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2008年9月 3日 (水)

多田富雄『寡黙なる巨人』

寡黙なる巨人
 『寡黙なる巨人』(集英社)をようやく読み終える。
 感情失禁でよく泣いたというような記述でも、僕もそうだったと入院していた時のことを思い出してしまい、そのたびに思いに耽ってしまうからである。その上、母が同じ脳梗塞で若くして亡くなった時のことも思い出した。その母の場合も、リハビリをするところまで至らず、意識も戻ることはなかったのだが、予後がよければ、母もリハビリに励んだはずなのである。
 ある日、突然ひらめいたことがあった、と多田はいう。手足の麻痺は脳神経細胞の死によるものであるから決して元に戻るのではない。もしも機能が回復するとしたら、元通りに神経が回復したのではなく、新たに創り出されるものだ。そのことを多田は、もう一人の自分、新しい自分が生まれてきたのだ、という。今は弱々しく緞帳だが、無限の可能性を秘めた新しい人は多田の中で胎動していた。縛られたまま沈黙している巨人だった。新しいものよ、早く目覚めよ。
 リハビリはただ機能の回復訓練を意味するものではないだろう。リハビリ(rehabilitate)という言葉の元々のラテン語の意味は、もとへ戻すというより、再び(re-)能力を与える(habilitare)ということである。問題は、その能力とは何かということである。ただ機能の回復を意味するのであれば、その見込みがなければ打ち切るという発想に結びつくことになってしまう。たとえ目に見えた形で機能の回復が困難なケースであっても、多田の言葉を借りれば、新しい人の再生は可能である。『アドラーに学ぶ—生きる勇気とは何か』で(特に第三章『老いと病気』)僕は人が病気になることとはどういうことか考察し、病気からの回復は病気になる前の元の健康な身体に戻ることではないと書いた。病気になっていいことはなかったし、失ったものがはるかに多かったが、それでも病気になって得たことといえば、「新しい人」が目覚めたことである。心筋梗塞の場合は、心筋の(一部の)壊死という形で残り、今も心電図は異常を示している(この壊死の部位と範囲によって同じ心筋梗塞でも人によって転帰は異なる)。幸い、僕の場合、カテーテルによる治療だけではすまずバイアス手術まで受けることになったが、心臓リハビリもし、元気になることができた。それでも、目覚めた新しい人を再び眠らせない努力は日々必要だと感じている。

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