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2008年9月の記事

2008年9月30日 (火)

raindrops falling on the pond ...

raindrops falling on the pond ...

 雨が降っていたが、朝、写真を撮りに出かけた。こんな雨の日には蝶はどうしているのだろう、と思って藤袴が群生している場所に行ったら、浅葱斑が飛んでいて驚く。僕のカメラでは届かない気の高いところに止まってしまって、その後、しばらく待ったが現れなかった。
 写真は近くの池で。雨の日は雨の日のよさがある。
 その後、夕方まで明日の近大姫路大学での講義の準備をした。久しぶりに哲学の講義ができるのが嬉しい。気がかりは体力で片道三時間はかかると思うが、行ってから90分の講義をして、また三時間かけて帰るなどということができるのかわからない。

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叱ることをめぐって(2)

叱ることをめぐって(1)の続き)
 親は子どもを叱ることを止めません。
 仮に子どもが叱られて子どもを改善したらどうでしょうか。それは親にとって喜ばしいことだと思う人もあるかもしれませんが、子どもが矯正されて行動を変えたのであれば、いつかまたまた叱られるようなことをやってみようと機会をうかがっています。
 見つからなければ、叱られなければいい、と子どもが親の見ていないところで問題行動をするようでは困ります。
 また、親は叱るので恐いからという理由でいい子でいるとしても、そのような子どもはたしかに問題行動はしないでしょうが、自分で考えて積極的に何かを行おうとはしないでしょう。失敗をして親に叱られることを恐れるからです。私は子どもが時に羽目を外すようなことがあったとしても、自分の考えで行動できる子どもになってほしい、と思います。スケールの大きな子どもになってほしいのです。
 積極的な子どもにもしも改善する必要があれば、それをしないように教えることの方が、積極的でない子どもに積極的であるよう教えるよりもたやすいことです。
 人の顔色をうかがうのも、また人によって態度を変えるのも望ましくはありません。これは実際学校でも家庭でも起こりえます。いつも教えている先生が恐い先生だとします。子どもたちは授業中私語もなく、背筋をまっすぐにして身じろぎもしないで先生の話を聞いているでしょう。ところがある日、この先生が体調を壊したり、何か用事があって休みます。そこで別の先生が朝教室にやってきます。その先生は大きな声を出して子どもたちを叱ったりはしません。そのことがわかった途端、クラスが収拾がつかなるというようでは、この先生の問題というよりは常に力で抑えつける先生の子どもたちとの関わりがあるように私は思います。
 ある保育園で保育士が子どもの指導に竹刀を使うという話を聞いたことがあります。親の方も当然そのことを承知でその保育園に子どもを預けているわけですから、親がそのことで文句をいうということはないのでしょうが、竹刀で教育を受けた子どもたちが小学校に入った時、教師が竹刀を手にしていなければ、子どもたちは教師が竹刀を持っていないことで静かにしてはいないというような混乱に陥るのは必至ではないでしょうか。
 叱ることをやめたら子どもはいよいよつけあがると思う人があるかもしれませんが、試みに叱るのを止め、子どもに口やかましく説教することを止めただけでも子どもがどれだけいい子になるかは驚くべきです。しかし、子どもはこんなはずはない、と大人の変化をとまどいながら見ています。
 そしてある時、子どもは我慢できなくなって大人を試すようなこと、つまり大人が叱らないわけにはいかないことをするのです。そしてその時、子どもは思います。「やっぱりな」と。
 しつけのために子どもを叱ることは必要だとなお考える人があるでしょうが、先に子どもの失敗への対処について見たように、叱らなくても個々の場面でどうすればいいかということについては必ず学ぶことでしょう。
 家庭で見られるのはこんなことです。子どもの態度があまりにひどいので母親が子どもにいいます。「お父さんが帰ってきたら叱ってもらいますからね」。これを聞いた子どもは知っているのです。この母親は自分には問題を処理する能力を持っていない、だから父親に頼るのだ、と。
 せめて叱られようと思っていたら叱るのをやめるだけでは事態は同じか悪くなることがあります(この点については「叱る代わりにできること」を参照してください)。
 よくこの子は反抗期で、という言いかたをしますが、あれは本当は違うのです。いつか、小学校でおかあさん方のこんな会話を耳にしたことがあります。
 「たいへんやねえ。子どもがなかなかいうこと聞いてくれない」
 「うちもよ、でも後一年で反抗期は終わるから…」
 残念ながらそういうものではありません。今までの話からおわかりかと思うのですが、大人が上に立って、叱ったり、命令し、支配するということを続けると、やがてそのことに子どもは反抗するでしょう。しかし、もしも大人が子どもたちに無理な抑圧をしなければ、子どもは反抗する必要はないわけです。ところが、大人が明らかに子どもたちが反抗するようないい方をしていれば、いつまでも反抗期は続くように見えますが、反抗期という期間があるわけではないのです。
 大人が明らかに子どもが反発、反抗しても仕方がないと思えるような接し方をしていて、その上で、子どもがそれをそのまま受け入れているというのは、それはそれで問題だと思うことがあります。子どもたちには反抗的になることはないが、主張しなければならないということを教えたいのです。
 それにしてもどうして叱ることを止められないのでしょう。ここでいくつかのことを区別しておきます。
 まず、子どもが危険なことをしようとしているまさにその瞬間を見たとしましょう。その時はたしかに大声を出さないと子どもが行動の意味を知らずにしようとしていることを止めることができないことはあります。しかし、子どもの行動を止めさせるために大きな声を出すことは叱ることではありません。
 いつかテレビのニュース特集で悪いことは悪いとその場で教えないといけないと考える教師が生徒に注意を与えているところを見たことがあります。その教師は常は穏やかな人なのかもしれないと思ったのですが、感情的に口汚く子どもの人格を攻撃するように懇々と説教を始めました。子どもがもしも自分の行動の意味を知らないのであれば、教えればいいだけのことで、感情的になる必要はありません。もし知っているのであれば、先に見たように、子どもはあえてそのことを行ったのですから叱ることは逆効果です。叱らないという私の話を文膜の中で理解しない人は、そのことだけをとらえて放任だという批判をすることがありますが、歩きながらミルクを飲んでいてこぼしてしまった息子への対処を例について見たように、放任、さらに子どもに代わって親が責任を取れば、子どもは無責任を学んでしまいます。何もしないといっているわけではないのです。

 ではどうすればいいのでしょう。毅然とした態度で臨むのです。ただしこれは言葉で理解できる以上にむずかしく、感情的になるのは容易です。毅然としているつもりで、感情的で威圧的な親は多いのです。私はこの毅然とした態度を威圧的な態度と区別しています。
 講義をするために何度か富山に行ったことがあります。いつもは、雷鳥号に乗るのですが、ある時、時間の関係で白鳥号に乗っていきました。これは大阪発、青森行きの特急です。雷鳥号ですと富山が終点なので安心なのですが、白鳥は青森まで行くので寝過ごしてしまったらどうしよう、と最初京都から乗った時は緊張していましたが、講義の準備をするうちに、いつのまにか眠り込んでしまいました。
 眠りに落ちて間もなく、急にまわりが騒がしくなりました。見ると、途中の駅で、中年の男性が乗り込んできました。指定席なのに、一つの席にすわったかと思うと、また別の席に移っていきます。困ったことになった、と思っていたところ、しばらくして、車掌さんが切符を見にきました。無賃乗車だったのです。そのことはまわりの乗客にもわかっていたのですが、私はめんどうなことにはかかわりたくないと思って何もできないでいました。車掌はその人に気風の呈示を求めましたが、切符を持っていません。
「〔切符を拝見していないのは〕あなただけです。他の方の切符は拝見しました。他の乗客の皆さんの迷惑になります。私はこの列車の責任者です。降りてください」
 まわりの乗客は固唾を飲んでこの二人のやり取りを見ていました。降りるようにといわれて、今にも殴りかかりそうな様子でした。結局、その男性は、高岡駅で不満そうに降りて行きました。
 この時の車掌さんの態度は、少しも威圧的では終始冷静なものでした。その態度は毅然としたもので、勇敢に対処する姿は乗客の心を打ちました。「私はこの列車の責任者です」という言葉に権威を振りかざすという響きはなく、威圧的な態度と毅然とした態度は違うものであることに思い至りました。
 ある人の態度が威圧的なものか、あるいは、毅然としたものなのかは何によって判断できるでしょうか? 威圧的な態度であれば、当人だけではなくて、まわりの人も怒られているような気になります。今の場合は、実際には誰も何もできませんでしたが、車掌さんを応援しようという気持ちでした。無賃乗車のおじさんと一緒になって怒られているという気はしませんでした。ですから、もしもこの二人のやりとりの途中に乗客の誰かが、他の用事で車掌さんに話しかけていたとしたら、きっと車掌さんは、おそらくはいつもそうであるように、にこやかにその人に話しかけたのではないかと想像できます。しかし威圧的な人は、まわりの人に対しても威圧的であることが多いのではないか、と思います。自分には関係ないとわかっていても、怒りの矛先が自分の方にまで向けられるのではないかと思うと、そのような人には近づかないでおこう、かかわりを持たないでおこうと私は思ってしまいます。同じ車両に乗り合わせていた大学生らしい女性のグループからは車掌の対応を見て「かっこいい」という声をもらしていました。
 まわりの人が怖れて萎縮していれば、きっと威圧的な態度を自分が取っていると判断できるでしょう。もっともそんな余裕もないのかもしれませんが。
 電車の中で携帯電話を使って話をする人を時々見かけます。ある若い女性がかかってきた電話に出て話を始めました。そんなに大きな声ではありませんでしたが、前にすわっている男性がすかさず注意しました。「携帯で電話してはいけないことを知らないのか」。その声は車内中に響き渡り、ちょうど携帯でメールを読んでいた私は思わず携帯をポケットにしまってしまいましたが、このような場合も注意するのであれば大きな声を出す必要はなかったでしょう。
 ある日ペースメーカーを使っている人が電車に乗ってこられました。携帯電話の電波がペースメーカーを誤作動させることは知られていますが、実際に携帯電話の電源を切っている人は稀であり、電源を切るのは優先座席付近だけ、あるいは特定の車両に限定するというふうにルールは緩和されてきていますが、実際にペースメーカーを使っている人が乗ってこられる場面に遭遇したのはその時が初めてでした。同行していた女性がはっきりとした声でいいました。「ペースメーカーを使っていますから、携帯の電源を切ってもらえますか?」それを聞いた人は皆ただちに電源を切りました。
 子どもの行動に対処する時も、必要な場合は、毅然とした態度で接すればいいので、叱る必要はありません。叱るつもりはなくても、ただ、注目しないつもりでいても、知らない間に、威圧的な態度を取っているということはよくあることです。

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秋色

autumn colors

 寒い日が続く。今日も晴れることはないようだ。この写真は27日に撮った。この写真をFlickrに載せたら、ヨーロッパでも日本でも同時に秋になる、そんなことは前には思ってもいなかった、とフランスの人からコメントがつく。オーストラリアは春。

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2008年9月29日 (月)

叱ることをめぐって(1)

 大人が子どもを叱ることができるとしたら、大人は子どもを自分と対等とは見ていないということです。むしろ自分よりも下であり、自分よりも劣っており、他方、自分は子どもよりも上、子どもよりも優れていると思っているからこそ、子どもを叱れるのです。
 対等な関係であれば叱る必要はありませんし、権威は教育には無縁のものです。それなのに、子どもを叱ったことがない親はいないといっていいくらいです。なぜでしょうか。また子どもたちは叱られているのにどうして親から見た問題行動を止めようとはしないのでしょうか。
 叱ることは百害あって一利なしです。子どもは自分がしている行動が親に叱られるものであることはわかっています。何もわからずに親が叱らないといけないと思う行動をするとすればごく幼い子どもに限られています。少し大きくなれば叱られることを覚悟の上で、親に叱られる行動をあえてするのですから、それに対して親が叱れば叱られることで親の注目を得られることを学び、そうなると子どもは親が叱っているのに問題行動を止めないのではなくて、叱っているからこそいよいよその行動を続けるということになってしまいます。
 子どもを叱ると子どもは叱った人のことをどう思うでしょうか。
 子どもの時一度だけ父に殴られたことがありました。あるいは実際には叩かれたりしてなくて、ただ大声で叱咤されただけなのかもしれないのですが、私の中では父に殴られたという形で記憶されていました。父はもうこんなことを覚えていないでしょうし、常は温厚な父があれだけ怒ったのは、きっと私が相当ひどいことをいったかしたかに違いないので、今そのことで父を責めるつもりはまったくないのですが、その時以来、父との関係が遠く感じられるようになったのは残念ながら本当です。
 親が困っている子どもの援助をしたいと思うのは当然でしょうし、実際、小さな頃は親が手を貸さないと子どもは一人で生きていけないというのも本当です。しかし子どもを援助するには子どもとの関係が近くなければなりません。関係が遠ければ子どもを援助できません。たとえ子どもが何か間違ったことをしていることに気づいたとしても、親が子どもに語りかける言葉は子どもには届きません。
 子どもにしてみれば困ったことに親のいうことは大体において正論であり、親は間違ったことをいっているわけではありません。しかし、関係がよくなければ、親がいうことが正しければ正しいほどかえってどんなことがあっても受け入れたくないと思うことはあるでしょう。そうなると、子どもを援助したくてもそうすることはできないことになります。アドラーは、罰を使った権威主義的な教育は、大人と子どもの関係を「疎遠」にする、といっています。
 叱ると親の期待に反して子どもとの関係を悪くしてしまいます。少なくとも親と子の距離を遠いものにします。はたして親に叱られて、叱ってもらってよかった、と思う子どもがいるでしょうか。私はそうは思わないのです。
 アドラーは大人が子どもにとっての「仲間」であることの重要性を何度もくりかえし強調しています。
 子どもたちの一番基本的な欲求は家庭や学校に居場所があると感じられることです。しかしどうしていいかわからない子どもは多くいます。他のことでは親の注目を得られないのでせめて叱られようと思っている子どを親が叱ればいよいよ親を困らせることになります。たとえ積極的な行動に出なくてもただ勉強しないという子どももいます。そのことで親が困ったり心配するのを知っているからです。
 子どもを叱るとどうなるでしょう。教師が叱ると学校に、親が叱ると家庭に自分の居場所がないという気持ちをいよいよ強くさせることになってしまいます。
 子どもが悪意からではなく、失敗するということはあるでしょう。息子が二歳の時にこんなことがありました。歩きながら、ミルクを飲んでいたのです。コップを手におぼつかない足取りで歩きながら飲んでいました。次の瞬間何が起こるかを予想することは簡単です。この話を時々講演の時に話すのですが、歩きながら飲んだらこぼす、と声をかけるという人が多いようです。私は声をかけませんでした。その時点ではまだ何も起こっていなかったからです。
 すると、息子はミルクをこぼしてしまいました。ここでどうするかということを親にたずねると、ミルクを拭くという答えが返ってきます。誰が拭くのですか、と問い返すと、私がです、と親が答えます。しかしこれは過保護ではないか、と私は思うのです。それにここで親が子どもがこぼしたミルクを拭いてしまうと子どもは一体何に学ぶだろうかと考えると、失敗しても親が尻拭いしてくれるということを学んでしまいます。
 そこで私は息子に「どうしたらいいか知っている?」とたずねました。もしも知らないといえば教えよう、と思いました。しかし、「知っている」というのです。「どうしようと思っているの?」とさらにたずねたら、「ぞうきんで拭く」というので、そうしてもらいました。可能な限りの原状回復をする。これが失敗の責任の取り方のひとつです。
 子ども同士が喧嘩をして、もしもどちらかが怪我をしたというような場合は、怪我をさせた子どもに、怪我をした子どもに謝ってほしい、と思います。しかし、子どもがミルクをこぼした時、私は別にそのことで感情的に傷ついたわけではないので、謝ってもらう必要はありませんでした。
 失敗は一度は許されます。しかし、同じ失敗が何度も繰り返されるのは問題でしょう。そこで、同じ失敗をしないために、こんなふうにたずねてみました。「これからミルクを飲む時にこぼさないようにするにはどうしたらいいと思う?」息子はしばらく考えてからこういいました。「これからはすわって飲む」。
 この一連の会話の中で、子どもを叱っていないことがわかるでしょう。子どもの失敗を放任したわけでも、子どもが取らないといけない責任を肩代わりもしませんでした。私が伝えたかったことは同じ失敗を繰り返してほしくないということでしたが、息子がどうしたらいいか知っていましたから伝えませんでしたが、伝える必要があったとしても、感情的に伝える必要はありませんし、それどころか感情的になって伝えたとしたら、子どもは親に反発して学ぶべきことを学ばなかったことでしょう。
 たしかに多くの親は叱ると子どもがすぐにいうことを聞く、行動を改めるといいます。しかし即効性はあっても持続性がないのではないでしょうか。もしも叱ることに効果があるのであれば、一度叱れば以後子どもは問題行動をすることはないでしょう。しかし実際にはそうではなく同じことが何度も繰り返され、そのたびに親が子どもを叱らなければならないとしたら、叱り方の程度が足りないのではなく、つまりもっと叱れば子どもはいうことを聞くというわけではなく、叱るという方法そのものに問題があると考える方が論理的でしょう(「叱ることをめぐって(2)」へ続く)。

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彼岸の花

flowers in heaven ...

 寒い日になった。昨日、今日は11月上旬の気温になると教えてくれた人があって、それでもその時は実感できなかったが、たしかに朝、前日よりさらに肌寒いことがわかった。昨日、会った父が寒い、寒いというので僕の服を出して着せたが、風邪を引くことがなければ、と思う。
 写真は27日にいつも行く植物園で撮った。今年は木が切り払われたので、昨年よりはずいぶんと明るくなったが、それでもなお昼なのに暗い。強い光が差し込み、彼岸花が妖しく輝いた。

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協力して生きる

 自分の問題の課題は自分で解決しなければならないとはいえ、残念ながら私たちの能力は限られていますから、自分の課題をすべて自力で解決することはできません。実際、自分の課題であっても、どこまでも自分の力だけで解決することは不可能ではありませんが、困難であるということはよくあることです。何とか自分の力だけで何とかしなければならないという思い込みが強いというのも困ることがあります。できることは自分で解決しなければなりませんが、できないこともできる、あるいはできるべきだと思って無理をする人もいます。
 そのような場合、他の人の援助を受けていいと思うのです。逆に、そのような人がいれば、援助したいのです。共同体の全員、あるいは、一部が、共同して解決しなければならない問題は、絶えず起こってきます。
 そこで、「親の課題」「子どもの課題」の他に「共同の課題」を設定するわけです。しかし、何でもかんでも共同の課題になるわけではありません。本来は個人の課題であり、本人の責任において解決しなければならないからです。共同の課題になるためには、まず、共同の課題にしてほしいという依頼があり、共同の課題にしようという了承があることが必要です。即ち、両方、あるいは、複数の当事者の了解が必要です。私の課題、相手の課題は、了承のあるなしに関わらず区別できます。しかし、共同の課題の場合は、このような話し合いが必ず必要です。
 課題を分離することは最終の目的ではなく、誰の課題かわからなくなってしまっていて、問題が錯綜していることが多いので、まず課題を分けることから出発し、最終的には、協力して生きていきたいのですが、子どもが親の意にそわない生き方をしている時に、親が共同の課題にすることで、子どもの人生に不当に介入するようなことがあってはいけないと思います。
 ある日保育園で、幼い頃から知っている友人に会いました。もっともその人は自転車だったので、挨拶を交わしただけでしたが。どうしてこんなところでこんな時間に、という表情が見えました。中学校を卒業してからはめったに会うことはなかったのですが、保育園で再会したのでした。子どもたちを保育園に送り迎えしていた頃のことに、三人の子どもの母親になっていたその人から子どものことについて相談されたことを思い出しました。あの頃は保育園で私はよくお母さん方に呼び止められ、相談にのったものです。
 この友人がもちかけたのは、子どもが保育園に送っていこうと思ってもぐずぐずいって、なかなか出かけられないのだがどうしたらいいか、というものでした。
「それは一度子どもさんたちに相談してみたらどうだろう」
「え? そんなんいいの?」
 次の日も会ったのでどうだったかたずねました。
「教えてもらったとおり、子どもに相談しました。『朝、保育園に行く時間が遅くなって困っているのだけどどうしたらいい?』『そんなん、簡単や。朝、早く起きたらいい』それができないから困っているのに、と思ったけど、さらにたずねてみた。『じゃあ、朝早く起きるためにはどうしたらいい?』『前の晩、早く寝る!』たしかに子どもたちは夜、八時になったら寝てしまいました。いつもは十時になっても十一時になっても寝ないのに。それで、今朝は六時に起きてきて、いいましたあ。『お母さん、早く学校行こう!』って」
 一体、何が起こったのか、教えてほしい、とその人はいいました。
 子どもたちが朝ぐずぐずしてなかなか保育園に行こうとしなかったのは親の注目を得たいからです。そうすれば親はいらいらしたり、怒ったりするという形で注目します。ここでは親の側が、子どもがしていることで困っている時、そのことについて子どもに話し、協力を求めてもいいということを知ってほしいのです。
 この相談を受けた時、私は今起こっていることを説明し、どう対処すればいいか助言をすることももちろんできたわけですが、そうしなかったことのもう一つの理由は私よりも母親の方が子どものことをよく知っていると思ったからです。
 「この頃、子どもの様子が変なのです」という母親が相談にこられる時に、精神科医やカウンセラーが「そんなことはない」と断定できるでしょうか。週に一度面接をしても患者のことを知っているといえるほどの接触はなく、子どものことで親が相談にきているというケースでは、子どものことについては、そもそも最初から親の話を通してしか子どものことを知らないわけです。たしかにその短い面接の間に専門的な知見で患者を見ることは治療者の技量ですが、親の方が子どもと触れる時間ははるかに長いのは間違いありませんし、親も自信を持っていいと思います。
 とはいえ、本当に親が自分の子どものことを知っているかといえば、そうとはいえないかもしれません。「この子のことは親の私が一番よく知っている」と自信たっぷりにいう人はありますが、その自信がかえって子どものことを見えなくさせているかもしれないのです。
 親子関係でなくても、もしも誰かにあなたのことは私が一番知っているといわれた時、どう感じるでしょうか。この人は私の一番の理解者だと思う人もあれば、どれほど親しい関係でも私のことを何もかも知っているということはありえないと思う人もあるでしょう。
 子どものことは何でも知っている、と思ってしまった時、子どものことをそれ以上知ろうとはしなくなりません。私はこの子のことは何も知らないとまでは行かなくても、私はこの子についてすべてのことを知っているわけではない、と思って子どもと関わる方がかえって子どものことを知ることができるともいえます。
 知らないことがあってはいけないというのではなく、知らないからこそそのことについては子どもにたずねてもいいわけですし、たずねられる関係を築いていかなければなりません。
 子ども自身もどうしていいかわからないことがあれば。助けを求めてくることはあります。それが先に見た子どもの課題であり、子どもが自分で解決するしかないことであっても、そのような助けを求めてこられたら、もちろんできる範囲であっても可能な限り子どもの力になりたいですし、協力して生きるというのはそういう意味です。

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2008年9月28日 (日)

誰の課題なのか

 子どもが勉強をしないのだがどうすればいいかという相談はよく受けます。私は相談にこられる親にこんなふうにたずねます。「もしも子どもが勉強しないとすれば、そのことの結末は誰にふりかかるでしょうか? 誰が困るでしょう?」 このようにたずねると質問の意図を理解した多くの親は「子どもです」と自信なさげに答えられます。自信たっぷりに「親です」と答えられると私は困ってしまうのですが、正直なところ、親が困るのだと考えている方もあるかもしれません。しかし、子どもは親のために勉強しているのではありません。かつて私たちも子どもだった頃、親のために勉強しているとは思わなかったのではないでしょうか? それとも親に叱られたくないから、あるいはほめてほしいと思って勉強していたでしょうか?
 あることの結末が最終的に誰にふりかかるか、あるいは、あることの最終的を誰がとらなければならないかを考えた時、勉強は子どもの課題である、といえます。勉強しないことの結末は、子どもにだけふりかかり、子どもだけが困るわけですから、勉強は子どもの課題であるということができます。
 このように勉強が子どもの課題であるならば、残念ながら親といえども子どもの課題にいわば土足で踏み込むことはできません。大人も、他人に自分のことについて、あれこれいわれたら嫌な気持ちがするでしょう。子どもに勉強をしてほしいと思うあまり、ことに子どもが親が期待するほど勉強していないことを知った時、親は子どもに「勉強した?」とか「早く勉強しなさい」と声をかけてしまいますが、勉強は子どもの課題なのですから、そんなふうに声をかけることは本来できないのです。もしも親が子どもを信頼し、勉強のことは子どもに任せるという勇気があれば、もう親は何もしなくてもいいといってもいいのです。実際、私は子どもに一度も「勉強しなさい」という言葉をかけたことはありません。
 朝子どもが起きないと親は子どもを起こしてしまいますが、朝起きることも子どもの課題なので親は起こすことはできません。それにもかかわらず、子どもを起こしてしまうのは、私が起こさなければ一人で起きられない、と親が考えているからです。子どもに朝声をかけていると、子どもたちは自分のことが信頼されていない、と思うでしょうし、ある日親が起こさなかった時に自分では起きることができず、その上、起きられなかったことを親のせいにすることもあります。
 また忘れ物をしないようにするというのは、ごく小さな子どもをのぞけば、子どもの課題です。しかし、親は小さな子どもが忘れ物をしないように毎日点検します。親が点検している限り、当然忘れ物をすることはありません。ところが、ある日、親が点検を怠ります。朝は忙しいので、子どもの持ち物の点検まで手が回らないことはたしかにあります。ところが困ったことに、そんな日に限って忘れ物をするのです。学校から帰ってきた子どもはいいます。「今日はお母(父)さんが忘れ物の点検してくれなかったから忘れ物をした」。こんな時ことさらに「課題」という言葉を学んでこなかった人でも、忘れ物をしないようにするのは、あなたの課題でしょうというような言い方をしているはずです。
 しかし、そんなわけにはいかないのだ、うちの子どもは放っておいたら勉強しない、朝一人で起きられない、といわれるのであれば(私はそういうことは信じませんが)、本来的には子どもの課題であるけれども、親と子どもの共同の課題にする手続きを踏むことはできないわけではありません。勉強についていえばこんなふうにいうことはできます。最近の様子を見ているとあまり勉強しているようには見えないけど、そのことについて一度話をしてもいいだろうか、というふうにです。しかし、このようにいっても多くの子どもは親からのアプローチを拒否することでしょう。その場合は、残念ながら親としてはできることはありません。事態はあなたが思っているほど楽観できるものとは思えないが、またいつでも力になるからその時はいってほしい。こんなことはいえるでしょう。
 「何かできることはあったらいってね」と声をかけることは安全でしょう。もしもしてほしいことはいってくるでしょう。しかし子どもの方から何もいってこないのであれば、何もしないのが一番望ましい、と私は考えています。
 もしも親が子どもの課題について何か援助を申し出てそれを子どもが受け入れたら、その時、本来子どもの課題であるけれども、子どもと親の共同の課題になったといいます。しかし、このことを聞いた多くの親は何でもかんでも共同の課題にできると思われるようなので、私は、親の方からは共同の課題にすることを考えない方がいいのではないか、と考えています。無論、子どもが援助を待っていることがないわけではないのですが、このことについてはまた別の機会に問題にするかもしれません。
 私の経験では、何か援助ができれば親として満足に思えるかもしれないのですが、こちらが思っているほど当てにはされないことが多かったように思います。息子が自転車になかなか乗れなかったことを思い出しました。親の心配をよそに「いいんだ、みんなは遊びにきてくれるのだから」といっていました。その頃、住んでいた家は校区の外れにあったのですが、たしかに自転車に乗れる子どもたちは、遠くても遊びにきてくれていました。
 そんな息子がある日自転車に乗りたいといい出しました。当時の親友の一人が転校することになり、その友人の家に遊びに行きたいからというのが動機でした。それからかなり真剣に練習をして、やがて自転車に乗れるようになりました。ひょっとしたらこのまま自転車に乗れない大人になるのだろうか、と思っていたらそんなことにはなりませんでした。
 逆に子どもの側から援助の依頼があれば、可能な限り援助してほしいのです。これはあなたの課題だから自分で解決しないといけないというのは、私にはあまりに冷たいと思います。もちろん、そんなふうに子どもの側から援助の依頼があったからといって、何もかも引き受けなければならないとは思いませんし、実際できないことのほうが多いでしょう。しかし可能な限り私は引き受けようと考えています。
 このように声をかけ、共同の課題にするのは、あくまでも子どもが自らの力で自分の課題を解決する力をつけてほしいからであって、親が子どもを支配するためではないことはいつも思い出す必要があります。
 子どもが勉強していないことがたしかに気になります。しかし子どもに勉強してほしいと思うのは親の課題です。子どもを援助する、あるいは子どもに協力するという美名のもとに容易に子どもを支配することになってしまいます。「あなたのために」という時、愛情という名に隠された支配かもしれません。あなたのことが心配だというのは、この心配から解放されたいということであったり、そのようにいうことで、あなたを自分の思うままに操りたいと願うことかもしれません。しかし、総じていえば、親はそんなふうに自分の課題を子どもに解決させることはできないのです。

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天上の花

flower in heaven ...

 川辺に一輪曼珠沙華が咲いていた。今年はその妖しい美しさの虜になっている。
 父が久しぶりにやってくる。二週間前にあった時には本当に弱っていて、父のことを思うと心が沈みがちだったが、今日の父は少し持ち直したように見えた。 

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2008年9月27日 (土)

ほめることの問題

【近年、病気のために講演する機会が激減しましたが、こんな話をよくします】
 今日も広く行われているほめることの問題を考えてみましょう。育児書を読むとよく書いてあり、多くの人がその正しさを信じて疑わないのは、叱らないでほめるという育児の方法です。実際には叱ってはいけないといわれても子どもを日々叱ってばかりという親は多いでしょうが、叱ることを積極的に肯定する人でなければ、叱らないことはできていなくても、ほめて育てることには手放しで賛成し、子どもをいつもほめている人は多いように思います。
 一体、ほめるとはどういうことでしょうか。
 ある時、三歳の娘さんをカウンセリングに同行された人がありました。いつも預かってもらっている人がその日は都合がつかなかったようで、やむを得ず一緒にきたということでした。カウンセリングの間、外で待っていてもらうこともできませんから母親と娘さんに椅子を用意してすわってもらえました。親は子どものリュックサックにお菓子やおもちゃ、お気に入りの縫いぐるみをいれてこられました。カウンセリングの間おとなくしていることはできない、と思ってのことであることはすぐにわかりました。準備してきたものは子どもが泣いた時に何とか気をそらすためのものでした。親は子どもが一時間のカウンセリングの間おとなしく待てるとは思ってられなかったわけです。
 この場合、この三歳の子どもは一時間おとなしくしていることはできないのでしょうか。私はもっと幼い子どもも自分が置かれている状況を理解しているのを知っています。
 娘が一歳になっていよいよ保育園に入園という四月にこんなことがありました。入園式を前に娘は水疱瘡になってしまいました。水疱瘡になると発疹が消えないと預かってもらえません。入園式にも行けず、やっと登園した日は、慣らし保育が終わり、長時間保育が始まる日でした。七時半に娘と保育園に行きました。そして保育士さんに「今日からよろしくお願いします、七時に迎えにきますので」といいました。その保育士さんの顔には困惑の表情が浮かびました。あるいは、初めて保育園にくる子どもを初日から長時間保育に預けようとする親の非常識を責められたのかもしれません。私は一言いっておいた方がいいと思いました。
「おそらく娘は私の姿が見えなくなるとなくと思います。でもきっと三十秒で泣き止みますから」
 その日遅く保育園に迎えに行くと、朝話をした保育士さんが職員室から出てこられました。
「たしかに泣きました。でもお父さんがいってられたのとは違って…私、時間を計っていたのですけど…二十秒で泣き止みましたよ」
 私はこれがたまたまのことだとは思わないのです。自分がもしも娘の立場だったらどう感じるか、想像してみてください。父親の姿が見えなくなったので泣き始めました。当然、目の前にいるこの人(娘にはその人が保育士であるとはわからなかったでしょう)は私に構ってくれると思いました。ところが、この人は私なんか見ていない、時計を見ている…もしも保育士さんが今日が初めてなんだと身構えたり、かわいそうねというようなことをいって構っていたら、娘は泣き続けていたでしょう。しかし自分が置かれている状況を理解した娘は、泣いても自分の方を見てもらえないので、方針を変えることにしました。泣くのを止めよう、と思いました。そう思った娘は泣くのを止めました。すると保育士さんが時計を見るのを止めたのです。「おや二十秒!」そうつぶやいた保育士さんは娘を見てくれました。私を抱き上げてくれた保育士さんのことを忘れないでおこう…娘はそう思ったかもしれません。
 さて話を戻すと、親と一緒にやってきた三歳の子どもは親の予想に反して、カウンセリングの間おとなしく待つことができました。自分の置かれている状況がはっきりと理解できていたのです。最初、親の方は子どものことが気がかりでならないように見えました。そこで私は母親が私の話に注意を向け、子どものことが気にかからないように努めました。ほどなく母親は私との話に夢中になり、子どものことに気を留めなくなりました。
 もっと大きな子どもであれば親とカウンセラーの話に耳を傾けます。いつか母親に同行した小学校三年生の子どもはカウンセリングの間、つまらなそうにしていましたが、しっかりと私と母親の話を聞いているのがわかりました。アドラーは、人は自分に向かって話された言葉よりも、自分について他の人が話していることに関心を持つものだ、といっています。
 話の本題はここからです。カウンセリングを終わって帰る時に、親は子どもにこんなふうに声をかけました。
「お利口さんやったね、よく待てたね」
 これは子どもをほめているでしょう? 多くの親は何の疑問もなく当然のように子どもをほめます。
 では、以上のことを念頭において次のような状況を考えてみましょう。
 ある日カウンセリングにこられた男性に帰り際に「今日はどうやってこられましたか」とたずねたら、「妻に車で送ってきてもらった」という答えが返ってきました。それなら次回から彼女にも同室するように勧めました。そうすれば彼は帰ってからカウンセリングの内容について問われることもないわけです。
 次のカウンセリングには夫婦そろってこられました。一時間のカウンセリングが終わりました。夫は妻に何というでしょう。さきほどの母親が子どもにいったような言葉はかけないでしょう。もしも「よく待てたね」といわれたらどう感じるでしょう。普通の言語感覚を持っている人であれば、ばかにされたと思わないでしょうか。講演でこの話をした時に一番前にすわっていた人がすかさず「私だったら、そんなこといわれたら嫌です」と答えられました。でも、自分がそんなふうにいわれたら嫌なことを子どもにはいっているわけです。それなのになぜ子どもには「よく待てたね」といい、大人にはいわないのでしょう。
 「よく待てたね」はほめ言葉です。この言葉を大人にはいわないのです。それなのに子どもはほめます。何が違うのでしょうか。これは対人関係の構えの問題です。つまり、相手が自分よりも劣っている思っている時にほめるのであり、ほめるというのは、能力がある人が能力のない人に上から下に向かっていう評価の言葉である、と私は理解しています。大人がいわれて嫌な言葉は子どもにとっても同じです。

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よいしょ

yoisho (alleyoop)!

 昨日、雨が降り、気温が下がったからか、藤袴の咲いているところには今日は昨日とは打って変わって、蝶の姿がほとんどなかった。しかし、そのうち気温が上がってくると、どこからか蝶が集まってきた。藤袴が大きく見える。

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わかりやすいということ

 お笑い番組などで、どこで笑えばいいかわかるように、録音された笑い声が流されることがある。録音ではなく、ここぞというところで(実際にはそれほどおもしろいわけではない)大きな笑い声が入っていることもある。私の代わりに笑ってくれているのだ、と思う。私の代わりに楽しんでくれる。ビデオをせっせと録画するのと同じである。夜は忙しいのでテレビを観ている暇がない。そこで録画をしておく。では後で観るかというと、観ない。好きな映画がビデオ・ライブラリに入っていると考えるだけで満足感を得られる。ビデオデッキが私の代わりに映画を観てくれているように見える。
 スラヴォイ・ジジェクが次のようにいっているのは違うように思う。
「たとえ一日の辛い労働の後で疲れ果てた私が、笑わずにただ画面をじっと観ていたとしても、番組が終わったときには、サウンドトラックが私の代わりに笑ってくれたおかげで、私はずいぶん疲れがとれたような気になる」(『ラカンはこう読め』紀伊國屋書店、p.50)
 疲れがとれたような気になるだろうか。どこで笑うかまで指示してもらいたくないと思う。
 いつかフィンランドの教育について書かれた本を読んだことがある(フィンランドはPISAは一位を取った)。その本には随所にまとめがあり、参照箇所まで書いてあった。ある精神科医が書いた本には重要なところは赤字になっていた。僕の個人的な好みでいえば、大事なところ、印象に残ったところには自分で線を引け、付箋をつけ、あるいは、ページの隅を折り(dogear)。欄外に書き込みたい。ところが、そういうことが、あらかじめ著者(出版社)側でしてあれば、読書の興味は半減するといってもいいように思う。この本はこう読め、と読み方が指示されているように思ってしまう。
 もちろん、本でも講義でもわかりやすいことが望ましいことはいうまでもないが、わかりやすさばかり追求するのはどこかおかしくはないか、と最近ある予備校の先生に話をしたところ、それは予備校まででいいことで、大学は自分が足らないことを知るところだと理解しているという答えが返ってきた。僕は学生の頃受けた哲学の講義を思い出した。哲学の講義が聞くだけで(あるいはノートを取るだけで)その場で何もかも理解できただろうか、と。
 哲学者の大森荘蔵についてこんなことが書いてあったことを思い出した。今の大学はよくわかるおもしろい授業をめざし、学生は、学年末のアンケートに、レジュメのわかりやすさを含めて授業に関する事項を5段階で評価するという。講義をわかりやすいものにする努力が必要だが、野矢茂樹は「私はどうにもレジュメを配って、よく分かる面白い授業をめざしている大森荘蔵の姿が、想像できないのである」という(野矢茂樹『大森荘蔵―哲学の見本』)。
 講義に出ただけでわかる哲学…
 しかし、他方で、こんなことも野矢はいっている。野矢が大森から学んだことは、「つまるところ」「自分で何を言っているかのか分からないことは喋るな」ということであった。ある時、何かの議論の時に、ある「小賢しい」学生が小賢しい調子で、
「すると先生、今度は…が分からなくなりますね」
と発言した。大森は軽く驚いた調子で、
「そんなことも分からないのですか」
と尋ね返した。

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2008年9月26日 (金)

手を伸ばせばそこに

fragile beauty ...

 朝、どしゃぶりでその上、雷まで鳴っていて、出かけることができなかった。
 浅葱斑の羽は薄い。羽の向こうにある藤袴が透けて見える(ようである、か)。9月24日の日記に載せた同じ浅葱斑の写真は少し離れたところから撮ったが、この蝶は近くにとまった。手を伸ばせば触れるほど。

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ほめる人は誰もいなかった

 宮沢和史の「いつもと違う場所で」という歌で、「ボク」はほめられるために人を蹴落として生きてきたが、たどり着いた銀河系の果てではほめてくれる人は誰もいなかったといわれています。
 私はこの歌の中でほめることと競争を結びつけているのがおもしろいと思いました。たしかにほめられるために「人を蹴落として」生きている人は多いように思います。小さい子どもが「ほめて、ほめて」と親や教師にせがんでみたり、大人でも人に賞賛されるために頑張る人はいます。ほめられるためには結果を出さなければなりません。いい成績を取ったらほめられるでしょう。しかし、そのような結果を出せないと思ったら、結果を出すために不正行為を働こうとするかもしれません。試験の時にカンニングをすることはこの例です。他の人との競争に勝たなければならない。そのためには何をしてもやむなしと思うわけです。しかし、こんなふうにして他の人との競争に勝てたとしてもほめてくれる人が誰一人いなければどうなるでしょう。
 きょうだい関係であれ、他の対人関係一般であれ、競争に負けた人だけが精神の均衡を崩すといっていいほどです。ほめられることのない、叱られる子どもは競争に負けた、と思うでしょう。
 精神的な健康を損なう一番大きな要因は「上下関係」「縦の関係」と、そこから帰結する「競争」です。人は下ではなく上にいることを目指します。社会全体として見ると、競争の場合、競争に勝つ人がいるということは、同時に必ず負ける人もいるということです。そうすると全体としてはプラスマイナスゼロになってしまいます。
 教育学者のオスカー・クリステンセンの二番目の娘は、小学校に入ると毎日三番目の弟に字の読み方を教えていました。弟は五歳の時にはもうテーブルの反対側からでも父親の読んでいる新聞を父親の黙読よりも早く音読できるようになりました。
 しかし、とクリステンセンはいいます。これは息子が二番目の娘との競争に勝ったということにはならない、と。弟が上手に読めるようになったのは、姉が上手に教えたからです。弟は姉に感謝し、姉は自分と弟を誇りにしていました。後に姉が数学でつまづくと今度は弟が姉に数学を教えることになりました。このようにきょうだいはいつも協力して互いを高めあった、とクリステンセンはいっています。

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2008年9月25日 (木)

stop for a moment please ...

stop for a moment please ...

 アオスジアゲハ(青条揚羽)を始めて撮った。片時もじっとしていない。藤袴のあるところにたくさんの蝶がやってくる。その飛ぶ様子を見ていたら目が回りそうになった。

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子育てに魔法はない

 ある日銀行に用事があって歩いていたら、ちょうど私の前を歩いていた年輩の女性の足取りが急に遅くなりました。私がその人を追い越しそうとしたら話しかけようとされるので、私はあわてて音楽の携帯プレーヤーのイヤホンを耳から外しました。
 「あのう、駅はどちらでしょうか」
 「この道をこのまままっすぐ歩いて行かれたいいですよ」
 駅の場所をたずねられたので、私はこんなふうに答えました。私は音楽の続きを聞き、先ほどと同じくその女性の後を歩いていました。ほんの数十秒歩いたところで、またもやその人の歩く速度が落ちました。本当にこの道でいいのだろうか、と迷っているように見えました。今度は残念ながらずねられる前に銀行に着いてしまったので、私はその後どうなった確かめることはできませんでした。駅までの道をたずねられた時何分くらい歩けばいいとか、やがて左手に駅が見えますよ、といえばよかったのかもしれません。「まっすぐ」といえば情報として十分だと思っていたのですが、そうではなかったようです。私はまっすぐ歩けばいいといわれたらそのとおり歩けばいいと思うのですが、すぐに結果が見えてこないと、たちまち不安になる人はあるようです。
 育児の本を読んでも、また育児の話を聞いても、たとえ書いてあるとおり、いわれたとおりしてみても最初からうまくいくことはありません。むしろ、目に見えて子どもの言動が変わっていくとすれば、私はそのような知識は危険ではないかと思うほどです。
 たしかに、育児にマニュアルのようなものがあって、そのとおりやってみればたちまち子どもが親の思うようになるというような魔法でもあれば育児はたやすいと思います。しかし子どもは一人ひとり違いますから、誰にも通用することがあるとは考えられません。育児に魔法はありません。
 しかしだからこそ子どもと関わるのは楽しいともいえるのではないでしょうか。子どもと関わるのが苦手だという人は、子どもの予想できない反応に対処することをむずかしいと感じるようです。そこで、子どもの言動に法則のようなものを見出すことができたら対処も容易になると考えるのは自然なことです。
 しかし、子どもは自分で自分の行動を選ぶことができますから、大人の意表をついたことをしてもおかしくはありません。だから、育児が困難である考える人もあれば、他方、このような意外性にこそ子育て、教育の醍醐味があり楽しいと思える人もあるのです。
 おむつのコマーシャルで赤ちゃんのおしっこの代わりに青い水を使ってどんなふうに吸収させるかを見せるものがあります。このコマーシャルを見た育児を始めたばかりの若い人が、自分の子どものおしっこが青くはないのを見て、この子は病気ではないだろうか、と思ったという話を聞いたことがあります。
 この話を聞いた人はそんなことを思う人がいることに驚くか、そもそもこの話が本当とは思わないかもしれません。しかし、ここまではいかなくとも、育児書を読み、そこに書いてあることが自分の子どもに当てはまらないことを知ると多少なりとも不安になることはあるでしょう。
 子どもの頃育児の本だったか心理学の本を読んだ時、そこに反抗期について書いてありました。私はたちまち不安になりました。反抗期がない子どもは問題だ、と書いてあったのですが、私は親に反抗した記憶がなかったからです。
 子どもは一人ひとり違います。それが子どもに個性があるということなのですから、子どもが「標準」でなくてはいいではありませんか。皆と違うこの子どもはおかしいのではないか、と不安になることの方が子どもへの対応を考えると問題になるかもしれません。子どもが他の子どもと違うのは個性があるということなのに、違いを標準ではないというふうに考えれば、親は子どもの差異を矯正するべきだと考えてしまい、そのことで、せっかくの子どもの成長の芽を摘んでしまうことになりかねません。
 とはいえ、子どもはまったく無原則に生きているわけではありません。たしかに親が子どもの行動についてわからないことはありますが、それは目のつけどころが違っていて、そのため理解できないのです。私が書くことはどこに目をつけるかということなのですが、そしてそれがわかれば、子どもはただただ親を困らせるために親からは問題行動をしているとしか見えなくても、わけがあって行動していることがわかるようになりますし、どうすればいいのかもわかります。
 そのために私はもっぱら私と子どもたちの間で起ったことを書きますが、いわば応用問題の答えを覚えこむように学ぶのではなく、つまりこういう時はこうするのだ、と機械的に覚えこもうとするのではなく、なぜここでこんなふうに対応したか、そのもとのところを理解してほしいのです。なぜなら私の子どもたちはあなたの子どもとは違うのですから。

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どちらがとはいえない

am I more beautiful? ...

 これはツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)の雌。雄と雌とでは模様が違う。雄はこちら。写真を撮った時の条件などが違うので簡単には比較はできないし、条件が同じでも「違う」だけであってどちらが美しいかとはいえないだろう。

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2008年9月24日 (水)

秋の使者

an autumn messenger ...

 なかなかとまってくれなかったのですが、しばらくこんなふうにじっとしていました。

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マニュアルは作れない

 『アドラーに学ぶ』のあとがきに次のように書いた。 
「どんな時に何をし何を語ればいいかという倫理のマニュアルのような本を書くことはできなかった。それは私に書く力がなかったからではなく、アドラーがそのような本を書くことを禁じていると私が理解したからである」
 どんな場面で、どんなふうに言葉をかければいいのかという育児、子育てのマニュアルを求める人は多い。ところが困ったことに、そんなに簡単ではない。なぜなら子どもは一人一人違い、同じ子どもはいない。子どもが置かれている状況はみな違う。そうなると、本では一般的なことは学べても、個別的なことは学べないことになる。それでも、無原則にいわばいきあたりばったりに子どもと関わるよりは、原則的なことを学ぶことは意味があるが、そういうことを地道に学ぶよりは、即効性のある答えをほしくなる人は多い。そこでよく、応用問題の答えを覚えようとしないことを注意しなければならなくなる。たとえ覚えても、少し問題がひねってあればたちまち答えに窮したという経験を持っている人は多いのではないかと思う。
 それでも、答えが出るのならまだしもそもそも答えが出ない問いが世の中にはある。出ないとまではいいきれないにしても、少なくとも、自動販売機から飲み物の缶が音を立てて出てくるようなわけにはいかない問いである。
 私が長く学んでいる哲学においては(そして心理学ももともと哲学から発しているわけであるが)、どんな問題も、いつも哲学の根本問題につながる。日常的な問題も、である。しかし、どんな問題も根本問題につながるが、日常的な問題から離れていくわけではない。なぜなら哲学は具体的な問題を扱うからである。三羽の雀が木にとまっているところに猟師がそのうちの一羽を銃を撃てばどうなるかという問いは、算数では二羽という答えが正しいが、あらゆる条件を加味する哲学においては、大きな音がするという条件も考察から外さないから、二羽という答えは出てこないだろう。哲学は、特定の条件を抽出するという意味での抽象的な学ではなく、具体的な学である。
 この意味ではアドラー心理学も具体的な学といえる。一般的な子どもを扱うわけではないからであり、そこから始めて考えることはあっても、最終的には、他ならない「この」子ども(一般的に人)とどう関わるかを見ていくからである。だから他の子どもに当てはまることでも、自分の子どもには当てはまらないことは往々にしてある。
 このようなことを考えて、私はよく即効性のある答えを求めたくなる気持ちを抑えて古典といわれる本を読むことを勧めることがある。古典は最初から結論が決まっていてそこへと言葉巧みに案内されるようなものではない。だからたしかに効率はよくないのである。の
 哲学者の田中美知太郎が『哲学初歩』のはしがきの中で、古典を読むことを勧めている。
「古典に書かれてあることは、必ずしも意味の補足しやすいものとは限られず、読者自身の気持ちからも離れていることが多いのではないかと思われるけれども、しかしそのような距離を克服しようとする努力が、かえって思考の勉強になるのではないかとも考えられる」
 今日の人にとってはアドラーの本すら既に古典であろう。田中は上の引用に続けていっている。
「すぐに私たちが納得するような、今日の問題を論じた言葉だけに耳を傾けていると、わたしたちはいつまでたっても自分たち自身の先入見や思想的盲点に気がつかず、自分の気に入ったようにしか、ものが考えられないで、かえって時流の乗る他の者どもに支配され、自分自身の本当に独立した考えをもつことが出来なくなるのではにかと恐れられる」
 何事も学ぶのは大変である。

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浅葱斑

chestnut fairy ...

 朝、墓参りに。墓守のように見える蛙がいた。
 写真はアサギマダラ。浅葱斑と書く。浅黄は青緑色の古称。たしかに羽に薄い青色であるところがある。アゲハのように羽をぱたぱたさせず、滑空する。1500キロ移動したという記録がある。また一日あたり200キロ移動したという記録も。なぜわかるかといえば、捕らえた蝶の羽にマジックで採集地、日時などを書いて放すという調査をするからである。調べてみたら、左手で白いタオルを振り回すと近づいてくるので右手に持った網で捕獲するようだ。
 今日は休みの日だったがわりあい早い時間から仕事を始めたが、3時頃になってふいにアドラーの肉声が聞こえなくなった。そこで中断。

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2008年9月23日 (火)

天上の花

flowers in heaven ...

 彼岸になると突如として田んぼの畦道など咲き出すことをいつも不思議に思っていた。彼岸とか此岸という言葉が仏教の言葉であることを知るのは長じてからのことだが、誰かに聞かされたのかもしれない。これが彼岸に咲いている花で、子どもの理解では彼岸とはあの世だった。このことと小学生のある日この花を学校の帰りに摘んで帰った時に母から家が火事になるから捨てなさいといわれたことが記憶の中で交錯している。畦道に咲いていたこの彼岸花に今し方切られたばかりの花束が置き去りにされていたのを見て子どもの頃のことを思い出した。
 夜、父から電話があったので、お墓参りに行っておくから、といったら喜んでくれた。

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2008年9月22日 (月)

今はもう…

autumn tints ...

 記録では8月9日に既に紅葉が始まっている。ここだけ秋を先取りしているように見え、何枚も写真を撮ったが、さすがに盛夏に載せようとは思わなかった。今日は赤とんぼの写真も撮ることができた。秋を探そうシリーズを始めましょうか。

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裁判員制度をめぐって

西野嘉一『裁判員制度の正体 (講談社現代新書)』

 裁判員制度の施行日を来年の5月21日に決まったが、あまりこの制度をめぐっての議論がされていないように見える。実のところ、僕もこの本を読んで初めて裁判員制度の問題を知った。施行後、問題があれば見直されるということだが、その間、裁かれた人、ことに死刑判決を受けた人には、この制度は間違っていました、ではすまないだろう。
 裁判員に選ばれ、仕事を休むということがどれほど困難なことであるかをこの制度を導入した人は知らないように見える。日本人は働き過ぎだから、これを機会に仕事を休むのはいいことだ、という意見の人がいる。丸田隆は、裁判員に選ばれたが、引き受けられない時はどうするかということを書いたくだりで、例えば、家族で豆腐屋をしている自営業の場合について、こんなふうに書いているのである。
「三六五日間で一日も休まず豆腐をつくることも立派だが、家族の重要なメンバーが裁判員に選ばれたので、それを機会に店を、三、四日閉めるということも、働きすぎる日本人にとってはいいことではないだろうか」(『裁判員制度』平凡社新書、p.175)
 誰も「働きすぎ」を望んではいない。店を閉めて、それで店がつぶれたら、一体誰が責任を取ってくれるというのか。実際、一度や二度で裁判が終わるはずはない。朝日新聞の記事によれば、裁判員が参加する重大事件の7割は3日以内で終わる見込みであるというたった3日で決まるという。それでは、後の3割は一体どれくらいかかるかは書いてなかった。もしも裁判員の負担を考えて、実際には長くかかるはずの事件について短期に終わらせるとするのなら裁判の手抜きをするしかないのではないか。そもそも裁判はレクリエーションではない。
 しかも裁判員が参加する裁判は重大事件ばかりである。凄惨な殺人の現場写真を見たいと思わないし、人を裁きたくもない。そのような信条を持った人が、裁判員にならなければならないとすれば、思想および良心はこれを犯してはならないとする憲法にも違反することになる。
 また、裁判員として的確かどうかを調べるられる、プライバシーはなくなる。西野は裁判所からの呼び出し状を「現代の赤紙」と呼ぶ。断れば罰則がつく。守秘義務もある。一体、専門家でもない人が裁判に関われるのか。本書での議論は、裁判員制度施行以前なので、当然、推測の域を出ない議論が多いと見る人もあるだろうが、施行されてからでは遅すぎるように思った。

 裁判員制度の問題は、それに参加する国民の負担などがクローズアップされ、裁判の間子どもを預けるための制度を整えるというような話になってしまうが、一番の問題は、法律の知識のない非専門家が法令に基づかない裁判をすることによって人権が消滅するところにある。最高裁判所のページにはたしかに使ってあるのだが、「感覚」によって、「こんな極悪人は死刑!」と量刑の決断はできても、それは法令に基づく死刑ではない。刑法は、犯罪者が法に定められていない罰を受けることがないようにするという意味でも必要なのだが、裁判員は法律の知識がない。法律の知識がないのに裁判員になれるのか。
 最高裁判所は、法律の知識は必要でないと明言しているのである。最高裁判所の裁判員制度Q&Aのページには次のように書いてある。

● 法律の専門家でない国民が加わると,裁判の質が落ちたり,信頼が損なわれたりしないでしょうか。
 そのようなことはありません。
 法律的な判断はこれまでどおり裁判官が行いますし,必要な場合には裁判員のみなさんにもご説明します。
  裁判員のみなさんには,「事実認定」と「量刑」について判断していただきます。これについては,法律的な知識は必要ありません(「法律を知らなくても判断することはできるのですか。」のQ&Aを参照してください)。
さまざまな人生経験を持つ裁判員と裁判官が議論することで,これまで以上に多角的で深みのある裁判になることが期待されます。 

●法律を知らなくても判断することはできるのですか。
 裁判員は,事実があったかなかったかを判断します。裁判員の仕事に必要な『法律に関する知識』や『刑事裁判の手続』については,裁判官が丁寧にご説明します。
皆さんも日常生活の中で,何らかの根拠から事実があったかどうかを判断することがあると思います。
 例えば,壁にらくがきを見つけたお母さんが,このいたずらは兄と弟のどちらがやったのかと考える場合,「こんなに高いところには弟は背が届かないな。」とか,「このらくがきの字は弟の字だな。」とか,らくがきを見てどちらがやったのかを考えると思います。
 刑事裁判でも証言を聞いたり,書類を読んだりしながら,事実があったかなかったかの判断をしていくので,日常の生活で行っていることと同じことをしていると言えます。
(引用終わり)
 子どもの落書きと同列に論じられるのだろうか。そんな簡単なことではない。
 殺人罪の要件は、人を殺すことだが、例えば、脳死状態の人を窒息死させたら、これは殺人罪に問えるのか。脳死状態の人は「人」なのか、どうか。こういうことが法律では問題にされる。こういう説明を裁判官が「丁寧にご説明」し、裁判員は、なるほど、と納得するのが裁判員制度なのか。あるいは、何をややこしいことをいっているんだ、だから法律はきらいなんだ、脳死だろうとなんだろうと人を殺したに変わりはないのだ、死刑だ、というようなことにはならないだろうか。
 鳩山元法務大臣が着ぐるみを見て裁判員制度の宣伝をしているのを見た。こんなことで、裁判員制度が支持されるようになると国が考えているのだろうか。

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花衣

田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる…―わが愛の杉田久女』 (集英社文庫)

 久女は才能がありながら、敬愛する師、高浜虚子から突如として「ホトトギス」を除名され、戦争の苦難をくぐり抜けるも、戦後間もなく、精神を病み、57歳で病院で亡くなっている。虚子は、除名以前からも虚子は句集を出版することを拒んでいた。
 残された虚子に出された手紙を見ると、師から仕打ちにもかかわらず、なお師を敬愛し続ける一方で、精神の均衡を崩したかのように見えるのだが、虚子は、この天才俳人に行ってきた非道をすべて久女の病気によって正当化しようとした。田辺聖子が指摘するように、久女の狂気が本当としても、だからといって、それだけで結社から追放する理由にはならない。虚子は、久女の力を無視できなかっただろう。
 死後、ようやく出版された久女の句集に、虚子はようやく序文を書いた。久女は戦争中もいつか出版することを願いながら、句稿の風呂敷包みを肌身離さず持ち歩いたが、もしも1945年の8月9日の朝、小倉の上空が雲に覆われていなければ、久女の原稿も久女自身もこの地上からいなくなっていたはずである(この日、小倉の代わりに長崎に原爆が投下されたのである)。
 その句稿を娘の昌子さんは丁寧に原稿用紙に清書して虚子に渡した。ところが虚子は、見もしていない久女の原稿を「全く句集の体を為さない、只乱雑に書き散らしたもの」だったと書く。久女狂気説を世間に印象づける必要があったようである。昌子さんは、虚子に宛てた手紙の中で「今から思ふと、急に更年期の頃から人柄が変わった母は病気でありました」と書いた。ところがこの手紙を「ホトトギス」で引いて虚子は次のように書く。
「この手紙にあるようにある年以来久女さんの態度にはまことに手がつけられぬものがあった。久女さんの俳句は天才的であって、ある時代のホトトギスの雑詠欄では特別に光り輝いていた。それがついには常軌を逸する用意なり、いわゆる手のつけられぬ人になってきた」
 田辺が、「昌子さんが、母を「わがままで手がつけられない」というのと、虚子が「常軌を逸して手がつけられない」というのはニュアンスが違う」と指摘するのは、正しい。手がつけられないから除名したといわんばかりである。病者であればなおさら、公の紙面で久女を完膚無きまで辱めることは、非人道的である。
 別の機会に中城ふみ子のことも書いてみたいと考えているが、二人が残した俳句、短歌ではなく、スキャンダラスな(という人もあるだろう)生き方にのみ注目するのはどうかと思う。

 鶴舞ふや日は金色の雲を得て 久女

 田辺によるこの書は小説ではなく、資料を読み解くことで従前の久女像を覆す見事な評論である。

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2008年9月21日 (日)

藤袴の精

living in harsh nature ...

 先の写真を載せた後、外を見たらどしゃぶり。テレビをつけると各地で警報が次々に出る。川が氾濫していないか(僕の家が浸水していないか)気になったが。
 この頃、コーヒーを飲み過ぎかもしれないと思ってカフェイン97パーセントカットというコーヒーを買ってきた。たしかにカフェインが少ないのか、眠気が取れない。今朝は6時から仕事をしていたが、すっきりした頭で2時間くらい集中すれば今日訳した分ほどは訳せたかもしれない。
 写真ではあまり見えないがこの蝶は羽がかなり痛んでいた。フジバカマの精?

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I can relax before you ...

I can relax before you ...

 今日は当然晴れだと思い込んでいて、夜寝る前にカメラのバッテリーを充電したのに、雨が降っていて驚く。夢ばかり見ていた気がするが、気持ちよく眠れ、目が覚めた。
 写真はベニシジミ(紅小灰)。飛び去っても、何度も戻ってきた。

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2008年9月20日 (土)

冬支度へ?

going out in winter clothes? ...

 久しぶりに写真を撮りに出かける。蝶の写真をたくさん撮れてうれしい。これはベニシジミ(紅小灰)。写真で見る印象とは違って小さな蝶である。
 植物園でポーポーをもらう。ポーポーは皮が黄緑色で卵くらいの大きさの果実。今頃の時期に木から自然落下した時が完熟し食べ頃である。写真を撮ることを思いつく前に食べてしまった。

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病めるときも〜貢献感をめぐって

 ある日の聖カタリナ高校での講義。ここでは僕の『アドラー心理学入門』をテキストにしている。この日は、どうすれば自分のことを好きになれるか、自分の価値を認められるかという話。そのためには、二つの方法があって、一つは、否定的に見られる性格を違う角度から見ることであり、もう一つは、自分が役に立てていると感じられることであるという説明をした後での講義。(  )は(複数の)学生の発言。

「……貢献感です。貢献ではなく、貢献<感>であることに注目してほしい。実際に、貢献しているということにすると難しい問題が出てきます。例えば、どうでしょう? 寝たきりの患者さんは、貢献感を持てると思います?」
(持てないでしょう…)
「ええ、でもだからこそ、看護師が、患者さんに貢献感を持てる援助をしてほしいのです」
(どうやって?)
「息子がいて、今、大学生だけど、小学生の時、寝る前に、「今日はありがとう」といった。「何かした?」とたずねたけど、そういうことではなくて、一緒に過ごせたことにありがとうといった。で、僕は、「そんなふうにいわれたらうれしい、ありがとう、」とまあなんとも奇妙な会話をしたことがあります」
(それは感動的な話)
「患者さんにもこんなふうにいえないだろうか」
<強い反応>

 この日は、この話に関連して、ほめないという話をしてみた。ほめることが上下関係を前提にしていることを、学生はすぐに理解してくれた。
「人生の大先輩は口には出してはいわないかもしれないけれど、内心、愉快ではないかもしれないですね。「おじいちゃん、えらい」とかいわないで。「ありがとう」っていいましょう」

 病気になってベッドの上で動けなくても、自分が役に立てていると感じるためには勇気がいる。どういう意味で勇気がいるのか。心筋梗塞で入院した時は、長い間、絶対安静を強いられた。寝返りも自分ではしてはいけなかった。ある日、思い当たった。私の世話をする人たちは、そのことで貢献感を持てるのではないか、ただまわりの人に迷惑をかけているのではない、と。こんなふうに考えていいものだろうか、と思った。その時、母の看病をしていた時のことを思い出した。たしかに大変だったが、大変だという思いだけで終始したわけではない。母に役立てているという実感はあった。入院している時に、僕の世話をする人に、そのように感じられている機会を提供していると考えてはいけないだろうか、と思ったのである(『アドラーに学ぶ』pp.80-1)。無論、自分についてこんなふうに思うことは容易ではなかったが、講義の中では患者さんが貢献感を持てる援助をしてほしいことを伝えてみた。

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2008年9月19日 (金)

溢れる情熱

affluent passion ...

 この頃、よく夢を見る。リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」を演奏することになっているのに、僕のホルンの譜面がない。夢のその場面はそこで終わるが、初見なのにソロを吹けると思っている。こんなふうに感じた夢は近年なかった。
 焦らず、行けるところまで進むのみ。

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萩色に

look at my tulips as well please ...

 萩にとまったこのシジミチョウは淡紅色に染まっていた。

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2008年9月18日 (木)

なぜこんな理不尽なことが

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)』

 別の本を買うべく書店に行った時に、目に止まった本。もしも『アドラーに学ぶ』を脱稿する前に読んでいたら、僕の本の内容も少し違うものになったのではないかと思った。
 著者のクシュナーはラビ(ユダヤ教の教師)。幼い息子が後十余年の命と宣告された。理不尽と思えるこの不幸に直面したクシュナーは自分が信仰する神に問わないわけにいかない。なぜ息子がこのような目にあわなければならないのか、と。 
 自分が経験することでなくても、何の罪もない人がたまたまその場に居合わせたことで、暴漢に刺されるというようなことがどうして起こるのか、と考えなかった人はないのではないだろうか…この世に悪が存在することと、神の善にして全能なることとは両立しないのではないかという問いに、クシュナーは、神は悪の原因ではない、神は善だが、全能ではない、と考える。病気や不幸は、神が人を罰するために与えたものでもなく、神の遠大な計画の一部でもない。
「現状はこうなのだ。私は、これから何をなすべきなのだろうか」。
 人は、苦しみや過去に焦点を合わせた問い、即ち、なぜ、この私にこんなことが起こったのか、から脱却し、目を未来に向ける問いを発するべきだ、とクシュナーはいう。神は悲惨な出来事を防ぐことはない。しかし、不幸を乗り越える勇気と忍耐力を与えてくれる。この力を一体、神以外のどこから得られるか、と。
 R.D.レインが、自伝(『レイン わが半生』岩波書店)の中で、マルティン・ブーバーの次のようなエピソードを引いている。
 「ブーバーは講演台の向こう側に立って、人間の条件だとか、神だとか、アブラハムの契約だとかについて話をしていた、その時、急に、前にあった大きな重い聖書を両手でつかみ、できるだけ高い頭の上に持ち上げてから講演台の上に投げつけるように落とし、両腕を一杯に伸ばしたまま、こう絶叫した。「強制収容所でのあの大虐殺が起こってしまった今、この本が何の役に立つと言うのか!」ブーバーは、神がユダヤ人に対して行なったことに憤激していたのである。無理もない」
 同じユダヤ教のクシュナーは、しかし、ホロコーストについて神を責めないわけである。
 なお納得し切れたわけではない。

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あの空の眩しさが…

give me the wings if I could get my wish ...

 鳥が空高く舞っているのをいつまでも飽くことなく眺めた。

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2008年9月17日 (水)

疲れを解消させるかかわり方

 中学生の私の息子(注、本稿執筆時)は、いつも夜遅くまで起きているが、これは今に始まったことではなく、早くも保育園に通っていたころからである。保育園には生活点検表というのが、何時に寝て何時に起きたかというような項目について報告しなければならなかった。親としては早く寝てほしいと願ったが、遅くまで起きていることがよくあった。親の当惑をわかっていたのか、ある日息子は私にいった。「どうだ。うらやましいだろう。こんな丈夫な身体がほしいだろう」。
 私の子どもに限らず、一向に疲れている気配を見せない子どもがいる。遠足から帰ってからもなおくたくたになるまで遊ぶ子どもがいる。他方、すぐに「疲れた」という子どもが子どもがいる。いったい、この違いは何がもたらすのか。どのようにかかわれば、子どもたちの「疲れ」を解消できるようなかかわり方ができるかを、私が学んでいるアドラー心理学の視点から考察するのが本稿の目的である。

なぜ疲れたというのか

 子どもたちの疲れは、身体の疲れではないように思われる。本当に身体が疲れているということもあるだろうが、いわば心が疲れているのである。自分のことを考えてみても、心から取り組みたいと思っていることであれば、そのことが多少困難を伴っても疲れを感じないか、あるいは、疲れを感じても苦痛にならない。
 では「なぜ」すぐに「疲れた」というのか。アドラーが「なぜ」と問う時、その意味は「原因」ではなく、「目的」である。人間の行動には目的があって、しかもそれは対人関係の中で、その行動が向けられる「相手役」から何らかの応答を引き出そうとしている、と考える。いったい、子どもがすぐに「疲れた」という時、何を目的としているのか、どんな応答を引き出そうとしているのか。

●注目を引くために
 まず、「疲れた」といって頑張ると受けがいいということがある。疲れているのに頑張っていると、大人はほめたくなるかもしれない。ふだん疲れたといわない子どもであれば、効果はいっそう絶大である。
 ところが、子どもが味を占めて「疲れた」を繰り返すようになると、大人は賞賛しなくなる。それどころか、いらいらしたり煩わしくなる。そのようにして、注目、関心を引くことに成功する。
 さらに子どもがあまりにしつこいと本気で腹が立つ。教師が一人の子どもにかかわっている時に、他の子どもが割って入ってくるとする。「待ってね、今はAさんとお話ししているからね」「いやだ、待てない。疲れたから」とだだをこねるう。このような子どもは大人に権力争いを挑んでいるのである。
 さらに、復讐の段階に進むことがある。カンニングなどの不正行為をするような場合である。この段階では子どもは面と向かって親と争うこともなく、したがって、「疲れた」という言葉を発することすらしない。どうしてこんなことをするのだろう、と怒るというより嫌な気持ちになり、傷つく。
 さらには、もう私はだめだから見捨ててほしい、と能力を誇示することがある。そのような子どもを前にして、大人は絶望し、途方に暮れてしまう。

●課題からの逃避の口実として
 「疲れた」ということには、次のような目的もある。ある習い事をしている子どもが、ある日、教室にくるなり「疲れた、疲れた」という。「なんでそんなに疲れたの?」「だって……今日は疲れたから(課題を)半分にして!」「しかたないなあ」。
 理由は何でもよくて、課題の量を減らしてほしいのである。実際、子どもが「疲れた」といえば、多くの課題を与えることをためらってしまう。このようにして課題の量を減らすことに成功すれば、突如として元気になる。
 朝、子どもが学校を休みたいと訴える時には、お腹が痛いとか頭が痛い、といってえ元気がない。ところが、学校に連絡を取って、休めることが決まったとたんに、嘘のように元気になるというのと同じである。
 また、「疲れた」といえば家事の手伝いをしなくてもいいことを学んでいることがある。疲れているのなら家事を手伝わせることはできない、と親は考える。
 自分が生きたくない習い事を止めるための口実にすることもある。「家事を手伝ってよ」「だめだよ、疲れているんだから……でも、習い事を止めさせてくれたら手伝うよ」。もちろん、このようなことをいう子どもは習い事を止めたからといって家事を手伝ったりはしない。

●自他への弁明として
 もう一つは、例えば試験でいい成績を収められなかった時に、自他共に納得するためである。疲れるほど頑張っていたのだから、いい成績が取れなくても仕方がないと親に思ってほしい、と考える。自分もそう考えれば失敗したことを納得できる。勉強が足りなかったとしてもである。
 子どもが課題に挑戦する時、失敗が少しでも予想され、成功することが確信できなければ、最初から挑戦しないか、あるいは、失敗しても致命的な打撃を受けることがないように、いわば綱渡りをする人が転落することを予想して下に網を張っておくようなことをする。「疲れた」ということは、このような目的のために子どもが取る手段の一つである。

●気を遣う子ども
 以上とは少し違うケースもある。このタイプの子どもは気を遣いすぎて疲れる。先生のいっていることが変だと思いながらも黙っていたり、友だち関係のことを気にして疲れてしまう。友だち関係のことで疲れる子どもを普通親は放っておけないだろう。

どのようにかかわればいいか

●「疲れた」という言葉に対処しない
 以上見てきたように、子どもたちは直面する課題を解決できないと考えているという意味で、勇気をくじかれているといえる。
 そこで、まず子どもたちは先に見たような仕方で注目を得ようとしているわけであるから、あらゆる声かけ、対処を止めてみる。「疲れてるんじゃないの」と声をかけたり、「今日は疲れたといわないねというような注目をしないようにする。このような対処をしている限り、子どもは「疲れた」ということを止めない。

●勇気づけ
 その代わり、元気な子どもに注目する。子どもは「疲れた」という時にしか注目されないと思っている。実際そのとおりである。子どもがいつも疲れているとは思えないが、大人には疲れている子どもしか目に映らない。
 しかし、そもそも子どもは「疲れた」といってはいけないのだろうか。頑張らない子どもは駄目な子どもだと決めてかかれば、頑張れないと思って「疲れた」という子どもは、いよいよ勇気をくじかれ駄目になってしまう。
 アドラーは「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」といっている。すぐに「疲れた」という子どもは、自分の限界を知っているということができる。ストレスに強いと思っている人は、強いストレスがかかるまで我慢してしまう。頑張りすぎて途中で息切れがするよりも、疲れたといえる方がはるかに望ましいと見ることができる。
 このように子どもを見直したい。子どもを大人の理想にあてはめてはいけない。勇気があればどんな性格であれ、そのままで社会に対して建設的に生きることができる。自分自身については「私には能力がある」、他者については「人々は私の仲間である」と感じられ、与えられた課題に取り組めることを勇気があるといい、そのように感じられるように援助することを「勇気づけ」という。

●好きなことには無理な努力はいらない
 大人の持っている一つの思い込みは、課題の達成には努力が必要であるというものである。もちろん、努力は必要だが、苦しくてしかないがそれでも歯を食いしばって頑張らなければいけないというのは本当ではない。息子の小学校の時の担任の先生が、「勉強するって、やらされているのではなく、夢中になって楽しんでするものだと、あなたを見て思った」という手紙をくださったことがあった。
 本来、課題への取り組みは楽しい。他者からの強制でなければ、知らないことを知るという営みはそれ自体として楽しいことであり、さらにその取り組みが自分に役立ち、究極的には他の人への貢献になることを学んでほしい。そのように感じられる時、疲れは解消する。

●ストーレートな言語表現
 「疲れた」と子どもがいう時、ストレートに例えば「勉強をしたくない」といえないということがある。勉強したくないといおうものなら大人は怒る。だから子どもはまわりくどいいい方をするしかない。そこで、ストレートにしたいこと、したくないことをいえる雰囲気をつくりたい。ひどく疲れていなくても、休息が必要だと思った時には、ただ止めればいいわけである。
 いずれにしても、子どもが自分の責任で果たさなければならない課題なのだから、親は困るわけではない。子どもが自分の課題をなしとげることを、大人は信頼して待ちたい。

     *       *

 元気な時もそうでない時も、自分やまわりの社会に対して貢献する建設的な行いをしていることに注目し、貢献に感謝したい。そのようにかかわっていけば、子どもたちは、注目されるために、あるいは、失敗の弁解として「疲れた」とはいわなくなり、勇気を持って建設的に生きていくことを選ぶであろう。
(『児童心理』2002年4月号)

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空に手をかざし

cosmos heart ...

 雨の日曜を取り返そうと、長い時間歩く。風を撮りたい。

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2008年9月16日 (火)

子どもに「早く早く」という時

 息子が四歳の時バスを一緒に待ったことがある。「後、一時間しないとバスはこないのだけど」といったが、息子は「いいよ、待つから」といった。かくて五月とは思えないほどの初夏の強い日差しを浴びながら、バス停にすわりこんで次のバスがくるのを待った。急ぐことはなかった。時間が経つのをただゆっくり待てばよかった。
 ところが、朝、保育園に子どもを送って行く時はこんなふうにはいかなかった。「早く行こう」といっても、いうことをきこうとしない。力ずくで自転車に乗せようとしても激しい抵抗にあい、たとえ自転車に乗ったとしても暴れるので、途中で何度も自転車から降りなければならなかった。何が違うのだろうか。
 何よりも時間の制約がある。子どもを保育園に送りに行く時であれば、仕事に遅れるわけにはいかない。「早く」といって素直に従ってくれればいいのだが、事はそう簡単には運ばない。子どもは一向に急ぐそぶりを見せない。
 こうなると、親は冷静ではいられなくなる。次第にいらだちは募り、ついには子どもを大声で叱ってしまう。待てるのであれば、いらだつこともないし、子どもの方も意外にも親を待たせるようなことをしない。

子どものねらい
 子どもは、親が「早く早く」という時、時間に限りがあることを知っているのだろうか。もしも知らないのであれば、急ぐ必要があることを子どもに伝えれば従ってくれるかもしれない。しかし、子どもを急かせても急ぐそぶりを見せないのであれば、親が困ることを知っているからである。
 子どもにしても親に「早く早く」と叱られたらうれしくはないだろう。それにもかかわらず、子どもはあるねらいがあって親をいらだたせたり、怒らせているように見える。
 もしも叱ることが有効であるならば、次の日から子どもは悔い改めて、親が促さなくとも自発的に早い時間に用意をするようになるであろう。しかし実際には同じことが毎日繰り返される。それでも親は希望を捨てることはできない。もう少しきつく叱ったら子どもは悔い改めるのではないか、と思うからである。
 子どもの側から見れば、早くしなければ親に叱られるという形で注目されることを学ぶ。早く用意をしても親はそのことに対しては普通声をかけたりはしない。そうだとすれば、叱られたくはないけれども、何もいわれないよりは、急がないことで親を困らせ叱られることを選ぶと考えるのは自然である。
 親がこのような子どものねらいに気づかずに、「早く」といって叱りつけようものなら、子どもは親の注目を引くことに成功する。こうなると、叱っているにもかかわらず、親が「早く」といわずにはおられないような行動を子どもが止めないのではなく、叱るからこそいよいよそのような行動を止めないということになってしまう。

親ができること
 それではどうすればいいのだろうか。「早く」と感情的に子どもに声をかけてしまうような場面では、残念ながら親ができることはあまりない。せめて「早くしてくれませんか」と冷静に声をかければ、子どもが反発することを回避できるかもしれないが、実際にはそのような場面で親が冷静でいることはむずかしいであろう。
 むしろ、このようなことが起こる前にこそするべきことがある。叱らなければならないようなことを子どもがあえて行うことを予防することはできる。
 一つは、急がないことの結末が子どもにだけふりかかるようなことであれば、困るのは親ではなく子どもなので、初めから声をかけないでおこうと決めておくことである。習い事などの場合、時間になっても行こうとしなければ声をかけたくなるが、たとえ叱ることで親のいうとおりにしたとしても、自分で判断するのではなく、親を恐れて従っているというのでは困る。反発する子どもであれば毎日行く、行かないをめぐっていさかいが絶えることはないだろう。
 次に、親の都合で時間の制約がある場合は、子どもが急かさなくても行動した時にこそ声をかけることである。親は当たり前と思うかもしれないが、保育園に行く時間になっても好きなだけテレビを見たいと思ったかもしれないのに、その楽しみを中断し、親が仕事に間に合うよう保育園に行ってくれるとしたら、そのことに対して「ありがとう」「助かった」などと声をかけたい。そうすることで親の役に立てることを学んだ子どもは、わざわざ親に叱られるようなことはしなくていいことを学ぶだろう。

子どもに学んでほしいこと
 子どもに学んでほしいことがある。たしかに生活の場面で、子どもに早くしてほしい時がある。そのような時に、子どもに協力してほしいのである。
 そのために、子どもが親の願いをききいれてもいいと思えるような親子関係を築くことが、子どもを急かして叱らなくてもすむようにするために何よりも必要である。叱ることは親子関係を決してよくはしない。関係がよくなければ、子どもの側の協力が必要な時に協力してもらえないことになる。親に協力することが決して親に負けることではなく、家族に貢献することであることをわかってほしい。そうすることで貢献感をもってほしい。
 そのためには、普段からあらゆる場面での子どもの貢献に注目し、子どもの適切な行動に「ありがとう」「助かった」などの声をかけることで、子どもが自分が家庭において必要とされていることを実感できるように援助したいのである。
 子どもがそのように感じられるようになれば、やがて親は「早く」という言葉をもはや子どもに発していないことに気がつくことになるだろう。
(『児童心理』2004年6月号)

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「がんばれ」だけが励ましではない−言葉かけのいろいろ

はじめに

 私が学んでいるアドラー心理学においては、子どもが人生の課題を解決し、社会に貢献する能力があり、人々が自分の仲間であると感じられるように援助することを「勇気づけ」という言葉で呼んでいる。本稿においては、「がんばれ」という言葉かけに代表される「励まし」がはたしてこのような援助のために有用なのかどうかということから始め、子どもを援助するためにどんな言葉かけが可能かを考察する。

「がんばれ」が子どもの勇気をくじくとき
 たしかに「がんばれ」といわれてやる気を出す子どもはいる。しかし、そのような子どもは「がんばれ」という親の期待を満たすことができる子どもに限られる。試験を例に取ると、たまたま悪い成績を取っても、次はいい点を取れる自信がある子どもである。
 子どもが悪い成績を取ってきたら、多くの親は何もいわないか、叱る。親にいわれるまでもなく既に勇気をくじかれているので追討ちをかけるように「なんだ、この成績は」と批判したり、「次はがんばれ」と励まそうものなら、親の思わくとは裏腹に、いよいよ勇気をくじかれて奮起することはない。
 よい成績を取った場合も、今回いい成績が取れたのは偶然のことであると思っているのであれば、「次回もがんばれ」と励まされても、次回いい成績を取れなければ親は自分を見捨てるのではないか、と恐れることになる。
 このように恐れるがゆえにともかく結果さえよければいい、と考え、不正な手段をも辞さない子どももいる。高校生のとき英作文の補習を受けたことがある。教材は先生自作のものだと思っていたが、本屋で教材の元になった問題集を見つけてしまった。幸か不幸かその問題集には解答集がついていた。それを見れば完全解答ができる。しかしそれでは力がつかない。自力で解くべきである…そう考えたものの解答集の誘惑に勝つことはできなかった。私の完璧な解答を見ても寸分も疑うことのない先生の「君はよくできる」という言葉は、私には大変なプレッシャーになった。
 最初からそもそも課題に挑戦しないでおこうと決心することもある。私は大学でギリシア語を教えているが当てても答えない学生がいる。あるとき、一人の学生にたずねてみた。
「どうして答えなかったか自分でわかりますか?」
するとその学生は答えた。
「もし私が〔実際に〕答えて間違ったら先生にできない学生だと思われるだろう、と思いました。でもそんなふうに思ってほしくありませんでした。たまたまこの問題ができないだけで本当はできると思ってほしかったのです」
 勉強しない子どもに「あなたはやればできるのに」といえば子どもは勉強するどころかかえって勉強しない。やればできるという可能性を残しておきたいからであり、実際に勉強してできないことが自他ともに明らかになっては困るからである。
 課題に取り組んでいるある子どもに親が無邪気に「がんばれ!」と声をかけた。するとその子どもは「〔もう〕がんばってるよ」と不満の表情をあらわにしていった。自分のことを、わかってもらってないと感じたかもしれない。
 また、自分はがんばってないと思っている場合がある。『五体不満足』を書いた乙武洋匡氏の元には、「あなたがそんな身体でがんばっていることに励まされた。私もがんばらないと」という意味の手紙が届くそうである。その手紙について乙武氏は次のようにいう。
「僕、全然がんばってないんですけどね。僕にとって「がんばる」という言葉の定義は、嫌なことをガマンしてやること。そういう意味じゃ、今までの人生でがんばったのは大学の受験勉強ぐらいで、それ以外はすべて楽しいからやったんです」
このように考える人に対して、あなたはがんばっている、あるいは、がんばれという言葉かけは的外れなものとなる。

「がんばれ」は勇気づけになるか?

 ある時夜遅く仕事をしていたら、当時小学生だった息子が私に突然こんなふうに声をかけた。
「おとうさん、ここにすわって〔仕事して〕くれない? 僕はおとうさんが僕の隣で「がんばれ」といってくれたらやる気が出るから」
それを聞いた私はためらうことなく、息子の横にすわって、いわれた通り、時折「がんばれ」と声をかけた。
 このケースでは「がんばれ」が勇気づけになっている。一つには子ども自身が「がんばれ」といわれるとやる気が出る、といっているからである。次に、子どもからこの「がんばれ」という言葉をかけてほしいという依頼があり、親がそれに同意するという手続きが踏まれているからである。
 アドラー心理学では「これは誰の課題か」といういい方をする。あることが誰の課題かは最終的に誰が責任を引き受けなければならないか、あるいは、ある選択の結末を誰が最終的に引き受けなければならないかを考えればわかる。
 そこでたとえば勉強は誰の課題かといえば子どもの課題なので、親は子どもに当然のごとく「勉強しなさい」といってはいけないし、そもそもいえないのである。「がんばれ」という言葉かけも本来は子どもの課題について発せられるものである。
 すると親が子どもに「がんばれ」といえるためには、先のケースのように、子どもが親に「がんばれ」といってほしいと頼んできて親が引き受けるか、親が子どもの様子を見て手伝えることはあるかたずねてみて、子どもが引き受ければ手助けの一つの方法として「がんばれ」ということを提案することは可能である。
 このような手続きを踏むことなく「がんばれ」といわば土足で親が子どもの課題に踏み込むことは、子どもに問題解決をする能力がないといっているに等しく、子どもとの関係をこじらせることになる。「がんばれ」という言葉を大人が安直に発し、子どもがそれを喜ばないとすれば、親が自分の課題に介入しようとしていることを子どもは知っているのである。「がんばれ」と声をかけることを子どもが了承し「がんばれ」という場合であっても、子どもを親の都合で自分の欲する方向へ動かすことはできないということに思い至りたい。そのような意図があって発せられる言葉は勇気づけとはいえないのである。

どのような言葉をかければ勇気づけることができるか?

 以上のように考えると、子どもが自分の課題について苦境に立っている場合も、子どもが自分の責任で解決すべきなので、子どもが自力で立ち向かえることについては、少なくとも頼まれもしないのに、子どもの行動やその結果について手出し、口出しをすることはできないことがわかる。
 とはいえ、原則的には子どもは自分の問題を自力で解決すべきであるが、ときに親からの助力がなければ解決できないこともある。その場合も、既に見たように、本来は子どもの課題であるが親と子どもの「共同の課題」にする手続きを必ず踏まなければならない。
 そこで、子どもが課題に取り組むのを見守ることだけが唯一親ができることであるということがある。子ども自身が自分の課題を自力解決できること、そのために(もしも子どもが望むのであれば)親が援助することであって、いかなる場合も親が子どもの課題を肩代わりすることはできないのである。
 子どもが自分の課題を守備よく達成したときにはそのこと自体で勇気づけられているので、必ずしも声をかけるには及ばない。息子が四歳のとき、プラレール(プラスチックの鉄道模型)を作っていた。それを見た母親が声をかけた。
「すごいレールね。これ一人で作ったの? こんなむずかしいのを作れるようになったんだね」
息子はこの言葉かけに対して次のように答えた。
「そう、大人から見たらむずかしいように見えるけど、ここまでは簡単なんだ」
驚いたことに、このやりとりがあった後で、息子は線路を作ることを放棄してしまった。
このような何気ない大人の評価の言葉、さらに「えらいね」というほめ言葉を用いると、本稿では詳論の余裕はないが、人がほめてくれるかどうかを判断基準にして行動するようになり、ほめる人がいないと適切な行動をしなくなるという弊害をもたらすことになる。
 他方、子どもが苦しんでいるとき、「がっかりしているみたいだね」「残念だったね」というような声をかけたり、頼まれもしないのに手出し、口出しをすれば、私は苦しい時間を一人では耐えられない弱い人間であるという信念を植えつけ、子どもを依存的にするかもしれない。そうなると、自分に能力があるとは思えないようになるかもしれない。このような場合私がよくするのは「何かできることはない?」という言葉かけである。このようにいっておいて子どもが何も援助を依頼してくることがなければそれでよし、もし援助の依頼があれば、どうしても子どもが自分の力だけでは解決できないことについて、共同の課題として問題の解決に向けて可能な範囲で子どもの援助をしたい。
 子どもへの言葉かけはどんなに慎重であっても慎重すぎることはない。最初はどんなふうに声をかければ子どもを勇気づけて援助できるかを努めて意識しなければならない。アルフレッド・アドラーは次のような話を伝えている。ひきがえるがあるときむかでに出会い、このめずらしい動物の持っている力を賞賛し始めた。そして「千ある足のうちでどれを最初に動かすのですか?
どんな順序で後の九百九十九の足を動かすのか教えていただけませんか?」とたずねた。むかでは考え始め、足の動きを観察し始めた。すると、足をコントロールしようとして混乱し、一歩も進めなくなった…意識して言葉をかけ始めると最初は必ずこのように言葉の選択に迷うことになるであろう。それでもこの段階を踏むことなしに子どもを援助することはできないのである。
(『児童心理』2000年8月号)

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2008年9月15日 (月)

一心不乱

with rapt attention ...

 日曜の夕方、写真を撮りに出かけたが、蝶を見かけずがっかりしていたらこの蜜蜂が飛んできた。
 この数日、忙しかったが、なんとか乗り切れた。明日から、また平常の生活に戻れるだろう。

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the wings went pink ...

the wings went pink ...

 日曜は朝から忙しく、ひどく疲れてしまった。父に会う。もう長く会ってなかった。新刊の『アドラーに学ぶ』をおみやげに持って行く。喜んでくれた。年老いた父を見るのはつらい。夕方、写真を撮るついでに今日読書会をする家に立ち寄る。疲れていたのか、長く寝てしまった。
 前から撮ったツマグロヒョウモン( 褄黒豹紋)。羽に花のピンクが映っている。コスモスのピンクを吸っている?

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2008年9月14日 (日)

As the sky was so blue and beautiful ...

interlude 2

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誰のための勇気づけか

 例えば、子どもが試験で思うような成績を取れなかった時、辛そうにしているのを見た時、大人はそれに対して、「勇気づけ」をしたいと思う。しかし、その子どもは大人から「勇気づけ」をしてほしいと望んでいるのだろうか。
 この場合、大人が子どもに不用意に声をかけたらどうなるか。「つらそうだね」というような言葉をかけるのである。すると、一体、子どもは何を学ぶだろう。私は人から慰めてもらわなければ、苦境を乗り越えることはできないということを学ぶことになるかもしれない。また、そのように声をかけてくれる人を子どもは「仲間」と思うかもしれないが、次回、同じような場面で声をかけるのを怠れるようなことがあれば、声をかけてくれない大人のことを「仲間」ではなく「敵」と見なすかもしれない。
 無論、これは勇気づけとはほど遠い。厳しいと思う人もあるかもしれないが、これからの人生において自分の思うようにならず、何かに失敗して臍を咬むような思いをすることを避けることはできないのであるから、そのような時に苦境を乗り越えられるような力をつけてほしいので、そのためにはわれわれが手を貸すことがかえってためにならないことがありうることを知っておきたい。勇気づけをするのであれば、このような時に、自分に切り抜ける力があることを子どもに学んでほしいのである。そのために親が不用意に声をかけないということも必要である
 ではどうすればいいのか。黙って見守るというのはどうだろう。大人の側の気持ちとしては、黙っているのではなく、声をかける方が楽なのである。それに、大人としての責任を果たしたような気になる。そのように感じて子どもに課題に手出し、口出しする大人は、実は、子どものことなど考えていない。
 子どものことを考えるのであれば黙って見守ればいい。ここで見守るという言葉を選んで使ったのには理由がある。子どもが置かれている状況を知っているけれども、あるいは見ているのであり、必要があれば、大人が動かなければならないことはあるからである。
 どうしても声をかけたいのであれば、「何かできることはありますか」という言葉をかけることはできるだろう。その上で、子どもからの援助の申し出があれば、可能な限り力になりたい。とはいえ、できることには限界があるのは本当である。そうであっても、課題の肩代わりをしなくても(そのようなことはできないのである)必要な援助によって、自らの人生の課題を解決できると信頼できるかは、日頃からの関係のあり方にかかってくるだろう。

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2008年9月13日 (土)

目を上げて

If I lift up my eyes ...

 今日はヴァイツゼッカーの研究会だった。僕はまだ参加し始めてまだ二年だが(参加するきっかけは、心筋梗塞生還記の最初の方に書いた)、会は今日は96回目だった。三十年ぶりの再会の場に居合わす。大切な人とはどんなことが会っても、結びついているのだ、と思った。
 写真はヒメアカタテハ。もう一枚撮りたかったが、飛び去っていってた。そんなことを書いたら、一度で十分、というコメントをもらった。
「目を上げて、山々を仰ぐ。私の助けはどこからくるのか」(『詩編』121.1)

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ただ見るためだけに

Where there are flowers ...

 花のあるところに人が集まる。

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2008年9月12日 (金)

書を捨てて

沢木耕太郎『深夜特急〈1〉香港・マカオ 』(新潮文庫)

 仕事とは関係のない本を読みたいと思いながら、読み始めたら、結局、線を引いたり、付箋をつけたりして、書く時の参考にしようと思っているところがあって、読書を楽しめない。そんな時に読んだ本。
 インドのデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスで行くことを思い立った26歳の著者が、すべての仕事を投げ出して旅立った。文庫で6冊もあるがすぐに読むことができた。
 仕事に関係のない本のはずだったのに、実は『アドラーに学ぶ』にはこの本を引用してしまった(pp.97-8)。旅先で関わった人を疑い、後に真意がわかり悔やむという話は何度か出てきた。
 この本のことは名前だけは知っていたが、縁がなかったのだろう、手にすることはなかった。それなのになぜふいに読もうと思ったのかといえば、よく仕事を持って立ち寄る喫茶店である日ドイツ語の本を読んでいた時に、店の人に突然「ドイツ語ですね」と問われ驚くということがあったのである。聞けば、大学でドイツ語を学んでいるということだった。それから数ヶ月して店を辞めるという。大学を休学して一年ドイツに留学するというのである。またどうしてそんなことを考えたのですか、とたずねないわけにいかなかった。その話の中に『深夜特急』が出てきた。小田実の『何でも見てやろう』、金子光晴の『どくろ杯』『ねむれ巴里』(後者は僕の本に引用した、p.169)に並んで『深夜特急』に影響を受けたというのである。すぐに行動に移せるのは若い人の特権だろう。
 『深夜特急』は、旅から終わって15年以上かけて書き上げられた。どんな経験も経験するだけでは意味がなくて、時間をかけて発酵する必要があるのだろう。

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新ファイル登録のお知らせ

 バイパス手術生還記を新たに登録しました。読み返してみると、心筋梗塞で前年に一ヶ月入院していた時よりは、精神的ははるかに安定していることがわかります。とはいえ、心臓を止めての手術ということでその時とは別の意味での怖さはありました。ほぼリアルタイムで楽天のブログにも手術のことを書いていましたが、今回のは(あまり)編集されていない、入院時は公開をためらったもう一つのヴァージョンです。
 8月に出版した『アドラーに学ぶ—生きる勇気とは何か』にはこの記録からも引いています。
 バイパス手術のことを知りたいと思われる方の参考にもなればと思っています。

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この風は

interlude...

 この風はどこかで君とつながっているから…という歌をふいに思い出した。
 朝夕は過ごしやすい。体調がベストの日はない。暑い日は暑い日で、寒い日は寒い日で、季節の変わり目もつらい。それでも今日も生きられた。二年前に病床で書き続けた日記を読み返していて、本当によくなったものだとあらためて思った。

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2008年9月11日 (木)

at last ...

2008年9月11日木曜日

at last I captured you ...

 いろいろ考え事をしながら歩いたのと、暑かったのとで朝散歩から帰ったらもう早くも疲れているように感じられた。
 何日も徹夜して何かをやりとげ、エンドルフィンが出て達成感があるというようなことはしてはいけないと医師にいわれていたことを入院していた当時の日記を読み返していて思い出した。さすがに徹夜はしなくなったが、無理をすることはある。
「強いメンタルストレスがかかると、閉塞することはありうる。しかし、これは誰も予想できない。締切のある仕事があって、その時、親戚に不幸があって、風邪でも引くと…」 
 ストレスが三つ同時にかかると、冠動脈が閉塞することがありうるとしたら気をつけねば。
 昨日、夕食の買い物の時、レジで店の人に「これはグレープフルーツですか?」とたずねられて驚いてしまった。常は別の仕事をしている男性の店員さんが夕方はレジの応援に入るのだ。丁寧にレジを打たれるが時間がかかる。わからないことをこんなふうにたずねることに好感を持った。「これは?」「それは種類が違いますが、同じグループフルーツです」「なるほど」そういって、レジに金額を打ち込まれた(果物にバーコードはついてない)。
 写真は(たぶん)モンシロチョウ。意外にこの蝶は撮影が難しい。めったに止まらず、いつもひらひらと待っている。

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新連載のお知らせ

 心筋梗塞生還記を載せました(右サイドバーの「ウェブページ」)
 2006年の4月19日に急性心筋梗塞で入院しました。幸い、カテーテルによる治療(冠動脈の閉塞した箇所を風船を使って開通させ、後にステントというメッシュ状の金属の筒を留置する)によって一命を取り留め、その後、一月にわたる入院で、少しずつ心臓リハビリを結果、退院することができました。心筋梗塞の転帰は人によって違いますが、心筋梗塞について、あるいは心筋梗塞の治療について、参考になれば、と思って(入院している時にインターネットで探してこの病気になった人が書かれたものを読みました)、入院中に書いたものをほぼそのままの形で公開します(以前、別の箇所に載せたものよりもくうわしいです)。僕の場合は、なお冠動脈に狭窄箇所を残し、その箇所はカテーテルでは治療できないので、一年後に冠動脈バイパス手術をしました。この手術については、別に公開しようと思っています。
 いつかきちんとまとめようと持っていましたが、時間がないようなので、不完全ながら、しかし、リアルタイムで書いた記録としては意味があるかもしれないと思いました。(5)の最後の方で主治医と話すところがあって、そこで退院後してはいけないことを聞いています。医師は、
「これだけのことをいついつまでに必ずやりとげる、そういうのはやめなさい。高校生が何日も徹夜して何かをやりとげ、エンドルフィンが出て達成感があるというような、そんなことも」
といっているのですが、時々、自分でも読み返さないと忘れてしまっているのがわかります。もちろん、よくなったということなのですが。
 他のブログの記事と違って、消えていきませんので、時間のある時に読んでもらえたら嬉しいです。

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2008年9月10日 (水)

豹は斑点を変えられるか

can the leopard change his spots?

 午前中一杯かかると思っていた仕事を8時には終え、二日ぶりに写真を撮りに行く。これはツマグロヒョウモン( 褄黒豹紋) 。他にも蝶の写真が撮れ、うれしい。広大なコスモス畑で蝶に遭遇するだけでも大変。一瞬のチャンスを生かさないといけない。網を使わず、虫取りをしている気持ちになる。捕まえた(写真を撮った)日は一日気分がよい。

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信頼関係はなぜ重要か―人を信頼することの意味

信頼なしには生きられない

 よく考えるまでもなく、あるいは、あまりに当たり前すぎて、日頃反省することもないのだが、人は他者を信頼しなければ一時も生きていくことはできない。運転手が何の過誤もなく運転すると信じることができればこそ電車にもタクシーにも乗ることもできるのである。このような信頼関係が崩れ、大きな事故が起きることはたしかにあるが、そのようなことがいつも起きるわけではない。
 われわれが日常的にその中にある対人関係においては、信頼関係が崩れることによって、大きな出来事が瞬時に起こるわけではない。しかし、対人関係も、信頼があるから成立するのは明らかである。大人と子どもが諍う度に子どもが家に帰ってこなかったり、つまらない授業をした次の日に子どもが登校しないというようなことがあれば大変である。人と人が信頼していればこそ、このような心配をしなくてもいいが、一時的であっても、信頼の欠如は、関係を悪くすることはあっても、よくすることはない。

信頼できない時

 人が人を信頼するとは一体どういうことだろう。すべてが明々白々に知られているのであれば、信じる必要はない。信頼するとは、目下起こっていることや、これから起こることについて未知なことがある時、その知られていないことを主観的に補完することである。直接の知識、あるいは信じる根拠がある時にだけ信じるのは「信頼」とはいえない。
 無論、これはビジネスの場面でのことではない。返済の見込みがなければ、銀行はお金を貸さない。便宜上言葉を区別するならば、通常いわれる「信用」は、根本的に不信を前提にしているということができる。しかし対人関係の中にあっては、例えば、子どもが明日からは勉強するといっていたのに勉強しなかった時、信頼を裏切ったと、子どもとの関係を切ることはできない。
 未来のことについては、何が起こるかわからないので、信頼できないということがあるとしても、それでは現在の事実であれば、不信の余地はないのだろうか。
 実のところ、大人は子どもの「ありのまま」を見ていないのである。子どもがある日勉強を突然止めた時、日頃から勉強する子であれば、今日はたまたま勉強しなかったが、休むことも必要であると大人は思ったり、今日は例外であって、今後も勉強をしないとは思わないだろう。
 しかし、同じように勉強を止めたとしても、日頃から勉強に熱心でないと大人が見てきた子どもであれば、今後も同じことが続くのではないかと思うかもしれない。たとえ今は勉強していないだけであっても、この先ずっと勉強しないという判断をするかもしれないし、その際、子どもが「明日は勉強する」といっても、信じることはできない。
 このように大人は「事実」を見るのではなく、事実に「意味づけ」をしているのである。大人は子どもについて、この子どもは信じられない、と思えば、この思いから子どもの行動を見るので、子どものどんな言動も、不信を強化こそすれ、子どもを信頼する方向には作用しない。
 レインは、今見てきた意味づけについて「属性化」という言葉を使う(1)。子どもは、常に大人が納得できる言動をするわけではなく、思いもよらないことをいったりしたりする。問題行動のことだけではない。子どもは成長につれて親が思いもよらないことをする。大人はそのような事態を受け入れられるような意味づけをする。そこで、例えば自分に叛こうとする子どもも、実は、親である自分のことが好きなのだという(恣意的な)属性化をする。
 したがって、大人が子どもを信頼できないのは、子どもがいうことが未来のことだからであるというだけではなく、現在の事実の意味づけが不信へと導く。

子どもが大人の信頼を裏切る時

 大人が子どもを信じられない時、子どもの側には一体何が起こっているのだろう。これまでのところでは通常のいい方にしたがって、大人が子どもを信じられないような出来事があって子どもを信じられなくなると書いてきたが、不信は二重の意味で因果的に見ることはできない。
 まず、子どもはあえて大人が自分を信じられないようなことをしているのである。端的にいえば大人の注目を引くためである。子どもは大人から認めてほしいと思い、家庭や学校という共同体への所属感を持ちたい、と思う。ところが建設的なことでは所属感を持てなければ、不適切な言動によって大人の注目を引こうとする。
 次に、子どもの方も大人が子どもに対して持つのと同じだけの不信感を持つことがある。もとより、子どもは最初から大人に不信感を持たない。ところが、いつの頃からか、大人の言葉を信じられなくなる。なぜか? 一つは大人の言行不一致である。子どもは大人が正論を振りかざして説教する時に、その大人の行動に目を向ける。ところがその大人が自分に強制するその当のことをできていないではないか、と子どもは思うのである。
 また、大人は自分を大人が望むような子どもにしたいと考えていることを知っているからである。しかし大人の期待は、子どもの課題についての期待である。大人が子どもに勉強してほしいと期待しても、勉強をする、しないことの結末は子どもにだけかかり、その責任は子どもしか果たすことはできないという意味で子どもの課題である。
 それならば、親が子どもを信じるといっても、親の側の一方的な期待でしかないことになってしまう。電車やタクシーに乗ったりする時に何かあっても、その結末は自分にのみ降りかかるが、子どもとの信頼関係が問題になる場合は、結末は大人には降りかからない。子どもは、自分の課題にまで大人に口出しされたくはない。大人が子どもへの期待が子どもの課題に関わることであることを知っていれば、問題は大きくはならないが、大抵、大人は子どもの課題に口出しすることが自分の仕事だと思っている。
 このように、子どもが大人の言行不一致や、大人が自分の課題に介入しようとしていることを知ると、大人の言葉を素直に聞いて言葉そのものに耳を傾けるよりも、言葉の裏にある心理を忖度するようになってしまい、言葉はもはやそのままでは信じられなくなる。

なぜ信頼は必要か

 信頼関係を築くことはなぜ大切なことなのだろう。大人に不信感を持っている子どもは、世界全般に対する信頼感を欠いている。この世界は危険なところであり、まわりの人は隙があれば自分を陥れようとしている敵である、と考えているのである。そのような子どもは、他者に役に立つことをしようとはしないので貢献感を持てず、そのため、自分のことを受け入れることができない。かくて、自分への信頼、即ち、自信を持つことができないのである。
 アメリカのある学校に問題の多いクラスがあって、二人の教師が続けて担任を降りるという事件があった。そこで校長はその年の採用試験で不採用になった教師に電話をし、このクラスを学年末まで受け持ってくれたら翌年は専任講師として採用するという話をもちかけた。もちろんその教師はこの話を受けた。
 校長はこのクラスのことをわざと話さなかった。一ヶ月が過ぎた頃、校長がこのクラスの見学をした。校長は生徒が人が変ったように勉強に打ち込んでいることに驚いた。授業の後担任にねぎらいの言葉をかけた。するとお礼をいいたいのは私の方です、と担任はいった。新任の私にこんなすばらしいクラスを受け持たせてもらえたのですから、と。「礼をいわれる資格は私にはないんだ…」「ああ、校長先生が私に隠していた小さな秘密のことなら最初の日に私は見つけてしまったんですよ。引き出しの中をのぞいたら生徒のIQのリストがあったのです。正直大変なことになったと思いました。こんなに頭がよくて活発な子どもを授業に引きつけておくには相当頑張らないといけないといけませんから」。引き出しを開けるとそのリストがあった。それには生徒の名前の横に136,127,128…と数字を書いてあった。それを見て校長は叫んだ。「これはIQなんかじゃない。生徒のロッカー番号だよ」
 オハンロンは次のようにいっている。「だが、時すでに遅し。この新任教師は生徒が優秀だと思い込み、生徒も彼女の積極的な働きかけと期待に精一杯答えたのだ」(2)
 信頼は、信じる根拠のない時ですらあえて信じることである。たとえ他者への信頼を裏切っても自分のことを信じる人がいれば、そのような人を裏切り続けることはむずかしい。自分を信頼する人がいることを知れば、子どものこの世界への見方は変わる。このことを可能にするために、子どもにアドラーのいう「仲間」として対峙したい(3)。

信頼の回復

 それではどうすれば信頼関係を築くことができるだろうか。アルフォンソ・リンギスは、信頼は、未知なるものの中へ飛び込むことである、といっている(4)。子どもが明日から勉強するといっても、大人はそういう子どもを信頼することができない。なぜなら、その言葉はこれまでに幾度となく聞いてきたからであり、その度に落胆を繰り返してきたからである。そのような大人にとって、子どもが勉強するといい、実際に勉強することは「未知」のことである。子どもを信頼するには、未知へと飛び込む勇気が必要であり、そのためには子どもについての見方を変えることから始めなければならない。
 どうすればそのようなことができるだろうか。子どもの言動を、いわば点的に見るのではなく、そこに目標に向けた流れを見ればいい。そして、言動には、悪意ではなく、必ず「よい意図」がある、と信じるのである。
 このよい意図の「よさ」は親にとっての「よさ」ではない。教育、育児の目標は自立の援助である。信頼はその自立を援助するために必須である。課題をしっかりと分離し、子どもが自力でできることであれば、子どもを信頼し、手出し、口出しをしないで、自力で課題を達成できる、と信頼したい。
 実際には子どもの方も自力で成し遂げることができるという自信がないということもあるかもしれない。大人から見て子どもが自力では課題を達成できないと見えることもある。そんな時も、子どもは自分の課題に口出しされるよりは、大人から信頼されていると思えれば、子どもは課題に取り組もうとする勇気を持つことができる。それでも何とかしたいというのであれば、「何か手伝えることがあったらいってね」というようにいうしかないが、もしも何もいわれなければ何もすることはない。このようにして課題の分離は自立を支援する。そのために信頼が必要だが、不当に大人が子どもの課題に介入しないことが、信頼関係を生むことになる。
 子どもが自力で課題に取り組めるまでにはなおほど遠いということもあるだろう。多くの場合、子どもの現状は最善ではない。決して「あるがまま」でいいとはいえないこともある。しかし、まずは現状を認めるというところから出発するしかないのではないか。フロムは、人のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在、他の誰かに代えることができない存在であることを知る能力を、「尊敬」(respect.ラテン語のrespicioが語源)といっている(5)。信頼は、この意味での尊敬から始まる。ところが大人は子どもを等身大では見ない。過剰な期待をするか、過小評価をする。子どもはそのために勇気をくじかれ、自分自身への信頼を持てなくなってしまっている。そのような子どもを勇気づけるには、「あるべき」子どもではなく、(現に)「ある」子どもを認めるところから始めるしかない。

信頼して語る

 以上で、信頼について、不信が起こる機序から始めて、なぜ信頼関係を築くことが必要か、そのためにどうすればいいか見てきたが、最後に普段の生活の中にあって、心を読まないように援助することが必要であることを強調しておきたい。信頼するというのは、言葉が発せられていないことを最善と見ることではない。逆説的に聞こえるかもしれないが、相手を信頼して黙るのではなく、むしろ、言葉によるコミュニケーションを対人関係の中心に据えることが、信頼関係を生むのである。言葉を額面どおりに受け取らず、心理を忖度するのは、対人関係の望ましいあり方であるとは私は思わない。

【文献】
(1)R.D.レイン、『自己と他者』志貴春彦、笠原嘉訳、みすず書房、一九七五
(2)ビル・オハンロン『考え方と生き方を変える10の法則』主婦の友社、二〇〇一
(3)岸見一郎『アドラーを読む』アルテ、二〇〇六
(4)アルフォンソ・リンギス『信頼』青土社、二〇〇六
(5 )エーリッヒ・フロム『生きるということ』佐野哲郎訳、紀伊國屋書店、一九七七

(『児童心理』2008年1月号)

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purple beauty

purple beauty ..

 ゲンノショウコ。名前は前から知っていたが、今回、現の証拠、験の証拠と書くことを知った。下痢止め剤として使われる。日本語も外国語も語源を知ると面白い。このところ忙しく(雑誌の原稿書きに追われていた)写真を撮りにも行けなかった。いい天気の日が続いているのに残念でならない。

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2008年9月 9日 (火)

叱る代わりにできること

 前回、子どもを叱ることの問題点を指摘しました。私たちの陥りやすい間違いは、関係を悪くしておいて、その上で、子どもを援助しようとすることです。叱ると関係はよくなるのか、悪くなるのか。答えは自明だと思うのですが、どの子どもも叱られた時、叱った親のことを好きにはなりませんし、叱られたことを、後で親に感謝するに違いないと思う人がいれば、そんなことはないということを知ってほしいのです。
 前回見たように、実のところ、子どもは、自分がしている行動の意味をよく知っています。たしかに叱られたくはないのです。しかし、例えば、試験でいい成績を取るというような親が子どもに期待することでは認めてもらえないのなら、せめて叱られてでも親に注目されたいと思う子どもは、たしかにいるのです。
 親ができることは、子どもにそんなことをしてまで注目を引こうとしなくてもいいということを教えることです。そのためには、子どもの適切な面にこそ注目してほしいのです。ところが、そんなことはできません、あの子は一日中私を困らすようなことばかりをしています、という親は多いように思います。
 ある小学生の子どもが、学校から帰ると、寝たきりのおばあさんの下の世話をしていました。その話を子どもから聞いた私は、母親に驚いたといいました。反応は思いもかけないものでした。「でも、あの子は勉強しません」。これでは、子どもの立場がありません。家事をしなくても勉強をしてほしいというのが親の思いでしょうが、子どもにそのような期待をする前に、子どもが家庭の中に自分の居場所があると感じられるように、一言声をかけてほしいのです。この方は昼間働いていました。おわかりですね。「ありがとう」といってほしいのです。あなたが家の手伝いをしてくれるから、私は安心して仕事ができる、といってほしいのです。
 このようにいわれた子どもは、自分が認められ、役に立っている、と感じられるでしょう。そのように感じることができれば、もはや親を困らせるような、あるいは、怒らせるようなことをしなくてもいいことがわかるでしょう。
 この時、子どもの貢献に注目するという意味で「ありがとう」と声をかけてほしいのですが、ほめるのではありません。子どもが親に「おかあさん、えらいね」と声をかけたらどう感じますか? うれしいですか? うれしくないとすれば、なぜでしょう? ほめることは、いわば能力がある人がない人に、上から下へ評価することだからです。上下の対人関係を前提として、始めてほめることができます。しかし、大人と同様、子どもも、対人関係の下に置かれることを嫌がります。最初に見た叱ることについては、このことははっきりしているでしょう。子どもが下にいると思うからこそ、叱れるのです。しかし、親子関係は、このような上下関係ではありません。対等であればこそ、必要な時に親は子どもを援助できるのであり、子どもは親の言葉を冷静に受け止めることができます。たしかに親と子どもは知識と経験の点で同じではありませんが、人間として対等であると感じられれば、叱ることも、ほめることもしないようになります。このように感じられ、親子関係をよくするためには、どんなふうに声をかければいいか、さらに具体的に考えてみましょう。
(『ぷろぽ』2008年7月号)

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子どもを叱らない

 子どもが理想的に従順であればいいようなものですが、親子の間に考えの違いがある方が、むしろ当然で、子どもが親のいうことをすべて受け入れるというのもどうかと思いますし、子どもを自分の思うとおりにすることは、そもそも不可能ではないでしょうか。親子の間に考えの違いがあったり、子どもが親の思うとおりの行動をしないことが問題なのではなくて、そのような場合、どのように調整していくかが重要ですし、子どもにも学んでほしいのです。
 このような時、親は子どもを叱るのですが、これは、親が思うほど有効ではありません。なぜなら、多くの場合、その後も同じことが何度も繰り返されるからです。なぜなら、子どもは自分がしていることが親に叱られることであることを知っているからで、その上で、あえて叱られるようなことをしているからです。このようなことをするのは、せめて叱られることでもしなければ、親に注目してもらえないと子どもが思いこんでいる時です。実際、適切なことをしてみても、親はそれを当然なこととして特に注目しません。このように考えている子どもを叱れば、いよいよ叱られることを続けることになります。
 もちろん、親があまりに怖ければ、子どもは、このいわば確信犯的な行動を止めるでしょう。しかし、その場合は、三つの問題が起こるかもしれません。まず、親の顔色を窺うようになるということです。たしかに親に叱られるようなことをしなくなるのですが、積極的に適切な行動をするようにはなりません。そして、やがては、親のみならず、他の人からの評価を気にかけ、自分の判断では行動しなくなります。
 次に、家庭であれ学校であれ、ここにいてもいいと感じられることは、子どものみならず、誰もが望むことですが、叱られるとここには自分の居場所がないと感じてしまいますし、叱る人のことを好きにはなれません。そうなると、叱る親と子どもの間の心理的な距離が遠くなりますが、関係が近くなければ、子どもを援助することはできません。親のいうことが正しくても、親の言葉に従わないでおこうと決心するというようなことが起こるからです。
 もちろん、親が怖ければ子どもは積極的には反発しません。ここに第三の問題が起こります。子どもは、面と向かって反発せず、裏に回って、親が、腹が立つというよりは、嫌な気持ちになるようなことをすることがあるのです。ある子どもは、親に打たれている間に、こんなことを思いました。「これを忘れてなるものか」。そして復讐の機会を窺います。こうなると、親子関係の修復は難しくなります。
 以上のようなことを考えて、叱らないように親に勧めるのですが、このことは、子どもを放任にするということではありません。子どもが人に迷惑をかけるようなことをした場合には、それに注意しなければなりませんが、子どもを叱らなければならないことになる前に、できることがたくさんあるということを知ってほしいのです。子どもを叱らなくてもすめば、毎日の生活はどれほど楽になることか。最初に見たように、子どもも叱られたくはないのです。子どもを叱るために必要な途方もないエネルギーから解放されるためにはどうすればいいか、少しずつ考えてみましょう。
(『ぷろぽ』2008年5月号)

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2008年9月 8日 (月)

autumn star flower...

autumn star flower ...

 小川の横にある日、ネギのようなものがあって、数日、様子を見ていたら、花が咲き出した。韮だった。よく料理で使う韮とはすぐに結びつかなかった。
 今日は仕事が手一杯で思うようにこちらに書けないでいる。じっとすわっていることをどちらかというと好きなので、意識しないと外を歩こうとは思わない。しかし、そのなると元の木阿弥なので、外に出かけるが、写真を撮るという動機づけがないと難しい。ぼんやりとしていたら、アオサギが水を飲んでいるところに遭遇してしまった。大きな音を飛び立っていった。

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2008年9月 7日 (日)

不揃いが好き

chaotic cosmos, cosmic chaos ...

 コスモスが満開。近くで見られるのに、去年は2枚しか撮ってない。手術が終わってもうずいぶん経っていたのに、いろいろな意味で余裕がなかったのかもしれない。一日中、原稿書き。まだ終わらないが、見通しは立った。自在にキーボードが打てても、それだけで原稿は書けないという当たり前のことをあらためて思う。
 Flickrの方の写真につけた題は、訳すと混沌とした秩序、秩序ある混沌。cosmosが風に揺られていたのと、cosmosには秩序という意味があることからつけた。秩序という言葉はあまり好きではない。サザンオールスターズがauのコマーシャルで、I am your singerという曲をバックに踊っているが、あれくらいの不揃いのほうが見ていて好感を持てる。

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The blue wing opened ...

The blue wing opened ...

 昨日載せたシジミチョウ。たくさん見かけたが、なかなかどこにもとまろうとはしなかった。今日は何とか羽を開いてくれないかと思ったが、僕の期待に応えてくれる蝶はいなかった。諦めかけていた時にこの蝶が目の前にとまった。焦点を合わせながら待っていたら、羽を徐々に広げ始めた。ここまで広げた後、飛び去っていった。

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後世に残すもの

『露の身ながら―往復書簡 いのちへの対話 (集英社文庫)』

 免疫学者の多田富雄と遺伝子学者の柳澤桂子の往復書簡。柳澤は長年、原因不明の病気で病床に就いていたことは知られている。多田も先に『寡黙なる巨人』を紹介した時に書いたように、脳梗塞で療養中である。とはいえ二人とも膨大な仕事をし、メッセージを発信している姿に敬服する。多田は左手だけで長い時間をかけ、キーボードを打つ。一通のメールを打つだけでも何日もかかり、共に病が高じてメールを書くこともかなわず、数ヶ月のブランクがあることも稀ではない。
 多田が、死を考える時、いつも自分がいなくなった後の世界を想像する、と書いていることが僕の注意を引いた。
「はじめは私の死を嘆いている子供や孫の痛ましい姿が見えて悲しいのですが、しばらくすると、私も知らない若い人たちが楽しそうに暮らしている世界が見えてきます。自分はいないが、世界は平和に繁栄している。それは心を慰めるものです」(p.183)
 もとより今の世界は平和どころではない。だからこそ、病床から、多田も、そして柳澤も今の世界の現状をそれぞれの専門を踏まえ、粘り強く議論している姿に心動かされた。病気の渦中にあると、自分のことに目を向けるだけで精一杯であってもおかしくはないのに。

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2008年9月 6日 (土)

The blue wing glimpsed ...

the blue wing glimpsed...

 シジミチョウ。種類が多く、見分けるのは難しい。青い羽根が美しい。シジミ貝のように小さいのでシジミチョウと呼ばれるようになったという。数が減ってきて絶滅の心配のあるものもある。

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新しい時代

むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ―93歳・ジャーナリストの発言』 (岩波新書 新赤版 1140)

 この本はインタビューをまとめたものである(聞き手、黒岩比佐子)。むのの名前は、前から知っていたのに、これまで一度もむのの本を読んだことがなかった。
 大半は題名からも知られるように政治批判だが、最終章の「絶望のなかに希望はある」では、これまで想像しなかったような若者が出てきたことを知り、このことを知ってから死ぬのと知らずに死ぬとでは大違いだ、最後はにこにこ笑いながら死ねるなあ、と思った、といっていることが印象的である。
 まず、今の若者は、門地、門閥、家柄、見識、権威にとらわれず、人間としてぶつかってくるということ。さらに、現実的で(普通は、夢がないというふうにいわれる)、とにかくなんとかなるさという根拠のない楽天論が通用しないということ(天皇の軍隊だから決して負けない、など通用しない)。第三に、友達を大事にすることを指摘している。
 もっとも、むのと話をした中学生はこんなことをいっている。
 「私は生まれてからずっと、大人に会うと上の立場から、下に見られていました。家では親から子どもだと見られ、学校では先生から生徒だと見られ、近所でも子どもだと見られていました。それがむのさんのところに行ったら、私を一人の人間として対等に扱ってくれたので、夢中でしゃべることができました。生まれて初めて子ども扱いされずに、人間扱いされました」
 ここからわかるのは、子どもたちが大人を警戒し、不信感を持っているということである。だからこそ、同級生、同じ年頃の友達を頼るしかない。それなのに、同級生らにいじめられたら、絶望しないわけにいかない。
 また、小学生が、外国の子どもを受容することに、むのは驚いている。むのが小学生の時、ロシア革命の後、日本に逃れてきたロシア人に「ロスケ」とはやし立て、雪玉をぶつけたりしたことを恥ずかしいと思った、といっている。
 むのがこういう話もあると語っている話も紹介する。小学生一年生は夏休みが終わる頃には、のみこみの早い子どもとそうでない子どもの差が出てくる。その時、のみこみの早い子どもがこんなことをいった。
 「先生、僕はわかったので、友達を手伝ってもいいですか」
 小学校教師のむのの娘さんは、こう答えた。
 「みんなも今一生懸命に考えているから、答えを教えずに力を添えられるなら、やってごらんなさい」
 むのは、相手に対する優越感からではなく、仲間として支えたいという気持ちを子どもが持っていることに驚いている。
 むのは、このような子どもに期待しているが、子どもたちの成長を待てないほど、事態は逼迫している。今、何ができるのか。

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目標の一致

 子どもを援助できるためには子どもとの関係がよくなければならないということを見てきました。前回、子どもとどうすれば協力関係を築けるかについて考えてみましたが、今回の話は、その協力は一体何のためになされるかということに関わります。親が協力したいと思っても、子どもが協力を拒むということがあります。親子関係がよいといえるためには、この協力の目標が一致していなければなりません。
 息子がある日こんなことをいいました。
 「僕には僕の生き方がある。親に〔自分の生き方について〕何をいわれないといけないというのか。僕の人生を〔親に〕決めてほしくない。ごちゃごちゃと〔生き方について〕いわれたくない」
 子どもがこのようないい方をすることを子どもの反抗と見るか、それとも成長と見るかは、日頃の親子関係のあり方によって違うでしょうが、いつまでも幼いと思っていた子どもが、いつの日か自立したとを感じる日は必ずきますし、こなければ困ります。
 私はそんなつもりはなかったのですが、子どもに、知らない間に、生き方についての理想を話していたのかもしれません。親が子どもの人生について心配するのは当然と思われるでしょうが、一体、誰の人生なのかということを考えれば、親が子どもに歩んでほしいと思う人生と、子どもが自分で歩みたいと思う人生が違う時、いいかえれば、親の目標と子どもの目標が一致していない時に、どちらを優先するかははほとんど自明といっていいと思うのです。子どもの人生である以上、親といえども基本的にはそれに異議を唱えることはできないはずです。
 たしかに大人から見れば子どもは経験が少ないですから、子どもの目標選択に手出し、口出しをしたくなるという親の気持ちはわかります。失敗を未然に防ぎたいでしょう。しかし、私は致命的なことでなければ、失敗しないように親が先回りをすることは、子どもが自分で引き受けなければならない課題を大人が肩代わりをするという意味で甘やかしである、と考えています。このように子どもの人生に介入したくなるのは、失敗した時に、子どもが自らの力でその失敗の責任を取れないと大人が見なしているからであり、子どもを信頼も、尊敬もしていないからです。協力できないといっているのではありません。しかし、協力できるのは、前回見たように、あくまでも子どもからの援助の依頼があってのことなのです。
 ただし、目標は一度決めたからといって、ずっと同じでなければならないことはありません。必要があれば変更することは可能です。そのことは子どもに話しておいていいと思います。避けたいことは、子どもを追い詰めることです。自分の選択は間違っていたと思った時に、親の反対を振り切ってまで選んだことなのだから、と方向転換できないと子どもが思うことは、避けたいです。
 自分が自分の人生を選ぶということは、子どもにとっては厳しいことではあります。しかし、親から信頼されている、と感じられるような子どもは幸せとは思いませんか?
(『ぷろぽ』2007年12月号)

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2008年9月 5日 (金)

生きている水

quo vadis ...


blessing of nature

(前の日記でも一度載せたこともあるので、見られた方すいません)
 この写真は前に使っていたカメラ(Canon IXY Digital 810IS)で撮ったものだが、マクロ写真が撮れるので夢中になって蝶や花の写真を撮ってきた。夏は、蓮の写真を今年も撮った。
 蓮の葉に雨がかかるとこんなふうになる。目にも止まらない速さで雨粒が転がり、既にある水滴と一つにある。自然の命を感じる。古代ギリシアの哲学者、タレスは万物の始まりは水である、といったが、こんな光景も見ただろうか。カメラの動画機能を使って撮ったが初めてだったので操作に戸惑ってしまった。
 三枚目は、去年の8月31日に撮った。Flickrに載せた写真の中では一番view数が多い。

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子どもに協力する

 子どもを援助できるためには、普段からそのことを可能にする関係を築いておかなければならず、そのためには、まず子どもを尊敬するということ、次に、子どもを信頼するということについて考えてきました。今回はさらに、親と子どもが協力して生きるということについて考えてみます。
 子どもには、親でも代わることができない、自分で解決するしかない課題があります。子どもがそのような課題に直面している時、親は基本的には見守るしかありませんが、自力では解決できないこともあるかもしれないので、そんな時にそなえて「何か手伝えることがあったらいってね」といっておくことはできます。そして、もしも、子どもの方から何らかの援助を求めてくれば、可能な範囲で手伝うことはできます。これが子どもに協力するということの一つの面です。可能な範囲でというのは、例えば、子どもの代わりに親が勉強するわけにはいかないからです。
 大事なことは、親は、子どもからの援助の依頼がなければ、動くことはできないということです。あるテレビドラマで、息子の妻が妊娠したことを知った姑が、彼女が勤務する会社に行って、今は身体が大切だから、と海外出張のスケジュールを取りやめにしてほしい、と頼む場面がありました。大方の人は、姑のこの行いを笑止と見るでしょうが、子どもに対してこれと同じようなことをしていることに気づいている人はどれだけいるだろうか、とふと思いました。
 親が勝手に動いてはいけないのは、一つには、子どもの課題は基本的に子どもしか解決できないからですが、もう一つは、親といえども、実は子どものことを本当に知っているとは限らないからです。「この子のことは、親の私が一番よく知っている」という人があります。そういう親も、自分が子どもだった頃、親から同じことをいわれて反発を覚えたことはないでしょうか。親子に限らず、他の人のことについては、自分に引きつけて推測することはできますが、はっきりしたことはわからないことは多いように思います。間違った判断をするくらいなら、子どもの言動について疑問に思うようなことがあれば、率直にたずねることをお勧めします。
 協力するということについては、さらに次のような面もあります。子どもと関わる場面でどうしていいものかわからないという経験をしたことがない親はいないでしょう。そんな時も、子どもがしていることで、親が困っているということ、例えば、朝起きるのが遅いというようなことについて、率直に話し、子どもに協力を求めることはできます。そうすれば、子どもの方から解決策を提示してくることもあります。
 子どもについてわからないことがあっていいのです。わからないからこそ、そのことについて、子どもにたずねてもいいわけですし、たずねられる関係が築かれていなければ、子どもの援助はできません。子どもの方も、どうしていいかわからないことがあるはずです。そんな時、子どもが何とかして自力で問題を解決できることは望ましいことですが、親が子どもに協力を求めていいように、それ以上に困っている時に、子どもは親に助けを求めてもいいわけですし、少なくとも、この親なら相談に乗ってくれそうだと思ってもらえるような親になりたいものです。
(『ぷろぽ』2007年10月号)

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The storm is coming ...

The storm is coming ...

 夕方写真を撮りに出かけたが、いつのまにか日が暮れるのが早くなったのと、今にも雨が降り出しそうだった。風が強く、コスモスの花を思うように撮れなかった。これはあきらめてもう帰ろうと思った時に撮った。雲間から一瞬差し込んだ。

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2008年9月 4日 (木)

世界がなければ

I am on your side ...

 遅くまで原稿を書いていたのでよく寝付けずにいたら5時くらいに娘の携帯のメールが鳴り出す。今日は文化祭で、始発の電車で出かけ、本番前の最後の稽古をするということだった。娘は監督なので舞台には出ないが、一時間ほどの間続く台詞の応酬に圧倒された。最後に娘も一瞬舞台に出てきた。幕が下りたとたん、幕の向こうから歓声が上がった。この瞬間を、生涯忘れないだろう。
 世界は僕がいなくてもあり続けるが、世界がなければ、僕は存在することはない。世界は僕のためになくても、僕は世界の外にいることはできない。

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子どもを信頼する

 もしも子どもが理想的に従順で、親が何もいわなくても毎日遅くまで勉強に取り組んでいれば、親は何もすることがありませんし、苛立つことなく心穏やかに日々を過ごしていれば、まわりからは受験なのにそんなのでいいの、といわれることでしょう。しかし、実際には、そのような子どもも親もたくさんいるとは思えません。
 前回は、子どもが親の助言を気持ちよく受け入れられるためには、いい親子関係を築く必要があるということ、そしてそのことを可能にする条件として、子どもを尊敬するということがどういうことなのか考えてみました。今回は、さらに、子どもを信頼することについて考えてみましょう。
 子どもが勉強するという時に、その言葉を素直に信じられますか? ここで私が信頼という言葉を使うのは、条件付きの信用と区別して、条件をつけないで信じる、あるいは、信じる根拠がない時にこそ信じるということをこの言葉で表したいからです。明日からダイエットを始めると家族にいった時に、そんな言葉は聞き飽きたと家族や友人からいわれたら嫌な気がするのではありませんか? 実際には自分でも決心が十分固まっているわけではなく、今度もまた数日で挫折するかもしれないという予感があったとしてもです。そんな時に、無条件に信じてくれる人がいれば、その人のことを好ましく思うでしょう。子どもも同じようなことを勉強のことで感じているのです。そして、子どもたちも自分を信頼する人の信頼を裏切ることが難しいことを知っています。
 子どもについて二つのことを信じたいのです。まず、子どもが自分の課題を自力で解決できると信じることです。勉強を例に取れば、勉強しないことの結末は最終的に誰にふりかかるのか、あるいそのことの最終的な責任を誰が取らなければならないかを考えれば、勉強は子どもの課題であるということができます。このように勉強が子どもの課題であれば、たとえ子どもが勉強していないように見えても、すぐに「勉強した?」とか「早く勉強しなさい」ということはできません。およそあらゆる対人関係のトラブルは他人の課題にいわば土足で踏み込むことから起こります。こんな時、子どもは自力で自分の課題を解決できると信じて、見守ってほしいのです。「何か手伝えることがあったらいってね」ということはできます。たしかに自分の課題であっても、他人の援助を必要とすることはたしかにあるからです。もっとも、私(僕)の代わりに勉強してといわれても、親としてはどうすることもできないのですが。
 次に、子どもの親から見て問題と思える言動にも必ずよい意図がある、と信じることです。多くの場合、子どもには悪意はありません。ただ親の注目を自分に向けたいのです。それなのに、どうしていいかわからないのです。もしも勉強しなければ親が一番困ると見れば、子どもは勉強しないことで親が自分の方に振り向くことを望んでいるのです。ですから、子どもを叱れば、叱られるという形で注目されることを学びますから、いよいよ勉強しなくなるでしょう。ですから叱らないで、あなたのことをちゃんと見ているということを伝えればいいのです。この場合も、親が子どもを信頼すれば、子どもは信頼に応えないわけにはいかないでしょう。
(『ぷろぽ』2007年7月号)

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2008年9月 3日 (水)

Live and let live.

live and let live ...

 この写真は、いつもアップする写真の舞台裏というか、映画撮影の一コマのように見えなくもない。はい、では行きます、とアオサギと自動車が同時に動き(飛び)始めたところ…ではもちろんないわけだが。光学6倍のコンパクトデジカメではもとより遠くに飛ぶ鷺をとらえるのは困難である。僕の気配に気づいた(知らずに驚かせることがよくある。急に飛び立ったらこちらの方が驚くのだが)この鷺が甲高い声をかけながら旋回を始めたところをとらえた。たしかに怒っているように見える。Flickrに載せた写真のタイトルは、共存共栄という意味。

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リハビリをめぐって

 『鶴見和子病床日誌』という本のことが朝日新聞の夕刊(2008年7月25日)に紹介してあった。著者は妹の内山章子さん。
 「人は必ず死ぬ。逃げることはできない。ならば受け止めよう―それが姉の思想だった」
 弟の鶴見俊輔との会話が記されている。
 「『死ぬっておもしろいねえ。こんなの初めて』と姉がいい、兄は『そう、人生とは驚くべきものだ』ですって。2人で大笑いしてるの」
 ここだけを読めば、死を達観した人脳梗塞でリハビリ中の多田富雄氏が、鶴見氏の死について次のようなことを書いてられたことを思い合わせると、痛ましい思いがする。
 診療報酬制度が改定され、リハビリ医療が発症から180日に制限された。鶴見氏は、脳出血で左半身麻痺になり、十年以上、リハビリを続けてきたが、それまで月に二回受けてきたリハビリをまず一回に制限され、その後は打ち切りになると宣言された。間もなく、ベッドから起き上がれなくなり、前からあった大腸癌が悪化し、亡くなられたというのである。「直接の原因は癌であっても、リハビリ制限が死を早めたことは間違いない」と多田氏は、鶴見氏の短歌と発言を引いている。
 政人(まつりびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ 生きぬく道のありやなしやと
「これは費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。(中略)この老人医療改訂は、老人に対する死刑宣告のようなものだと私は考えている」
 10月からの生命倫理の講義に備えて勉強していると、医療資源という言葉をたびたび目にする。必要な人すべてに必要な治療をすることができないとすれば、誰を優先するかを考えなければならないという。
 リハビリという言葉は、母が脳梗塞で入院して初めて聞いたかもしれない。後に僕が心筋梗塞で入院した時、心臓リハビリという言葉があることを知った。絶対安静の状態から少しずつ身体を動かし、歩けるようになると、ある日は廊下を50メートル、次の日は100メートルというふうに徐々に距離を伸ばしていくわけである。心筋の一部が壊死しているので、自分の判断で長く歩いたりしてはいけない。脳梗塞のリハビリとはまた違うともいえるが、リハビリの効果がないと判断されたら打ち切られるということがどういうことかは、この時の経験で想像がつく。
 6月にメタボ検診の通知がきた。まだ行っていない。同封されていたパンフレットに次のように書いてあった。
「特定検診・特定保健指導Q&A」
Q 私は腹囲が100cmほどで、「メタボ」ですが、保健指導を受けることができますか?
A 特定保健指導は、腹囲・肥満度のほかに、血液検査を加味して対象者を選びます。
 しかし、特定保健指導を実施するには多額の費用がかかるため、医療保険者の判断で優先順位をもうけてよいとされています。よりリスクが高い人や、指導の効果が出やすい人など一定の基準を設けて、優先すべき人に特定保健指導の利用券をお送りします。
(引用終わり)
 ここにもはっきりと「優先順位」という言葉が使われている。よりリスクが高い人には指導するが、「指導効果が出やすい人」でなければ、保健指導をしないという意味ではないか。インターネットを調べていたら、医師や保健師、管理栄養士などから食事や運動など生活習慣の改善を促す指導が行われ、5年後に成果を判定し結果がなければ、財政的なペナルティ(罰金)を医療保険者に課すということが書いてあった。その一方で、上述のリハビリはさっさと半年で打ち切られてしまう。
 殺伐とした世の中である。比喩ではなく。

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多田富雄『寡黙なる巨人』

寡黙なる巨人
 『寡黙なる巨人』(集英社)をようやく読み終える。
 感情失禁でよく泣いたというような記述でも、僕もそうだったと入院していた時のことを思い出してしまい、そのたびに思いに耽ってしまうからである。その上、母が同じ脳梗塞で若くして亡くなった時のことも思い出した。その母の場合も、リハビリをするところまで至らず、意識も戻ることはなかったのだが、予後がよければ、母もリハビリに励んだはずなのである。
 ある日、突然ひらめいたことがあった、と多田はいう。手足の麻痺は脳神経細胞の死によるものであるから決して元に戻るのではない。もしも機能が回復するとしたら、元通りに神経が回復したのではなく、新たに創り出されるものだ。そのことを多田は、もう一人の自分、新しい自分が生まれてきたのだ、という。今は弱々しく緞帳だが、無限の可能性を秘めた新しい人は多田の中で胎動していた。縛られたまま沈黙している巨人だった。新しいものよ、早く目覚めよ。
 リハビリはただ機能の回復訓練を意味するものではないだろう。リハビリ(rehabilitate)という言葉の元々のラテン語の意味は、もとへ戻すというより、再び(re-)能力を与える(habilitare)ということである。問題は、その能力とは何かということである。ただ機能の回復を意味するのであれば、その見込みがなければ打ち切るという発想に結びつくことになってしまう。たとえ目に見えた形で機能の回復が困難なケースであっても、多田の言葉を借りれば、新しい人の再生は可能である。『アドラーに学ぶ—生きる勇気とは何か』で(特に第三章『老いと病気』)僕は人が病気になることとはどういうことか考察し、病気からの回復は病気になる前の元の健康な身体に戻ることではないと書いた。病気になっていいことはなかったし、失ったものがはるかに多かったが、それでも病気になって得たことといえば、「新しい人」が目覚めたことである。心筋梗塞の場合は、心筋の(一部の)壊死という形で残り、今も心電図は異常を示している(この壊死の部位と範囲によって同じ心筋梗塞でも人によって転帰は異なる)。幸い、僕の場合、カテーテルによる治療だけではすまずバイアス手術まで受けることになったが、心臓リハビリもし、元気になることができた。それでも、目覚めた新しい人を再び眠らせない努力は日々必要だと感じている。

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2008年9月 2日 (火)

子どもを尊敬する

 子どもは大人の目から見れば経験がなく、端で見ていてはらはらすることがあります。そこで親は子どもが行動を是正することを願って、つい口出しをしてしまいます。例えば、子どもがいつまでもテレビの前を離れようとしなければ「勉強しなさい」といいたくなります。こんな場合、子ども自身も自分が今していることの意味を知っていると思うのです。親が不用意に声をかけ、子どもが今から勉強しようと思っていたのにやる気がなくなったというようなことをいうとすれば、この仮定は正しいことがわかります。もしも自分のしていることの意味を知らなかったのであれば、素直に「はい」といったでしょうから。子どもは親がいうことが正論であればあるほど、親のいうとおりにしたくありません。親に負けたと思うからです。こんなことで結果的に子どもが勉強しないでおこうと決心するようなことがあれば、子どものためにはなりません。子どもを援助してはいけないわけではありません。子どもの方も親からの援助を必要とすることもあります。しかし子どもを適切に援助できるためには、子どもが親の助言を気持ちよく受けいられるような関係を普段からつくっておく必要があります。どうすれば、いい親子関係を築けるかについていくつかのポイントをあげて考えてみましょう。
 他ならぬこの自分を見てほしい、と大人も子どもも思わないでしょうか。他の人でもよかったのだと思うことは、辛いことです。親の注意は、ともすれば、きょうだいの中の勉強ができるなど目立った子どもの方に向いてしまいますが、注目されない子どもが、親は自分ではない他のきょうだいを大切にしていると思うと、積極的な子どもであれば、問題行動をすることで親の注目を引こうとするかもしれませんし、消極的な子どもであれば、生きることに絶望してしまうことになります。
 たとえあからさまに他の子どもと比べなくても、親は子どもについてこうあってほしいという理想を持ってしまいます。そして、この理想から現実の子どもを引き算してしまいます。子どもにしてみれば、この場合も、親が自分を見ていないと思うでしょうし、どんなに頑張っても、親の期待を満たすことができないことになります。もちろん、子どもは親の期待を満たすために生きているわけではありませんし、親に認められようといつも思うことは、それはそれとして問題です。しかし、親が自分のありのままを認めてくれると思えることは、子どもに大きな安心を与えます。子どもたちに必要なのは「生きる勇気」です。子どもは自分の力で解決しなければならない問題に取り組んでいかなければなりません。親とて子どもの人生を代わりに生きることはできませんが、子どもが生きる勇気を持つ援助をすることはできるのです。
 このように理想ではなく、ありのままの子どもを見るためには、問題があろうが、自分の理想とは違おうが、この子は私のかけがえのない大事な人であると思ってつきあっていこうという覚悟がいります。今は一緒に生きていても、子どもはやがて必ず親から離れていきます。子どもと諍いをしている暇はないのです。ありのままの子どもを認め、子どもが、親のためでなく自分のために成長していくことを願うことを、アドラー心理学では「尊敬」といっています。
(『ぷろぽ』2007年5月号)

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high up to the sky ...

high up to the sky ...

 遅くまで仕事をしていたので、まだぼんやりしている。先月から新しいカメラを使っている。一眼レフを買う余裕はなく、今回もコンパクトデジカメ(Canon Powershot G9)だが、前のカメラよりもマニュアルでの設定ができ、車でいえばオートマチックからマニュアル車に乗り換えたような気分である。Flickrというアメリカのサイトで写真を公開している。このブログの写真はここからリンクしている。いろいろな国の人からコメントがあって、ここでは国の違いは問題にならない。僕は初心者なのにカメラや写真についての質問メールがくることがある。ロンドンの街を歩いていたら道をたずねられた時のように驚いてしまう。今朝は晴れるかと思っていたら小雨模様なので、気持ちを高揚するために、目が覚めるような色のコスモスを。

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2008年9月 1日 (月)

子どもを勇気づける

承前
 ある母親は私の話を聞いて、勉強は基本的に子どもの課題であり、子どもが自分で解決しなければならないということを学びました。その日学校から帰ってきた娘の顔を見て気がつきました。そうだ、私はこの子に勉強の話しかしてこなかった、と。
 子どもにすれば、口を開けば勉強のことしかいわない親はうるさい存在でしかありません。子どもはたとえ必要があってもそのような親に援助を求めてようとしないでしょう。そこで今回は勉強のことだけではなく、生活全般で子どもとの関係をよくするためにどうすればいいか考えてみましょう。
 まず、叱ることは百害あって一利なしです。子どもは自分がしている行動が親に叱られるものであることはわかっています。その上で、そのような行動をあえてするのですから、それに対して親が叱れば叱られることで注目を得られることを学びます。
 子どもたちの一番基本的な欲求は家庭や学校に居場所があると感じられることです。しかしどうしていいかわからない子どもは多くいます。他のことでは親の注目を得られないのでせめて叱られようと思っている子どを親が叱ればいよいよ親を困らせることになります。たとえ積極的な行動に出なくてもただ勉強しないという子どももいます。そのことで親が困ったり心配するのを知っているからです。
 子どもにとって勉強や受験はおそらく避けることができない人生の課題であるということができます。まず、子どもに自分が能力があると思えるような援助をしなければなりません。他のことには自信はないが勉強だけでは自信があるということはないでしょう。勉強するということは、人生の中で子どもがこれから直面する課題の中ではそんなに大きなものではありません。人生の課題から逃げないで勇敢に立ち向かえる自信を持った子どもになってほしいですし、そのような子どもであれば勉強にしっかり取り組むことができる、と私は考えています。
 もう一つは他の人は私の仲間である、と思えるように援助することです。たしかに入学試験は競争です。しかしだからといってわれわれの人生全般が競争であるわけではありません。まわりの人はわれわれを隙あらば陥れようとする敵ではなくて、必要があれば自分を援助する用意がある仲間である、と思ってほしいのです。そして受けるだけではなく、自分もまた他の人を援助したいと思えるような子どもになってほしいのです。勉強はできても自分のことしか考えられない子どもでは困るでしょう?
 以上のことを達成するために子どもの貢献に注目することです。そしてこの貢献は実際の子どもの行ないだけではなく、ただ生きていることをも含んでいます。具体的には「ありがとう」「たすかった」という声をかけてみてほしいのです。そのようにいわれることで子どもは自分の価値を認め、貢献の喜びを知るようになります。
 皆が無事に生きていられることだけでありがたいことなのです。それなのに目先のことにとらわれて成績のことなので一喜一憂してしまいます。そんな親の気持ちを私はよくわかりますが、過剰な期待で子どもの勇気をくじくことなく、子どもが自分の課題を取り組むのを傍で見守りましょう。でも実はこの見守ることが親にとっては一番難しいことですね。
(『ぷろぽ』2006年12月号)

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夏の名残

enjoying the remains of summer ...

 強い日差しが戻ってきたが、風は心地よく、この写真を撮った木に覆われた植物園は外より涼しく感じられた。小三条蝶。ひらひらとグライダーのように滑空する。園長の津軽先生と話をする。「身体を壊した大学の先生と思っていました」といわれる。去年、術後にこの園にくるようになったので、あの頃は今よりもやつれていたのだろう。

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