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2008年9月29日 (月)

協力して生きる

 自分の問題の課題は自分で解決しなければならないとはいえ、残念ながら私たちの能力は限られていますから、自分の課題をすべて自力で解決することはできません。実際、自分の課題であっても、どこまでも自分の力だけで解決することは不可能ではありませんが、困難であるということはよくあることです。何とか自分の力だけで何とかしなければならないという思い込みが強いというのも困ることがあります。できることは自分で解決しなければなりませんが、できないこともできる、あるいはできるべきだと思って無理をする人もいます。
 そのような場合、他の人の援助を受けていいと思うのです。逆に、そのような人がいれば、援助したいのです。共同体の全員、あるいは、一部が、共同して解決しなければならない問題は、絶えず起こってきます。
 そこで、「親の課題」「子どもの課題」の他に「共同の課題」を設定するわけです。しかし、何でもかんでも共同の課題になるわけではありません。本来は個人の課題であり、本人の責任において解決しなければならないからです。共同の課題になるためには、まず、共同の課題にしてほしいという依頼があり、共同の課題にしようという了承があることが必要です。即ち、両方、あるいは、複数の当事者の了解が必要です。私の課題、相手の課題は、了承のあるなしに関わらず区別できます。しかし、共同の課題の場合は、このような話し合いが必ず必要です。
 課題を分離することは最終の目的ではなく、誰の課題かわからなくなってしまっていて、問題が錯綜していることが多いので、まず課題を分けることから出発し、最終的には、協力して生きていきたいのですが、子どもが親の意にそわない生き方をしている時に、親が共同の課題にすることで、子どもの人生に不当に介入するようなことがあってはいけないと思います。
 ある日保育園で、幼い頃から知っている友人に会いました。もっともその人は自転車だったので、挨拶を交わしただけでしたが。どうしてこんなところでこんな時間に、という表情が見えました。中学校を卒業してからはめったに会うことはなかったのですが、保育園で再会したのでした。子どもたちを保育園に送り迎えしていた頃のことに、三人の子どもの母親になっていたその人から子どものことについて相談されたことを思い出しました。あの頃は保育園で私はよくお母さん方に呼び止められ、相談にのったものです。
 この友人がもちかけたのは、子どもが保育園に送っていこうと思ってもぐずぐずいって、なかなか出かけられないのだがどうしたらいいか、というものでした。
「それは一度子どもさんたちに相談してみたらどうだろう」
「え? そんなんいいの?」
 次の日も会ったのでどうだったかたずねました。
「教えてもらったとおり、子どもに相談しました。『朝、保育園に行く時間が遅くなって困っているのだけどどうしたらいい?』『そんなん、簡単や。朝、早く起きたらいい』それができないから困っているのに、と思ったけど、さらにたずねてみた。『じゃあ、朝早く起きるためにはどうしたらいい?』『前の晩、早く寝る!』たしかに子どもたちは夜、八時になったら寝てしまいました。いつもは十時になっても十一時になっても寝ないのに。それで、今朝は六時に起きてきて、いいましたあ。『お母さん、早く学校行こう!』って」
 一体、何が起こったのか、教えてほしい、とその人はいいました。
 子どもたちが朝ぐずぐずしてなかなか保育園に行こうとしなかったのは親の注目を得たいからです。そうすれば親はいらいらしたり、怒ったりするという形で注目します。ここでは親の側が、子どもがしていることで困っている時、そのことについて子どもに話し、協力を求めてもいいということを知ってほしいのです。
 この相談を受けた時、私は今起こっていることを説明し、どう対処すればいいか助言をすることももちろんできたわけですが、そうしなかったことのもう一つの理由は私よりも母親の方が子どものことをよく知っていると思ったからです。
 「この頃、子どもの様子が変なのです」という母親が相談にこられる時に、精神科医やカウンセラーが「そんなことはない」と断定できるでしょうか。週に一度面接をしても患者のことを知っているといえるほどの接触はなく、子どものことで親が相談にきているというケースでは、子どものことについては、そもそも最初から親の話を通してしか子どものことを知らないわけです。たしかにその短い面接の間に専門的な知見で患者を見ることは治療者の技量ですが、親の方が子どもと触れる時間ははるかに長いのは間違いありませんし、親も自信を持っていいと思います。
 とはいえ、本当に親が自分の子どものことを知っているかといえば、そうとはいえないかもしれません。「この子のことは親の私が一番よく知っている」と自信たっぷりにいう人はありますが、その自信がかえって子どものことを見えなくさせているかもしれないのです。
 親子関係でなくても、もしも誰かにあなたのことは私が一番知っているといわれた時、どう感じるでしょうか。この人は私の一番の理解者だと思う人もあれば、どれほど親しい関係でも私のことを何もかも知っているということはありえないと思う人もあるでしょう。
 子どものことは何でも知っている、と思ってしまった時、子どものことをそれ以上知ろうとはしなくなりません。私はこの子のことは何も知らないとまでは行かなくても、私はこの子についてすべてのことを知っているわけではない、と思って子どもと関わる方がかえって子どものことを知ることができるともいえます。
 知らないことがあってはいけないというのではなく、知らないからこそそのことについては子どもにたずねてもいいわけですし、たずねられる関係を築いていかなければなりません。
 子ども自身もどうしていいかわからないことがあれば。助けを求めてくることはあります。それが先に見た子どもの課題であり、子どもが自分で解決するしかないことであっても、そのような助けを求めてこられたら、もちろんできる範囲であっても可能な限り子どもの力になりたいですし、協力して生きるというのはそういう意味です。

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