる
まるで、いじわるばぁさんそのものの私でした。
今はその長男いびり(?)で、自分の意地悪心がひとつに向いているので、他の妹弟に当たることは少ないのですが、(ほんとに、こんなひどい母親いませんよね、書いていて情けなくなるけど、自分のひどい姿を書くことで、少しでも本当の自分の姿を知ってもらいたくて・・・)受験のことがないときは、真ん中の娘との関係が悩みの種でした。
自分とはまるっきし違う性格の娘 上の長男は長女の私によく似ているので(親に脅され教育、育て方をされたこと)なのをするのにも私の目をうかがってばかり
でも、それがよく分かるので、そんなににくく感じることはないのですが、娘一人ということもあるのか、よく娘より息子のほうが可愛いという世間一般の意見を理由に、私も娘を可愛く思えない、娘のいいところを素直に認められない嫌な親になってしまってます。
でも、娘は凄く私の愛を欲しているのが手に取るように分かり、少し褒めると凄く喜んだり、抱きついてきたり、ほんとに体全体で私に喜びを表します。
そんな娘に申し訳ないという気持ちがある反面、素直にぎゅっとしてあげれない自分がもどかしくて、
ほんとに、長男にとっても長女にとっても嫌な最悪母親です。
だから、これをきっかけに、少しずつ自分から歩み寄り、
ありがとう、助かった という心の言葉を声に出して、
伝えてみようと思いました。
きっと、葛藤することもまだまだいっぱいあると思います。
でも、そのたびに、岸見先生の言葉を思い出して、
大切な友達として、子供と接してみる努力をしてみようと思います。
本当に、突然お邪魔した私に親切な教えをしていただき、ありがとうございました。
そして、ここに出会わせてくれたぬらちゃんにも本当に感謝しています。
また、悩みがあったら、お邪魔させてください
悩みというか、いろいろ意見書かせてもらい、勉強させてください。
よろしくお願いします

投稿: 文ちゃん | 2008年10月 8日 (水) 13時57分

 子どもさんたちに宣言されるといいと思いますよ。これまでずいぶんとひどいことをいってきたけど、これからは心を入れ替えようと思うので、よろしく、と。もうおわかりと思いますが、むずかしいことをいっているわけではありません。後は、決心だけです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 8日 (水) 19時51分

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