« 手を伸ばせばそこに | トップページ | よいしょ »

2008年9月27日 (土)

わかりやすいということ

 お笑い番組などで、どこで笑えばいいかわかるように、録音された笑い声が流されることがある。録音ではなく、ここぞというところで(実際にはそれほどおもしろいわけではない)大きな笑い声が入っていることもある。私の代わりに笑ってくれているのだ、と思う。私の代わりに楽しんでくれる。ビデオをせっせと録画するのと同じである。夜は忙しいのでテレビを観ている暇がない。そこで録画をしておく。では後で観るかというと、観ない。好きな映画がビデオ・ライブラリに入っていると考えるだけで満足感を得られる。ビデオデッキが私の代わりに映画を観てくれているように見える。
 スラヴォイ・ジジェクが次のようにいっているのは違うように思う。
「たとえ一日の辛い労働の後で疲れ果てた私が、笑わずにただ画面をじっと観ていたとしても、番組が終わったときには、サウンドトラックが私の代わりに笑ってくれたおかげで、私はずいぶん疲れがとれたような気になる」(『ラカンはこう読め』紀伊國屋書店、p.50)
 疲れがとれたような気になるだろうか。どこで笑うかまで指示してもらいたくないと思う。
 いつかフィンランドの教育について書かれた本を読んだことがある(フィンランドはPISAは一位を取った)。その本には随所にまとめがあり、参照箇所まで書いてあった。ある精神科医が書いた本には重要なところは赤字になっていた。僕の個人的な好みでいえば、大事なところ、印象に残ったところには自分で線を引け、付箋をつけ、あるいは、ページの隅を折り(dogear)。欄外に書き込みたい。ところが、そういうことが、あらかじめ著者(出版社)側でしてあれば、読書の興味は半減するといってもいいように思う。この本はこう読め、と読み方が指示されているように思ってしまう。
 もちろん、本でも講義でもわかりやすいことが望ましいことはいうまでもないが、わかりやすさばかり追求するのはどこかおかしくはないか、と最近ある予備校の先生に話をしたところ、それは予備校まででいいことで、大学は自分が足らないことを知るところだと理解しているという答えが返ってきた。僕は学生の頃受けた哲学の講義を思い出した。哲学の講義が聞くだけで(あるいはノートを取るだけで)その場で何もかも理解できただろうか、と。
 哲学者の大森荘蔵についてこんなことが書いてあったことを思い出した。今の大学はよくわかるおもしろい授業をめざし、学生は、学年末のアンケートに、レジュメのわかりやすさを含めて授業に関する事項を5段階で評価するという。講義をわかりやすいものにする努力が必要だが、野矢茂樹は「私はどうにもレジュメを配って、よく分かる面白い授業をめざしている大森荘蔵の姿が、想像できないのである」という(野矢茂樹『大森荘蔵―哲学の見本』)。
 講義に出ただけでわかる哲学…
 しかし、他方で、こんなことも野矢はいっている。野矢が大森から学んだことは、「つまるところ」「自分で何を言っているかのか分からないことは喋るな」ということであった。ある時、何かの議論の時に、ある「小賢しい」学生が小賢しい調子で、
「すると先生、今度は…が分からなくなりますね」
と発言した。大森は軽く驚いた調子で、
「そんなことも分からないのですか」
と尋ね返した。

|

« 手を伸ばせばそこに | トップページ | よいしょ »

エッセイ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 手を伸ばせばそこに | トップページ | よいしょ »