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2008年9月 4日 (木)

子どもを信頼する

 もしも子どもが理想的に従順で、親が何もいわなくても毎日遅くまで勉強に取り組んでいれば、親は何もすることがありませんし、苛立つことなく心穏やかに日々を過ごしていれば、まわりからは受験なのにそんなのでいいの、といわれることでしょう。しかし、実際には、そのような子どもも親もたくさんいるとは思えません。
 前回は、子どもが親の助言を気持ちよく受け入れられるためには、いい親子関係を築く必要があるということ、そしてそのことを可能にする条件として、子どもを尊敬するということがどういうことなのか考えてみました。今回は、さらに、子どもを信頼することについて考えてみましょう。
 子どもが勉強するという時に、その言葉を素直に信じられますか? ここで私が信頼という言葉を使うのは、条件付きの信用と区別して、条件をつけないで信じる、あるいは、信じる根拠がない時にこそ信じるということをこの言葉で表したいからです。明日からダイエットを始めると家族にいった時に、そんな言葉は聞き飽きたと家族や友人からいわれたら嫌な気がするのではありませんか? 実際には自分でも決心が十分固まっているわけではなく、今度もまた数日で挫折するかもしれないという予感があったとしてもです。そんな時に、無条件に信じてくれる人がいれば、その人のことを好ましく思うでしょう。子どもも同じようなことを勉強のことで感じているのです。そして、子どもたちも自分を信頼する人の信頼を裏切ることが難しいことを知っています。
 子どもについて二つのことを信じたいのです。まず、子どもが自分の課題を自力で解決できると信じることです。勉強を例に取れば、勉強しないことの結末は最終的に誰にふりかかるのか、あるいそのことの最終的な責任を誰が取らなければならないかを考えれば、勉強は子どもの課題であるということができます。このように勉強が子どもの課題であれば、たとえ子どもが勉強していないように見えても、すぐに「勉強した?」とか「早く勉強しなさい」ということはできません。およそあらゆる対人関係のトラブルは他人の課題にいわば土足で踏み込むことから起こります。こんな時、子どもは自力で自分の課題を解決できると信じて、見守ってほしいのです。「何か手伝えることがあったらいってね」ということはできます。たしかに自分の課題であっても、他人の援助を必要とすることはたしかにあるからです。もっとも、私(僕)の代わりに勉強してといわれても、親としてはどうすることもできないのですが。
 次に、子どもの親から見て問題と思える言動にも必ずよい意図がある、と信じることです。多くの場合、子どもには悪意はありません。ただ親の注目を自分に向けたいのです。それなのに、どうしていいかわからないのです。もしも勉強しなければ親が一番困ると見れば、子どもは勉強しないことで親が自分の方に振り向くことを望んでいるのです。ですから、子どもを叱れば、叱られるという形で注目されることを学びますから、いよいよ勉強しなくなるでしょう。ですから叱らないで、あなたのことをちゃんと見ているということを伝えればいいのです。この場合も、親が子どもを信頼すれば、子どもは信頼に応えないわけにはいかないでしょう。
(『ぷろぽ』2007年7月号)

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コメント

子どもの勉強とは関係ありませんが、心にとめておきたいなと思うことがありました。
私は両親の事が心配で、生活のことについてあれこれ口出しをしてしまいます。
若い者の意見も聞いてもらいたいと思っていたのですが、『両親の課題に土足で踏み込んでいた』のかな?と思いました。
子どもも親も大切なひとだからこそ、あれこれ言ってしまうのですが少しだけ離れて見守ることが大切なのですね。

投稿: そらまめ | 2008年9月 5日 (金) 09時03分

そらまめさん
 親のことを心配していけないわけではありませんし、実際、心配なことは多々ありますが、われわれも親からわれわれの課題にいわば土足で踏み込んでこられたら嫌なように、親も同じように感じるわけです。親の課題に手続きを踏み込まず介入するとやがて子どもからの援助を受けることを拒むことになり、そうなると本当に援助を必要な時に、親を援助できないことになってしまいます。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月 5日 (金) 09時22分

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