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2008年9月24日 (水)

マニュアルは作れない

 『アドラーに学ぶ』のあとがきに次のように書いた。 
「どんな時に何をし何を語ればいいかという倫理のマニュアルのような本を書くことはできなかった。それは私に書く力がなかったからではなく、アドラーがそのような本を書くことを禁じていると私が理解したからである」
 どんな場面で、どんなふうに言葉をかければいいのかという育児、子育てのマニュアルを求める人は多い。ところが困ったことに、そんなに簡単ではない。なぜなら子どもは一人一人違い、同じ子どもはいない。子どもが置かれている状況はみな違う。そうなると、本では一般的なことは学べても、個別的なことは学べないことになる。それでも、無原則にいわばいきあたりばったりに子どもと関わるよりは、原則的なことを学ぶことは意味があるが、そういうことを地道に学ぶよりは、即効性のある答えをほしくなる人は多い。そこでよく、応用問題の答えを覚えようとしないことを注意しなければならなくなる。たとえ覚えても、少し問題がひねってあればたちまち答えに窮したという経験を持っている人は多いのではないかと思う。
 それでも、答えが出るのならまだしもそもそも答えが出ない問いが世の中にはある。出ないとまではいいきれないにしても、少なくとも、自動販売機から飲み物の缶が音を立てて出てくるようなわけにはいかない問いである。
 私が長く学んでいる哲学においては(そして心理学ももともと哲学から発しているわけであるが)、どんな問題も、いつも哲学の根本問題につながる。日常的な問題も、である。しかし、どんな問題も根本問題につながるが、日常的な問題から離れていくわけではない。なぜなら哲学は具体的な問題を扱うからである。三羽の雀が木にとまっているところに猟師がそのうちの一羽を銃を撃てばどうなるかという問いは、算数では二羽という答えが正しいが、あらゆる条件を加味する哲学においては、大きな音がするという条件も考察から外さないから、二羽という答えは出てこないだろう。哲学は、特定の条件を抽出するという意味での抽象的な学ではなく、具体的な学である。
 この意味ではアドラー心理学も具体的な学といえる。一般的な子どもを扱うわけではないからであり、そこから始めて考えることはあっても、最終的には、他ならない「この」子ども(一般的に人)とどう関わるかを見ていくからである。だから他の子どもに当てはまることでも、自分の子どもには当てはまらないことは往々にしてある。
 このようなことを考えて、私はよく即効性のある答えを求めたくなる気持ちを抑えて古典といわれる本を読むことを勧めることがある。古典は最初から結論が決まっていてそこへと言葉巧みに案内されるようなものではない。だからたしかに効率はよくないのである。の
 哲学者の田中美知太郎が『哲学初歩』のはしがきの中で、古典を読むことを勧めている。
「古典に書かれてあることは、必ずしも意味の補足しやすいものとは限られず、読者自身の気持ちからも離れていることが多いのではないかと思われるけれども、しかしそのような距離を克服しようとする努力が、かえって思考の勉強になるのではないかとも考えられる」
 今日の人にとってはアドラーの本すら既に古典であろう。田中は上の引用に続けていっている。
「すぐに私たちが納得するような、今日の問題を論じた言葉だけに耳を傾けていると、わたしたちはいつまでたっても自分たち自身の先入見や思想的盲点に気がつかず、自分の気に入ったようにしか、ものが考えられないで、かえって時流の乗る他の者どもに支配され、自分自身の本当に独立した考えをもつことが出来なくなるのではにかと恐れられる」
 何事も学ぶのは大変である。

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コメント

何か新しいことを知った時、それまで自分が知らなかったという事も一緒に知るわけですよね。そんなとき、痛い!というような気持ちに私はなるのですが、先生はならないですか?そんなときは、どんな風に思われるのですか?

投稿: | 2008年9月26日 (金) 00時08分

 あります。他人事のような読み方をしていればそんなふうに思わないはずですが、これはきっと今、学ぼうとしていることとを適切に理解していることの証だが、受け入れるのに抵抗しているのだ、とまずは考えます。でも、そこで止めないで、最終的に受け入れるかどうかということは保留にして(本でしたら)先を読み進めるようにしています。哲学の本ですと、読んでいて、ふいに目の前の階段が消えるような思いをしたことがありました。それまでの自分の世界が消えてしまうような思いともいえます。それなのに、他の人が何かの知識を得るためのようにその本を読み、平気でいられるのを驚いたことがあります。今も毎日アドラーの著作を訳していますが、アドラーのいうことは一々痛いです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月26日 (金) 00時28分

>>ふいに目の前の階段が消えるような思い

ここで「階段」というように表現されているのが印象的です。
そういえば、先生が何かのときに「螺旋階段」と使われていることがあるのを思い出しました。

私はあるとき足がすくんで足をそろえたまま一歩も動かせない、どこに一歩を踏み出していいのか検討がつかないという不思議な気持ちになったことがあるのですが、その時は、私ひとり分がのれるうくらいのお皿の上に立って宙に浮いている感じがして、回りは全部何も無い空間のように感じていました。その後は、とりあえずお皿以外のところは全部地面~と思えるので歩ける様になりましたけれど。

山をイメージすると登ってばっかりで大変そう~~と思いますが、階段というのは、踊り場もあるしなんだかいいなあ~と思いました。

抽象的な話ですみません~。

投稿: mari | 2008年9月26日 (金) 14時01分

 先のコメントにはお名前がなかったのでどなただろうと思って返事しました。
 山にも尾根道があります。いつか雲母坂から比叡山に登った時のことを時折思い出しました。大半は整備されていない険しい道だったのですが。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月26日 (金) 14時29分

 あ、名前なかったですね、すみません。名前がなくても送信できていたのですね。今見たら(任意)ってなっているからできるんですね。今度から気をつけます。山登りも人が登っているのを見ているよりも自分も登った方が楽しいのでしょうね。

投稿: mari | 2008年9月26日 (金) 16時39分

 自分しか自分の人生を生きられないのと同じで、でも、それとてただただ苦しいわけではないのです。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月26日 (金) 17時04分

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