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2008年9月28日 (日)

誰の課題なのか

 子どもが勉強をしないのだがどうすればいいかという相談はよく受けます。私は相談にこられる親にこんなふうにたずねます。「もしも子どもが勉強しないとすれば、そのことの結末は誰にふりかかるでしょうか? 誰が困るでしょう?」 このようにたずねると質問の意図を理解した多くの親は「子どもです」と自信なさげに答えられます。自信たっぷりに「親です」と答えられると私は困ってしまうのですが、正直なところ、親が困るのだと考えている方もあるかもしれません。しかし、子どもは親のために勉強しているのではありません。かつて私たちも子どもだった頃、親のために勉強しているとは思わなかったのではないでしょうか? それとも親に叱られたくないから、あるいはほめてほしいと思って勉強していたでしょうか?
 あることの結末が最終的に誰にふりかかるか、あるいは、あることの最終的を誰がとらなければならないかを考えた時、勉強は子どもの課題である、といえます。勉強しないことの結末は、子どもにだけふりかかり、子どもだけが困るわけですから、勉強は子どもの課題であるということができます。
 このように勉強が子どもの課題であるならば、残念ながら親といえども子どもの課題にいわば土足で踏み込むことはできません。大人も、他人に自分のことについて、あれこれいわれたら嫌な気持ちがするでしょう。子どもに勉強をしてほしいと思うあまり、ことに子どもが親が期待するほど勉強していないことを知った時、親は子どもに「勉強した?」とか「早く勉強しなさい」と声をかけてしまいますが、勉強は子どもの課題なのですから、そんなふうに声をかけることは本来できないのです。もしも親が子どもを信頼し、勉強のことは子どもに任せるという勇気があれば、もう親は何もしなくてもいいといってもいいのです。実際、私は子どもに一度も「勉強しなさい」という言葉をかけたことはありません。
 朝子どもが起きないと親は子どもを起こしてしまいますが、朝起きることも子どもの課題なので親は起こすことはできません。それにもかかわらず、子どもを起こしてしまうのは、私が起こさなければ一人で起きられない、と親が考えているからです。子どもに朝声をかけていると、子どもたちは自分のことが信頼されていない、と思うでしょうし、ある日親が起こさなかった時に自分では起きることができず、その上、起きられなかったことを親のせいにすることもあります。
 また忘れ物をしないようにするというのは、ごく小さな子どもをのぞけば、子どもの課題です。しかし、親は小さな子どもが忘れ物をしないように毎日点検します。親が点検している限り、当然忘れ物をすることはありません。ところが、ある日、親が点検を怠ります。朝は忙しいので、子どもの持ち物の点検まで手が回らないことはたしかにあります。ところが困ったことに、そんな日に限って忘れ物をするのです。学校から帰ってきた子どもはいいます。「今日はお母(父)さんが忘れ物の点検してくれなかったから忘れ物をした」。こんな時ことさらに「課題」という言葉を学んでこなかった人でも、忘れ物をしないようにするのは、あなたの課題でしょうというような言い方をしているはずです。
 しかし、そんなわけにはいかないのだ、うちの子どもは放っておいたら勉強しない、朝一人で起きられない、といわれるのであれば(私はそういうことは信じませんが)、本来的には子どもの課題であるけれども、親と子どもの共同の課題にする手続きを踏むことはできないわけではありません。勉強についていえばこんなふうにいうことはできます。最近の様子を見ているとあまり勉強しているようには見えないけど、そのことについて一度話をしてもいいだろうか、というふうにです。しかし、このようにいっても多くの子どもは親からのアプローチを拒否することでしょう。その場合は、残念ながら親としてはできることはありません。事態はあなたが思っているほど楽観できるものとは思えないが、またいつでも力になるからその時はいってほしい。こんなことはいえるでしょう。
 「何かできることはあったらいってね」と声をかけることは安全でしょう。もしもしてほしいことはいってくるでしょう。しかし子どもの方から何もいってこないのであれば、何もしないのが一番望ましい、と私は考えています。
 もしも親が子どもの課題について何か援助を申し出てそれを子どもが受け入れたら、その時、本来子どもの課題であるけれども、子どもと親の共同の課題になったといいます。しかし、このことを聞いた多くの親は何でもかんでも共同の課題にできると思われるようなので、私は、親の方からは共同の課題にすることを考えない方がいいのではないか、と考えています。無論、子どもが援助を待っていることがないわけではないのですが、このことについてはまた別の機会に問題にするかもしれません。
 私の経験では、何か援助ができれば親として満足に思えるかもしれないのですが、こちらが思っているほど当てにはされないことが多かったように思います。息子が自転車になかなか乗れなかったことを思い出しました。親の心配をよそに「いいんだ、みんなは遊びにきてくれるのだから」といっていました。その頃、住んでいた家は校区の外れにあったのですが、たしかに自転車に乗れる子どもたちは、遠くても遊びにきてくれていました。
 そんな息子がある日自転車に乗りたいといい出しました。当時の親友の一人が転校することになり、その友人の家に遊びに行きたいからというのが動機でした。それからかなり真剣に練習をして、やがて自転車に乗れるようになりました。ひょっとしたらこのまま自転車に乗れない大人になるのだろうか、と思っていたらそんなことにはなりませんでした。
 逆に子どもの側から援助の依頼があれば、可能な限り援助してほしいのです。これはあなたの課題だから自分で解決しないといけないというのは、私にはあまりに冷たいと思います。もちろん、そんなふうに子どもの側から援助の依頼があったからといって、何もかも引き受けなければならないとは思いませんし、実際できないことのほうが多いでしょう。しかし可能な限り私は引き受けようと考えています。
 このように声をかけ、共同の課題にするのは、あくまでも子どもが自らの力で自分の課題を解決する力をつけてほしいからであって、親が子どもを支配するためではないことはいつも思い出す必要があります。
 子どもが勉強していないことがたしかに気になります。しかし子どもに勉強してほしいと思うのは親の課題です。子どもを援助する、あるいは子どもに協力するという美名のもとに容易に子どもを支配することになってしまいます。「あなたのために」という時、愛情という名に隠された支配かもしれません。あなたのことが心配だというのは、この心配から解放されたいということであったり、そのようにいうことで、あなたを自分の思うままに操りたいと願うことかもしれません。しかし、総じていえば、親はそんなふうに自分の課題を子どもに解決させることはできないのです。

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