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2008年9月27日 (土)

ほめることの問題

【近年、病気のために講演する機会が激減しましたが、こんな話をよくします】
 今日も広く行われているほめることの問題を考えてみましょう。育児書を読むとよく書いてあり、多くの人がその正しさを信じて疑わないのは、叱らないでほめるという育児の方法です。実際には叱ってはいけないといわれても子どもを日々叱ってばかりという親は多いでしょうが、叱ることを積極的に肯定する人でなければ、叱らないことはできていなくても、ほめて育てることには手放しで賛成し、子どもをいつもほめている人は多いように思います。
 一体、ほめるとはどういうことでしょうか。
 ある時、三歳の娘さんをカウンセリングに同行された人がありました。いつも預かってもらっている人がその日は都合がつかなかったようで、やむを得ず一緒にきたということでした。カウンセリングの間、外で待っていてもらうこともできませんから母親と娘さんに椅子を用意してすわってもらえました。親は子どものリュックサックにお菓子やおもちゃ、お気に入りの縫いぐるみをいれてこられました。カウンセリングの間おとなくしていることはできない、と思ってのことであることはすぐにわかりました。準備してきたものは子どもが泣いた時に何とか気をそらすためのものでした。親は子どもが一時間のカウンセリングの間おとなしく待てるとは思ってられなかったわけです。
 この場合、この三歳の子どもは一時間おとなしくしていることはできないのでしょうか。私はもっと幼い子どもも自分が置かれている状況を理解しているのを知っています。
 娘が一歳になっていよいよ保育園に入園という四月にこんなことがありました。入園式を前に娘は水疱瘡になってしまいました。水疱瘡になると発疹が消えないと預かってもらえません。入園式にも行けず、やっと登園した日は、慣らし保育が終わり、長時間保育が始まる日でした。七時半に娘と保育園に行きました。そして保育士さんに「今日からよろしくお願いします、七時に迎えにきますので」といいました。その保育士さんの顔には困惑の表情が浮かびました。あるいは、初めて保育園にくる子どもを初日から長時間保育に預けようとする親の非常識を責められたのかもしれません。私は一言いっておいた方がいいと思いました。
「おそらく娘は私の姿が見えなくなるとなくと思います。でもきっと三十秒で泣き止みますから」
 その日遅く保育園に迎えに行くと、朝話をした保育士さんが職員室から出てこられました。
「たしかに泣きました。でもお父さんがいってられたのとは違って…私、時間を計っていたのですけど…二十秒で泣き止みましたよ」
 私はこれがたまたまのことだとは思わないのです。自分がもしも娘の立場だったらどう感じるか、想像してみてください。父親の姿が見えなくなったので泣き始めました。当然、目の前にいるこの人(娘にはその人が保育士であるとはわからなかったでしょう)は私に構ってくれると思いました。ところが、この人は私なんか見ていない、時計を見ている…もしも保育士さんが今日が初めてなんだと身構えたり、かわいそうねというようなことをいって構っていたら、娘は泣き続けていたでしょう。しかし自分が置かれている状況を理解した娘は、泣いても自分の方を見てもらえないので、方針を変えることにしました。泣くのを止めよう、と思いました。そう思った娘は泣くのを止めました。すると保育士さんが時計を見るのを止めたのです。「おや二十秒!」そうつぶやいた保育士さんは娘を見てくれました。私を抱き上げてくれた保育士さんのことを忘れないでおこう…娘はそう思ったかもしれません。
 さて話を戻すと、親と一緒にやってきた三歳の子どもは親の予想に反して、カウンセリングの間おとなしく待つことができました。自分の置かれている状況がはっきりと理解できていたのです。最初、親の方は子どものことが気がかりでならないように見えました。そこで私は母親が私の話に注意を向け、子どものことが気にかからないように努めました。ほどなく母親は私との話に夢中になり、子どものことに気を留めなくなりました。
 もっと大きな子どもであれば親とカウンセラーの話に耳を傾けます。いつか母親に同行した小学校三年生の子どもはカウンセリングの間、つまらなそうにしていましたが、しっかりと私と母親の話を聞いているのがわかりました。アドラーは、人は自分に向かって話された言葉よりも、自分について他の人が話していることに関心を持つものだ、といっています。
 話の本題はここからです。カウンセリングを終わって帰る時に、親は子どもにこんなふうに声をかけました。
「お利口さんやったね、よく待てたね」
 これは子どもをほめているでしょう? 多くの親は何の疑問もなく当然のように子どもをほめます。
 では、以上のことを念頭において次のような状況を考えてみましょう。
 ある日カウンセリングにこられた男性に帰り際に「今日はどうやってこられましたか」とたずねたら、「妻に車で送ってきてもらった」という答えが返ってきました。それなら次回から彼女にも同室するように勧めました。そうすれば彼は帰ってからカウンセリングの内容について問われることもないわけです。
 次のカウンセリングには夫婦そろってこられました。一時間のカウンセリングが終わりました。夫は妻に何というでしょう。さきほどの母親が子どもにいったような言葉はかけないでしょう。もしも「よく待てたね」といわれたらどう感じるでしょう。普通の言語感覚を持っている人であれば、ばかにされたと思わないでしょうか。講演でこの話をした時に一番前にすわっていた人がすかさず「私だったら、そんなこといわれたら嫌です」と答えられました。でも、自分がそんなふうにいわれたら嫌なことを子どもにはいっているわけです。それなのになぜ子どもには「よく待てたね」といい、大人にはいわないのでしょう。
 「よく待てたね」はほめ言葉です。この言葉を大人にはいわないのです。それなのに子どもはほめます。何が違うのでしょうか。これは対人関係の構えの問題です。つまり、相手が自分よりも劣っている思っている時にほめるのであり、ほめるというのは、能力がある人が能力のない人に上から下に向かっていう評価の言葉である、と私は理解しています。大人がいわれて嫌な言葉は子どもにとっても同じです。

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コメント

今日は小学校の運動会でした。ふだん、大人だけの生活の中にいると「XXしなさい」といわれることを聞くことはないのですが、学校にいると何度もマイクで「XXしなさい」と先生が指示をされているのを聞くことになり、ちょっと怖かったです。最後のハイライト種目、5,6年生の組体操が終わり、感動しながら拍手で退場したばかりの生徒たちを見ていたら早速「5,6年生、さっさとマットを片付けなさい!」と放送が入りました。私も人のことはえらそうには言えないけれど、先生方にももうちょっとお言葉に気をつけてもらえたら~と思います。

ところで、「おそらく娘は私の姿が見えなくなるとなくと思います。でもきっと三十秒で泣き止みますから」
というのは、どうしてそういわれることにされたのだろう?こんな風にいえるといいな~と思いました。

投稿: mari | 2008年9月27日 (土) 23時49分

「〜してください」でもいいと思うのですけどね。厳密にいうと、これも命令ではあるのですが。同じいい方を子どもが大人にしたら、大人は怒るでしょう。いやそれは話が違う。子どもが大人に〜しなさいというのはいけないのだ、大人が子どもに〜しなさいというのはいいのだという人は大人と子どもの対等ということの意味がわかってられないのだと思います。
「おそらく娘は…」といったのはなぜでしょうね。とっさの判断ではあります。でも、泣き止まないとはまったく考えていませんでした。

投稿: 岸見一郎 | 2008年9月28日 (日) 00時00分

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