« 子どもを信頼する | トップページ | The storm is coming ... »

2008年9月 4日 (木)

世界がなければ

I am on your side ...

 遅くまで原稿を書いていたのでよく寝付けずにいたら5時くらいに娘の携帯のメールが鳴り出す。今日は文化祭で、始発の電車で出かけ、本番前の最後の稽古をするということだった。娘は監督なので舞台には出ないが、一時間ほどの間続く台詞の応酬に圧倒された。最後に娘も一瞬舞台に出てきた。幕が下りたとたん、幕の向こうから歓声が上がった。この瞬間を、生涯忘れないだろう。
 世界は僕がいなくてもあり続けるが、世界がなければ、僕は存在することはない。世界は僕のためになくても、僕は世界の外にいることはできない。

|

« 子どもを信頼する | トップページ | The storm is coming ... »

Flickr」カテゴリの記事

日記」カテゴリの記事

コメント

>世界は僕がいなくてもあり続けるが、世界がなければ、僕は存在することはない。
ここで言われる「世界」は、「僕」の頭の中にある概念としての「世界」でしょうか?
それとも客観的に存在する(と考えられる)世界でしょうか?
いずれにしても「僕」が存在しなければ、そんな「世界」は存在しないのでは?
ところで、そもそも「僕」は存在するのでしょうか?

投稿: ひで | 2008年9月 5日 (金) 16時54分

世界は・・・・のところを読んで、私は世界=地球、自然というようになんとなく受け取っていました。これまでは、こういう回文みたいな、語呂合わせ見たいな文(すみません、いい表現が出てこなくて)は理解できなかったのですが、写真を撮るようになって、すこしわかるような気がしてきました。

投稿: mari | 2008年9月 5日 (金) 17時51分

ひでさん
 これは体調が悪く、ところが後に心筋梗塞に帰結するような病気に罹患していることを知らなかった頃にある日日記に記した言葉です。今は、実感です。ここでいう世界は客観的な世界ではありません。誰もが自分固有の意味づけをしてこの世界を見ていますから、同じ世界に生きているように見えても、同じではありません。他方、概念としての世界ではありません。世界について概念を持つことはありますが、世界が、では私の中にあるかというとそうともいえません。世界は私の中にある舞台のようなものではないでしょう。「僕」が存在しなければ、どんな意味であれ「世界」は存在しないのも同然という人はあるかもしれませんし、その意味はわかりますが、だからといって「世界」が「僕」なしに存在するとはいえないと考えています。
 全身麻酔をかけられ仮死状態にあった僕にとって世界は存在しないのも同然でしたが、そしてその間、世界について問題にすることは意味のないことだったでしょうが、僕の不在の間の世界は存在し続けていました。覚醒した時にそう思いました。その時、前とは違う新しい世界を僕が創造したというふうにいえるのかもしれませんが、そんなふうには思いませんでした。
 そもそも「僕」は存在するのかという問題はなお答えられないでいます。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月 5日 (金) 19時15分

>「世界」が「僕」なしに存在するとはいえないと考えています。
同感です。
「僕」にとっての「世界」が立ち現われてくるのは、「僕」を意識した瞬間です。
つまり「僕」と「世界」は、同時成立です。
「僕」が消滅すれば、「僕」にとっての「世界」も消滅します。
問題は、「僕」にかかわりのない「世界」が存在するのかです。
つまり「僕」がいなくても、存在し続ける「世界」がどこかにあるのか?

投稿: ひで | 2008年9月 5日 (金) 22時40分

ひでさん
 「僕」にかかわりのない「世界」はおそらくは(きっと、と考えるようになってきています)「僕」がいなくなっても存在するのでしょうが、今、生きているこの世界であの世(とよくいわれるもの)が存在するか考えるほど実感することはむずかしいです。
 麻酔から覚めなかったら、手術中急変し、心臓が動き出さなかったらどうなったのだろう、と今もしばしば考えます。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月 5日 (金) 22時49分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 子どもを信頼する | トップページ | The storm is coming ... »