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2008年9月30日 (火)

叱ることをめぐって(2)

叱ることをめぐって(1)の続き)
 親は子どもを叱ることを止めません。
 仮に子どもが叱られて子どもを改善したらどうでしょうか。それは親にとって喜ばしいことだと思う人もあるかもしれませんが、子どもが矯正されて行動を変えたのであれば、いつかまたまた叱られるようなことをやってみようと機会をうかがっています。
 見つからなければ、叱られなければいい、と子どもが親の見ていないところで問題行動をするようでは困ります。
 また、親は叱るので恐いからという理由でいい子でいるとしても、そのような子どもはたしかに問題行動はしないでしょうが、自分で考えて積極的に何かを行おうとはしないでしょう。失敗をして親に叱られることを恐れるからです。私は子どもが時に羽目を外すようなことがあったとしても、自分の考えで行動できる子どもになってほしい、と思います。スケールの大きな子どもになってほしいのです。
 積極的な子どもにもしも改善する必要があれば、それをしないように教えることの方が、積極的でない子どもに積極的であるよう教えるよりもたやすいことです。
 人の顔色をうかがうのも、また人によって態度を変えるのも望ましくはありません。これは実際学校でも家庭でも起こりえます。いつも教えている先生が恐い先生だとします。子どもたちは授業中私語もなく、背筋をまっすぐにして身じろぎもしないで先生の話を聞いているでしょう。ところがある日、この先生が体調を壊したり、何か用事があって休みます。そこで別の先生が朝教室にやってきます。その先生は大きな声を出して子どもたちを叱ったりはしません。そのことがわかった途端、クラスが収拾がつかなるというようでは、この先生の問題というよりは常に力で抑えつける先生の子どもたちとの関わりがあるように私は思います。
 ある保育園で保育士が子どもの指導に竹刀を使うという話を聞いたことがあります。親の方も当然そのことを承知でその保育園に子どもを預けているわけですから、親がそのことで文句をいうということはないのでしょうが、竹刀で教育を受けた子どもたちが小学校に入った時、教師が竹刀を手にしていなければ、子どもたちは教師が竹刀を持っていないことで静かにしてはいないというような混乱に陥るのは必至ではないでしょうか。
 叱ることをやめたら子どもはいよいよつけあがると思う人があるかもしれませんが、試みに叱るのを止め、子どもに口やかましく説教することを止めただけでも子どもがどれだけいい子になるかは驚くべきです。しかし、子どもはこんなはずはない、と大人の変化をとまどいながら見ています。
 そしてある時、子どもは我慢できなくなって大人を試すようなこと、つまり大人が叱らないわけにはいかないことをするのです。そしてその時、子どもは思います。「やっぱりな」と。
 しつけのために子どもを叱ることは必要だとなお考える人があるでしょうが、先に子どもの失敗への対処について見たように、叱らなくても個々の場面でどうすればいいかということについては必ず学ぶことでしょう。
 家庭で見られるのはこんなことです。子どもの態度があまりにひどいので母親が子どもにいいます。「お父さんが帰ってきたら叱ってもらいますからね」。これを聞いた子どもは知っているのです。この母親は自分には問題を処理する能力を持っていない、だから父親に頼るのだ、と。
 せめて叱られようと思っていたら叱るのをやめるだけでは事態は同じか悪くなることがあります(この点については「叱る代わりにできること」を参照してください)。
 よくこの子は反抗期で、という言いかたをしますが、あれは本当は違うのです。いつか、小学校でおかあさん方のこんな会話を耳にしたことがあります。
 「たいへんやねえ。子どもがなかなかいうこと聞いてくれない」
 「うちもよ、でも後一年で反抗期は終わるから…」
 残念ながらそういうものではありません。今までの話からおわかりかと思うのですが、大人が上に立って、叱ったり、命令し、支配するということを続けると、やがてそのことに子どもは反抗するでしょう。しかし、もしも大人が子どもたちに無理な抑圧をしなければ、子どもは反抗する必要はないわけです。ところが、大人が明らかに子どもたちが反抗するようないい方をしていれば、いつまでも反抗期は続くように見えますが、反抗期という期間があるわけではないのです。
 大人が明らかに子どもが反発、反抗しても仕方がないと思えるような接し方をしていて、その上で、子どもがそれをそのまま受け入れているというのは、それはそれで問題だと思うことがあります。子どもたちには反抗的になることはないが、主張しなければならないということを教えたいのです。
 それにしてもどうして叱ることを止められないのでしょう。ここでいくつかのことを区別しておきます。
 まず、子どもが危険なことをしようとしているまさにその瞬間を見たとしましょう。その時はたしかに大声を出さないと子どもが行動の意味を知らずにしようとしていることを止めることができないことはあります。しかし、子どもの行動を止めさせるために大きな声を出すことは叱ることではありません。
 いつかテレビのニュース特集で悪いことは悪いとその場で教えないといけないと考える教師が生徒に注意を与えているところを見たことがあります。その教師は常は穏やかな人なのかもしれないと思ったのですが、感情的に口汚く子どもの人格を攻撃するように懇々と説教を始めました。子どもがもしも自分の行動の意味を知らないのであれば、教えればいいだけのことで、感情的になる必要はありません。もし知っているのであれば、先に見たように、子どもはあえてそのことを行ったのですから叱ることは逆効果です。叱らないという私の話を文膜の中で理解しない人は、そのことだけをとらえて放任だという批判をすることがありますが、歩きながらミルクを飲んでいてこぼしてしまった息子への対処を例について見たように、放任、さらに子どもに代わって親が責任を取れば、子どもは無責任を学んでしまいます。何もしないといっているわけではないのです。

 ではどうすればいいのでしょう。毅然とした態度で臨むのです。ただしこれは言葉で理解できる以上にむずかしく、感情的になるのは容易です。毅然としているつもりで、感情的で威圧的な親は多いのです。私はこの毅然とした態度を威圧的な態度と区別しています。
 講義をするために何度か富山に行ったことがあります。いつもは、雷鳥号に乗るのですが、ある時、時間の関係で白鳥号に乗っていきました。これは大阪発、青森行きの特急です。雷鳥号ですと富山が終点なので安心なのですが、白鳥は青森まで行くので寝過ごしてしまったらどうしよう、と最初京都から乗った時は緊張していましたが、講義の準備をするうちに、いつのまにか眠り込んでしまいました。
 眠りに落ちて間もなく、急にまわりが騒がしくなりました。見ると、途中の駅で、中年の男性が乗り込んできました。指定席なのに、一つの席にすわったかと思うと、また別の席に移っていきます。困ったことになった、と思っていたところ、しばらくして、車掌さんが切符を見にきました。無賃乗車だったのです。そのことはまわりの乗客にもわかっていたのですが、私はめんどうなことにはかかわりたくないと思って何もできないでいました。車掌はその人に気風の呈示を求めましたが、切符を持っていません。
「〔切符を拝見していないのは〕あなただけです。他の方の切符は拝見しました。他の乗客の皆さんの迷惑になります。私はこの列車の責任者です。降りてください」
 まわりの乗客は固唾を飲んでこの二人のやり取りを見ていました。降りるようにといわれて、今にも殴りかかりそうな様子でした。結局、その男性は、高岡駅で不満そうに降りて行きました。
 この時の車掌さんの態度は、少しも威圧的では終始冷静なものでした。その態度は毅然としたもので、勇敢に対処する姿は乗客の心を打ちました。「私はこの列車の責任者です」という言葉に権威を振りかざすという響きはなく、威圧的な態度と毅然とした態度は違うものであることに思い至りました。
 ある人の態度が威圧的なものか、あるいは、毅然としたものなのかは何によって判断できるでしょうか? 威圧的な態度であれば、当人だけではなくて、まわりの人も怒られているような気になります。今の場合は、実際には誰も何もできませんでしたが、車掌さんを応援しようという気持ちでした。無賃乗車のおじさんと一緒になって怒られているという気はしませんでした。ですから、もしもこの二人のやりとりの途中に乗客の誰かが、他の用事で車掌さんに話しかけていたとしたら、きっと車掌さんは、おそらくはいつもそうであるように、にこやかにその人に話しかけたのではないかと想像できます。しかし威圧的な人は、まわりの人に対しても威圧的であることが多いのではないか、と思います。自分には関係ないとわかっていても、怒りの矛先が自分の方にまで向けられるのではないかと思うと、そのような人には近づかないでおこう、かかわりを持たないでおこうと私は思ってしまいます。同じ車両に乗り合わせていた大学生らしい女性のグループからは車掌の対応を見て「かっこいい」という声をもらしていました。
 まわりの人が怖れて萎縮していれば、きっと威圧的な態度を自分が取っていると判断できるでしょう。もっともそんな余裕もないのかもしれませんが。
 電車の中で携帯電話を使って話をする人を時々見かけます。ある若い女性がかかってきた電話に出て話を始めました。そんなに大きな声ではありませんでしたが、前にすわっている男性がすかさず注意しました。「携帯で電話してはいけないことを知らないのか」。その声は車内中に響き渡り、ちょうど携帯でメールを読んでいた私は思わず携帯をポケットにしまってしまいましたが、このような場合も注意するのであれば大きな声を出す必要はなかったでしょう。
 ある日ペースメーカーを使っている人が電車に乗ってこられました。携帯電話の電波がペースメーカーを誤作動させることは知られていますが、実際に携帯電話の電源を切っている人は稀であり、電源を切るのは優先座席付近だけ、あるいは特定の車両に限定するというふうにルールは緩和されてきていますが、実際にペースメーカーを使っている人が乗ってこられる場面に遭遇したのはその時が初めてでした。同行していた女性がはっきりとした声でいいました。「ペースメーカーを使っていますから、携帯の電源を切ってもらえますか?」それを聞いた人は皆ただちに電源を切りました。
 子どもの行動に対処する時も、必要な場合は、毅然とした態度で接すればいいので、叱る必要はありません。叱るつもりはなくても、ただ、注目しないつもりでいても、知らない間に、威圧的な態度を取っているということはよくあることです。

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コメント

 毅然とした態度で臨むことは難しく、感情的になることは容易であり、安易であることは日常よく感じます。それは、怒ったり、叱ったりする時だけではありません。スーパーやコンビニのレジで「ありがとうございま~す」と言葉の語尾を上げた上に伸ばして応対されると私は自分が幼児扱いされた気がしてうれしくありません。
 職場での電話応対も「○○社でございま~す」「お世話になりま~す」や「お世話になります~」などの甘ったれた言い方が、丁寧で上品なことだと勘違いしている人が多いようです。私は「ございます」の「ま」にアクセントをつけて強調することよりも最語尾の「す」をきちんと相手に届けるほうが丁寧だと思っているので、ほかの同僚からはお硬い対応をする人だと思われているようです。しかし好印象を与えるであろうと予測されているそれらのプラスの感情ですら、言葉や声の抑揚に載せると、載せた本人が思っている効果とは異質なものを聞き手が受け取る気がします。「お客様のことを大事に思っています」という気持ちよりも、「こんなにお客様のことを大事に思っている私の思いを受け止めてよ」という恩着せがましさを感じるのは私だけでしょうか?
 威圧的な態度で相手を圧倒する時、相手は恐怖は感じても「この人の言うことはもっともだ」と心から納得することはないと思います。私が子育てをしていた頃は子どもに対して威圧的な態度で叱ったことが何度かありましたが、今になって思えば親の私の方が言う事を聞かない子どもに対して恐怖心を抱いたので、それを乗り越えるため、それを子どもに悟られぬように威圧的な態度に出たのだと理解できます。子どものことを上から見下したのではなく、下から見上げて吼えまくっていただけだったと恥ずかしく思います。
 

投稿: ちばちゃん | 2008年10月 1日 (水) 22時30分

「親の私の方が言う事を聞かない子どもに対して恐怖心を抱いた」といわれることをおもいしろいと思いました。子どもになめられたらいけないという人、普通に話してはいうことを聞いてもらえないと思う人もありますね。普通に話せばいいのにね。一種の劣等感といえるかもしれません。

投稿: 岸見一郎 | 2008年10月 2日 (木) 07時38分

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