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2008年9月14日 (日)

誰のための勇気づけか

 例えば、子どもが試験で思うような成績を取れなかった時、辛そうにしているのを見た時、大人はそれに対して、「勇気づけ」をしたいと思う。しかし、その子どもは大人から「勇気づけ」をしてほしいと望んでいるのだろうか。
 この場合、大人が子どもに不用意に声をかけたらどうなるか。「つらそうだね」というような言葉をかけるのである。すると、一体、子どもは何を学ぶだろう。私は人から慰めてもらわなければ、苦境を乗り越えることはできないということを学ぶことになるかもしれない。また、そのように声をかけてくれる人を子どもは「仲間」と思うかもしれないが、次回、同じような場面で声をかけるのを怠れるようなことがあれば、声をかけてくれない大人のことを「仲間」ではなく「敵」と見なすかもしれない。
 無論、これは勇気づけとはほど遠い。厳しいと思う人もあるかもしれないが、これからの人生において自分の思うようにならず、何かに失敗して臍を咬むような思いをすることを避けることはできないのであるから、そのような時に苦境を乗り越えられるような力をつけてほしいので、そのためにはわれわれが手を貸すことがかえってためにならないことがありうることを知っておきたい。勇気づけをするのであれば、このような時に、自分に切り抜ける力があることを子どもに学んでほしいのである。そのために親が不用意に声をかけないということも必要である
 ではどうすればいいのか。黙って見守るというのはどうだろう。大人の側の気持ちとしては、黙っているのではなく、声をかける方が楽なのである。それに、大人としての責任を果たしたような気になる。そのように感じて子どもに課題に手出し、口出しする大人は、実は、子どものことなど考えていない。
 子どものことを考えるのであれば黙って見守ればいい。ここで見守るという言葉を選んで使ったのには理由がある。子どもが置かれている状況を知っているけれども、あるいは見ているのであり、必要があれば、大人が動かなければならないことはあるからである。
 どうしても声をかけたいのであれば、「何かできることはありますか」という言葉をかけることはできるだろう。その上で、子どもからの援助の申し出があれば、可能な限り力になりたい。とはいえ、できることには限界があるのは本当である。そうであっても、課題の肩代わりをしなくても(そのようなことはできないのである)必要な援助によって、自らの人生の課題を解決できると信頼できるかは、日頃からの関係のあり方にかかってくるだろう。

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